156 撤退準備
アンバードへ帰還することを選択した颯汰。
自分はただ、元の世界へ帰ることが目標であるというのに、内乱を鎮めなければならない。いや、統治者の権限を譲ってでも捕らわれたであろう知人やらを救い出さねばならなくなった。
現状、アンバード領内で何が起きているのか、内乱がどこまでの規模なのかはわからない。しかし確実に遠方の地――大陸間の、海のような巨大な河川を超えた先に問題が起きている。
内乱が勃発したと報告をしてきた紅蓮の魔王は、こんな時にくだらない冗談を口にするような男ではない――という信頼感ではなく、そういった嘘をつく意味がないのと、持ち前の直感から判断した。臆病者が多種多様な他者を見続けた末に行き着いたこの感覚が、疑念を一瞬も感じなかったのも答えだ。
「最速でヴァーミリアル大陸入りするのにどれくらい時間かかります?」
「仙界の管理者代行の力を借りれば、大陸間の移動は大幅に短縮できるはずだ」
本来は颶風王龍がその地位に就いていたのだが、彼女は此度の争乱の中心たる機神の復活・暴走を阻止するがため、ペイル山の頂上に結界を張り、その中でニヴァリス帝国を監視していた。そして代行として選ばれた獣王がいる。彼の権限で仙界へ通じる門を開く。
「あぁ、ゲートで移動」
「大勢で安全に、さらに消耗もなく移動するにはもってこいの手段だ」
仙界へ繋がるゲートは自然に開く場合もあるが“管理者”はその権限で、担当地域範囲の物質界にてゲートを大まかな座標に開くことが出来る。つまり、直接移動するよりも、間に仙界を挟むことで大幅に実移動距離を短縮することが可能だ。
もちろん、良い話ばかりではない。
異界であるため、地上より遥かに魔力濃度が高く、常人であれば肉体への影響は計り知れない。それは魔力を持たない人族だけではなく、魔力を有する他種族も例外ではない。
桁違いの体外魔力から身体を保護する魔法を使える紅蓮の魔王の提案を受け入れる。既に被術者が無事だったのは確認済みだ。では、あとはそのゲートを開く権限を持つものと接触が必要がなのだが、それはあっさり解決する。
「…………だってさ、代行」
颯汰が腕に巻いていた赤い布を広げて呼びかける。ブローチのような飾りの付いた霊器『ディアブロ』が生きているようにビクリと動く。
代行とは、仙界第二階層“風の洞窟”――四大龍帝たる風の女王から、管理者として権限を一時的に受け取った巨大な狼の王者。
『……気づいておったか』
任命を承りながら、さらに他者に権限を渡してでも、颯汰の戦いを共にした霊獣の王。
布が質量を無視して作り出すシルエットは狼の顔を模った。人のものよりも二回り以上小さい顔から響くのは、黄昏の狼王と称した霊獣の声だ。
「というか精霊だけじゃないんだね、霊器に入れるの……。……あ!」
これまで険しい顔ばかりしていた颯汰が目に見えて明るい顔となった。
しかし、希望に胸が躍り出すところに水を差すのも大人の勤めである。
「夢を潰すようで悪いが、竜種は無理だぞ。ましてや王の領域に至ったものはな」
残念そうに肩を落とす颯汰。
使命のために仙界から降りて監視をしていた颶風王龍を、どうにか連れていけないだろうかと考えている少年王の欲望の大きさは驚嘆に値するものがある。
『相変わらず豪胆な男よな』
広げた襤褸切れの両拳大の狼の顔が笑う。見た目通りならば子どものような夢を微笑ましく思うところだが、それを本気で願っていた。
颯汰に紅蓮の魔王、氷麗の魔王とレライエ以外の者たちは超常現象に目を丸くしている。装置に乗せられ休憩中の御老体は、まだ何か自分が病んでいるのだろうと思い、そっと目を閉じて現実を待った。その横で処置を受けている者は、何も見えず聞こえずガタガタと震えているままだ。
『先に霊山の頂上に用向きがあるのだろう?』
「……はい」
『準備が出来次第、声をかけろ。下で待っている女子たちも呼ぶのだぞ』
狼王の言葉に颯汰は気が引き締まる思いであった。本来、この国にきた目的は半ば果たされたも同然なのだが――離別が待っている。
神妙な面持ちであるがアスタルテたちに国に戻ると伝えること自体は苦ではない。無理矢理ついてきたヒルデブルク王女であっても、事情さえ知ればまだ遊びたいという我儘を通そうとしないはずである。
何に憂いを感じたかと言えば、家族であるシロすけについてである。幼き龍の子であるシロすけが、母親と会うことができた。卵から生まれ、颯汰と共に村を過ごしたが、これからは本当の親と生きていける。親子が一緒に過ごすのが健全な生き方であるだろう、と颯汰は考える。
悲しくは当然ある。それを強がって口には出さないが、気を抜けば顔に出てしまうことだろう。
今生の別れになるかどうかは正直わからない。
明らかに自分が過ごしてきた世界より、命が簡単に失われる危険性もあれば、自分が突然元の世界へ帰ることが決まってしまうかもしれない。
別れに相応しい言葉も、考えようとしても何一つ思いつかない。どうにか母親である彼女の方から地上に降り立って貰いたいぐらいであるのだが、竜種の心臓は魔力を生み続け、存在するだけで周囲が異界化してしまう。常人にどういった影響が及ぶかわからない。だから答えは決まっているのだが――。
「…………」
ふと上を見上げる。見えるはずのない地上の先――霊山の方角を捉えては、小さく溜息が漏れ出る。誰にも気づかれないぐらいに細めた口から空気が抜けていく。出会いがあれば別れがあり、どんなに長く過ごしても、濃密に過ごしても別れは必ずやってくる。それは生命である限り避けられない無情なる現実だ。
元の世界で感じることがなかった感情の苦しさを覚えたからこそ、一層に帰還を願う気持ちが強くなる。別れた者たちがいることを思い出した。
「……」
目を静かに瞑り、一呼吸の間。それから目を見開いてから、『もう一つの別れ』と向き合うことにする。これは軽い挨拶程度で済むはずだ、と颯汰は甘く考えていた。
「ヴィクトル皇子、それと氷麗さんにもお願いがあります。他に治す術があるかもしれないから探してほしい。研究者を締め上げてでも見つけ出してください。……それでも、見つからなかった場合は…………ここにある装置を用いて、みんなを元に戻してやってください」
散々、存在そのものが怪しいと否定してきたが、他に最短の方法が見つかっていない。
長い時間をかければ見つかるかもしれないが、そこまで付き合うには時間があまりに足りない。
皇族の権力と魔王の暴力さえあれば調べる、吐かせることは容易だろう。なにもこの装置だけを頼る必要はないかもしれないのだ。
「お任せください魔王陛下。それと、陛下に一つ謝らなければならないことが――」
小さな子ども相手に恭しく頭を下げながら約束をしたヴィクトルが、申し訳なさそうに顔を上げた。彼の友はニヴァリス帝国に残ることを危惧していたにも関わらず、颯汰が帝王として君臨することを望んでしまっていた。一族の恥を雪ぐのと、彼の他者への思いやりと慈悲こそがニヴァリスの民を導く白銀の光であると信じたかったのだ。
続けようとしたヴィクトルの言葉を遮る声があった。
出国の準備を始める必要があり、すぐに下階に降りて少女たちに事情を説明しようと颯汰が動こうとしたとき、凄まじい冷気、凍てつく風を感じる。
「待ちなさい」
静かで心地よい響きであるというのに、心臓を冷たい手で触れられたような感覚がした。
もちろん、声の主は氷麗の魔王だ。
さらりとした髪と長羽織が風に揺れているが、ここは地下で室内あることを思い出してほしい。
「私が、留守番?」
その言葉に小さな疑問しか感情が含まれていなさそうな声音であるというのに、峻烈なる怒りを感じざるを得ない圧があった。吹き荒ぶ零下の風が身を凍えさせる。
「えっ」
颯汰はなぜ、という疑問しか浮かばない。
困惑している様子であること自体に首を傾げながら、氷麗の魔王が問い詰める。
「あなたの言葉、私がここに残る前提だと思うのだけれど」
怒っていないけど返答次第で五体満足か怪しくなるからね、とは口にはしていないのだが、そんな恐怖を覚える。颯汰が今の姿相応の子どもであったら、漏らしていたか泣きじゃくっていたであろう。いやたぶん両方だ。
「え、だ、だって……」
紅蓮の魔王に対する憎悪は健在である。
今この瞬間に殺し合いが起きてもおかしくない状況だ。だから自然と彼女とはここで別れ、吸血鬼化した人たちの様子を見てもらえるものだと考えていたのだ。
「目線が泳ぐのは何かやましいことでもある?」
「違ぇですよ! 顔が近いんだよ。緊張するって! あと自然と他人を持ち上げるな」
女子高生のか弱い細腕で、いくら幼い少年とはいえ、軽々とぬいぐるみでも扱うように持ち上げるのは異常である。宙に足つかずジタバタして暴れるが、彼女は求める回答を得るまで下ろすことはしないであろう。
互いの息がぶつかるほどの距離で、殺されるという恐怖により、心臓のドキドキが止まらない。誰か助けてください。
「そう。私たちは一心同体、言わなくてもわかっていたと思ったけれど、私はキミに付いていく。契約者だもの。当然でしょ?」
顔ごと目線を逸らしていた颯汰と同じく、女魔王も一瞬だけ顔を逸らして溜息を吐き、すぐに真っすぐと射貫くように目線を合わせて言った。
その堂々とした言葉に対し、颯汰はやはり目線が泳ぎ、頭を掻きながらではあるが、応える。
「……大丈夫? 紅蓮の魔王いるよ? それに、あなたにはやっぱ吸血鬼化した人たち――ニヴァリスの様子を見てほしい」
「………………」
氷のような美少女が止まる。
彼が自分も厄介者として追い出そうとしているならば――、皇帝という共通の敵を滅ぼしたあとは用済みとしてお払い箱扱いをしたならば――、自分の有用性を示し続けるべきで、暴力に訴えるのは最終手段にすべきと理性で考えていた。つまりこれは全く脅しているつもりはないし、少し不満で怒りが発露しただけで暴力に移行するつもりは彼女の中ではなかった。冷静に話し合おうという怪物なりの歩み寄りに過ぎない。
「もし、仮に何かあっても貴女なら対応できるだろうし……。レライエさんは……」
「おじさん? おじさんはニヴァリスに居場所はないし、いても警戒されるから坊ちゃんのお世話になろうと考えていたが、ダメかい?」
「いえ。お世話は承服しかねますケド。あ、それとヴィクトル皇子」
「はい?」
「あなたはたぶん、吸血鬼化したヒトたちに何らかの保障の実施をするでしょう? もし、それでも、希望者がいたらこっちで引き取ります」
話を急に振られた皇子が首を傾げる。
「希望者、とは?」
「仮に完全に治ったとしても、元の暮らしができなくなってしまったヒトたちが出てくるはずです。行くあても無ければ居場所だって無くなったヒトがきっと……。周囲に吸血鬼としてヒトを襲ったことが認知されている場合も考えられます。そういった方々は安心して暮らせない」
「なるほど、そういうことですか。確かに我がニヴァリスの責任です。可能な限りは手を打ちますが……、託してよろしいのですか。その、陛下のアンバードは今が修羅場で……」
「アンバードがダメでも、たぶんディム……クラィディム国王のヴェルミならちょっとぐらい厄介になっても許してくれる……かなぁ?」
自分でもだいぶ無茶言っているという自覚があるので言葉尻が弱々しくなっていた。紅蓮の魔王の方を、意見を求めるように見る。
「ヴェルミの民が許すかどうかは難しいところだろう」
「……普通に考えたら難しいよね」
生活を脅かす危険のある亡命者が多数現れることに拒否感を覚えることは自然だ。
拒絶どころか粛清されても何らおかしくない。
「内乱をおさめるのが確実だぞ」
「敵が一ヵ所に集まってたらアンタが突っ込んで全部解決してね?」
「ハハ、いいだろう。その場合周辺の建物と人間の保障はしかねるが」
「いやー、ホント使いづらい爆弾だな⁉︎」
紅蓮の魔王は強力な味方ではあり、万能であるが全能というわけではない。それに協力的ではあるが、試すような真似もしてくる。いつかこの赤い悪魔を出し抜こうと心に決めた颯汰は、女魔王の方を向き話を戻した。
「もしも、大丈夫そうだったら、希望者と一緒に来てください。それまでにどうか、他に治す安全で信頼できそうな方法も探してみてください」
耳障りのいい言葉を自然と吐くからこの少年は恐ろしい、と感じた多数。その甘美な言葉に一番弱そうな女魔王であったが、あえてその唇に噛みつくように、仕掛ける。
「私に残って監視、仮に暴れ出したら“処理”しろと、あなたは言うのね」
言葉にしてないがそういうことを頼んでいる。
魔王であれば、戦力として何人も束になろう圧倒できる。
仮に装置を使わず逃亡、装置使用後に不具合が起きた場合の保険としてこの場に置きたいのだ。
「それを含め、あなたにしか頼めない」
「……!」
「人でなしと罵られようと、嫌われようと構わない。でも、あなたのそれだけの力がある」
今度は颯汰が真っすぐ見つめ返す。どうあってもここばかりは譲れないし、戦闘能力と土地勘、彼女にしか頼めない問題であった。
「ずるい、ひとね」
我儘を通してこそ“魔王”ではあるが、始祖吸血鬼として、簡単にこの問題を投げ出すことはできない。“矜持”や上に立つものとしての“責任”を利用して縛ってきたのだ。
「本当、残酷で、身勝手で、ひどいヒト……」
嘲るように女魔王が責める。そうは言いつつも、持ち上げた少年をゆっくり降ろした。
一呼吸を置いた後、彼女は返答を口にする。
「……いいわ。あとで相応の報酬をもらうから。覚悟なさい」
こうして一つの別れがあった。
再会を約束し、颯汰たちは部屋から出ていく。
残された男女の他にも、処置を受けた人たちはいるが、いやに寂しく静かになった。
第三皇子は何か気まずくて声をかけられずいたが、氷麗の魔王は動き出す。部屋から出ていこうとする女魔王に、どこへと声をかけた皇子。
女魔王は早口で返す。
「できるだけ、はやく、終わらせる」
声や表情こそは平静どころか静かで冷たい印象までがあったのだが、氷麗の魔王は非常に熱心に仕事に取り掛かっていた。
急ぐが拙い仕事はせず、焦らずに迅速に患者を並ばせ処置を行っていった。
「え? あ、うん。報酬ね。……あの、お手柔らかにね? 現金とか宝石とかは奪還できれば用意できるケド、今はちょっと持ち合わせが……」
「「(絶対、物じゃないな……)」」




