150 罪なき命に祝福を
ニヴァリス帝国の首都ガラッシアでは、今日だけで幾度目の上昇と下降を繰り返していた。
あまりに濃密な一日であったが、久方ぶりに姿を見せた日輪も太陽神がその戦車にて牽引し、共に没んで行く時間帯となる。暗い夜の帳が降ろされた。
結局、建国祭の開催は女帝レギーナではなく、簒奪を試みた弟のヴィクトルが宣言した。
当初の民たちの反応は、冷ややかとまでは言えないが困惑が大きかった。
今回の騒動についての詳細の説明も、後継者である女帝への戴冠式も祭りの最終日までに延期となった。
貴族のお坊ちゃまたちが民を扇動させたが、それも宙ぶらりんとなる。怒りも悲しみの行き場がなくなった。
こんな状況で祭りなど楽しめるわけがないと思われがちだが、そこで登場するのが『救国英雄奮闘禄』……立花颯汰の盗撮映像を編集して作られた映像作品だ。
全力プライバシー侵害による精神的苦痛まで負った颯汰であるが、今も帝都中の立体スクリーン上に流れているとは知らないし、それのお陰で暴動に発展することもなく、落ち着きを見せていたことも知りえない。もちろん、颯汰の映像だけではなく歌や音楽、魔王たちはそれをどこで入手したの? となる演劇のアーカイブ映像なども含まれた。
だがそれでも、祭りの盛り上がり方は、正直ボチボチである。
お通夜状態は回避できたものの、全力で浮かれるほど民衆は容易くもないし愚かでもない。
気を紛らわせるためか、無料でアルコールの提供が始まったが、皇族から振る舞われたと知れば誰もが口にするのを躊躇うため、他の貴族の名が使われた。
いち早くヴラド帝の悪行に気づけたが、叛逆者の汚名を着せられ追われた客員騎士エドアルトもまた、英雄として担がれ始めていたため、その名も一緒に使われたようだ。
笑顔や明るい調子も伝播していくものであるため、少しずつ活気を取り戻せればよいのだが、今後どうなるかの見通しはついていない。
その一方で――、
非常に険しい顔をしながら、問診後に触診、さらに精密検査まで始めていた男がいた。
「あの、その……もうそろそろ、良いんじゃないか――」
「――黙ってください」
「あ、はい」
立花颯汰少年が、白衣姿で第三皇子ヴィクトルをベッドにうつ伏せにさせながら、皇子の背に左手をかざしながらゆっくり探る。
黒の瘴気――粒子群に包まれた左手が一種の探知機の役割を果たし、異常がないかを確かめている最中であった。
――どうして、このような状況になったんだろうか……
ヴィクトルは不意に思う。
見た目は若いというよりまだ幼い、という部類の少年王。悪意も敵意も無いのはわかっている。真剣に“何か”の有無を探してくれている。
まさぐられたり、直接触れるようなことは避けてくれてはいるものの、機神たる父――巨神となったヴラド帝を葬り去った英雄……言うなれば神を滅ぼした存在。向こうは素手でも、やろうと思えば簡単に殺せるのだと思えば、変に緊張してしまうものだ。
ゆえに、あえてヴィクトルは過去を思い出して今の現実から逃避を始めるのであった。
――……
――……
――……
数刻前――式典の会場は少しパニックとなった。
睡眠薬でしばらくは起きない手筈となっている姉レギーナの乱入にヴィクトルは目を剥いて驚いていた。
姉が寝ている間に、下の兄妹たちが反抗する前にすべてを終わらせようと画策したが、あえなく失敗してしまった。
その場で踞るレギーナ。
お産に立ち会った経験がないものたちは慌てふためき、実際に出産経験があったり手伝いの経験があるものは冷静に行動・指示をし始める。
布で出来た衝立を貴族たちに即席で作らせ、外界から遮断する。お湯や清潔な布等の準備も御付き女性の片方――元ヴィクトルの部下であり一番最初にレギーナに近づいて大声で人を呼んだ方が、冷静さを取り戻してテキパキと指示通りに動いていた。
立花颯汰もヴィクトルも、蚊帳の外となった。颯汰はウマなど家畜の出産は手伝った経験があっても、人間は元の世界でも一度たりとも立ち会った経験がなかったし、自分は邪魔にしかならないとして隅っこへひっそりと移動を始めていた。
氷麗の魔王――彼女は他者には客員騎士エドアルトその人にしか見えていないがため、医者が来るように要請した以外には特に動かなかった。
他の貴族の男たちも特にすることはないのだが、雰囲気に飲まれて離席することなく、そのまま子が産まれるのを待っていた。中継映像も停止し、民衆も同じく待つだけの時間となる。
そこで問題が起きた。
慌しかった会場が、落ち着きを取り戻したかと思えた矢先だ。
何か嫌な沈黙があって、直感的に颯汰が動き始める。氷麗の魔王も彼の後に続こうとしたときに叫びが布の結界の中から聞こえた。
「息をしてない――!」
言葉の意味を理解するに至るに、少し時間が掛かった貴族たちはさすがに動揺を始める。
いち早く察知した颯汰が、布で仕切られた結界の中へ踏み込んだ。
その時、颯汰は「どちらだろうか」と考えていたのだが、答えは残酷な方であったのだ。
「ふたりともか……!」
産まれた新生児と、母であるレギーナ。
両者が呼吸が止まっているらしい。
医者がまだ到着していない状況――母子ともに危機的な状態に遭遇したことのある人間はこの場にいなかったがため、全員がパニックを起こしていたが、颯汰の行動は迅速であった。
「ちょっと退いてください」
別種の緊張が奔る現場の空気をあえて無視して突き進み、新生児に近づく。
颯汰は新生児の呼吸と心拍を確認し始めた。
一瞬、動きを止めた颯汰は、すぐに口と鼻を確認し始めた。そして原因を特定する――鼻部内で羊水と粘液によって詰まりが発生していた。
生まれたばかりの子は口呼吸が未熟であり、鼻呼吸が主である。そのため颯汰は即断即決で躊躇いもなく、新生児の鼻に口を近づけた。
技術に優れたニヴァリス帝国であるならば吸引機の類いも存在するのかもしれないが、この場に無いしそれを扱える医者もいないため、慎重に鼻から粘液と羊水を吸い出し、汚れて不要となった布に吐き捨てるを繰り返した。それを数回続けた後、新生児がむせるような音を立てた。
そこで颯汰は、近くにいて呆然としていた女性に言う。
「ちょっと、代わってください。もう少し、同じことを」
獣刃族の女はコクコクと肯き、真似するように同じことを試み始める。
颯汰はもう一人の患者を見やる。
突然の出産で、ベッドなどなく敷かれた布の上に横たわるレギーナ。顔色は蒼白で、汗を止める薬品が効かないほどに噴き出ていた。
同じく呼吸と心拍を確認――。
呼吸がなく、こちらは更に心音が聞こえない。
鼻や口、呼吸器の異常は見受けられなかった。
「血の出すぎ、か……?」
帝国の医療レベルが医術の師――長すぎる黒髪で全身が隠れる怪異に見紛う、エルフのエイルと同じほどかは怪しい。
清潔な布とお湯の準備はできたが、輸血の方にはあまり期待できそうにない。
颯汰の呟きに、左腕から声が響く。
『否定――。
自然分娩による出血量の異常値にまで達しておらず、原因は別であると考えられる――。
推奨行動:心肺蘇生の実行――』
「そうだな。まずはそっちからだ」
気道を確保し、胸骨圧迫と人工呼吸を実施する。顎をクイっと持ち上げることで舌で塞がれずに済む。
レギーナの胸部に、颯汰は使える左手だけを使い垂直方向に、一定のリズムで強めに押す。
数字を数えながら、三十までリズムを保ち続けた後、口から息を吹き込む。
颯汰はそれを繰り返しながら「起きてくれ、起きてくれ」と小さく呟いていた。
「……片手だと力が足りない?」
それに姿も力も子どもの状態で、戦いの後の疲労が回復し切っていない。
心臓マッサージするにはもう少し力が必要だった。
「ファング」
『承知:命令の実行――。』
颯汰は右腕が使えなくなり、絶対安静が必要な身。魔法の使用など御法度どころではない。だが何よりも人命が最優先であり、自分の手を伸ばせば届くものならば、立花颯汰はやる男なのだ。
左手に魔法による電気を宿す。
荒ぶる雷撃、迅雷の魔王の力――。
誰かを傷つけるためではなく、心肺蘇生をするために使う。
倒れる女の胸から垂直方向に引いた手――人差し指と中指の二本を立てて、突き刺すように下ろす。
まさに落雷の如き一手は、正確に体内で不全を起こしている臓腑を捉える。
肉体を焼くことなく、電気ショックがレギーナの心臓に届いた。
大きくビクンと動くレギーナに、周りの女たちは口を押さえながら、溢れ出す悲鳴を必死に殺そうと試みていたが、恐怖心と戦慄は漏れ出ていた。
何も知らない女たちは、そのまま殺害したのではと一瞬思ったところで――、
「――……ッ! ゴホッゴホッ……!」
反応がなかったレギーナの口から、新生児と同じくむせるような音がした。その後、目を開けてひどく咳きこんだ。
「よし。陛下に少量ずつ水を飲ませてください」
颯汰は周りを見渡し、頼んだ。
第一皇女レギーナは出産による失血性ショックを起こしたようでは無いが、元から心臓が弱く心疾患であった可能性がある。
患者は一人ではないため、もう一方を見た。
新生児の方も、上手くいったようで、ちょうど泣き声を上げていた。
呼吸ができ、生きていることを証明するように大声で存在を示す。
生まれたての子どもは女性たちに任せて大丈夫だろう、と颯汰は判断し、再びレギーナの方を向いた。
「……? ま、魔王陛下……?」
「あ、まだ起きないでください。本職の方もそろそろ到着するでしょうし。一応、脈拍とかの確認もしといた方がいいかな……。あとは保温もいるな。それと……、足の下に布を束ねたやつを乗せて高さを調節もしましょう」
「…………」
意識が回復したばかりで状況が飲み込めていないレギーナであったが、近くで響く泣き声に気づきハッとする。
「レギーナさま! おめでとうございます、元気な男の子ですよ!」
「! まぁ……!」
「レギーナさま……! 一時期、お子さまも貴女さまも大変危険な状態でしたが、ソウタさまが、お二人を助けてくださって……!」
「!!」
驚くレギーナから、颯汰は顔を逸らした。
「……ありがとうござ――」
「遅れました! レギーナ様!」
いいタイミングで本職の方――お医者様がやってきてくれた。医療チームが到着し、颯汰は口頭による状況の説明と現場の引継ぎを始めた。
反応を見ている限り、凄まじいほど格差があるわけではないが、現代医学より遅れが見られる。
しかし、処置した内容とその必要性を説明をすれば、頭のいい医師ならば柔軟に対応できるものだ。問題なくやれそうだと判断した颯汰は、そそくさとその場から去っていった。
急遽設営された式典会場内の、急ごしらえで作られた女帝を囲う結界から外に出たとき、颯汰は大きくため息を吐く。
――ある意味で幸運だった。大掛かりな手術が必要だったら、やりきれる自信がなかったぞ
今回、言うなれば素人でも知識があれば対応できる、外科的な治療の必要性がなかった。彼の言った幸運とは二重に掛かっている。親子たちと颯汰自身にとっても不幸中の幸いであったと言えよう。
落ち着きがなく動き回るヴィクトルが、今しがた退出してきた颯汰に気づき、近づいた。
「へ、陛下……あ、姉上の様子は……」
「大事ない、はずです。あとはお医者さんが診てくれてるので」
パッと明るい表情になったヴィクトルであったが、すぐに気づいた。
「……何か、やったのですか」
嘘を吐いてこの場を乗り切ってたとしてもどうせバレる。それに彼にも用事があるのだ。
「ちょっと手助けしただけです。それよりも、ヴィクトル殿下にお頼みしたいことが……」
「吸血鬼化の研究について、ですか」
「えぇ。あとなんか、その、……気になる変な事言ってませんでしたか」
「? 変な事……?」
「その、“とも”がなんとかって」
理解不能というか、認知を拒んでいるような節が颯汰にはあった。元の世界の普通の高校生であったとき……そう呼べる関係を築いた記憶は、少なくとも颯汰自身には無い。
ゆえに不信感が募り、警戒心をあらわにする。
この世界に来てから常に、颯汰の冒険と闘争の裏に何かが潜んでいる――そのことは認知できても、まさに雲を掴むようなもの。朧げで在りながら、暗躍している嫌な影。そろそろ光を当てて表舞台に引きずり出すべきだ、と颯汰は考えていた。
敵か味方か判別つかないが、手掛かりはあるだろうからその話をしたい。そこへエドアルト――氷麗の魔王までもがやってきた。
「それについても、話し合いましょう。ヴィクトル、まずはこの式を一度閉じ、ソウタの言った通り祭りの開催だけでも宣言を。それと、地下の住民も地上に出てるけど、どうか一時的に地下の出入りを封鎖するよう兵に命じて。他に人がいない秘密の会話にもってこいだし、目的地も地下だもの」
「……」
「ヴィクトル?」
「いや、その……エドアルトの姿と声でその話口調は慣れないというか、新鮮というか」
「あぁ~」
普通の人間にとっては変装の垂幕での変身は見抜けないものだ。
なるほど、と薄い反応をする颯汰。
その後、医者が経過を観察し、レギーナと新生児は病院へと運ばれていった。
再び帝都全土への通信が再開され、ヴィクトルの口から建国祭の開催が宣言される。
三人は帝都の地下の方面へ移動を始めた。
向かうは地下でも閉鎖されて久しい区画――。
そこに、事態を好転させる、都合のいい道具が眠っている。




