149 女帝
外気が零下であり、都市すら凍てつくほどに寒いニヴァリス帝国が首都・ガラッシアに、再び熱が灯る。気が触れたような熱狂っぷりを破るは一人の女の叫びであった。
「――待ちなさい!」
凛と響く声。
一斉に注目が集まる先にいたのは一人の女性。
皇族の紋章が付いた外套を羽織り、急ぎ現れたのは――、
「レギーナ姉さん!? どうして」
「姉さん?」
二十代前半、下手すれば十代後半ぐらいにすら見えたのは、彼女の母の血筋からであろうか。
金色の髪から突き出た獣刃族の証たる耳。纏うのは最高級のローブではあるが病衣代わりであるがため飾り気はない。ヴィクトル以上に準備に至る時間が無かったのだろう、式典に合わせるべき格好にはやや足りなかった。
彼女の美貌も目を引くが、もっとも目立つのはやはり孕った腹部であろう。
出産間近で休んでいた皇女が、その両足でやって来る。
この場に注目の的となっている三人全員が、絶対安静が必要だという半ば狂った状況であった。
「魔王陛下!」
レギーナが颯汰に向けて語りかける。
急ごしらえで作られた会場の入り口から、少しずつ赤い絨毯の上を歩む。
足取りは重そうで、歩くのがやっとという印象だ。実際に痛みが酷く、制汗効果のある薬品を塗りたくって誤魔化しているが、本来は滝のように汗が出ていてもおかしくないほどである。痛み止めなどの内服薬の類いは胎児への影響を考えて使うのをやめているため、ド根性で歩いているのだ。
御付きの女性ふたりは、極めて冷静そうに佇んでいたが、実際は彼女を止めたいし歩くのにも手を貸そうとしていた。同じ種族である以上に、同性としても彼女の身が心配で仕方がないのだが、皇族の覚悟を知ったがため、止めることはもうしない。
「…………え、俺!?」
自分の事だと悟る時間と、彼女の只ならぬ雰囲気、さらに王者の才覚を感じ取って颯汰はやや対応が遅れた。
服の上からでもわかるお腹にいる子供。
視線が顔と腹部と交互に移ってしまっていた。
ただでさえ判断力がバカになっている颯汰。そこに衝撃が加わることにより、さらなる混乱で一層、判断力が鈍る状態になっていた。
第一皇女がそれを計算でやっているのかは定かではない。レギーナは一気に踏み込み、切り込んでいった。
「そこのヴィクトルが持つ私の退位宣言書などまったくの偽物! そんなもの私は承認しておりません!」
混乱――さらなる騒めきが会場内で起こる。
今回の件に一枚噛んでいた若い貴族連中の顔色と表情が、それぞれよろしくない感じになる。
「まずいぞ……」
「おい、第一皇女は動けぬはずだろ!?」
「どうして今になって……」
「(やつめ! 今の内に始末しておけと命じたのに失策りおったな……!)」
会場にいる若い貴族たちの大多数は、人民と異なり映像を通して見た颯汰の活躍や過去の経歴によって心は「動いてはいない」。颯汰が皇帝となった方が自分に有利に進むという打算から、ヴィクトルの計画に乗ったのである。
颯汰はアンバードで王として担がれ、さらに実質ヴェルミをも呑み込んだというのに本人が王位に就く気がない――『世界を救うために自由の身でありたい』『権力に興味がなく固執するつもりがない』という、どこぞから出た嘘(とも言い切れない)情報を、若い貴族たちはまんまと信じ込んでいたのだ。
己の父たちを騒ぎに乗じて、あるいはヴラド皇帝の悪行に関与したとして牢にぶち込むなどをして、家を非正式に乗っ取り、この式典に参加した。颯汰を皇帝として据えても、そこはすぐに空席になると睨んだのだ。
あわよくばその席を戴けると本気で信じていた者が、この場のほとんどがそうだ。
それに、悪逆の限りを尽くした皇帝を討った者であれば、そんな邪悪に荷担していた先代を排除しに動いたのは正当のものであり、責はないと――新たな皇帝によって保障されて然るべきであるとすら思っていた。どうあれ家系の長に弓を引く形となっても、こうも自分の望むべき答えが望んだままやって来ると考えているあたりが貴族のお坊ちゃまたちらしい悪癖と言うべきか。貴族制による宿痾とも言えよう。
それすらも、単純な理由で瓦解しようとしていた。
偽の退位宣言書というあまりに御粗末な道具で話に乗る方が悪いのだが、それにしても第一皇女がすぐに動くとは誰も予想していない事であった。中には刺客を放った者までいたというのに、それすら払い除けて、レギーナ皇女はここにいる。
しかし、同時に貴族たちにも不可解な点が浮上する。その行動の早さだ。
ヴィクトルの方は目を覚ましてから、どうやって己の流れる血の罪を雪ぎ切るかを事前に考えて、結論にはすぐに至った。せっかく生かしてもらった命であるのだが、ここが使い時なのだと。
貴族たちの謀略について後に知った颯汰は作為的なモノを感じ、誰かの仕業であると考えることだろう。だが今は、怒涛の状況変化の波に乗り切れずに飲まれている、颯汰は目を丸くしていた。
「え、あ、そう、なんですか……」
そんなことより帰って休んだらどうだ、と颯汰は正直思った。生涯わかることのない痛みに苛まれていながらも、やってきた気高き皇女を、思わず心配そうに感じていて言葉が回らなくなる。
そして同じ血統の女は、歳が近い弟と性分までもが似通っていたようだ。
「よって、妾こそ、ニヴァリスが真なる皇帝は、このイリーナぞ!」
新たな女帝の――見ていて逆に気分が良くなるほどのドヤ顔であった。ここまでいくと却って清々しいものさえ感じる。しかし会場内の空気は冷たくも熱くもなく、乱入者に対して適応ができずにいた。
「あ、そう……おめでとうございます女帝陛下。わ~おめでと~……」
何とか最初に立て直した颯汰が拍手をする。
ぱちぱちぱち、と乾いた音が一人から鳴る。
後継者同士で争う分には、関らないから勝手にやってほしいというのが颯汰の本音だ。
まかり間違ってもニヴァリス帝国の皇帝の椅子など欲しくない。民衆に持てはやされてはいるが、その熱はいつか冷めるし、熱を維持するだけの政治が行えるなんて、小僧っ子の自分にはできやしないと考えている。ましてや宮廷内で、どれだけの人間があの映像などで騙せるかと疑いの念があった。それは颯汰自身の卑屈さもあるのだが、権力を行使するだけの者が、急に現れた他と繋がりのない存在を簡単に受け入れるはずがないという、確信があったのだ。
――……どうやら、これはこの人の“洗脳”によるものじゃないっぽいな
隣にいる氷麗の魔王は表情は変えていないが、考え込むように口の近くに手を置いていたのを颯汰はチラリと覗き見てそう思った。
いくら映像を流した程度で、自分という対象にそこまで人心が動くとはまったく思っていない颯汰。だから先ほどまでのヴィクトルとのやり取りこそ、女魔王が固有能力を仕掛けたものだと思っている。あまりに迂遠なやり口であるが、たしかに皇帝であれば吸血鬼化の研究について容易に割り込める。だとしても颯汰的に「絶対にノー!」である。
氷麗の魔王が固有能力を使用したかの有無はわからないままであるが、彼女の思惑通りに進んでいないのは確かであった。
「妾こそがニヴァリス帝国が女帝――ゆえに先のヴィクトルの妄言はすべて無効であると主張させてもらいます!」
苦しみを隠しきれていない皇女であるが、さらに突如国に現れ人心を掻っ攫っていった存在に対して毅然とした態度で立ち向かう姿、その胆力は驚嘆に値するし、敬意すら抱けるものだ。
颯汰は心の中で拍手したつもりが、実際に再びやっていたし先ほどよりも大きく響いた。
不服に思う弟が吠えるが、世界が違えど姉の方がだいたい強い。
「待て待て待てぇい! 姉上! その腹でなぜよくここに」
「腹ァ!? あんた姉に向かってなんて口を効いてくれてんのよ!」
「お、いや、そういう意味じゃ――お腹に子がいて生まれる寸前だと聞いていたのだぞ! それをなぜ――」
「――兄さんたちと違って馬鹿なことやる弟だからに決まってんじゃない!」
実際に馬鹿な事やってるしね、と颯汰は心の中で呟く。姉の代わりに帝位を継いで、民衆の怒りが爆発する前に、一族全員を犠牲にして鎮めようとしたのだ。
「姉さん……だめだ、姉さんには子が」
「馬鹿ね! アンタもいるじゃないの!」
「いや腹にはいないが……」
「うるさいわね、死刑とか流刑とかふざけたことを抜かしてくれちゃって! どうせ本気じゃないにせよ、私の子に手出しなんてしたら弟とて許さないわよ。あんたはもう黙って帰って病室で寝てなさいよ。重傷だって聞いたわよ?」
「ぐっ……、それは姉さんもだろう!」
「私は正当な後継者としての責務があるのよ」
ヴィクトルは女は流刑とは宣ったが、おそらくはそこは虚言であり、どうにか国外の比較的安全な場所へ逃がそうとはしていたであろう。そうでなければ腹の子への心配などしない。ただし男の死刑は自分諸共にやるつもりであった。
民衆の怒りはいずれ爆発する。だから貴族たちはあえて民を扇動し、ニヴァリス家一族に向けさせるよう、焚きつけていた。
その熱は、ヴィクトルが颯汰を皇帝の座を明け渡すと発表した瞬間に一気に燃え上がった。すべての罪を自らではなくニヴァリス家に払わせる策略は成功したかに思えたところに、レギーナが異議を申し立てしてきたから、若者たちは爪を噛んだりそわそわし始めたりしている。
「お待たせしましたわ陛下。妾こそが真なるニヴァリスが女帝」
「あ、はい。その、おめでとうございます」
「先ほどのそこのヴィクトルの戯言はお気になさらず」
「は、はい。それは、勿論。貴女こそが正統なる女帝――……あの、」
「どうなさい、ました?」
「失礼を承知で言わせてもらいたいのですが、すぐに戴冠式を終わらせて、建国祭の開催も軽くちゃちゃっと宣言し、病院へお戻りください」
気丈に振る舞ってはいるが、限界を超えていることなどお見通しである。
「いや、戴冠式だけであとはヴィクトル皇子が祭りの開催を、……違うな、戴冠式自体も後でいいんじゃないでしょうか。それよりも貴女はお体を……」
「――……」
「?」
女帝が目を見張って黙り込み、僅かな間の逡巡の後、静かに語り始める。
「……正直に申しましょう。私は貴方の歩んできた道――その様子を見ても本当に真実かどうか、信用してませんでした」
「(どんなモノを見せられたのか全部は知らないし、絶対に盛りまくったフェイク情報はあるんでその姿勢が正しいです)……はい」
映像技術というものが出回っていない世界で、初めてその刺激を受けた民たちは衝撃を受け、内容をそのまま真に受けている。皇帝が行った政治と同様に耐性が無かったがためだ。だから民を一概に騙されやすいと批難することは正しくない。
「貴方がもし苛烈な王道を歩むものであれば――ヴィクトルの言う通りにニヴァリス家の粛清を求めたのでしょう。そうであったならば私の首だけを刎ねさせ、どうにか場を治めさせるつもりでした」
「なんなの皇族ってみんなそんな覚悟キマってる感じなんですか?」
思わず颯汰が調子を崩す。
女帝はえぇ、と静かに肯いて続けた。
「父であるヴラドがやったことは、他の兄妹たちは一切関与しておりません。亡き母、それと私の子たち、お腹にいる子にも誓って断言致しますわ。だからヴィクトル同様、後継者である私の首だけを差し出して納得して貰おうと考えました」
「……俺はそもそも首とか命とか要らないし」
「本当、心優しき魔王ですこと……。力が無ければ王宮内での策謀に飲まれかねないほど、仄かで儚い……そんな優しい光があなたの在り方なんでしょうね」
「……、よく、わからないですケド、そういうのに向いてないってのは事実です。だから帝位なんて譲られても困ります。持て余して仕方がないです」
自分の丈に合ってない服なんて要らないというのが、颯汰の答えであり本心であった。だがどちらかと言えば帝位よりも命を差し出される方が嫌でもあった。
――それに責任を取るといって死なれても、吸血鬼化だけじゃなく、実験やら何やらで死んでしまったヒトは戻ってこないし……
それを口にすることは憚れるものだ。何より吸血鬼化した敵も兵も傷つけながら不法入国してきた人間が、今さら言えた事ではない。
「……女帝として、本来であれば正当な手続き無く入国したあなたを、拘束させていただくところではありますが――無駄でしょうし、この国を救ったという事実から目を背けることもできません」
「(俺は抵抗できないケド、他の面子でそれをやったら今度こそ国が滅ぶしな)……はい」
たとえ勇猛果敢な将軍であれ、単なる人間ならば数で鎮圧は可能だ。拘束しそれこそ民の不満をあえて買い、自害することで責任をただ一人で背負うという手段もあった。実際に巨神を打ち倒した怪物を、捕縛する方法がないため不可能な暴挙である。
「魔王陛下。あなたの、何か望むものはあるのでしょうか」
「! それについてお話があります! ……吸血鬼化の実験について――」
颯汰の言葉がだんだん消えゆく。
「う……」
目が泳ぎ、ふらつき始めて皇女の様子がおかしいと思った途端、ニヴァリス帝国の新たな女帝はうずくまってしまったのだ。
「えっ、まさか」
颯汰以外にも、同じ言葉を発した人間がいたことだろう。
御付きの人たちは既に近寄り、レギーナの言葉を聞いて叫ぶ。
「う、産まれる……」
「産ま……!? お医者さ、衛生兵!? だ、誰か来て!!」
式典と内と外、今度は別種の騒めきが起こった。
ニヴァリス帝国、神となった皇帝がその神話ごと討たれた日。
新たな命が、罪なき命が生まれてくる日でもあった――。




