140 救出作戦
朧げな視界――。
中心は視えても、隅は常に白い靄が掛かっている。
匂いも風も感じない。
そもそも呼吸というごく自然であり、していることすら忘れてしまう行為を、私はやっていたのかわからない。
霞んだ世界。
草原が続く先、小高い丘の上に“彼”がいた。
彼を見た途端に私は、胸が締め付けられるほどに嫌な予感がして、夢中になって駆け寄ろうとする。けれど一向に距離は縮まらない。
足が動いてないのか。
それとも地面が伸びていっているのか。
彼は振り返らず――、
いや、横目で私を見てから、歩み出した。
『待って――!』
私は堪らず叫んだ。
どんなに走っても、追い付けない。
橙色の草原に掛かる暗い影。
斜陽が作り出す、暗く長い影が遠退いていく。
彼の姿が丘の向こうへ呑まれる。
その瞬間に、丘は赤く燃えた。
夕陽は一瞬にして消え、暗い帳が降りる中、丘は皓々として燃え上がる。
それは怨嗟の焔火。
癒えぬ傷を膨れ上がらせる憎しみの炎。
『!?』
悲鳴が漏れる。
燎原ではなかった。
炎に焼けているのは草原ではない。
積み重なったモノ。
傷だらけで血に濡れた犠牲者たち――。
赤い死の山が、炎に包まれる。
私の足元にも、生者とは思えぬ痩せこけたモノや傷どころか失われたモノたちが転がっている。
どこへ行っても逃げ場はない。
地面という地面が、ここ一帯は埋め尽くされるほどに夥しい数がいる。
すべてがヒトの形をしていたと思われる。
確認する余裕はまるでなかった。
地上のすべてが赤く染まっている。
そして、私はさらに悲鳴を上げたのであった。
死人と思われた彼ら彼女らが、私の両の脚を掴んでいたのであった。
いや、既に生者ではないのは間違いない。
目は黒いくぼみとなっている。
死して腐りながらも、骨になった後でさえも、生者に群がり這い寄る遺体たち。
地獄と称するしかない異空間であった。
私は恐怖した。
助けを求めて叫んでも、絡みつく手は容赦なく肉にめり込む。
焼ける痛みが、恐怖が、憎悪が――彼ら彼女らが感じた全てが流れ込んでくるような気がした。
反射的に痛みでつい払い除けてしまう。見知らぬ死者への悼む気持ちが湧いたが、同時に“彼”が非常に心配になった。骨と皮だけの手の持ち主を振り返って一瞬だけ案じるような目をしたが、すぐに追いかけに走った。靴の底に柔らかで硬い感触がした気がするけれど、そのことに目をそらして丘の上までたどり着く。
骸がゆったりと起き、足を掴もうとして来るが構っていられない。
火災による息苦しさだけではない。
焼ける臭いがキツく、目が沁みる。
苦しみを認知する感覚だけが、丁寧に取り戻されていたことに彼女は気づかない。
激しい動悸が止まらない。
咳をしてから、丘の上から“彼”を探す。
懸命に“彼”の名を叫ぶ。
『――――!』
その途中で声が止まった。
目に映ったもの――それを見て震えあがった。
高まった恐怖心すら塗り潰す、最上の恐怖。
見てはいけないもの、自身の目を疑う信じられない光景がそこにあった。
正気は失われ、気が狂うほどに絶叫する。
自分が信じきた全てを否定されたような衝撃。
慈悲なき現実を突きつけられ、成す術もなく絶望するしかないという、冒涜的な無間獄が眼前に広がっていた。
心が壊れゆく音。例えるなら教会のステンドグラスがひび割れ、砕け散るような――大切な何かが失われていく音。
叫びよりも大きく内側から響いていく。
その音が――、
だんだんと――、
だんだんと大きくなっていき……――。
リズはカッと目を見開き、飛び起きた。
悪夢は醒め、現実に戻ってきた。
嫌な夢であったと気づく前に周囲を観察する。
陣――術式の内部であると知る。
雪が積る森の中、陣の中で敷かれた毛布の上で寝かされてたとリズは気づく。
そして、術者の男が近くに座っていた。
森の中で身を隠し、護るための防御術式を展開していたのは紅蓮の魔王。座しながら目を瞑り、ゆったりとした呼吸をしていた。男は長く息を吐いた後にゆっくりと目を開いた。
「お目覚めか」
一体何が起きたのかという疑問よりも先に、最も大事なことを確認する。
リズの中で、夢の内容は――正気を保てないほどに衝撃的な内容であったのに、既に忘却の彼方にあった。
「少年が一人で戦っていた。傷だらけの我らでは足手まといだからな」
言葉を操れないリズはどうにか立花颯汰が無事なのか今どこにいるのかを尋ねようと試みた。一方で魔王はすぐに察しがつきそのように答えたのであった。
今は生身であり、涼し気な顔をしている神父の格好をした魔王。
纏っていた《王権》はボロボロで崩壊寸前であった。パッと見は傷口は塞がっているが、かなり出血したに違いない。黒の衣服は血吸っていることにリズは気づく。それに彼が瞑想するような姿勢を取っていたのは、自身の回復を図るのと、眠らされたリズを守るためだ。
つまりは、自身のせいだとリズは感じた。
彼女の様子を見て、魔王は続ける。
「そう責めるな。なんといっても相手は大いなる神。相性も抜群に悪い、まさに天敵であったのだ」
私もホラ、見ての通りだ――などと続けて言う紅蓮の魔王に、リズは訝し気な目をする。
「なんだ? 自信を持つがいい。剣術ならば並みの兵、さらに少年をも凌駕しているのだ。此度はたまたま巡り合わせが悪かっただけのこと。……なに、対巨大戦やああいった魔法を封じる手合いに勝てるような鍛錬のメニューも考えておこう」
リズが落ち込んでいるように見えたのか、彼なりにフォローを入れた。
だがリズの本心は別にある。目を覚まして意識も冴え始めたからこそ浮かんだ疑念。
この男――紅蓮の魔王はまったく本気を出していなかったのではなかろうか、という疑念だ。
彼の言う通り、相手との相性が最悪であり、それこそ息をつかねば危うかったかに思えた。
颯汰に遠隔で魔力を与え続け、他にも遠方の使い魔を操りながら眼前の敵と戦うという驚異のマルチタスクをやっていた。そのせいで直接戦闘がおざなりなっていたのだろうとも思えたが、違うのではないかとリズは予想する。
《この人、わざと彼、ううん……私たちに試練を課すために手を抜いたんじゃ……?》
「あ痛たたー。さすがに無理をしすぎたなー」
わざとらしい。
リズは目を細めたが、こんな男より大事なことがある。立花颯汰のもとへ行かねばならない。
そんな時、少し放れた地点に轟音が鳴り響く。
既に生き物の大半が逃げ遂せた森の中では、改めて飛び立つ姿は見えない。
リズは驚き、周りを見渡し始めたが、紅蓮の魔王が立ち上がり言う。
「どうやら決着がついたようだ」
「!」
「行くぞ。溜まった文句をぶつけると良い。若人は衝突し合ってこそ結束が高まるものだ」
リズは最初、何を言っているのか理解できなくて首に右手を当てて考えた末に、答えに辿り着いてしまった。彼女は思い出す――自分がなぜ眠りについてしまったのか。
「あっ、しまっ――」
神父姿のうっかりさんが言葉を漏らす。
ここで「リズや自分を置いて戦いに行ったことだけについてだけを責めよう」などと気の利いたコメントを発することができればよかったが、魔王なのでそんな他者を思いやる心などなく、
「いやぁ、まぁ、少年なりの気遣いなのだ」
そして悪意無く追い打ちを掛ける。
間違っていないが、かなり言葉足らずだと言える。
リズは自分が颯汰に服薬させられて寝入ったのだと知ってしまった。
そしてその理由を、真意と異なる解釈をしてしまい傷となる。
リズは俯き、握った拳が震える。
一方でこれを見ていた人でなしは……、
――青春、というやつかぁ
だめだこの男。
大抵のことはなんでもできる万能モンスターみたいな元勇者の魔王であるが、その手の怪物は致命的に人間の心を理解できていない。機敏さに欠けていると言っていい。
自身の弱さ――新たに得た力の悍ましさゆえに隠したことなどを悔いているリズを余所に、紅蓮の魔王は移動の準備を始める。
彼らを覆う魔法の障壁――薄赤い多角形が無数に並んだバリアを消して、跳躍する。森の木々を優に飛び越え、空中で制止したところで、下からリズが追いかけてきた。
雪を上、晴天が広がる。
広がる雪原――氷漬けとなった巨大な塊が半分に裂けているのが見えた。
「さすがだな」
機械神を封印状態にし、そこから両断したのだ。それを見て言葉を口にすることができないリズは静かに驚き目を見張る。巨神と呼ばれた超巨大兵器――ただの人間が立ち向かえるわけがないものを、攻略して見せたのだ。
「さて我らが主は……――」
紅蓮の魔王が見つけた。
リズも気づき、不可解そうな目をする。
世界は元の静けさを取り戻したかに見えたが、何やら不穏な風が吹いている。
超巨大氷塊から少しだけ離れたところに、白銀に煌めく吹雪が円形を模っていた。
リズが首を傾げていたところに、
「――あれは……マズいか?」
紅蓮の魔王がぼそりと呟き、それを聞いてリズはすぐに真実に辿り着けた。
あの中に、颯汰がいるのだ。
しかし、どうして? 何が起きたの?
リズが疑問に思っていると魔王が答える。
「わからぬ。何者かが少年を包囲している。そしてあれは巨神めが操っていた煙状の障壁に違いない。おそらくは魔法は効かぬ」
そう言いながらも魔王は火矢を放つ。
指先から小さな赤の魔法陣が浮かび、そこから飛び出した矢は猛スピードでドームに突き刺さるが、爆ぜることなく掻き消えたのが見えた。
「…………少しわかりづらいな」
距離のせいかもしれない。
さらに大きな炎の槍であれば確実に反応がわかるだろうと構えようとしたところ、止められる。
『気づいているのに馬鹿だな~。そんなことしても無駄だよ~』
無邪気な声音で邪気と敵意がたっぷり詰まった言の葉。その声にふたりは聞き憶えがあった。
空に浮かびながら、背後を振り返る。
『無駄に図体だけデカくて役に立たないな~』
声だけは知っているが、その見た目とは一致しない。
白い渡り鳥――鳥類の類いではあるのだが、顔から翼にかけてアメーバ状の水色の粘液が付着したように白い羽毛を浸食されていて、その水色に無数の赤い目が付いている。
リズは数瞬、死んだように静止する。
動き回る複数の目がギョロギョロと周囲を観察し終えたあと、一斉にリズの方を見てからリズの時は動き出す。
闇の勇者としての本能か、あるいは生理的に受け付けないゆえの反射行動か。リズは見えない星剣の一振りを手に、真っすぐ振り下ろす――。
「待て」
……ところを、紅蓮の魔王に止められる。
背後にいた魔王が不可視の刃を、振りかぶったことにより後ろへと伸びた刃を指で摘まんだ。
怖気が奔る奇妙な生物を葬ろうとしたのを止められてリズは、抗議の声を心の中で叫んでいた。
「落ち着け。味方だ」
『お~ん? 一体誰が味方だ~? 誰が~?』
鳥類というより、液状――否、水色の氷であったそれから声がした。
一呼吸置いて冷静になったリズは声の主を正しく認知していた。ウェパルだ。嫌に攻撃的な感じがするが、紛れもなく彼女の声であった。
しかし、彼女はもう存在しないはずである。
勇者としての本能のままであれば斬るという選択以外ないが、彼女個人としては――。
「………………」
リズの中で――……判断が付かない。
それでも矛を納めることができたのは、彼女が死ねば“契約”を結んだ繋がりにあるものが全員息絶える。そうなることは本意ではなかったからだ。
息を整え、武器を霧散させる。
こうして“彼女”がわざわざ使い魔越しとはいえ出向いてきたのだ。無益で無意味な行動を取るとは考えにくい。リズはそこまで狡猾そうに計算まではしていなかったが、ウェパルからとりあえず話を聞くべきだとは思ったようだ。
そして、宙に浮かぶ一団にさらに加わる巨影。
青空が急速に暗くなったと錯覚させたのは、二体の竜種。幼き龍の子シロすけ、その母たる四大龍王――白い羽毛と翼を持つ颶風王龍が舞い降りる。
『まずいです。大変なことになってます……!』
巨大な結晶体を両手に掴みながら、優しい声音に焦りを見せて颶風王龍は言う。
それに対し、爆裂空気が読めない男が返答する。
「そのようだな」
『そのようだな……? 焔の光――あなたが目を離さずにいれば』
ジッと睨む竜種の王者。約束を違えた者に対する侮蔑が込められていたように思える。どこ吹く風という表情であったが、紅蓮の魔王は非を認めはした。
「確かに私の不手際――」
最後まで言い切る前にリズが前に出て手を横に伸ばし、首を横に振る。それ以上言わなくていいと制止するように促す。
《私が弱いから……》
彼女の自責の念にかられている。
言葉が使えないリズの想いは他者に伝わりづらい。唯一気づいた紅蓮の魔王は、その手を超えるように前のめりで言う。
「敵が想定以上に強かったのと、今もそうであるように予想を超える行動を取った……皇帝は上手だったのだ」
『…………それは結局、敵をただの人間であると侮った貴方の責では? そして私は見抜いてますよ焔の光。貴方はわざと手を抜い――』
「そんな余裕は無かったさ。全力を尽くしたうえでの結果だ」
飄々と責めの視線と言葉を躱す魔王。それに対し颶風王龍はジーっと睨む。ただし彼女の滲み出る慈愛のオーラのせいであんまり怖さはない。
しかし、鳥類に寄生した使い魔越しに様子を見ている者は気が気ではなかった。ここで無益な争いを起こされてはまずい。
『もうその馬鹿を責めるなり殺すなり滅ぼすなりは後にしてー! 今は、あのバリアを破るために力を貸してよー!』
ウェパルが懇願するとリズは肯き、颶風王龍は少し溜息を吐いてから「わかりました」と了承する。紅蓮の魔王が「無論だ」と返すと、使い魔からデカめの舌打ちが聞こえた。
《大丈夫かな……?》
真に魔王として覚醒した彼女は、過去の記憶を取り戻し――紅蓮の魔王に深い恨みがあるらしい、ということまではリズも知っていたが、果たして協力し合えるのだろうかと疑問に思う。
言葉を語らなくとも目は口程に物を言う――。
リズに対し、ウェパルはその様子を見抜き自信をもって言う。
『安心して。作戦は既に考えてあるから。指示通りに動いてくれれば、あのバリアを壊せるしソウタも救える』
25/10/10
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