29 不夜の森
その扉の先、蓋を開けると白煙が部屋中を包む込んだ。
浴室。それはどこの村、家庭でも完全に普及しているわけではないが、この屋敷には備え付けられていた。
村のすぐ傍にある川から水を汲み浴槽へ流す。勝手口側に焚口があり、そこで火を焚いてお湯にする。――いわゆる五右衛門風呂に近いものであった。
浴室も浴槽もそれなりの広さがあったが、大人二人だと若干、窮屈ではあるかもしれない。
「ふぅー! やれやれ、シャルは怒るとマイワイフにそっくりだなー!」
湯に浸かりジョージは溜め息を吐いた。
どうやらシャーロットは性格を込みで大半が母親似らしいことが窺えた。
浴槽から上半身を出してへたり込むように項垂れて言う。しかしすぐに、
「まぁ、たぶん時間を置けば忘れるか」
ケロッとして言う父親であるが、当事者となってしまった少年は、“この大人、本当に使えねえな”と言わんばかりの目をしていた。
モクモクとした湯気が風呂場全体を包み込む。小さな木の窓があるが僅かな隙間もなく、閉じられていた。その先はもう暗闇に満ちているだろう。
外は夜闇に完全に飲まれる中、ここは異常に明るかった。間違いなく家の中でどこよりも明るい。だが、浴室内に燭台などはない。火では万が一消える可能性もあるから、代わりに別のものを使っている。
浴室内の対角線上の二隅に下げられたカンテラの中には、とある果実と沸かしたばかりのお湯が注がれており、それが浴室を昼へと変えていたのだ。
「あぁ、夜光の実だよ? ほら、森の方に夜になると光ってるアレと同じもの」
「? でも色が……」
村の前に広がる森は“不夜の森”と呼ばれている。その理由が夜光の実だ。その名の通り、夜間に綺麗な水色に近い色の光を放つ果実を携えた樹木が大量に育っているのだ。しかし、その果実が放つ色と、カンテラ内の光は大いに違う、更に言えば光量も段違いに輝いて映る。まさに電球色と相違ない。
「夜光の実の性質でね。熱すると青い果実がオレンジ色になるんだ。お風呂を沸かす際に一緒に水の中に入れると程よい感じに変わるんだ。でも熱し過ぎると実が破裂しちゃうから注意がいるよ。この実の果肉がドロッとしてて、服や肌に着くと中々落ちないんだ。もし浴槽で爆発でもしたらシャルに一月は口をきいてもらえなくなるぞ? ………………あれは辛かったなぁ」
果実について語る内に自身の失敗を思い出し勝手にへこみ出す男は遠い目をして、次は天井を眺め始めていた。
湯から上がってカンテラ前で飛んでいたシロすけが、それを聞いたからか大人しく降りては桶に汲んだ湯に、再び浸かり始めた。
「何故そんな性質が?」
「さぁ? ――昔、山火事があった時はオレンジ色じゃなくて真っ赤になったんだってさ。しかも森中の果実がみんなそうなったって話だから、神さまが森に住む生き物への逃げるように警告の意味でその果実を生んだ――という話だけど、実際はよく分かってないんだ。で、どうなるかなって果実を火で炙ったら、やっぱり真っ赤になって破裂したんだ。おそらくそれが他の木か果実に付着すると赤くなるんだと思うよ」
「…………それは怒られ――?」
「――ました、はい。顔のは石鹸で三日後くらいに落とせたんだけど、服に着くとそうそう簡単には取れないんだ。……それで使ったのがシャルが洗濯の際にいつも使う獣脂の石鹸ではなく、僕が以前、知り合いから貰った植物性の石鹸だったんだけど……ちょっと臭いが着いてね……、独特な油臭? …………滅茶苦茶、怒られた」
「ですよねー」
多分この大人は本当に悪気はない。ゆえに厄介なのだろう。
そんなジョージは湯から上がり、身体を洗い始めた。
「悪いけどソウタ、背中を頼むよ」
「はーい」
無駄に長い金色の髪を慣れた手つきで纏め上げて、男は届かない背を洗うのを少年に任す。
美を追求する者ならば誰もが羨み嫉妬し兼ねない、きめの細かい白いエルフの肌はまさに玉のようであると言って差し支えないだろう。背中から隠れていたうなじを見せる。異性なら思わず感嘆の息を漏らしてしまうだろう魅力がそこにはあった。だが男だ。
「夜光のカンテラは、中にお湯に入れる事で実の変化と破裂を防いでるんだ。だからリビングじゃぁ濡れるし使えない。それに万が一、カンテラごと落として割れてしまえば……かんがえたくもないねー」
摘み取った果実やその汁だけでも、四刻くらいまでは光っているらしく、電気のないこの国では貴重な光源となり得るのだが、果実の扱いの難しさと森独特の風土でしか夜光の木が育たない、と言った理由で王都でも流行っていない。大量に入荷しようにも運んでる最中に使い物にならなくなるのでは意味がないのだ。
ゆえに日々、炎を光源として外敵が来てないか監視し、王都ベルンはその平和を維持している。
「ありがとう。次は僕が洗おう……、毎度思うけど、本当にその傷、痛まないのかい?」
「いえ、自分では傷があるのも知らなかったくらいなんで」
エルフの瑞々しい肌と反して、少年の背は落雷を彷彿とさせる白い亀裂がまだ痛々しく残っているが、当人はそれに対しても振れた際にも痛みを感じた事はない。
「きゅー……」
龍の子も心配するレベルの傷で、この傷を見た者全てが一体何をすればこのような傷が生まれるのかと想像を巡らせてしまうほどの“何か”があった。
――そんなに酷いのかな……、いつ付いたんだろうか
身に覚えのない創傷。颯汰は何より自身の傷の規模が目で見えていないから特に深刻に受け止めていないのであった。
二人と一匹は全身洗った後、再び湯舟に浸かった。溜まった垢とかの汚れや疲れなどを一緒くたに洗い流して息を着く。
静まった空間を満たす湯気が、何もかも曇らせる代わりに、それを忘れさせ安らぎを与えてくれるのだ。
ゆったりと浸かり過ぎて、エルフの白い肌はかなり赤みを帯びていたからか、そろそろ上がる頃合いだなとジョージは立ち上がって何気ない口調で問うた。
「そう思えばまだ聞いてなかったけど、君のお義父さんであるボルヴェルグさんは一体どんな人なんだい? あぁ、魔人族とは聞いてるけど、僕――というよりこの村の人の殆どがエルフや人族以外を見た事ないんだ。たしか僕らみたいに全体的に線が細くて褐色の肌に赤っぽい目に銀髪って話だけど」
ジョージの想像では一般的なエルフ――金髪碧目の真逆の存在を思い浮かべていたが、
「いえ、黒目でハゲでゴリゴリのマッチョマンです」
颯汰の発言がイメージを粉々に砕く。実はこのエルフの男の想像で概ね合っていた。ただ鬼人族の血が混じるボルヴェルグが少し普遍的ではないだけである。
「な、なかなか辛辣な特徴の上げ方だね……魔物退治するってことは戦士なんだから筋肉は付いていて当たり前か。性格は正義感が強いとは聞いてるんだけど実際どうだい? 僕ら村人を脅すようなことはない……よね?」
「たぶんないと思いますよ。ただ襲ってきた賊に対しては引くほど容赦ないですけど」
いつの日かに突き刺さるような鋭角でブーメランを投げていく。
「うーん……村の人々は基本温厚だから衝突することはないと思うけど……やはり他所の国の異文化でのすれ違いとかもあるだろうし。あ、いや反対じゃないんだ。むしろこの村からどんどん色んな人が手を取り合って生きていくのは素晴らしい事だ。これを機にアンバードとの仲が良くなって、マルテとも……マルテは、なぁ……。どちらかと言えば近いからかいい噂を聞かないけど……いや、同じ人族がいるんだから仲良くしてもいいのに……」
この大陸の三国のうち、一番厄介なのは現状マルテ王国だ。驕慢たる人族至上主義者がその地を支配しているのだ。交易もしてはいるが、人族同士でしか絶対に行わないという徹底ぶりである。他国との関係を悪化させても益はないのでヴェルミ側が仕方がなくそれに付き合う形をとっている。マルテからの絹や香辛料、一部の加工食品――特に調味料などは貴重なのだ。
この村から南西へ直線でおよそ三十スヴァンの距離を歩き続ければ颯汰が目を覚ました場所も見えてくるだろう。ただし、山や森を超える必要がある。
「たぶん大丈夫ですよ。こんな見ず知らずの他種族の子供を拾ってくるくらいなんですから」
笑って言う颯汰であるが、その境遇を笑っていいものか判断がつかなかったジョージは合わせて顔だけぎこちなく笑う。
そうして、浴槽から身体を出して、滴る湯をタオルで拭って脱衣所へ向かった。
それぞれ就寝用の寝間着姿――簡素な麻布一枚の服となっていた。
「そうだ。明日、予定あるかい?」
「あの女どもを泣かす予定ですが、どうしたんですか」
あの女どもとは村人の少女たち――颯汰が知らないことを良い事に賭けオセロを仕掛けほぼ全裸にまで引ん剥いた人族の姉妹の事だ。颯汰曰く、次は負けない。……女の子を裸にしたいわけではない、ただ負けっぱなしが許せない。深い意味はない。
「ハハ、いや……ちょっと森へ付き合ってもらいたくて」
「? 狩りの手伝いですか? ただでさえ邪魔になると思いますし、コイツも絶対ついてきますよ?」
そう言って自身の頭に乗って寛いでいる龍の子を指さすと、同意の意味で幼龍シロすけは鳴いた。
「それに、シャーロットが絶対に許さないと思いますが」
いくら数か月ほど村や街を渡り歩いて、その際ほとんど野宿で狩りの手伝いを少しばかりしていたとは知っていても、魔物がまた活発化している森へ子供を連れて行くのは、誰であろうと悪意がない限り阻むに決まっている。
「狩りじゃないよ、ちょっと手伝ってもらいたい事があるんだよね~。シャルには内緒でね。大丈夫、たぶん昼前には帰れるからさ」
「う~ん……、まぁ、いいですけど」
「よし、じゃあ、明日は早いからすぐに寝よう」
「え、早朝から?」
露骨に嫌な顔をするが、何もせずにただ飯喰らいと呼ばれる前に何か一仕事だけでもやっておこうと自分に言い聞かせ、エルフの男のお願いを聞くことにした。
夜が更け、まだ太陽が山の中から顔を出していない。木製のベッド――客人用の部屋で颯汰は一人眠りについていた。
扉が二度叩かれる。コツコツと木を叩く音だ。
しばらくすると反応がないな、ともうワンセット叩かれるが反応がない。
ゆえに扉を叩いたジョージは他の部屋で寝ている二人を起こさないように、静かに侵入した。
そうして颯汰を揺すって起こそうと試みる。程なくして立花颯汰は目を覚ました。
「…………早いっすね」
「悪いね、それじゃ、着替えて行こうか」
まだ明けない夜の中、男二人と勝手に起きた一匹とで森へと向かう。
森は幾つものの青の光がそこら中に点在し、まだそこだけ外界と異なり夜になっていなかった。
昼間眠りつく魔物たちは今もまだ森の中で蠢いていた。
――ブリーズウルフ。夜闇に浮かぶ青白い月を思わす青みがかった灰色――湊鼠色に近い毛色を持つ群れを成す狼だ。彼らの最大の特徴はその色ではなく吠えない事にある。――いや、正確に言えば吠えているのだが、その音が一部の生物以外に聞き取れないのだ。人体では聞き取れないほどの独自の周波で仲間とコミュニケーションをとり、まさに飛び掛かるそよ風を感じたら最期――大勢の群れに囲まれていて、もう取り返しもつかないで音もなく食い殺される。
マルテ王国の門であり王都でもあるロッソの北東付近に生息していたが、繁殖して増えたのか、国境を越えいつの間にか不夜の森にも現れるようになった。
外敵もいなく、いつしか餌が不足したのか、その中の群れの一つがプロクス村で育てている家畜を襲うようになったのだ。
その狼たちが、何かを感じ取っていた。匂い、気配、野生の勘。それらが小さな違和感を覚えさせる。
森が、何か騒めいているように思えた。実際、小さな鼠や鳥などは、そっと森から離れ、飛びだったのだ。狼たちの中で長く生きたものほど、それを敏感に感じ取って即座に行動を開始した。
むさい男と二人旅が終わったと思ったら違う男と二人で風呂入ってる……。
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次話は来週までには投稿します。
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2018/06/04
タイトルを含め文章と一部のルビの誤字を修正しました。




