132.5 冬の魔女
その女は、魔女と呼ばれていた。
異界の衣を纏いし冬の魔女、と。
氷をも自在に操る魔女は、人心を誑かす能力まで有している。
そんなヒトの形をした超越者が立つ前――……
夥しいと表現してしまうほどのヒトの群れが、すべて横たわっていた。
さながら、悪夢にうなされているような苦悶の表情を浮かべる者や――虚ろな目をしたまま口を半開きのまま呆けている者までがいる。
一方、地獄に思える光景に君臨する魔女の方は、氷を思わせるほどに無感情であった。
慈悲も同情も憎悪も無く、それは凡そ生命に対して向けるべき目とは程遠いものだと感じるほどの虚無である。虫か何かを相手取っているようなほどの冷たさだ。
「…………始めるわ」
魔女の言葉は空を舞うだけで、この場にいる何百もの命に響かない。そもそも彼らに向けられた言の葉ではなかった。
魔女の前に、青の魔法陣が現れては輝いた。
円を描き、文字と図形が重なったそれが光となって広がっていき――……
時間を僅かに遡る。
颯汰はリズを薬で眠らせ、紅蓮の魔王に何をするかを一応伝えた。字面だけ見ると最低なのだが、これから為そうとすることを考えればこその配慮ではあった。彼女に『迅雷の魔王』の姿を見せるわけにはいかない。しかし、神を討ち滅ぼすには彼の魔王の力を使うしかないと颯汰は判断していたのだ。
「――ということです」
『ほうほう、なるほどなるほど』
これからしでかそうとしている大事についての説明を受け、紅蓮の魔王は少しだけ驚いたような嘆声を上げていた。しかし実際のところ、予め知っていたかのようにも感じる、絶妙なニュアンスでのリアクションをしてくるものだから、この男は計り知れない。
少年少女、両者の考えを知っている紅蓮の魔王は何を思っているのだろう。リズの方もまた、颯汰に見せたくない秘密を持っている。両者の隠し事の共通点は『暴力』であり『おぞましい姿』だ。
『……』
それを知っていてあえて告げないというのは、勇者として本来ならば相応しくない行動なのかもしれない。だが――、私情と世界の趨勢とを天秤にかけた場合に、迷いなく己の悦楽と欲望を取るのが魔王というものだ。そういう生き物として割り切った方が利口といえよう。ただこの男は魔王である前に光の勇者であって、何も悪意があって伝えないという選択を選んだわけではないだろう。たとえ善意で――不要な気遣いや優しさが、悪い結果を招くかもしれないと理解しつつも、後に続く者たちには希望を抱いてほしいという先達としての願い……なのかもしれない。
『相わかった、全霊で魔力を送り続けよう。あとは少年にかかっている。――頼んだぞ』
眠る少女を抱えて去っていく紅蓮の魔王。
相変わらず感情の起伏を感じさせない男であった。
幼龍のシロすけだけが見送るように鳴いた。
その背中を見送って颯汰は独り言を呟く。
「……止めやしないんだな」
実は止めてもらいたい……みたいな構ってちゃん的な思考ではなく、咎められるものだと思っていたのだ。
《王権》を再構築し、その身に纏うなどという暴挙など前代未聞の行動だろう。
紅蓮は、それが不可能だとも言わなかった。元より可能だというのは“獣”と一心同体となた颯汰が一番よくわかっているが。
時間は無いとはいえ、一悶着ぐらいあるだろうと警戒していたが、あっさりと男は少女を横に抱えながら走り去っていった。
ゆえに拍子抜け、とさえ感じた。
放任、あるいは信頼か図りかねる所だ。
「さてと……、ん……?」
去ったあとに近づいてくる気配を感じてその方向へ颯汰は見やる。
やってきた人物に普段より少し目が見開く。
諍いどころか殺し合いになりかねないという危惧は“契約”というかたちで抑えられているのだが緊張が走る。それでも、激しい感情を向けている相手がまだ近くにいても、クールな表情で態度も何一つ変わらなく見えた。
揺れる長羽織に女子校の制服。陶磁を思わす白い肌に淡い水色の髪。
契約を交わしたニヴァリスの女魔王が現れたのだ。
しかしその一瞬の目配せ――去っていった影を追う瞳の奥に、強い敵意らしき感情が湧いていることに颯汰は気づいた。だが、あえて彼女は走り去っていく宿敵を追うようなことをしない。だから颯汰も触れないでおくことに決めた。
「大丈夫なの?」
女の問い。大丈夫かなんてこっちの台詞だ、などと返した瞬間に凍って死ぬ未来が見えたので決して口にしない。
「あ、氷麗の魔お――」
「――二人きりのときは名前で呼んでと言ったはずよ。ソウタ」
ガラッシアを上昇する際に一通りの自己紹介やら作戦の立案、契約までこなしていた。交わした言葉は少ないが、転生者である彼女が与えられた名も聞いたし、かつての本名までも立花颯汰に告げてきた。すっげえヘヴィな想いをぶつけられているが、颯汰にとって困惑しかなかった。
「……うん、で氷麗の魔王さま」
「死にたいのかしら」
「なんでぇ……?」
圧が凄まじい。
微笑みがマジの爆弾だから恐ろしい。
魔王であると脅し文句はジョークにすらならないのだ。
機嫌を損ねると死に直結するから。
「いいわ。段階を踏むっていうのも大事よね」
「きゅきゅー」
二人きりじゃなくて自分もいるぞと竜種の子たるシロすけが抗議するように鳴いたのを、女魔王は「そうだったね、ごめんなさい」と謝罪の言葉を口にして、小さな頭を指で撫でていた。
「(そもそも、覚えてないからね俺は。あなたを)」
後ろめたさはゼロではないが颯汰の記憶には、告げられた真なる名――彼女が魔王となる前に、地球で暮らす一般女性であった頃の名に、思い当たる情報は無かったのだ。
……――
……――
……――
帝都ガラッシアで合流し、真に魔王として目覚めた氷麗の魔王。颯汰と契約を結びながら移動を始めていた。皇帝に対する作戦を立て、あとは実行するのみ。作戦とはいえ稚拙で粗雑なものだ。じっくり話し合う時間なんて残されていなかったからだ。
シロすけが起こす風を用いて呪いという名の闇を払いながら突き進む中――意を決した乙女は、先行して上昇する颯汰を呼び止めた。何事だろうかと思った矢先、唐突に、本当に唐突であった。
彼女の本名らしきものを告げ、続けて言う。
『――……私の名前。覚えている?』、と。
それに対する颯汰は非常に焦っていたし困惑もしていた。まったく記憶に一切無い、知らない名であったからだ。一瞬にして口の中がカラカラに乾き切って、代わりに冷や汗が噴き出して止まらなくなる。
彼女が何か行動を起こすたびに『失策れば死』の選択肢が出てくるから、心臓に悪いなんてレベルじゃない。
話を合わせるべきか、と一瞬頭に浮かんだ案を即座に却下する。嘘をついて知ってるふりをしても、後々バレたらそれこそ大目玉を食らうのは明白である。ゆえに颯汰は素直に話したのであった。
『俺の記憶には無い名前だ』と。
悪いけどと頭に付けたが、正直それで許されるわけがないとも長く熟考していた颯汰も充分に理解している。もっと気の利いた言い訳ができなかったのかと後悔しても遅い。
彼女は一瞬、美しい彫像のように固まった。
颯汰は間違いなく地雷を踏んだと恐れたが、氷麗の魔王は静かに質問を投げかけた。
『あなた……最後に元の世界――地球にいたときの記憶は? 何歳のとき?』……そのように問う女魔王の瞳は刃のように冴えわたり、真っすぐであった。
颯汰が目をそらすのは単に異性に耐性が無いだけではない。
そんな彼であったが、質問の意図がわからなく返答に僅かばかり窮していたが、その後に堂々と答える。代償として記憶情報を幾分かは燃焼させてしまったが、それでもこの記憶だけは鮮明に残っている。颯汰は問いに答えると、女魔王は目を伏せて呟いた。『…………そう』というたった小さな一言は無感情であったのだが、失望したようにも聞こえた。
――……
――……
――……
そんな過去のやり取り――彼女の努めて隠そうとした氷の仮面の奥の感情を思い出し、苦いような悲しいような、微妙な表情となる颯汰。
――まったく記憶に無いんだケド……なんか、罪悪感が凄い。もしかして随分と昔に会った、のかなぁ? そもそも、このヒトは思い違いをしているのでは? 俺じゃない誰か別人とか
忘却の彼方にある幼少期の記憶は簡単に掘り起こせない。キチンと互いに情報をすり合わせをするにも、あの時も今も時間はない。無意識に深く考えぬように逃避する。
一方で、先ほどと顔つきが同じに見える氷麗の魔王は「ある目的」で颯汰に近づいたのであった。帝都の真上で皇帝の気を惹いたり、援護射撃とばかりに魔法で直接傷を付けられなくとも妨害したりはできるのだが、それを止めてまで接近するには理由がある。
この場で唯一、皇帝ヴラドにダメージを与えられる颯汰が一撃で沈んだのを見て、彼女は別プランを実行すべきだと判断したのだ。
「……話を戻すわ。それで君、大丈夫なの?」
「さっきの一撃? あぁ、大丈夫。次は絶対に当たらないから」
自信あり気に答える少年をジッと冷たい目が観察する。
外傷もない異常な回復力を訝し気に眺めているのか、あるいは颯汰の異常な自信の正体が見えずにいるからこその疑念を抱いているのだろうか。
「……絶対に?」
「ぜ、絶対に……!」
ちょっと臆している。
真っすぐな瞳を受け止められないという意味合いでは、間違ってはいない。
「その姿、その自信に繋がる『何か』を実行するためなのよね」
予測不能な“獣”の力でなんとかするのだが、さすがに王権を纏うとまでは予想していなかったことだろう。
「そう。変身中はジワジワとそれだけで魔力を消費しちゃうから。今は多くのリソースをそっちに回している。完成すればもう皇帝の攻撃は喰らわひゃい。ひょれだけの速度を――、って人の顔で遊ばないでくれません?」
軽く説明をしているというのに、女魔王は屈んで徐にか細い白い手で幼い姿の颯汰の頬をぐりぐりと触り始めていた。
不快感よりも恐怖が上回っているが、さすがにまじめに会話している中で、過度なおさわりはやめてもらいたいと訴えだす。
ここにきて命を奪ってくるとは普通考えられないが、精霊の類いならそういうことはするし、魔王もまた行動を読めないから恐い。
これは危険ね、と氷麗の魔王は呟きながら両頬をいじりまわしていたが、ずっと両肩に足をかけて頭に全身を預けている竜の子が尻尾で女魔王の手を軽く叩いて撃退させた。氷麗の魔王は立ち上がっては咳払いをした。
ついつい脱線してしまったが、今もなお機械仕掛けの神が颯汰の探索を続けている。
今のままでは贔屓目で見積もっても巨神との勝敗は『五分五分』だ。そこから颯汰が確実に勝てるようにするため、彼女は一手を打つことにした。
「これを渡す」
「……! これは――」
手に持っていたものを受け取って颯汰少年は驚いたまま彼女を見た。
「足しに、なるでしょう?」
「いやそれは、もちろん、そうだが……」
「安心して。君は作戦通りに動いてくれればいいから。変更は無いわ」
不安そうな顔をしていた少年に、女魔王は颯汰の頭を軽く撫でて言う。
「私は下準備が必要になったから、行くわ」
氷麗の魔王は立ち上がって去っていく。確実な勝利のために必要な策を講じる――そのために氷麗の魔王は再び、帝都ガラッシアへと潜り込んだ。
彼女はどんな手段であろうと、たとえそれが立花颯汰が絶対に望まない形でも、使うつもりであった。




