129 運命
静止したかのように時間は間延びを続ける。
全身に流れる血液がすべて吸われたかのような寒気が襲い掛かる。鼓動だけはやけに大きく、内側から響いてくるが、それもまた緩やかに遅くなっていくように、立花颯汰は感じた。
想定していた最悪が、起きてしまった。
氷を操る真なる魔の王が降臨した。
かつて人であった者が欲界を巡り、この世界に再び生まれ落ちる――転生者。
欲望の限りを尽くせるだけの強大な力――他を圧倒し、命を容易に摘み取れる存在となれば、殊更自己を中心として考えるようになるのは必至であろう。他人の願いや想いなど取るに足らず、自分の欲望を最優先させるのだから。周りにおだてられ与えられ続けた者は愚者へと育つといわれるが、最初からすべてを捻じ伏せる圧倒的な力を持った場合は、きっと最悪の暴君が育つのだろう。
ただそこに佇むだけで、誰もが恐怖を覚える。
睥睨する目は冷たく、恭順以外の選択を取ればどうなるかは幼子であってもわかる。
そしてさらに不運が重なっていた。
彼女が動き出す。
長羽織の裾も新雪のような色の髪も揺らして。
颯汰の視界に入っていたというのに、見失う。
明確な殺意をもって、女魔王は立花颯汰を排除しようとした。
単純な話だ。
目の前の生命を、蟻のように簡単に潰せるだけの力がある状態で、『最も憎んでいる相手』と命を共有していると見抜いたならば、まず殺すだろう。躊躇う良心の呵責など転生者にあるわけがない。この世界が不平等で、法の整備も充分に整っていない、それどころか罰や縛る枷ですら問答無用に破壊できる存在となっているのだ。そうなればどんな善人であっても、いつか怪物に身を落とす。要因が自らか、他者・集団からかの違いだけだ。
彼女の行動は、何も不思議ではない。
狂うほどに憎み、憎み続けた男を殺せる好機を、わざわざ取り逃がすわけがないのだ。
今、目の前の人物は颯汰が知る何者でもない。全くの別人であると認識を改めたが、もう遅い。
分離させた人格を統合しても、記憶を継承できるとは限らない、と颯汰もソフィアたちも覚悟を決めてはいたが――それでも、人間という生き物は想像力が足りていない。特に自分の死については欠如しがちだ。きっと死なないだろうと最期の瞬間を迎える、その直前までは思ってしまうものなのだ。
すべてがスローモーションとなる世界で、颯汰は目を見開いていた。瞬きすらできぬほどに寒かったわけではない。恐怖心はもちろんある。
それでも、彼は彼女を見ていた。
迫る白い手はあまりに綺麗で、汚れを知らぬように見えるが錯覚だ。触れればその瞬間に訪れるのは“死”である。瞬時に凍り付き、砕け散る。
女子高生のような格好の雪女に、なす術もなく殺される。認めたくないが、もはや回避不能だ。
視界が闇に閉ざされる前に、生命活動が維持できずに崩壊する。
颯汰を超える速度――目に留まらぬほどの速さで接近された。自分より速い相手と渡り合うために、光の勇者でもある紅蓮の魔王との訓練を(強制的に)行っていたが、それでも対応できない。颯汰の感覚では、紅蓮の魔王の“光速”に引けを取らないものである。まるで捉えられない。
すでに、女魔王は剣の間合いよりも近くにいる。姿勢を低くして潜り込み、斜めへ穿ち切るように長羽織の袖から伸びる手は、まさに白刃の煌めきが如く。見た目と裏腹に、非常にアグレッシブな先手を打ってきた。
行動一つ一つの所作が、煌びやかで美しい。どこを切り取っても絵になるほどだ。というのに、空を切る音だけはおそろしく重い。
立花颯汰が取れる行動は限られていた。
本来は抜き放ち、カウンター気味に剣を当てるはずが、その手すら凍らされてしまっている。
咄嗟に距離を離そうとするが、既に両足は地面と一緒に氷漬けになっていた。
魔王に抜かりがない。着実に殺すつもりだ。
どう足掻いても詰みである。
絶望だけが与えられ、命が奪われる。
ここで、旅が終わる。
使命も果たせぬままに。
彼女と再会を果たせないまま。
自分の中にいる影と決着を、果たせぬまま。
『――っ! それでも!』
そんな、死を前に立花颯汰が放った言葉は命乞いでも、悲痛の嘆きでも失意の叫びでもなく――、
『俺は、お前たちを信じている――! だから、頼む! 俺に力を貸してくれッ!』
――狂気であった。
ここだけ切り取ると、まるで主人公のようなもっともらしい台詞に思える。
紡いだ言葉こそ、善性に溢れているようで聞こえが良いものだが、本質は身勝手な願いだ。
これこそが業――人間が持つ欲望なのであろうか。生が続く限り、絶えることの無いもの。ただ、この命が尽きるやもしれない状況下で、傲慢にも一方的な願いを口にするのは狂気に違いない。
とはいえだ。これまでの卑屈で他者を恐れ続けている弱い生き物が、たった一柱の竜種の王者の言葉で、ここまで態度まで改められるのだろうか。盲信にしては、少々度が過ぎているように見受けられてもおかしくない。
その完全な答えとはならないが――、彼はある種ここに来て再誕したゆえだろう。共闘ではなく、自分たちが一つの存在であると颶風王龍に気づかされた。颯汰も歩み寄り、“獣”も大いに歩み寄ったからこそ、今の彼らは一心同体なのである。
だからこそ、こんな状況でも“獣”は暴走し、颯汰の身体を乗っ取って眼前の魔王を襲うような真似をしない。理性があるから勝てない戦いをしないのではなく、颯汰の意思を尊重したのだ。
颯汰は氷に覆われた右手を己の胸に当てて訴える。そして下から、若い女の右手が伸びてきた。
手入れされた爪先によって一層、刃のように見えるそれに触れられ命が尽きる。
かに見えた――。
「…………?」
颯汰は、脳が死を回避すべく放出したアドレナリンによって時間の感覚までもが通常時と異なったのかと思った。
いつまで経っても訪れない終焉。
女魔王は手を止めていた。
直前まで確実に命を摘み取る動きであった。
しかし女魔王は目を伏せ、何かを考え始めた様子だ。
「…………分かれた幻霊の、記憶……?」
呟く声はこの距離でもなんとか聞き取れるくらいの音量である。
己が内の残滓の叫びが絡みつく。
鬱陶しい幻想だと切り捨てるのは容易だ。
しかし、あまりに全員がギャンギャン鳴くものだから、「気紛れに耳を傾けてやってもよいか」と慈悲深い女魔王は思ったのだ。
手を退かし、背を向ける。
背を刺すぐらいの隙を与えても、なんら障害になりやしない。完全に敵を見くびっている上位種は、その場で思考に耽るように意識を内面へと集中し始めた。
「ふん……、どうせ取るに足らな――」
己の内面に流れ出す情報。人の人生そのままではないとはいえ、分かれた人格の偽りの記憶から今までの情報が一気に流れ込んできた。脳に凄まじい負荷がかかり、常人であれば処理しきれず、精神に異常をきたし、廃人になるであろう情報の渦。うら若き乙女であってもJK魔王ならば、耐えられる。苦にも感じていないだろう。
涼しい顔のまま、静止している。だが――。
「――待って、なに、え、待ちなさい」
『……?』
ブツブツと独り言の声量。起伏はないのに取り乱している様子の女子高生風魔王。
与えられた情報と、自分の過去を遡って参照する。単なる思い過ごしかと思った。彼女にとって燦然と輝く思い出であったからこそ、つい重ねて見てしまったのだと。
違った。合っていたのだ。
驚愕する。信じられない。
彼女の精神は長い年月を経て凍結していたと言っていい。
並大抵の事ではその氷は溶けることはないはずだった。
「……まさか」
そんなはずがない。
認めたくないのではなく、自分があまりにも都合のいい夢を見ていると思い、彼女は動き出す。
颯汰は再び、光る目に睨まれる。
肝を鷲づかみされたかのような感覚に襲われ、再度動けなくなってしまった颯汰。
制服の上に長羽織女魔王が早足で近づいてきた。
悲鳴を上げる間もなく、女魔王の白磁の指が、颯汰の首――ではなく下顎へと触れた。
幸い、凍ってしまうことはなかった。
女子高生魔王から、明らかに敵意が消えていた。だがこの感覚は外見が見目麗しい異性に急接近されたことによるものではなく、銃口を突きつけられたままの精神状態と同じであると颯汰は感じた。超恐い。
「ちょっとその面、取って」
『えっ』
『取りなさい』
『あっはい』
顔全体を覆い隠す、格好いいヘルメットのような防具を外せという御命令。
颯汰は当然その命に従う。
少しでも気に障れば、今度こそ死ぬからだ。
颯汰は動けないまま、左腕に語り掛ける。
『メットオフ、やってくれ』
普通のヘルメットのように持ち上げて脱ぐ必要はない。呼応するように左腕部の光がぼんやり光っては消える。頭部を守っていた仮面が折りたたまれて、首下の内部へと収納されていく。更に、口を覆う面頬のような装甲部分までもが頬へと移り、その後、ストンと同じように収納されていった。前までは口部を曝した途端に“獣”が主導権を握っていたが、そのような事態に陥ることもなく、颯汰は動かぬまま、素顔を曝せた。
そこへ距離を詰める女。
吸い込まれそうな赤い月のような瞳。
惨劇の夜――狂気に落とし込まれてでも見つめていたい奇麗な宝玉が、薄っすらとその光が治まり、輝く灰色の尖晶石を思わせる色合いへと戻っていった。そして、髪色も何故かほんのり水色に染まる。どういう原理なのか、どういう心境の変化かまるでわからない。
女魔王が非常に近い。
食い入るように颯汰の顔を見てくる。
颯汰は息ができなくなっていた。
じろじろと覗き込んだあと、空いていた左手で頬の装甲に触れ、そのあとに静かに言った。
「………、………なるほど。運命ね、正に」
穴が開くくらいに観察されたあと、女子高生魔王は何か考えるように目を伏せたまま、後退していく。次の瞬間、急に斬られてもおかしくない。
彼女は右手で頭を押さえながら溜息を吐いた。
そしてゆっくり手を離した後に、もう片方の手を自分の頬に持っていく。
不可解な行動を颯汰はただ見つめるだけしかできなくなっていた。女魔王が自身のきめ細やかな質感の頬を左手でつねるのを、主人公らしからぬアホ面で眺めていた。
ついでに、颯汰のも近づいてつねり始める。
『痛ててて……!』
実際、然程痛くない。優しく摘まむように触れてきている。が気が気ではない。氷系統の魔法を使われたら痛いで済まない。早急に近すぎるから距離を取ってほしい。
「いいわ」
『ん? ……おっ、あれ?』
女が離れて背を向け始めた。
別に赤くもなっていなければ、凍ってもいない頬をさする。
そこで自分の氷漬けにされていた手が元に戻っていたことに颯汰は気づく。
「協力、してあげてやってもいいわってこと」
『ほ、本当!? 心強い!』
どういう心境の変化が起きたかはわからないが、様子からウェパルたちの記憶を知ったのだと颯汰は認識していた。間違いではない。ただし単に彼女たちの記憶や想いを受け取ったとしても、魔王である彼女は、育ての親であろうが世話になった恩のある人物であろうが、恋人であろうが関係なく殺していた。
帝都の状況も把握した。
この瞬間にも巨神となった皇帝が殺しに来ているともわかった。
それでも、真正面から殺すのが難しい紅蓮の魔王を葬り去ることが簡単にできる方法を取ろうと、この真なる女魔王は直前まで考えていた。
「…………、はぁ」
謎の溜息に颯汰はビクリとする。
在学中、クラスのギャル系女子グループを相手にした時のことを思い出す。系統は全くと言っていいほどに異なるが、苦手意識からだろうか。
機嫌を損ねたのだろうか。
女の子ってわかんないっぴ。
「解釈違い……、ううん。これはこれでありか……うん」
ブツブツと独り言を呟く女魔王。何を言っているのかわからなかったが、怒っているわけではないのは、殺気の無さから伝わる。が、魔王とは瞬間湯沸かし器。何かの拍子で命を奪いに来てもなんら不思議ではない。
「協力、してあげてやってもいいとは言ったけれど。そうね……次の問いの答え次第ってことにさせてもらおうかしらね」
『!?』
唐突な条件の追加。それに対し文句を言う権利など立花颯汰にあるわけがない。黙って膝を突き、首を垂れるしかないのだ。
――この返答で、命運が決まる!
颯汰は、返答次第で何もかもが台無しになる予感――否、確信があった。
目は地面を向けて、上から聞こえてくる女子高生のすらりとした足を包み込む紺のソックスと履いている茶色のローファーだけが見える。なんでこれであんな高機動が実現できるのか理解に苦しむ。
「(……別に跪けなんて言ってないんだけど)……まぁいいわ。あんた何がしたい?」
『なに、が……?』
質問が漠然としすぎている。
正直、瞬時に出た答えは『生゛き゛た゛い゛!゛』だったのだが――、
「安心しなさい。下手な回答しても殺しはたぶんしないから。よほど変なことを言わない限りね」
『(あ、絶対殺されるやつだ。目が笑ってねえ)』
何がしたい、とは――?
してもらいたいことはある。
元の世界へ帰還するために、必ず彼女たち魔王の協力が必要となるのは、今回の旅で確信に変わっていた。自分だけでは叶わないものだ、と。
だが、それを口にするのはおそらく違うと直感が告げる。
今必要な答えは、彼女が何を求めているかだ。 逡巡し、行き着いたものは初めから持っていた。それでも迷ったふりをしたのは、この答えに自信がなかったのと、彼女からのプレッシャーが重すぎるからであった。
『……――俺は、あの皇帝を許せない』
颯汰の願いは、この地にいる民を皇帝の支配から解放すること――ではない。それは本当の願いではない。もっと単純で、もっと醜悪で、もっと人間らしいものが答えだ。
『どんな理由であれ、罪のない子を、民の命を弄ぶ姿勢を断じて見過ごせない。だから、あれを壊す。仮にそうしたことによって俺の願いが――元の世界へ戻ることができなくなったとしてもだ。奴を、許すことはできない』
ヴラド帝の邪悪さ。生かしておけば今後障害となる。
……などと理由付けはいくらでもできる。
だが颯汰が下したのはもっとシンプルだ。
『必ず、殺す。それが、俺がやりたいことで――今、やるべきことだ』
“奴が、気にくわない”。
だからここで殺す。
もしも、彼女が皇帝――巨神が有用であり、紅蓮の魔王を討つために使うと言った場合は、改めて敵が彼女を諸共殺しに来ていることを材料にして説得しなければならない。
少しの沈黙が流れ、緊張感が高まる。
真っすぐ見据えた瞳を、最初に逸らしたのは女魔王の方からであった。
「…………そ」
次の瞬間殺されるかもしれない、と颯汰は今度こそ回避できるよう専念していたが、女魔王は踵を返し、スタスタと歩き出した。呆気に取られて停止していた颯汰に、女は振り返って言う。
「何してるのよ。行くわよ。ここを戦地にさせたくないわ」
『あ、え……ウッス!』
完全に舎弟スタイル。実際に力関係はさっきのやり取りではっきりしている。
女魔王がさっきから放置されていた棺型霊器に近づき、ちょっと驚いていた。
――……この子、この状況で寝そべっていたというの? 結構……ううん、かなりの大物ね
棺の上部で身体を輪のように丸めて休む龍の子シロすけ。シロすけの中で動く基準はあるようだが、颯汰にもわかっていない。確実に死ぬ思いもしていたし、実際魔王は直前まで葬るつもりであった。さすがは次代の王者と言えなくもない。
棺の蓋が開き、中は白い亜空間が広がる。手を伸ばすと向こうから飛んできて、手の内に収まる。彼女の手には杖――王錫型の王権が握られた。
青の宝石が付いた銀の杖は少女の身長より若干低いぐらいで、魔法少女と呼ぶより、魔法使いのそれに近しい印象を与える。
「すぐに向かうわよ。外で最低のクズ男が粘っている内に」
皇帝がすぐに追撃しに帝都に戻らなかったのは、外部の様子を確認するためでもあった。配下の機械魔獣たちがニヴァリスから各国を襲いに行かせたが、それが阻まれたのだ。想像通りに暴れていたのは魔王であるが、今の巨神となった自分であれば負ける要素は限りなくゼロだと判断した機神皇帝は楽に倒せるならばさっさと退治し、最も警戒すべきイレギュラーの排除を優先させたかった。その意図に気づいているからこそ、紅蓮の魔王は回避重視に動き、時間を稼いでくれていたのだ。
颯汰は棺型霊器を再度左腕に装着する。縦長の盾のような邪魔にならない大きさになり、シロすけは落ちかけながらもすぐにその両翼で飛ぶ。そして何事もなかったかのように颯汰の肩とうなじ辺りの乗る。愛らしくて憎めない、まったく罪な子である。
『よし、行こ……――行きましょうか!』
帝都ガラッシア内部まで流入してきた邪気を払いながら、上部に空いた穴を氷の魔法で塞ごうというのが颯汰のプランだ。当たり前のように魔王は飛行能力を有しているため、颯汰が“黒鉄の呪い”を吹き飛ばすために先行し、そのあとを女魔王が付いてくるかたちとなった。
ドームの内部、螺旋を描く都市の真ん中に、光が昇っていく。
先行する颯汰を見つめる女魔王。
颯汰を生かした要因は、分身であるウェパルたちの記憶と、自身の持つ記憶にあった。
そして、先ほどの問いで確信に至る。
――……私は、知っている。この人を。前世で
勘違いではない。妄想でもない。たとえ姿かたちが変わろうと、間違いない。
だからこそ――ウェパルやソフィアたちが、彼を無視できなかったのだと魔王は知る。記憶があろうがなかろうが、感じ取れたのだ。
だからこれは、運命だ。
彼女の凍っていた“時”が、今より動き始めたのだから――。




