125.5 狂癲
ニヴァリス帝国の首都ガラッシア。
皇族たる己が庭とも呼べる帝都にて、斯様な夢物語が繰り広げられるとは露にも思わなかった。
夢は夢でも、確実に悪い夢の部類だ。
吐き気がするほどに酷い悪夢である。
「ウルゥアア!!」
「踏み込みが少し甘いぞ」
接近してきた敵を軍刀にて斬り伏せる。
濃霧で姿を隠したつもりだろうが、殺気が駄々洩れであった。
襲い来る敵はすべて刀の錆にしてきた。
血と脂で切れ味が悪くなると戦いづらい。人間が相手ならば、その場で調達が可能ではあるが、奪うのもそう楽ではない。鍛えた我がニヴァリスの戦力だ。多少手こずるのは当たり前である。
「やれやれ、少し、キツイか」
間髪入れずに襲撃してきた怪物と化したモノ、正気を失った民間人の首を斬る。どうやら父であるヴラド皇帝が指示した実験により、凄まじい力を得たようだ。……確かに力は強いようではあるが、軍に入れるとなると少し首を傾げてしまう。規律を乱すような輩は向いていない。それを矯正するにも、彼らはきっと飢えた猛獣と同じであり、意思疎通が困難だろう。
加えて軍属ではない彼らは装備も貧弱だ。武具の類いを持たずに襲い掛かってくるため、戦利品として奪うことも叶わない。
「民の数も無尽ではないため一方的な損失だ。」とヴァジム兄さんはボヤキそうである。つまり満たされるのは心だけで、きっと殺すだけ損だ。
それに、休まず戦い続けているから随分と消耗してしまった。
体力も落ちてきていたし、身体中に傷が増えた。加えて、吸血兵と呼ばれた特殊な鎧を身に纏う存在からの強襲を受け、左腕は使い物にならなくなっていた。おそらく毒の類いが刃に塗ってあったのだろう。感覚がなくなって久しい状態だ。左手ではろくに剣を握れやしない。
そのため当初、交戦は最小限にとどめるべきだと思って逃げ回っていた。
いたのだが、途中で別の考えが浮かぶ。
「追手を全滅させた方が早いのでは?」と。
敵を出来るだけ狭所に誘い出し、一匹ずつ確実に狩る。乱戦こそ戦の華ではあるが、さすがに多勢に無勢。毒を受けた身には限度がある。何事も自分の命に代えられないものだ。
歩む速度が落ちていく。ただ、この程度で音を上げてはニヴァリスの兵として名折れだ。
黙々と進み、時に応戦し、目的地へと距離を詰める。真っすぐ向かうと先回りされる恐れがあるため、無秩序に動いた。それでも目的は予見されている可能性は高い。街を覆う白煙――毒煙を散らすために設置された巨大送風装置の制御室が目的地である。
「どこへ行った!?」
「温かい……まだ近くにいるはずだ、探せ!」
「いやもう、吸血兵三体を同時に相手して、左手の負傷程度で済むとか頭おかしいんじゃねえのか」
「殿下の顔色は悪くなっていると思ったが……気のせいか? 私がそう思いたいだけかなのか?」
「まァまァ、毒は着実に巡っているはずですゥ。そろそろ民の収容――失礼、避難誘導も終わる頃合いです。応援もォ、すぐに駆けつけてくれるでしょう」
身を隠していると声がした。
先ほどまでいた奥の通路を歩く音までする。
ガラッシアは普段から先が見えにくい白煙に包まれていたが、毒素が強まるとさらに視界不良となっていた。お陰で見つからずに済んでいる。
「離れるなよ」
「孤立すると一人ひとり、殺されるぞ」
闇討ちをやりすぎて、敵は孤立しないように立ち回り始めたようだ。
「(狙い通り。孤立を避け集団でいれば、防御は固まるが動きが鈍くなる)」
このように事態を前向きに捉えることは重要。
聞き耳を立てながら息を殺す。
目的地がなく逃げ回っていると誤認してくれていると良いが、この会話では判断しづらい。気づいていないふりをしている可能性もある。
頑張ってあと二、三人は潰すべきではある。
「…………」
さすがに、体力も時間も有限だ。
皇居である空中庭園にいる姉弟・家族たちも心配だ。偽物の兄たちがおそらく行動を共にしている。そちらに向かう前に帝都の異常と直面し、憲兵に追われる立場となった。すぐにでも向かいたいが、皇帝の息子として、やはりガラッシアを包む毒素を払わねばならないだろう。
部下たちもどうなったかもわからない。
他の騎士たちも同様に意識を失っているのだろうか。一部の憲兵だけがマスクを配られ、市民の誘導をしている。もうすぐ完了してしまうようだが、その様子を確認するのも難しい。
床の金属を踏む足音が遠退くのを待っていたときだ。
「!?」
空気が振るえる。地響きが轟く。白い闇の中であっても、遠くで動く巨影を視認できた。
動き出した父であったもの――いや、もはや別の何か。機神と化したヴラド帝だ。
「空中庭園を、運ぶつもりか……?」
支えである三重螺旋の支柱が破壊されてもなお、浮き続ける島。空中庭園を皇帝が掴んだ。
巨人ですら持て余す支配者の根城が、ゆっくりと運ばれ、降下していくのが薄っすらと見える。
目を凝らせばわかる程度の早さ。
張り付いているだけではないのが、庭園の下部にある明瞭な赤い輝きでわかる。
やはり父は、ここで魔王を討つ算段なのだ。
家族を退避させ、地下都市へと続く大扉を閉める。分厚い金属板により、行き来を完全に閉鎖するつもりだろう。――随分昔に、この都市にそのような機構が備わっていると聞いた。
だからこそ、運び出すのも慎重にもなろう。
自分の住んでいた皇居でもあるのだ。
粗雑に扱えるはずがない。
おそらく皇帝の子らは、空中庭園にある皇居に避難している。このまま見過ごせば、侵入は容易ではなくなるだろう。
しかし、あの遅さであれば――。
「…………イケるか?」
父の出現時に帝都に張り巡らされた索道は断ち切られたため近くには寄れないものの、通り過ぎる頃合いに飛び降りれば、庭園に侵入ができる。操作を行える施設は上層だ。おそらく操作したときには皇居は多少下方に降りているが、まだ間に合うのではと頭で想像を巡らせる。
パッと操作して送風装置を止め、ダッシュで一番近い位置まで先回りし、空中庭園に飛び乗る。
「……イケるな!」
脳内で描いたイメージ図だと、完璧。
降下速度は非常に緩慢ではあるが、モタモタしていると間に合わなくなる。
民も心配であるから、やはり急ぐ必要はあった。
まずは、闇を一つ晴らさねばならない。
赤い光だけが煌めく、ぼんやりとしたシルエットから視線を外し、移動を再開する。
まずは、機神皇帝から鳴り響く何か物騒な音ではなく、付近に音が近づいていないか、目を閉じて集中する。
誇り高き獣刃族の耳がぴくぴくと動く。
周囲に近づいてくるような足音はなく、先ほどの兵たちのも離れていくのを感じ取った。
しっかりと確認を取り、目を開いて動き出す。
しばらく、闇の中を進んでいった。
神経をとがらせながら進む。
賑わっていた街からは人々の声を失ってはいたが、それでも無音と程遠い。
ふと、白煙の中で足を止めた。
何かが、いる――。
それは待ち伏せていた。
「…………!」
驚きを隠せない。
自分の目を疑った。
煙霧の中から出てきた顔に見覚えがある。
「そういうことかよ」
「……俺、自身か」
そこにいたのはニヴァリス帝国が第三皇子――。
紛れもない、自分自身の写し身がそこにあった。
父が用意したモノ。
第三皇子ヴィクトルの、影武者たる存在。
皇居の地下、秘密の実験室にて語った次兄の姿。そしてその後、何事もなかったかのように現れた兄たちの面影をはっきりと残した別物たちが頭に過る。奴らと同種だ。
「父上はやはり狂ってしまったようだな」
長兄ヴラドレン、次兄ヴァジムの偽物が出てきたのだ。であれば自分の偽物が用意されても、考えてみればなんら不思議ではなかった。
父の常軌はとっくに逸していた。
それでも無意識に、僅かな希望を抱いていたのだろう。それがもう、消え去った。彼の皇帝は自分の家族が、子が、己の意思通りに動かねば気が済まないのだ。
きっと、母上が亡くなってからだ。
父が、皇帝が壊れてしまったのは――。
思考を中断させたのは、刃による突進。槍のように突き出された切っ先を避け、返す刃が肉を断たんと閃いた。しかしながらそれは躱される。
「どうした! 戦場で考え事なぞ、俺らしくもない!」
「……確かに、そうだなッ!」
思考に浸るなど、やっている暇はない。
今は、この戦場を生き抜くために、――眼前の敵を殺すしかないのだから。
軍刀の刃がぶつかり合い、火花が散る。
近づいた顔が狂気に歪んでいること以外はどこからどう見ても自分自身だ。
非常に、気味が悪かった。
戦いを楽しもうとしている姿勢が、気にくわない。イカれていやがる。
幾度も鳴る金属音。白刃の応酬が響かせる。
手負いの剣戟とは思えない。
刃を返し、渾身の一振りが躱される。
飛び退いた敵が、走り出した。
再び、衝突する互いの得物。
敵は突進の馬力をそのまま乗せてきた。
諸刃でなくとも、顔に金属を押し当てられると痛い。空いた手で峰を押さえ、押し返す。
相手の軍刀を押し弾いた。
最も早く、届く攻撃が足蹴だ。
腹部に蹴りこみ、そして踏み込んで一太刀。
しかしそれは読まれていた。当たった蹴りが浅かったのは感触からわかった。
蹴りが入る直前に下がり、当たる位置もずらされた。弾き飛ばした軍刀が返ってくる。
刃が寸で空を斬る。
否、少し毛は切られて散り、服に切れ込みが入っていた。
一手でも読み違えば死んでいたと知る。
武器が振るえる距離から、さらに詰めたり離れたり、激しい音が殷々と響く。
周囲だけ戦いによって生まれた風で白の闇は散り、互いの姿が明瞭に浮かび上がる。
このまま長引けば、邪魔が入るやもしれないが、相手は自分の模倣が上手い。互いの手が容易に読めるために、決定打が欠けていた。
飛んで跳ね、軍刀が幾度目か衝突する。
あれから時間が経った。
決着がつかず、永遠に続くかと思われた闘争。
それが一瞬と思えるほどに溶けていたが、身体の悲鳴はそれを否定する。限界が近い。
物事には必ず終焉が訪れるものである。
ただそれは、あまりに突然であったと言えた。
まさに運命の悪戯と呼べるもの。
決して、狙ったものではなかった。
『ぬぉっ……! しまっ――』
尊大で野太くなったが紛れもなく父の声が聞こえるよりも先に、地面が揺れ動いた。
ヴラド皇帝が空中庭園の降下させている最中に、家族も避難している大事な大事な皇居がある空中庭園を、ガラッシア中心部の大穴――その外周である螺旋状に展開している部分に、ひっかけた――いや、落としかけた、が正確なのところだろう。
新たな自分の肉体を、十全にコントロールできていないかったのか、単にうっかりしていたのか。慎重な荷下ろしのはずが、ぶつかった箇所の柵と一緒に床を抉り削ったようだ。
住居や建物は穴から離して建てられているためそこまで大きな被害はなく、少なくとも避難誘導が終える中、死人は出てこない。
どういう仕組みで今まで崩落せず浮いていたのか不明であるが、皇帝が運んでいた巨大な浮島は、それは相当な質量があったと見て取れた。
その証拠とも呼べる激しい揺れが生じる。
立っていたら激しく上下に動き、身体が後ろから前へと倒れこみそうになるほどの衝撃。
ゆえに――、
「奪った!」
勝ちを確信した。
ギリギリであったが、運がこちらを味方した。
斬り結び、命の取り合いのさなか起こった偶然――ちょうど自分が敵へ飛びかかった際に、事故が起きたのだ。
これでは防げまい。
白刃が煌めく。
敵の態勢が崩れたところに、刃が通った。
首の左から、胴にかけて赤い血が迸る。
この一刀にて、確実に致命傷を負わせた。
「がっ……」
「あぁっ……」
だが、互いに声をもらす。
斬られた敵の顔に、苦悶の色はない。
痛覚というものが存在しないのか、斬られても動じている様子がないどころか、斬られたうえで反撃してきた。
崩れた態勢で防御不可の状況であったため、甘んじて必殺の一撃を受けた。そうして、一太刀受けながら、顔色変えずに斬り返してきたのだ。
その瞬間だけ――痛みよりも、慄きの感情が勝っていた。
化け物だ。
見た目こそ似せているが、まるで違う。
斬られた左腕に激痛が奔る。
刺し違えて、どうにか倒せた、のだろう。
力が抜ける。
立っていられない。
「こ、この程度で、止まっていられない、というのに……、む、無念」
意識が遠のく。
視界が霞む。根性が、足らん。
道半ばで、絶えるというのか。
膝から崩れ落ちる。
意識は混濁し、闇に沈んでいった――。




