124 救星の誓い(前編)
暫し時間を巻き戻す。
颯汰が、機械神となったヴラド皇帝に掴まれ、身動きが取れないまま遠投された直後――。
『――わァああああああ!!』
振り上げた巨腕によって投げ飛ばされる。
遠くへ。
遠くへ。
風よりも疾く、突き抜けていく。
高度が上昇するに連れ、恐怖心も高まる。
叫びが巨神から遠退いていく。
この世界に訪れる前に、ここまで凄まじい絶叫をあげた記憶はない。
それもそのはず、これまで自分が生きていた世界と異なるため、すべてが新しい体験の連続だ。
遥か見上げる巨大ロボットに襲われ、掴まれ、そのままぶん投げられる経験など生まれて初めてであれば、それに対応なんてできるはずもない。
自由が利かずただ空気に揉まれている感じは例えるならば、最高高度を飛ぶ旅客機から、パラシュート無しで急に放り出された感覚が近いのかもしれない。残念ながら自称普通の高校生だった彼に、そのような奇天烈な経験もない。
だから対応できずに恐怖に支配され、叫ぶ。
凄まじい速度でガラッシアから離れていく。
ぐるぐると回転しながら天地が何度も逆さになっていった。そのせいで状況の把握が上手くできない。
斜め一直線に突き抜けていったが、次第に速度が落ちていき、身体のあちこちが凍り付き始めた。氷点下を通り過ぎている。事前に防寒対策として外套と合わせてデザイア・フォース時の全身に強化を施したため、機能不全を起こすことはなかったのだが、解放された背部ウィングユニットの自由が効かない。理由は寒さのせいではなく、恐怖心によるものだ。
『――おわァあああああ!!』
まともな言葉すら上げられない。
頭全体を覆う仮面まで凍り、視界が悪くなる。
仮面の内部、颯汰の視界に映るモニタがさまざまな数値やらを外気温やらを表示しているがそんなもの見ていられない。
凍り付いた視界であっても逆さに見える地上が離れていき、暗い赤色の空に浮かぶ雲がどんどん近づいていくのがわかる。
いくつかの山を越え、ついに空に浮かぶ雲に至る。ここまで高くなると、どうにもならない。
果てしなく永く感じた回転がやっと弱まって、突き抜けた雲からそのうえを見上げる。
澄み渡る青と、太陽。
ニヴァリスの地を覆うふたつの呪い――“魔女の呪い”と“黒鉄の呪い”すら及ばぬ美しく厳しすぎる自然の景色。
時間がゆったり進むのを感じた。
美しき景色に見とれている故? ――否。
時は本来は止まらない。
流れる水のように。
今度は見上げる青が離れていく。
雲の中へ沈んでいく。
落ちていく。
落ちていく。
視界が白に呑まれ、絶望が内から溢れる。
時の進みが変わった理由もまた恐怖心。死に至る未来を回避しようと思考が極限まで早くなり、過去から情報を得ようと巡っていく。
上昇していく心拍数。
反転し何も見えない中であっても、重力と落下によって受ける風により、颯汰は自分が地上を向いているのだとわかった。
しかし思考が定まらない。
恐怖が強まっていく。
翼を広げようとしているのに、飛べない。
欠陥や不具合の類いではないだろう。
その原因と関連しているのか、唐突に頭の中に情報が流れ込む。
『――……ッ!?』
目は見開いたまま、異なるものが見え始めた。
視界がノイズに塗れる。
寝ているときや起きているときにも脳裏に浮かんでいた光景。
閃光のように駆け巡ったこれは、誰かの記憶のひとつだろう。
誰のモノかは、わからない。
だけど自分のものではないと強く否定はできない。
自分の記憶か、違うかすらも判断できなかった。
自由を得て、白銀の翼にて飛んでいたところに、地上から伸びる黒い錨のようなモノ。山や密林から狙いを定めていたそれは、翼を貫き、続く鎖が身を包んでいく。
幾つものアンカーに捕らえられ、地上へと堕とされ、さらに沼のような闇の中へ引きずり込まれていった。
一瞬の映像であったが、断じて妄想や強めの幻覚ではない。
撃ち抜かれた翼の痛みと、闇の中へ落される恐怖が確かにあった。
『――俺は、いつから高いところが苦手になったんだっけ?』
答える者のいない問いは風に溶けて消える。
雲を抜けるまで大して時間は掛からなかったが、颯汰が感じていた時間は数十倍にも膨れ上がっていた。それだけの情報が巡ったあと、何一つ解決策が浮かばぬままに雲を抜け、広がる一面の海に絶望する。
『いや嘘でしょ……!』
正面、落下する地点に陸地が一切見えない。
周囲を大きく見渡して、さらに慄く。
陸があまりに遠い。
夕焼けよりも濃い色合いにそこだけ染まっていたのが見えた。刺々しいシルエット――峻烈なる山があるから間違いないだろう。
何度目かの走馬灯に、颯汰はついに叫びを上げない。ひたすら考え、考え抜こうとしていた。
気を失わなかったのは奇跡か、このまま迎えてしまう結末が目に見える分、ここで気を失ってはいけないと脳が判断したか。
『距離、遠い。残存エネルギー量、飛べたとしてもあそこまではいけない……! ならば落下、着水寸前にブーストし、衝撃を消す……!』
ブツブツと呟く。
声量は大きくないが、鬼気迫る声音。
落下地点から、船でどれくらいの日数がかかるかわからない。少なくとも泳いで渡ると年とはいかなくとも、相当な月日が過ぎるに違いない。しかも休憩と睡眠、食事が取れない。
師と精霊たちの助力により、颯汰はカナヅチはギリギリ合格点・滑り込みセーフで卒業したとはいえ、泳いで渡るのはやはり現実的ではない。海域に棲む魔物だって襲ってくるだろう。
しかし、ここから陸地まで飛べるだけの魔力もない。一瞬の思考でどう足掻いても“詰み”状態だと悟る。諦めきれずに何度もシミュレーションを行おうとするが、恐怖に抗えない。
少しでも飛ぶとしても数十ムート進んだところでたかが知れている。それよりも残りの魔力を着水時に勢いを殺すために取っておいた方がいいだろう。波が立っているとはいえ、水面にぶつかる時の衝撃は避けられない。
万事休すか、そう思われた瞬間であった。
『!?』
何かに身体が掻っ攫われる。
落下したが、痛みがない。
再び視界が白く染まるが色合いが少し異なる。
厚い雲と違って温かみがあった。
ふわりとして感触と、優しい香り――。
白い大きな犬などの動物の毛を思わせる。
『……奇遇、ですねアナタ』
慈愛に満ちた女声。
声の主が自分の身体に付着した颯汰の方に、顔を近づけた。正体は既にわかっているが颯汰は張り付いたまま、思った言葉を口にする。
『柔らかい。もうここにずっと住みたい』
助けてくれたお礼よりも先に出た感想がこれだ。
『そ、それは……ちょっとさすがに今は、ね?』
顔を埋めながらドン引きな発言をする主人公に対し、声の主は気恥ずかしそうな声で返す。まんざらでもなさそうではあるが、彼女にも立場があり、立花颯汰にもやるべきことが残されていた。
颯汰は顔をあげる。
『シロすけのお母さん……』
巨大な竜種の王者――颶風王龍の白くて長い身体で颯汰をキャッチしてくれた。ただ落ちてきたものを掬う受け皿ではなく、超高速で翔け抜けながら、風の竜術を操り衝撃を殺す配慮をしてくれたようだ。
『はぁー……死ぬかと思いました。ホント、本当にありがとうございます。助かりました……』
全身で抱きついて、離れ難く人間をダメにする柔らかさを有する女体から、颯汰は誘惑に打ち勝ち、上体を起こして頭を下げる。彼女がいなければ、間違いなくこの物語は最悪な形で終わりを迎えていた。
『たまたま通りがかっただけですよ』
優しい声音。それだけでも癒されるというのに、彼女のすべてが傷も疲労も癒してくれるような気がした。
――うわめっちゃ嘘つくじゃん。超優しい
たまたま通りかかった、そんなわけがない。
シロすけの母親で成龍なのだから、シロすけと同等かそれ以上の超スピード移動が可能だろう。
彼女はペイル山の頂上から待機しつつ下界を見守り、颯汰が紙屑のように投げられたのを見て、慌ててすっ飛んできてくれた。そしてダイビングキャッチで颯汰を助けた。
心に沁みるような優しさを感じながら、景色を見て気づく。凄まじい速度で来た道へと引き返しながら、吹き荒れる突風を防ぐ防壁を竜術で展開してくれている。
『やだ慈愛の化身……――っと!?』
惚れ惚れしてしまう気遣い。
進行方向の前面ではなく、明らかに颯汰を守護するための小さな障壁。半透明でハニカム構造のこれは風除け用ではなく、防御に使うものだということはわかる。それを器用にも人間のための小型サイズで展開し、颯汰の周囲を完全防備で守ってくれていた。
そうした優しさに包まれていた直後に、感じ取る。目で見えなくても気配が強まった。
その予兆の直後、光が遠くで爆ぜた。
赤い呪いが噴き出し、とてつもない魔力を感じる。何が起きたのか、颯汰は嫌でもわかった。
『――どうやら、巨神は完全に覚醒したようですね』
『そんな……!』
魔力の波動、黒鉄の呪いと呼ばれる領域が広まっていく。より濃密なものとなっていた。
『これより、私たち四大は巨神を討つために行動を始めます。最も近くにいる私が全霊で食い止めてみせます』
颶風王龍が速度を上げる。本来ならば吹き飛ばされる速さであるが、まだ立っていられた。
『クソッ! 俺の力が足りなかったばかりに……!』
颯汰の握る拳に力が篭り、震える。
『俺たち人間世界の問題だって格好つけたうえで失策ったとかダサすぎる。なんだか落ち込んできた。穴があったら入りたい気分……』
膝をつき崩れ落ちる。
頭を抱えながら、恥辱に身悶え、大の字でうつ伏せとなった。
『……あの、ちょっと、……くすぐったい、かなぁ……』
そのまま両手両足でシャカシャカ動かれたのでちょっと恥ずかしいし、くすぐったい。
颯汰の気持ちもわからないでもないため、颶風王龍は止めてと直接は言いづらかったようだ。すぐさまセクハラを止めろ、と強めに言うべきだ。
『……送ります。ペイル山へ。お連れの方たちがきっと今も心配してお待ちしているでしょう』
彼女の言う通り、待機しているヒルデブルク王女とアスタルテは心配しているに違いない。
だけど、今ではない。
会うのはまだもうちょっとだけ先だ。
『運んでは貰いたいのですが、まだそっちには行けません』
『……挑むのですか』
颶風王龍が少しだけ驚いたように颯汰に問う。
『えぇ。あれだけ格好つけたんだから。……いやあんな啖呵切ってこのザマなの、すごい情けない話なんですけどね』
ハハハと颯汰は薄く無感情に笑う。
実際、本当に恥ずかしいので笑って感情を誤魔化すしかなかった。
そんな颯汰に颶風王龍はさらに問う。
『恐くは、ないのですか?』
『恐いさ。そりゃ恐いですよ。実際、戦ったときは半ば自棄で飛んでいたけど、今吹き飛ばされたときなんて、緊張が途切れたせいか、恐くて飛べなくなっていた』
エネルギー切れのガス欠や、投げ飛ばされた後の環境――外気温が要因ではなく、ふと恐怖を認識した途端に上手く機能が果たせなくなったことに気づいた。今までは恐怖を押し殺していたと呼ぶより、待ち受ける幾多の最悪を回避するべく自分に鞭を打ち、飛翔し続けられていた。だがある程度の閾値を超えたせいか、それとも単に集中が切れたか。
『今だって恐い。それでも――』
竜種の王者が集えば、きっとどうにかなる。
それは大陸を一つ消滅と引き換えに、だ。
颯汰がこの大陸に訪れてから守りたいと願った相手はもう殆どがいなくなってしまった。
いつか去る世界でどのように命が散ろうと、知ったこっちゃない。……そういう思考もあった。
でも、違う。
そんなの、気分が悪い。後味が悪い。
まだ生きている人たちだっている。
知ってしまった以上――、
伸ばせる手がある以上は――、
掴み取りたい。
『――俺が……俺たちにしかできないことだろうから』
人間だからこそ、できることがある。
一度、内部から破壊することに失敗した。
敵が何かしらの奥の手を持っていた他に、颯汰が激情に支配され、己を見失いかけたゆえの失敗だという自覚はある。
だけど、ここで引き下がれなかった。自分より圧倒的に上位の存在がいて、それらが事態を解決するために動いていることは知っていてもだ。
颯汰は巨神が覚醒する前に止められれば、被害は最小限で抑えられると踏んでいた。しかし敵は狡猾ではあったものの、防御を真っ当に固めていて、撃破まであと一歩のところで失敗してしまった。自分が出しゃばったせいで事態が悪化した、あるいは何一つ状況が変わらない単なる徒労であったとも言える。
だけど、あの時よりも悪化している点だけではない。己の左手と一体となった盾――棺がある。
それを踏まえて、彼は言う。
『もう一度、チャンスをくれませんか』
2023/11/26
誤字修正。




