122.5 狂奔
ひとつの星が、赤い空に流れた頃――。
「はぁ……はぁ……」
辛そうな息遣い。吐く息は白い。
一人の青年が肩を押さえながら歩く。
将校の軍服の左袖に滴り落ちる鮮血。
帝国の白い軍服を赤い血で染め上げていた。
足取りは重くなる一方だ。
それでも、彼は歩むことを止めない。
歯を食いしばって、懸命に進む。
汚名を背負ってまで、叛逆する。
――今、どうなっている……?
独り言を口にする余裕すらない。
状況を完全に把握できていない。
なにせすべてが唐突で、激動に満ちていた。
襲い来る刺客を、軍刀にて斬り伏せてきた。
しばらくは追手は来ない……はず。
ニヴァリス帝国第三皇子ヴィクトルは負傷してもなお、毅然とした態度で己が使命を果たさんとする。それは父であるヴラド皇帝からの命ではない。前線で戦う指揮官――文字通り、戦場の前に出て荒れ狂う武者となる刈り上げた銀髪の男は、自分の部下たちを救うために、父であり機神皇帝となったヴラドへ叛逆を始めたのだ。
「さて、ただ待っているのは性に合わん」
一人取り残され、自分以外に誰もいなくなった部屋はシンと静まり返り、自分の呟いた言葉だけが響く。
父であるヴラドは気が触れてしまった。
それを止めるのは息子である俺の役目だ。
そう思って俺は“魔王”と接触した。
第二皇子のヴァジム兄さんから託された資料によると、あの客員騎士であるエドアルトが魔王であると記述され、その証拠となる記録が書面でつらつらと書かれていた。だが、にわかに信じられないでいた。正直、今でも信じられない。それもそのはず、互いの武器は木剣の練習試合とはいえ何度か剣を交えた相手――それが女性であり、しかも魔王だったなどと書かれていても、平時なら兄さんの気が触れたと思うに違いない。
しかし、それはどうにも真実でありながら、少し足りないらしい。
父が暗殺され、神となる少し前に俺は動き出した。咄嗟の行動だった。
そもそも魔王を目の前にして、いやに冷静だった父に違和感を覚えていた。魔王の存在は決して寝物語ではなく、実在すると知らしめてきた南のヴァーミリアル大陸の魔王――世界に誇示するように見せつけた絶大な力と、同等のものを持っているはずの存在に対し、あまりにも動揺が見られない。打開策が何かあるはず――そこでヴァジム兄さんが口にした言葉が急に頭に浮かんだ。
『――父は、もっと良からぬことを企てている』
戦場で培われた直感が身体を動かし、魔王を名乗る少女の元へ駆けた。父が死んだ瞬間であるから、本当にこれから何が起こるか予測つかないままに動き出してしまったが、結果的に神となった父に、彼女は殺されないで済んだ。
音に聞く魔王の力を頭でわかっていても、巨神と正面からやり合うのは馬鹿げている。
実際彼女は弱っていて人間相手ならどうとでもなるが、父であるヴラドを相手にするのは厳しい状態らしい。しかも彼女がエドアルトではなく、別人で? 魔王は複数人に分かれてひとつにならなければ真の力を発揮できない……らしい。
正直、まったくピンとこない。
何を言っているのか半分も理解できていない。
ヒトがそれぞれの別人になって分かれ……?
これが柔軟な思考を持つ妹たちならまだ理解できるのかもしれないが、俺には難しい。
戦場以外だと頭が硬いなどと長兄たるヴラドレン兄さんに何度か言われたのを思い出す。
半ばわかっていないままだが、「そういうものだと受け入れて」と不完全な魔王は苦しさを我慢して笑ってみせた。
そして、現れる闖入者――客員騎士エドアルトがどこにいるかを教えてくれたうえに、魔王に「ヘヴン・ハート」なる霊器を渡した怪しい老人と童女。
戦士としての勘がその物体が危険だと告げていた。しかし、口出しはしなかった。彼女の決意を阻みたくない……のではなく、単純に彼女を利用しようと思ったのだ。
残酷にも損得勘定を優先して黙っていた。
そこに心を痛めたりはしない。
優先すべきは違う。
きっと彼女もそれがわかっていた。
闇となって溶けて消えた不完全な器は、完全な存在になるべくもう一人を奇襲しに向かった。
……――という、今まで起きた出来事の大まかな流れを思い出していた。
一人残された俺は、動くことにした。
待つのは苦手であったし、もしも彼女が失敗した場合を想定してやれることをやるべきだと判断した。
「まずは、状況確認か」
何はともあれ、見て考えて行動すべきだ。
帝都中の人間が動き出したのは何となくわかる。
旧市街地の長年放置された空き部屋から、遠くの景色を見つめる。
ここは昔、人が多い区域であったが、土台に欠陥があるとされて住人は退避済みで長らく人がいない。修繕が終わったという話は聞かない。その後、都市開発で別の区域に住宅地が建てられた。
住人が増えればここも再び利用されるであろうが、果たして今のニヴァリスにそういった未来が望めるか……、皇族目線でも厳しいものがあるとは兄たちの認識であった。
技術発展が凄まじく常に活気だっている帝都ガラッシアであっても、そういった物寂しい空間が生まれていた。
父の蛮行もそういった事情を変えるために、巨神なる兵器の運用に至ったのだろうか。
「民の避難が行われているはず。父上は魔王と、あくまでも迎い討つ――ここで戦う腹積もりか?」
民のことを重んじるならば、帝都の外で戦闘はすべきだが、止むを得ない事情があるとすれば――人質として家族が狙われるのを防ぐためか? しかし、あの巨体だと周囲に展開する街が動きを阻害するだろう。他に何か別の理由で待機しているのだろうか。ガラッシア内部が戦地となるのは建国以来ずっと無いと聞いている。
単独でありながら万の軍勢を超える戦力であり、機動性はウマを駆る騎士をも上回る相手では、今までの戦闘での常識は通用しない。
対する父上もまたおかしなことになっているが。
考えれば考えるほど、自分ができることが少ないと思えてきた。
「民の避難誘導を手伝うべきだろうか。…………家族は、無事だろうか」
顎に手を当て考えて、ハッとなった。
落ち着けたからこそ気づけた。
捨て身で駆け出した結果、大事なもの。
家族の身が危険である――。
妻子も当然ながら、姉弟たちもだ。
偽物の兄たちと共に皇族と大貴族は皇居にいるに違いない。空中庭園はどうなったのだろうか。
途端に焦りが出てしまっていた。
偽物の兄が皇位を継承し、弟たちと妹たちと一緒にいる状態だ。皇居ならば妊娠している姉も間違いなく合流している。
ガラッシアの各所に緊急時にシェルターとして機能を果たす施設が用意されているが、とりわけ皇居のは造りが頑丈で備蓄した食料も豊富ではあるが、内部に別の問題を抱えている形となる。
「ともかく、ここから動き出さねば」
そう口にして外に出た途端に、違和感を覚え鼻と口を押さえる。
「――ッ!?」
空気が僅かに甘い。そう感じた。帝都を満ちる空気――いやこの煙霧が普段と異なる。
軍服のベルトに結んでいたマスクを取り出し、装着した。
「なんだ? この妙な空気。甘い……? 煙がおかしいのか……?」
本来はニヴァリスに来た観光客と子どもにしか配られないものであり、軍人が常に携行している装備ではない。幼い頃に喘息に悩まされていたせいか、ヴァジム兄さんが渡してくれたものだ。
「(それを見てヴラドレン兄さんは、『いつまでも子供だな』と言ってきたっけな)」
マスクに触れながら思い出す。どこまでいっても、彼らからしたら俺は弟で子どものままなのだろう。声音からはからかう感じはあっても、嫌味だとは思わなかった。
「何か、変だ……」
いつまでも思い出に浸れる余裕はなかった。
こんなものを吸って民たちは無事なはずがない。
おそらく毒ではなく、死に至るようなものではないとは思うが、長時間吸ってはいけないものだと頭の中で警鐘が鳴り止まない。
ともかく、民の元へ走り出した。
息を切らして、たどり着いた。
祭りに訪れた人間が列をなす。
数えるのを途中で諦めるくらいにヒトがいる。
ふと見ると、誘導をする憲兵たちがいた。
一見すると変わった様子がない。
膝に手を当てて息を切らしたが、安心を得られたならば安いものだ。
しかし、安堵するには早い。
「よかっ――」
息を切らしながら、顔を上げて気づく。
民が、静かすぎる。
奇妙なほどに、静まり返っている。
誘導する憲兵の声ははっきりと響き、人だかりが移動する物音こそするが、誰も無駄口を叩かずいる光景。ニヴァリスの民は統制が取れていると誇らしく思えるような場面ではない。
不気味だ。はっきり言って異常な光景。
皆が虚ろな目をしている。
多くは口が半開きとなっていた。
全体的にゆったりとヒトの波が蠢いて見えた。
なんだか、足取りが重く、のろのろとしている。
異変が起きているのは間違いなかった。
「殿下」
すぐさま軍刀を抜き声がする後方に突きつけた。
相手は顔を引き、刃が当たらぬようにした。
「お、お待ちくださァい、ヴィクトル様」
両手を上げる憲兵の同族。
本来ならば鞘に納めるべきなのだが、そのまま話をすることにした。
「何が起きている」
「何、とは……。えェ、住民の避難を」
「要領が得ない質問の仕方をして悪かった。民がおかしくなっている。その原因を知っているな?」
「…………、いいえェ。何のことだか私には」
「とぼけるな。ならばなぜ貴様たち憲兵はマスクをしている? 帝都に満ちた煙が原因か?」
にじり寄る。
突きつけた切っ先を、僅かに近づけた。
両手を挙げた憲兵はほぼ歩幅で動いた。
すり足で下がった憲兵の男は「わかりました」と観念した。
「我々はァ、上からの命令に従っているだけなんですよォ~」
「上……誰だ。上官、いやそれよりも高い地位のものか?」
「えェ。ですから――」
気配を感じ軍刀を背後に向けて振った。
「――殿下の身柄を確保せよとも、命じられておりますゥ」
背後からやってきたのは珍妙な恰好をした兵士。建国祭の際に、皇帝一家の車両を守護していた集団――全身を鎧う巨躯の戦士が二人。
当たるはずの刃が躱される。
鈍重な見た目に反してかなり、やる。忍び寄ってきたのではなく、結構離れた場所から一気に距離を詰めたのだとわかった。
「…………我ながら、浅はかだったか」
多くが皇帝に注視していたが、魔王を連れて逃がしたのが誰なのか、気づかれて当然であった。
もはや第三皇子という肩書は機能しない。
とっくの前に、皇帝から裏切者として認知されていたのだ。
「殿下。ご同行願いますゥ」
集合する憲兵と鎧の戦士たち。
しかし民は何も反応せず、歩き続けていた。
「我々も殿下に怪我なんてしてもらいたくはありませェん――」
鬱陶しいので瞬時に振り向き、体重移動に合わせて男の軍服を掴み、力いっぱい床へと叩きつけ、流れるように馬乗りになって軍刀の柄頭にて何度も鼻を殴りつけた。
ちょっと我ながら褒められるぐらいに華麗な流れで無駄がない。距離的に軍刀で首を断てただろうが、喋ってほしいこともあったため、死ぬような攻撃は避けた。
痛みと恐怖は、たとえ鍛えた人間であっても逃れたいものなのだ。痛みに喘いでいる男に問うより先に、周りへと牽制するために声を張った。
「動くな。動くとコイツの命は……」
気配でわかった。他の憲兵たちは止まったが、鎧の戦士は止まる気配がまるでなかった。
その躊躇いのなさにさすがに驚き、目を見張る。
その場から動けば下にいる憲兵まで、振り下ろされた大斧によって両断されることだろう。
ほぼ背後、死角からの一撃を受け止めるのではなく、こちらから先に軍刀で当てるようにして勢いを少しでも殺す。軍刀の峰に手を当て、斬撃を弾く。斧を弾き、一瞬相手に生まれた隙を逃がさない。全身を防護しているが関節はさすがに硬い素材ではないはずだと予測し、まずは振り返りながら横一閃で斬りつける。本体に傷が付かないのを見越していながら、振り返った際に観察を怠らない。目に見えた情報を瞬時に活かせなければ、戦いにおいては死に直結する。ゆえに――、
「そこだッ!」
踏み込み、剣を下から振り上げて左腕を切断した。痛みで意識が戦いから退いたのを見て、蹴りを入れる。態勢を崩して倒れる鎧の戦士。即座に駆け寄り、その首に、軍刀を突き刺した。
「なっ、……!?」
血が流れている鼻を押さえながら憲兵の男は上体を起こしていた。
「鬼人族に匹敵する凄まじい膂力であるが、まだ戦士としてはなっていない。ニヴァリス軍人であれば、腕を斬られたところで汗ひとつ流さず、相手を斬り返すもの」
「そんな馬鹿な! 吸血兵は鬼人なんかよりずっと強いというのに……! くっ……さすが戦神、第三皇子ヴィクトル殿……!」
「ク、クレイジーすぎませんかねェ……!?」
他所からの声。集まる憲兵と鎧の兵――吸血兵と呼ぶらしい彼らは少し慎重になった様子だ。勿体ない。数で攻めれば多少の犠牲は出ても俺を討ち取れたはずだというのに。
彼らから詳しい話を聞くのは難しそうだ。
ただし反応から煙が原因であるのは間違いない。であれば送風機を起動すればいい。動かし方はわからないが、無人であるはずがない。俺のように気づいて動くやつがいると、父上が用心しないわけがない。――であれば、ここは退く。
「なっ!」「逃がしてェなりません!」「追えッ!!」
自分で言うのもアレだが、武人としての誇りやら騎士道精神というものには欠けていた。
そも戦場に礼節などそういった精神を持ち合わせてはいけない。それは都合よく、戦争を正当化させる理由になり得るからだ。
己の地位やプライドといった直接戦いに関与しない“結果”のために犠牲を生むことや、死ぬことは最も馬鹿らしいことだ。だから一切の迷いもなく、即座に撤退することを選べる。
軍刀を鞘に納め、駆け出した。
目的地が読まれる可能性は高いが、止まっていられない。ただ待つのは退屈だからだ。




