113 重なる想い
彼は、傍観しているつもりであった。
既知の友、その行く末を見守りつつも、自分が外界と関わるのはきっと良くないと知っている。
しかし最も近い特等席で、眺めたいと欲が出てしまった。本来ならば俗世に染まった人間染みた思考など、唾棄すべきものだと昔の自分であれば嫌悪していた……などと自嘲しながらも、今のその意思、変化を受け入れ肯定するに至る。
それは潜む闇たる残滓、本来消え行く運命であった神滅の雷魔が抱いている同じ欲望だ。直接対話をするつもりもないし、きっと顔を合わせれば殺し合いになるだろうから互いに避け合うと彼は考えている。
現状――“管理者”代行という任を請け負いながらも席を外すというのも良くないことだ。であるから、この国の問題の趨勢が見え次第までと決めていたというのに、つい魔がさした。
“ここで朽ちるはずがない”
“ここで終わらせるわけにはいかない”
彼は今の友の性格とその全貌を知るわけもなく、脆弱なるヒトの身であるのだから、と危機に瀕していると思った。
それは、独善と断じれない行為となる。
なぜなら、彼が先走らなければ、辺り一体は空の紅と同じ色となり、友は二度と戻れないところに足を踏み入れていたことだろう。
彼の行動は、結果的に世界を延命させたと言っていい。決して過言ではない。
己が宿る結晶物の中で咆哮をあげる。
その遠吠えは外界にまで響かなくとも、結晶を通して魔力が伝わる。
そういった機構だ。作り手ではないし、何度も使ったわけではないが知覚している。
本来はただ魔力を吸い上げるためだけの槽であったが、自由を封じる鎖なぞ上部だけのまやかしに過ぎない。
だから、救える。
“せっかくの楽しみだ。ここでお終いは惜しい”
その言葉を聞き届けたい先は無かったし、意識はしていなかったが、限りなく遠く近い場所から応じる声がした。
“それな”
邪悪な傍観者が、白く染まった空間にて眺めていたブラウン管テレビ型の画面を見て、指をさして言う。ソファに腰かけるのではなく横たわり、しばらく退屈そうな顔をしていた男。テレビを眺めている休日のお父さんみたいなスタイルで同意をした。クイズ番組や野球中継でも声を出すタイプの男は、静かに告げるように零す。
“神も魔も、獣も霊も皆が夢中か。ある種、どんな呪いよりも恐ろしいものだな”
どこからか青い角鴟の低い声がした。
同意か否定か、嘲りか無関心か。
その声音から感情は読み取れなかった。
荒れ狂う猛撃。
煙霧の白と遮られた闇の黒から、一撃離脱を繰り返し受けた立花颯汰。例え攻撃で傷は付かなくとも、響くものがあった。
理性を失ったゾンビのようであり、下手な兵役経験者よりも俊敏な動きで攻めてくるのは脅威的であったし、何より実行するのが民間人や子どもまでもいたのが恐ろしい。指示を下した皇帝に、人の心など無いと言える。
颯汰の精神が轢み、その深い絶望により、肉体の主導権を奪われる寸前であった。
颯汰は自分で思った以上に、精神が弱かったのかと自責の念を抱いていたが、真実は異なる。彼は認めたがらないが単純に『情が移った』のだ。
だから刃が鈍るどころか、捨てるなどという選択をする。
追い詰められて焦燥が募る。
そして強打を受け、痺れる腕。
対応が遅れ、己の死を予期する。そうなれば、代わりに動くのは内に潜む“獣”だ。
実際に死ぬほどの打撃を受け続ければ、自己再生が追い付かずに死ぬのだが、帝都の真ん中に空いた大穴にでも落とされない限り、そうなることはない。だが今は、精神が先に折れてしまう。
代わりに人格を奪い取った“獣”は冷徹な魔神として、辺り一帯に死を振り撒くことだろう。ある程度の時間は要するけれども、敵戦力を削り切ることはできるに違いない。
重なる死体が山を築き上げて――。
赤くなった屍の山の上で、彼は何を思うか。
災厄の悪魔として、君臨した後に――世界は彼を赦すはずがない。邪悪な魔ノ王として、呪われ続け、人類と敵対する。
そうして、世界は終焉に導かれるのだ。
これは過剰な妄言ではなく、ある者が視た最悪の未来――そのひとつである。
その未来を具体的に認識していないにも関わらず、意識的にそうならないように動く者もいれば、そうなるように仕向けている者たちもいる。
すべての瞬間、その一瞬一瞬の選択によって未来は造られていく。
この時を、注視していた影がいる。
地上で最も地獄に近い地で、己が手を汚さずに成り行きを、ただただ見ている者たちの内、一人が気付いた。
「あれは……」
暗がりで溶け込むような色のローブで顔を隠した老齢のしゃがれた男声。発動する前に、気配を感じ取ったその男は目を細めた。
闇に潜む者たち。複数名いるのは間違いないのだが、正確な数が把握できない。認識を阻害する“何か”を使っている可能性が高い。
「――!!」「――!?」
立花颯汰を奇襲を仕掛けた怪人たちが声にならぬ叫びをあげる。
颯汰の右腕に巻いた赤い布が独りでに動くだけに飽き足らず、膨張し始めたのだ。
漆黒の装飾たる鎖に囲われた、煌めく海の青を思わせる霊晶が輝いた。
鎖は外れ宝玉が強い光を発する。
それを、膨張と称するほかない。
質量を無視して巻かれた腕よりも太くなった赤い衣――その異形に、怪物たちの一部が動きを止めた。様子を見る者と、己は恐れなどないと鼓舞するように吠えた後に動き出す者と分かれる。
脈動する赤は、膨張を続け――爆けた。
実際に爆発が起きたのではなく、腕を包み込んだ赤い布が形状を変え、血の槍となって拡散する。颯汰は驚きつつ咄嗟に、頭の上に置くように右腕を掲げると、その右腕を起点とし、半径三ムート強が領域となり、侵入者を針串刺しとなる。飛び掛かっていた怪物たちは顔を庇うようにしたが腕にニ、三メルカン大の穴が開いた。腕だけではなく太ももや腹が穿たれ、激痛で悲鳴をあげた。
仮面の奥で颯汰は驚いて目を丸くしている。
ダメージを受けて逃げ帰った者の他、攻撃を試みる敵がまだいたのだが、突っ込んだ途端に針が伸び、対象を刺突する。回避しようにも急に直角に曲がり、自動で追尾までする。
穴が二か所開いた囚人女がヒステリックに叫びながら闇に消え、直前で回避行動をしたため左脇と脛は擦る程度で済んだのだが、手の甲にぽっかりと貫通した元騎士の男は消え入るような声をあげながら退避する。
颯汰は掲げた右腕をじっと見上げる。手首の下辺りにある霊晶が光を放っていた。
そこに意識が一瞬向いたとき、敵対者はまだまだ襲い掛かる。物量で勝負と判断したのだろう。現在身動きを封じたソフィアで有効な戦術だと理解し、それを実行する。
自然界において――黒の濁流に、ヒトなど成す術もなく呑み込まれてしまう。
しかし、氾濫する川の如き敵の軍勢に対する防衛機構が、まだあったのだ。
「きゅぅぅううううッ!!」
幼くとも竜種の王者の血を引く者。
背後に近づく影に吼え、その小さな翼をはためかせると、颯汰の後方に烈刃となった竜巻が発生する。
仮面の下で主人公にあるまじきアホ面を晒す。
家族たる颯汰の危機に、シロすけが激昂したのである。不殺で動いていることを理解していたが、さすがに我慢の限界であったのだ。
颯汰の背丈どころか、凄まじい竜巻は柱となって屹立し、都全体を大きく螺旋を描いた上の床にまで届いた。白煙は巻き込まれ、風の柱は三つとなってじわじわと広がっていく。
巻き込まれれば大型車両であろうと浮かび上がり、吹き飛ぶだろう凄まじき風。
闇に隠れた怪人たちは目を剥き、背を向けて逃げ出す。暴風がすべてを曝け出し、命を奪わんと引き寄せようとする。
吸血鬼化したヒトだった者たちは、必死な形相で、逃げ惑う。苛烈な攻めの姿勢が嘘だったかのように、己の命を一番として退避する。
それこそ生命のあるべき姿でもある。
得体の知れないものや、見るからに危険だと判断できるものに対して、敏感に反応を示すことは自然であり、造られた怪物たる彼らも元は自然の生命であったのだ。
『――…………!』
颯汰は周りの様子を見て静かに考え出す。
犯罪者やら元騎士、傭兵、適合率が高かった一般人や貴族など、九人で構成された精鋭までもが、突然伸びた恐怖の朱槍にやられ、さらに発生した竜巻に恐れ慄き、他の怪人たちは距離を取ったままである。
それを見て“気づき”が生まれそうであった。
あと一歩。
地獄の中で、霞んだ中で、閃きがやって来た。
颯汰たちのやり取りをずっと眺めていた一団。
若い生意気そうな少女の声で毒づいた。
「――チッ、邪魔が入ったか」
赤い針のことではない。
荒ぶる風の柱でもない。
女は闇の中、見上げて呟く。
それは爆ぜる音と共に風を切って直進する。
突き抜けるように、闇を切り裂く流星の如く弾丸が、襲撃者を射貫く。
暴風によって闇が払われた中、逃げ惑う怪人たちの中にいる異物たち。
囚人や元騎士で構成された九人の精鋭――の背後に潜む別格とも呼べる鎧装者。安直に“吸血兵”と呼ばれた旧式の潜水服のような見た目をした者……その内の一体の右肩から左腰部を貫いたのは弾丸。
三方向、死角を含めた奇襲とその人員ですら本命を隠すブラフ。
侵入者を滅ぼさんとした敵方の切り札が潰される。
予想外の抵抗に驚き対応できなかったその隙に、差し込まれる一手。
銃声、更にけたたましい空を裂く音。
「……くそ、めが、かすむぜ……」
颯汰がいる場所が地上の下層部分に近い。そこから遥か上、百ムート強の最上層付近から、男は狙撃した。
左目の上、額から血が止めどなく溢れて遮られながら、祭りで紛れるために用意した仮装の白いキザな衣服も、泥や埃、さらには紅で染まっている。獣刃族の雪の民にして、かつて皇帝に仕え、今や叛逆者となった男の名はレライエ。その傍らには、複数の亡骸。
狙撃銃のスコープから様子を見て、敵を撃ち抜いたことに安堵の息を漏らす。
身体中が痛み、既に限界であると悲鳴をあげていた。
満身創痍のレライエは、立っていられず尻餅をついた。切り裂かれた上着の上から、腕の傷口を縛った布の白を、赤色の領土を増やした。
霞んだ視界。
襲い掛かる外敵、今しがた撃ち抜いた吸血兵の同型を複数体を斃し、時には逃げながら罠にはめてなんとかやり過ごせた。
死体の数々は、己が生き残るために生み出した犠牲――そんな風に割り切れなければ、足元を掬われて死んでしまう。
子どももいた。女もいた。かつて共に生きた者もいた。それでも、躊躇っては間違いなくレライエ自身が死んでいた。
レジスタンスの仲間たちは、きっと全滅している。革命のために立ち上がった当初の主要なメンバーに会わせる顔がないが、再会して責められる前に、成すべきことがあった。
動くことを拒む身体を、過去に受けた屈辱の記憶を怒りに焼べて、奮い立たせる。足りない分は小瓶の薬品を使う。密閉された小瓶に針が付いていて、それを血管に注入る。ドス黒い液体で、劇物に近いそれを、薄めてなんとか人体での使用が可能となった薬剤だ。後遺症が残るかもしれないが、それこそ躊躇っている場合ではない。
構えて、狙いを定め、第二射を放つ。
黙っていたら揺れ動く身体。視界ははっきりとしない。銃を支える手の感覚もほぼなく、力が入らない。二脚は破損して失くなり、重症で銃を構えても支えがなければまともに撃てる状態ではないのを、その場にあるものを使ってカバーする。
螺旋状に展開する街の、内周の柵を脇で挟めるようにし、腕の傷に巻いた包帯を柵の間に通して噛み、下方向に銃を固定してみせた。
一撃で敵を無力化し、さらに敵方の動揺が強まる。自分たちよりも強い味方が、何もせずに撃ち抜かれて膝を突いた姿は、強烈に映ることだろう。さらに彼らの脳裏に刻まれた――皇帝の暗殺の光景。帝都中の照明を落とし、自らに集中させて撃たせ、復活を遂げて信仰を強固にした計略はニヴァリスの住まう民に非常に強力であった分、トラウマを植え付けるのに相応しい出来事であった。
音が鳴り、撃ち抜かれたら死ぬという恐怖を、知ったのだ。
再び銃声が響くと、狼狽えた全身鎧の吸血兵から、鎧の中を満たしていた液体が噴き出して倒れ込む。勇猛果敢に颯汰を襲いに動き、針を手斧で弾きながら接近する吸血兵も、響き渡る音の後に、手から武器を落として突っ伏した。
レライエが、援護射撃を続けようとしたとき、手から銃弾が零れて落下する。「あっ……」短い声をあげた後に、目を瞑る。足元に転がる鞄の中に残弾は無い。軽く舌打ちをして柵から離れて座り込んだ。武器として、大切な品である弩はあるが、これでは援護にも心許ない。
貴族がよく吸っていた煙草を取り出したが、火種などない。
視野がどんどん白く、歪んでいく。
真似して煙草を口に咥えてみても、何も起きない。
だらりと下がった片腕に感覚はもうなかった。
目を瞑り、どこか満足げに一笑し、息を吐いた。
下の光景はもう視えない。
これから何が起こるか、この国がどうなるかも、何一つ闇に隠れて見えなくなった。それでも、どこか柔らかな顔で男は独り言を口にする。
「おう、坊ちゃん……いや、ヴァーミリアルの優しき、王よ。迷う、な。屍を踏み越えることに、ためら、うな。――それでも、もし、救うなんて…………」
男は座ったまま項垂れて、沈黙する。
その顔は安息に満ちていて、眠るように――。
転がった弾丸が、どこまでも落ちていく。
音は、もう届かない。
協力者のお陰で、颯汰は生き延び、結果的に世界の寿命が延びることとなる。
そして、虚空を閃光が駆けたおかげで、颯汰は確信をもって“解答”に辿り着く。
彼らを殺すのでもなく、かといって救えるような都合のいい手段はまだ見つかっていないが、別の選択を見つけた。
問題を根本的に解決するのではなく、単に先送りにするだけに過ぎないものだ。
それでも、この選択が――最悪を回避し、よりよい未来を創るものである。
少なくとも実行に移さんとする颯汰は、胸を張ってそう言える。
“闇”に囚われながらも、重なった意志により、導き出された答えがあった。




