102 補うもの
もう目の前まで呪いの濁流が迫っていた。
もはや屋敷は闇に呑まれ、この倉だけが残るかたちとなる。
厭悪と怨恨に満ちた黒の泥はうねり、生者をすべて逃がさないという勢いであった。
『――……!』
颯汰が纏う装具たちが、独りでに動き出す。
左腕部以外、颯汰から離れては、屹立する汚泥の海に向かって飛んで行った。
白銀の光に包まれた装具は泥の前に張り付くと、エネルギーが迸り、黒泥のこれ以上の進入を拒む防壁となった。どうやら、ずっと同じようなことをやっていたため、颯汰はしばらく“獣”と交信ができなかったようだ。
『防ぎ……、いや、まずい。勢いに負けてるぞ』
周囲に飛び、さらに装具自身がバラバラに、いくつのパーツに分かれながらカバーして、泥を抑え込んでいたのだが、じわりじわりと押されているのが見て取れる。
根本的な解決にはなっていなかった。
時間は残されていない。
このままではすべてが呑まれてしまう。
「……これは、大ピンチ?」
結晶物に保護されていたソフィアが目を覚ます。おそらく今の方が悪夢のような状況だろう。
『おはよう! ただ今、大大大ピンチ!」
ソフィアの安否やらを確認する暇すらない。囲まれて逃げ場がもう無いのだ。
どうする、改めて周囲を確認しようとする颯汰に、ソフィアは静かに天を指して言った。
「見て。あそこ」
女の言葉通りの方向を颯汰は見る。
『あれは……、花?」
空の向こう――暗黒の中、燦然と輝く白い花が咲き始めた。
一輪の花が開き切ると、眩い光が溢れる。
距離があるせいでなんの花か判別つかなかったし、すぐに開き切って光の円となった。
気のせいか、花びらの一枚だけがわずかにくすんでいるように見えた。
『あれは……?」
「出口……、だと思う。たぶん」
『……なんであんなところなんだよ。…………あ、上から落ちてきたからかぁ」
危機的状況と理不尽。それらに対する怒りに燃えたが、すぐさま冷静に答えを見つけ出した。
ここは泥の海の水位が下がり、底に隠された思い出やら夢やらが具現化してしまった領域である。
光のゲートは泥に侵されていない。このまま黒泥に飲まれれば、うまくいけば出口まで行けるかもしれないが――凄まじい激痛に耐えられる自信はない。なによりソフィアが泥に取り込まれれば、今までやってきたことがすべて無駄となる。
『どうにか、あそこに行かないと……――ッ!?」
身体がふらつき、視界がぼやける。
颯汰は膝を突いてしまう。息を切らした颯汰にソフィアが心配そうに声をかけた。
「っ!? どうしたの!」
『どうやら、魔力が……」
颯汰が呟きながら、青白くなった顔を上げて今度は彼が指をさした。
周囲の泥を抑え込んでいた遠隔兵装から放たれる光が弱まっているのが見て取れる。
『そうか、この領域に入ったときからずっと抑えていたわけだもんな……」
左腕から音声だけが響く。
瘴気の顎を形成する余裕すらない状態であった。
『警告。残存魔力量、大幅に減少――。
推奨:すみやかな脱出行動――。』
『そのための魔力がないんだが……?」
半ギレで返すが、颯汰の声に勢いがない。肩を上下させ呼吸が荒くなっていた。そこで“獣”は取引を持ち掛けてくるのであった。
『承知。
脱出案の提示――。』
『あ?」
『記憶情報の一部を魔力へ転換すれば、脱出に充分な魔力を確保可能――。
推奨:記憶情報の譲渡――。』
機械的なアナウンスで告げる。
内に潜む“獣”の本質が垣間見えた。
『俺の、記憶をか……?」
『肯定――。』
颯汰の脳裏に閃光のように記憶が駆け巡る。
自分の中にいる正体不明の存在は、何を糧として力を得ているのか。迅雷の魔王と戦った際、何を燃やしたのか。王都で龍脈と一緒に何を吸い上げて飛翔したのか。無償だったはずがない。代償を払わねば、力を手にすることはできないのだ。
「なんなの、一体、何を言っているのそれは?」
誇り高く、恐れを知らない騎士の模倣を続けていたソフィアが、恐ろしさと理解できなさに、なんとか絞り出したような声を出す。
『どうやら、魔力さえあれば行けるらしいんだけど、……その魔力を確保するために俺の記憶を焼べる必要がある、みたい」
「みたいって、……え? 何、なんなの……?」
信じられないものを見たような目で颯汰を見つめる。颯汰はその目線に気づかぬまま、左腕との対話を進めた。
『ちょっとだけでも、いいんだよな?」
『肯定――。』
その返答を聞き、颯汰は右手を自分の顎に当て少しだけ考えて、ソフィアの方を見た。
『…………、寝起きで悪いんだケドさー……、ちょっと魔力、わけてくれない?」
「…………な、なな……!? えっ!? 何なの!?」
怒りだすソフィア。
怒りで顔を赤くしたのだと颯汰は思った。
『? ……あ、あぁ。安心してくれ。俺は魔力の譲渡による拒絶反応とか起こさないから。死んだりしないよ」
体内魔力を他人から受け取るのは非常に危険な行為であると、颯汰は何度もやった後に教わった。自分の体質ではなく、“獣”が体内で都合よく変えるのだろう。
それでも、躊躇う姿勢を見せているソフィアに対し、頭を掻きながら『無理強いはできないか」と呟いた。
『警告。汚染域なおも拡大――。
これ以上の保護は不可能――。
早急な記憶情報の譲渡を推奨――。』
『……、しょうがないか」
急かす“獣”であったが言う通りである。黒泥は建物を既に呑み込み、景色を塗り潰している。
記憶情報の燃焼を承諾しようとする颯汰に、
「ま、待った!!」
ソフィアが声を上げて止めに入った。
「私は、……今ですら、記憶はきちんと戻っていないし、戻すことに不安があるけれど……」
語りだす乙女。目を覚ましたソフィアの中で何が起きたかか颯汰は理解し、少し安心していた。彼女のすぐ真横に、溶けた夢の残滓が見えた気がした。
「どんな想いで魔王が、身体を分けてまで記憶を封じたのかまでもわかっていない。……本当は、消してしまいたかったのかもしれない。でも、君は違うでしょ?」
ここからソフィアを助けて共に脱出するために、颯汰の記憶を焼却すると言ったことに、ソフィアは少し恐怖を覚えた。さらにそれをあっさり受け入れる気でいる颯汰に対し、若干の苛立ちも感じた。ソフィア自身、自分が他人にとやかく言う立場ではないと重々承知であった。だが颯汰が自分に魔力を欲しいと言ったことから、記憶を要らないものとして――逃げ出したいから捨てたいわけではないとソフィアはわかった。
『……そりゃ、まぁ、消えないならそれに越したことはないかな」
「……………………、わかった」
『?」
ソフィアの沈黙と、吐き出した息も長かった。
颯汰は熱量と覚悟の差から違和感を覚えた。
紅蓮の魔王とは契約による“繋がり”にて、遠隔で魔力を送ることは可能である。だが通常であれば、他人に自分の体内魔力を流すには、対象の肉体に直接触れる必要がある。
ゆえに、この接近に対し颯汰は何も疑問を抱く必要性は皆無なのだが、半歩後ろへ足が進む。
鬼気迫る表情に、上体がわずかに後ろへ傾く。
颯汰自身の意思とは無関係に。
「……何? 自分から言って嫌なの?」
『え、いや、そうじゃ、ないんだケド……」
圧にやられて、身体が逃げ腰になっている。
怒っているようにも見えるが、先ほどまでの明確な怒りとは違うとアホの颯汰くんも気づけた。
元より泥の洪水に囲まれて逃げ場などないのだが、さらにソフィアに肩を掴まれ、颯汰は身動きが取れなくなった。
見下ろすと目と目が合う。
颯汰は当然目を逸らす。
ソフィアは時折目線が下に向いたりしながらも、射貫くように颯汰を捉えていた。その顔は赤く、照れていると鈍い輩でもわかるはずだ。
危機的状況を打破するためには、こうしなければならないと自分自身に言い聞かせるソフィア。
吐く息の静かな音すら耳に届く距離。
下手すれば、互いの鼓動の音まで聞こえるのではないかとさえ思える。
ソフィアは、肩に置いていた手を、颯汰の両頬に回す。普段ならば目より下を覆い封じるための装甲があるのだが、今や生身で熱が伝わる。
びくりとする颯汰に、ソフィアは言う。
「う、動かない……!」
『あ、ぇ、ぁ、はい」
女の声の震えとその意味に気づかぬまま、命じられた通りにビシッと動きを止める。……否、この男は気付かぬふりをしていた可能性が高い。少なくとも、心のどこかで勘付いていたはずだ。
真っ赤になった顔。
瞳に燈る確かな熱。
つま先で立って目線が近づき、互いの呼吸の音が耳に張り付く距離。だが、それ以上に内から出る音が大きくて、塗りつぶすとまで言わないが、外界の雑音まで覆い隠してした。
その息遣いに心が揺さぶられる。
何か決定的な相違がある。
だが、残された時間は無いのだ。
などと、無様に言い訳してしまう。
頬を掴んでいたソフィアの手が再び肩に下がり、少し屈めと口に出さないで命ずる。
押された颯汰は、気持ち少しだけ屈む。
ここまでされて何が起こるか予想できないとは、さすがに言い訳が苦しいだろう。
再度、目と目が合う。
呼吸がぶつかり、相手の匂いすら届く距離。
思わず息を止めた颯汰に、ソフィアは言う。
「いくわよ」
何がとは、問わなくてもわかる。
本気で拒めば逃れられるはずだ。
『あ、え、あ、ちょっ……」
それでも――、
狼狽えながらも――、
重なり合う。
溶けそうなほど柔らかな感触。
触れあう度に絡みつき、感情が揺れ動く。
熱情は次第に慈しみを生み、慈しみは愛となる可能性を有している。
今、生まれるのはそれと同じか、異なるだろうか。
今はただ、足りないものを補うためだが――。
◇
霊山の中腹にて起きている異変は、これから起こる惨事に比べれば、然したる問題とはならないだろう。
暴走する魔王と、それを抑え込むふたりの勇者が上空で凄まじい戦闘行為を続けていた。
凍てつく氷による魔法攻撃は、加速度的に強力になっていく。
それに対応すべく紅蓮の魔王は、光の勇者としての権能を活かして立ち回りながらも考えていた。
――これは、まずいな
押されているわけではない。
むしろこの魔神が本気を出せばすぐに終わる。
挙げられた問題はふたつ。
ひとつは敵の魔王である女の様子がおかしくなっていること。最初からおかしいが、輪にかけて狂い始めたのだ。
あまり文字に起こしたくない、火を吹かんばかりの毒に満ちた言葉。さらにともに放たれる猛撃であったが、呪詛の文言だけが勢い失せたのだ。
攻撃こそ、油断ならない殺意が込められたものであり、さらに規模も速度も破壊力も増している。精神を削る言葉の暴力は完全に止んだわけではない。非常に単調で、言葉回しも語彙も感じられないものとなっていた。
『精神が汚染され始めたか』
紅蓮の魔王が呟く。
どうやら残された猶予はあまり無いらしい。
加えてもうひとつの問題だ。
「…………!」
風のボードに付いた浅葱色の氷刃が回転して襲いくる。それに乗る闇の勇者は、さらに不可視の双刃を振るい、吹雪の中に混じる悪意に満ちた魔法を切り刻み、邪悪を払うべく攻め立てる。
氷の矢が霰のように飛来するのを、リズは回避行動ではなく突っ込んでいく。身体を横向きにして、当たり判定を最小を保ちつつ攻撃を掻い潜り、身を守るための障壁ごと氷の魔王を切り裂いた。
憎しみ囚われた怪物が嗚咽を漏らす。
紅蓮の魔王が操る炎系統の魔法すら通さなかった障壁を、本体ごと斬った。上空で流れた鮮血は、荒れ狂う吹雪と共に流されて散る。
恨みがこもった絶叫が迸る。黒く汚染された氷の刃が、機関砲のようにリズを襲った。
自身の唯一の足場である風のボードを、リズが蹴って前方に飛ばす。
連なる氷の弾丸となった氷柱と、模倣した浅葱色の氷の刃とぶつかり合った。
ガリガリと凄まじい音を上げる。
その突飛な行動に一瞬だけ呆気に取られた女魔王の元に、瞬時に生成した風のボードに乗ってリズが強襲する。
女魔王の攻撃を捌ききれぬと咄嗟に判断し、注意を惹くために自ら足場を飛ばしたのだ。そのあとに自分か、味方である紅蓮の魔王が追撃入れられると踏んでの行動であった。
氷の魔王が生成した氷の長剣とリズの不可視の星剣がぶつかる。すぐに双鎌の刃にて氷の長剣ごと粉砕するのだが――、
「……!」
長剣が破裂する。雪煙のようなもので視界が奪われた。攻撃性はないが爆ぜた範囲が広い。危険を察知してリズはすぐさま後退を選ぶ。しかし、己の身体ではない風のボードの上で器用に素早い後退ができなかった。
白煙から脱出した途端、その後退に合わせるようにぴったりと氷の魔王がついてきた。
顔こそ見知った相手であるが、この感情が剥き出したような恐い表情は初めて見た。
その直後、リズの腹部を抉り、貫かんばかりの一撃。
野獣のような叫び声をあげつつ繰り出されたのは下から持ち上げられるようなアッパーカット。
常人であれば、これだけで死に至る。
そんな一撃を食らい、リズは中腹の雪原に落ちていった。
その様子を見ながら、数瞬の間のあとに氷の魔王は追撃を敢行する。
作り上げた氷の宝剣は、ヒトの身を優に超える大きさであった。
『――沈めっ!!』
落下する宝剣。
流れる雫のように真っすぐとリズの元へ。
だがそれを見過ごすわけがない。
風と焔火の砲弾がふたつ、剣を爆砕する。
忌々し気に氷の魔王が見下ろす。
竜種の子どもではなく、憎き怨敵の方を睨み付けていた。
『さて、いよいよまずいな』
状況が悪いわけではない。
苦悶の声すら上げられないリズを心配そうに横目で見る紅蓮の魔王。
彼女の容態のことではあるが、先ほどの腹パンを食らったことではない。リズは勇者としての本能に負けそうになっている。
立花颯汰が殺すなと命じたのを、凄まじい剣戟と魔法の嵐の中で、紅蓮の魔王は聞き届いていた。
なんとか立ち上がったリズ。心配そうに声をかける友人たちの言葉も届いていない。
歯を食いしばっているのは痛みによるものだけではないだろう。
自分自身とも闘っているのだと紅蓮の魔王は理解している。
――まだ、理性で殺さずの命を守ろうとしている。少年、そろそろ戻って来てもらわないと困るぞ
リズの方も肉体ではなく、精神的な意味で限界がきている。彼女たちを止めるには、立花颯汰ではなくてはならない。紅蓮の魔王が静かに、祈るように契約者を待つ。
その祈り――願いはすぐに叶った。
「! きゅっ!! きゅう、きゅうきゅう!!」
まず先に、シロすけが鳴いた。そのあとにリズ、紅蓮の魔王が気配を感じて振り向いた。
雪原に広がる黒い水面から、響く。
『第四拘束、限定解除――!!』
新たな力を手にし、“獣”は再誕する――。




