101 我欲
遠慮がちに引いた小さな腕を、颯汰は掴んで引き上げる。
黒い澱んだ滓の山から出てきたものは、小さな小さなヒトの姿を模った。
若いというより、かなり幼い。
くすんだドレスに袖通す童女。
人間の年齢で言えば七か八ぐらいか。
死を予期して嘆く少女の妖精を思わせる。
まだ身体の構築が不十分で、足の先は山に埋もれたままで、身体中は汚れている。
それでも颯汰は迷わず、彼女の手を取った。
「おはなしって……?」
涙目の童女は怯えている。
ヒトを蠱わし嗜虐心をそそる、あるいは加虐心を芽生えさせてしまう何かを有していた。
一瞬真顔になる颯汰は、鳴りそうになった生唾を飲む音と、頭に浮かびかけたものを追い払う。
――なるほど、魔女か。いやなものすべてを押し付けられた存在
妙な納得をしているが、それを彼女たちに悟られた瞬間にすべてが水泡に帰す。悟られぬようにわざとらしい咳ばらいをして、仕切り直す。
左腕から予備の外套を取り出し、童女に被せた。
『お話か。……そうだな。簡単なお願いをしたかったんだが……。今、君が地上でどうなっているかわかるかい?』
「…………、つながっている。だから、わかる」
魔女はさらにウェパルと融合を果たし、憎悪の限りを尽くして紅蓮の魔王を殺そうとしている。
だが、その憎悪すら与えられたものであり、正しい記憶もなく、欠けたものを求めるように暴れているに過ぎない。
ここは、黒泥に沈んだ無明領域の汚染を無理矢理剥がし、精神が具現化している。
今、主人格を担う童女は(少しだけではあるが)外の様子を知覚している。ただし実感の無い夢のような感覚であるが。
『……倒したら、気分は晴れそう?』
憎き怨敵――紅蓮の魔王。
自分のことなのに、理由もわからない。
ただ、与えられた感情に沿えば、この内に燃える熱くて暗く冷たいものが鎮まると思っていた。
「……、わかんない。どうして。どうして、どうして、どうしても、わからない。にくいはず、なのに……、わかんない」
双眸に涙が溜まるのが見て取れる。
『ぜんぶ、記憶を取り戻したとき、……その答えが、見つかるかもしれない』
泣いてる少女の頭を撫で、目線を合わせる高さになるよう颯汰は屈んだ。
続けて、横目で立ち尽くしている女を見やる。女は、精気が抜けたように白い顔……元より白くてきめ細かい肌をしているが一層に白くて病的に思える顔色をしていた。
倉庫の床に突き刺した軍刀――心の支え無しには立っていられないようだ。
颯汰は何も言わなかったが、彼女はきちんと何を求めているのかを理解してしまっていた。
――……なんて残酷なヒトだろう
生っ粋なサディストだ。先ほども冬の魔女の残滓――本体に対し危害を加えないと言いつつ、彼女の心を責め立てた。私たちに辛い現実を突きつけた。甘言と鞭を使い分ける、酷いヒト……、などと内心で酷評しつつ、支えの刃を引き抜いた。
軍刀は霧散して光に溶け、女はじっくりと一歩踏み出していく。
その様子を見て颯汰は感謝の意を、小さく頭を下げて伝える。口は既に《デザイア・フォース》の変身で装甲に覆われているためだ。
「でも……。わたしは、すてられて……」
颯汰の言葉に、残滓の童女はぼろぼろと涙を零す。自分は拒まれた、切り捨てられたものなのだと訴え出す。
しかし、颯汰は心配ないと手を握った。
『そのとき、どういう答えを出すかは、俺にはわからない。それに紅蓮の魔王が何をやったのかも実はよく知らないんだ。だから今は俺からは正しい答えを示してやれない』
女は、一歩ずつ近づくたびに知っていく。
ニヴァリス帝国の魔王であり、彼女こそ自分たちから切り離したい感情を背負った存在であると。彼女がまだ不定形で溶けているせいか、近づくたびに粒子が自らと融け合い。取り戻していく感覚があった。
――あぁ、どうしようもなく、あの子は、わたしたち、わたしなんだね
足を止めたい、何度が逃げ出したくなったが、ある程度近づいて自覚を認識した頃から、嫌悪感や吐き気などの気持ち悪さは和らいでいった。
ただし、やはり恐怖だけは残っていた。
『大丈夫だろう?』
残酷な青年の問いに、女は薄く笑う。
「ふふ、だいじょうぶに、見えるの?」
『……』
下手にフォロー入れても無駄であるし、ここは嘘でも信用していると言えばいいところなのだが、颯汰の舌先はそこまで器用ではなかった。
「ほんとう、酷いヒトだよ君は……」
そう静かに独り言ちる女は、ゆったりでも歩み続けていう。
「でも、ボクは……、わたしは、怖いよ、怖いんだ。受け入れたらきっと――……絵本に出てくる、邪悪な魔女になっちゃうんだろうなって気がしてならない」
切り捨てた感情と融合し、記憶を取り戻したら――……それこそ、きっと自分は自分で無くなると思ったからこそ、魔王は自分から分けて、居ないモノとして切り捨てたのだ。
「ほんものの、バーバヤガに、なる……?」
「……許せない気持ちが、本物に変わる。過去の魔王が何を思って、私たちに分けたのか。それを考えると……やっぱり恐くなる。それでも君は、私たちはこの子と向き合えって言うんでしょ?」
『……』
不器用な青年は、その問いに答えない。
彼女の言った通りなのだから。
今ですら外で暴れている魔王はソフィアという人格が欠けている状態だ。また一つ融合する相手が増えると、どうなるかはわからない。だがこのままでは事態は悪化の一途を辿ることだろう。
その行為で、簡単に好転する問題ではないが、それでも、颯汰はそこに活路を見出したのだ。
分の悪い賭けであっても、これしかないと。
颯汰はただ一つ、言える言葉で返す。
『……許せないなら、それでいいんだと思う』
「え……?」
『別に、許さなくてもいいだ。憎いなら憎いままでいい。よくあるだろ、「謝られたり、反省の態度を示されたりして、周りが許してやれよっていう空気感」そんなものに流されなくていい。お前は、お前の心のままに選んだっていいんだ』
集団の圧にやられ、“許す”という選択を当人意思とは関係なく強いられる場面がある。
「ここまで謝っているんだから許してあげなよ」と周囲が勝手に決めようとするアレだ。場合によってはあたかも被害者と加害者を入れ替わって見える厄介な場面となる。意図して起こした問題かの有無で、出る答えは変わるが、基本的にそういった圧をかける側は加害者の味方であり、許しを得る事で加害者を助けたという悦に浸れる。
流される必要は無いと颯汰はいう。無論、許さないでいいとは言っても、法を破るような報復は現代社会で認められていない。また人間関係に余計な軋轢を生む可能性が非常に高いので、我慢するのが大人のやり方ではある。
だけど、その胸に秘めた想いまで、洗い流す必要は無いのだ。
『確かに、場合によっては今より辛くなるかもしれない。記憶を無くし、さらに分離させたくらいだから。それでも――』
向き合えと強いる理由があった。
『――……お前たちは、何だかんだ面倒見がいい優しいやつだったろ。……だから、この願いを、聞いてくれるんじゃないかと思っている』
転生してクルシュトガルに現れた魔王たちは、誰しも強い願いを――利己的な欲望を有している。
例え一国を治めてそれで満足したように見えても、いずれ版図を広げようとする。
もっと――。
もっと――。
満たされないものを永遠に求め続けてしまう性。
そういった、ある種の呪いを有する。
「ねが、い……?」
しかし、このイレギュラーな存在たる青年は、他の魔王たちに負けないほど、利己的な願いを抱いていた。
大きく息を吸い、目を瞑って吐いた後に言う。
『俺に、協力してくれ』
昔の立花颯汰――日本で学校に通っていた頃であれば、他人を頼るなんてことはできなかった。
『俺は、元の世界に帰りたい。いや、帰らなきゃいけないんだ……!』
信念でそうあったわけではなく、他人を恐れていたゆえである。だが、そんな颯汰が他人の顔を窺う世界に戻りたいと願う理由はたった一つ。
膝を突き、改めて童女の手を取る。今度は両手で包み込むようにがっしり、とだ。目を逸らす幼子相手に、真剣に颯汰は声をかけた。
『そのためには、紅蓮の魔王の力も要る。そして、お前たち……ひとつとなった魔王の協力だって必要なんだ!』
白い病室が脳裏に浮かぶ。
戻らなければならない。
絶対に何を賭しても、何もかも捨ててでも。
『俺ひとりじゃ、きっと届かない。だから頼む、お前の力を貸してくれ……!』
戦う力を手にしても、魔王と勇者という別格とは本来は勝負にならない。
颯汰はそれを痛感していた。
颯汰は膝を突き、左手で少女の手を掴んだまま、息を切らしながら懸命に近寄って来た女へ、今度は手を伸ばした。
地上で暴れる氷の魔王――彼女の憎悪に理由はあっても、あくまで与えられたものであった。正しい記憶はなく、他人の夢を見ているような感覚のまま今も地上で紅蓮の魔王たちと戦っている。
解き放って救う、もしくは復讐の無意味さを教え、矛を納めるように説き伏せるのがきっと人道ではあるのだが、颯汰は違う選択をする。
「…………ずるい、ひと」
己が目的のために、向き合えと言った。
「本当、残酷で、身勝手で、ひどいヒト……」
結果として、自分の大願のために他者の心を無理矢理、曝け出させてまで、やって来たこととなる。
人間とは誰しも自分本位で身勝手であるのだ。
そしてこれは謂わば、賭けである。
どう結果が転ぶかは定かではない。
ただこのままでは歪んだ魔王――真に冬の魔女となってしまうのは明白であった。
受け入れ難い感情と向き合わせ、ひとつにする。もしその切り捨てたものを、自分の嫌な部分であっても認めたくない部分であっても、受け入れたならば――きっと暴走することはない。
『頼む。知恵も力も、貸してほしい!』
そうすれば、地上の無益な戦いも終わる。
即ち、融合して暴走を止め、紅蓮の魔王を殺すなと間接的に言っているのだ。
『頼む……!』
さらに「正しく認識した今ならば、お前は自分を抑えられる」と口にはしてないが、非常に重い期待を押し付けてきている。
なんとも身勝手な男だろうか。
彼女たちの心に浮かぶ、罵倒の言葉いくつもあった。
その申し出を聞き入れる道理などない、ときっぱり否定だってできた。
「ふふっ……」
長い沈黙の後、女は小さく笑う。
「…………はぁ。弱ったな。ボクは、君の期待を、裏切れないようだ」
女は左手で颯汰の手を取り、右手で童女の方に手を差し伸べた。
「あーあ……。たぶん私たち、経験が足りないんだろうなぁ」
声音が変わり、調子も変わっていた。颯汰は彼女が何を言っているのかわからなかった。
そして、目の前に差し出された手に、童女はおそるおそる手を置こうとする。
それを急かすように、今度は女が童女の手を下から取った。驚く童女は女と顔を見合わせる。
「……いいの?」
「うん。あなた、わたしだもの。ここまで近づいたら、もうわかるよ。あなたはわたしの一部。怖くて捨てたけど……、本当はきっと、切り捨てちゃいけなかったんだ」
童女は微笑むと、身体が溶けていく。
「……ありがとう」
童女は黒くてきらきらと光る粒子となり、女へ注がれていった。
今零した涙はきっと、喜びに満ちていた。
女は――ウェパルは、胸に手を置いて言う。
「おかえりなさい……」
自分の中へ帰っていった感情に、静かに語り掛けるように――……。
『…………、どう、――』
颯汰は立ち上がって彼女に何か変化が起こるかと見守っていた。おそるおそる話しかけようとしたとき、それは落下してきたのだ。
天井を突き破って落ちてくる。
それは青い氷のような宝石のような結晶物。非情に大きく、ヒトがまるまる一人はいる大きさで、その中に、琥珀のようにヒトが埋まっていた。
驚いて声を失う颯汰であったが、その中にいる人物を見てさらに驚くこととなる。
ソフィアがいた。
結晶内部に眠りつく女。
その結晶物の上部に引っ付いていた白銀の光りに包まれた黒い物体が、颯汰の右腕部にくっ付いた。今までどこかへ行っていた“獣”がすべて帰ってきたカタチとなる。
颯汰はウェパルを見やる。
「……えと、私たちが夢だとしたら、眠っている彼女こそ現実、あるいは本体というべき存在?」
当人であるからか、なんとなく知覚している様子であり、ウェパルは続ける。
「安心して。夢から覚めても、ここでのことは、ぜんぶ覚えているから――」
そういうと颯汰の手を名残惜しそうに離して、結晶物へ近づいていく。
今度はウェパルの方が光に溶け、淡い色の粒子となって結晶体の中で眠るソフィアへ――。
流れ込む光が結晶を中心に螺旋状に廻る。
光が内部に溶け込むと、結晶は砕け散り、中の女が目を覚ました。
その不思議な光景を眺めていた颯汰であるが、唐突に現実が突きつけられる。
『警告。領域支配率低下により汚染域拡大――。
環境維持困難と断定――。
保護対象:移送完了――。
提案:すみやかな脱出――。』
左腕から溢れ出した瘴気の顎から、なにやら物騒な音声アナウンスが流れたと思った矢先、倉庫の奥側の方から闇が溢れ出した。
『なっ、泥が……!』
入口も、もうすぐ飲まれるところまで来ていた。
不定形の黒泥はうねり、光無き世界を取り戻さんと狂おしい波濤が押し寄せる。
残された時間はもはや無かった。




