98 忌むべきもの
永久凍土に焔火の華が咲く。
その地を治めるニヴァリス帝国の管轄の――霊山たるペイル山に火柱が昇った。
山の麓にいる警備隊は、緊急事態を察知していることだろう。
通常ではあり得ない事態だ。
自然現象とは思えない。
敵の襲撃を想定して、近隣の帝都ガラッシアへ速やかに連絡がいった。
普段であれば、その連絡を受けた帝都側では起きた出来事の事実確認、被害の規模(あるいは判明した敵勢力の規模)から編成すべき騎士を選出し対処にあたる。だいぶ省略しているがさまざまな手続きがあり、ヴラド帝は好まなかったが、元老院との協議を行ってことにあたるのが常だ。
しかし、今となっては状況が違う。
帝都に“神”が降臨したのだから。
もはや、兵を出す必要がない。
一騎当千どころか、何十万の兵ですら瞬時に屠る魔王という存在を超越する機械仕掛けの神――それこそが《巨神》である。
今は万全となるために神の宝玉を搭載作業中ではあるが。
もはや、寝物語の怪物に震える日々は終わる。
報告を受けた、かつて皇帝であった機神は、ほくそ笑むことだろう。
転生者なぞ、試金石にはちょうどいい、と。
◇
空気が焼ける。
爆炎が包み込む。熱は表皮を焼き、骨も魂も何もかも溶かし尽くす勢いだ。
氷の魔法を十全に扱えなければ、今すぐにでも死んでいておかしくない。
息を吸えば肺がやられそうだ。
氷の魔王は怒り狂いながらも、どこか冷静に状況を俯瞰するように観察していた。
己の周囲を回転する氷の防壁と共に黒煙から出てくる。防壁は崩れかけ、ヒビの入ったものもある。等間隔に配置されていたと推測できるが、二枚ほど失っているのがわかる。展開したのは七枚。無傷なものはない。
爆炎の合間に、冷たい風が奔る。
憎悪に穢れた氷は部分的に黒ずんでいて、降り注ぐ雪も氷塊も呪詛に満ちている。
呪いの言葉に傷つきながら、紅蓮の魔王はその攻撃のすべてを捌ききる。
互いに苛烈な攻撃は止むことは無い。
止めれば、止めた方が致命傷となるためか。
戦わぬ者たちは目まぐるしく入れ替わり立ち替わる剣戟と魔法の応酬に、そう感じていたやもしれない。
紅蓮の魔王と氷を操る女魔王は旧知の仲であり、経緯もわからぬが、今は牙を剥く敵である。紅蓮の魔王にとって殺さぬ道理は無いのだが、そうすれば契約者がヘソを曲げる。そのため攻め立てはするものの、多少は加減の必要がある、と手を抜いていた。
素人目から見れば、紅蓮の魔王がそのような真似をしているとは気づきにくい。
しかし、互いに知るもの同士なうえに当事者。例え刃を交えるのが初めてであっても違和感や妙な隙から、氷を操る女魔王は思惑に気づいた。
『ャァアアアアアアアアッ!!』
憎しみを滾らせ、叫びと共に飛翔する。
殺したいほど憎む相手に、遊ばれていると知れば、怒りが増す。
大きく飛び上がる魔女は空で叫びを上げた。
まるで神話の怪物である。
耳障りな金切り声は呪詛に満ちていて、彼女から血のように滴っていた泥の水面が呼応する。
水面から黒い人形の兵が生まれ、女魔王は魔法を使い、氷の武具を生成し与えた。
剣に槍、戦斧にフレイル。纏うは鎧に大盾。複雑な飛び道具の類いはないが、武装するだけで脅威度は遥かに増す。……増すはずであった。
一度これらすべて灰に帰したが、その湧き上がる感情が、溢れ出る憎しみが止まらぬ限り泥の兵たちも無尽蔵に湧き続けるのだろうか。
紅い光が奔る一撃目で氷の防具ごと消し飛び、その屍を踏み台に汚泥の塊たちは殺到する。
身の丈ほどの大剣を軽々と振り回す大男であっても、攻撃後に縫うように放たれる氷魔法の礫や、地面から生えた氷霜の柱などによる援護が加われば、攻め入る隙が多少なりとも生じる。
それでも討ち取れないのは、練度と実戦経験の差もあるが、根本的にスペックの差が大きい。
紅蓮の魔王は炎熱系の魔法を操るため、氷魔法にある程度有利に働く。
加えて“光速”という力を有している。氷魔法と泥の触手や兵の連携は、決して緩慢なものではないが、目で追えなくなる疾さに対応するのは非常に難しい。
氷の魔王は手数で優位に立とうとするが、星の煌めきはもう一つ。紫の光が迸った。
文字通り、風に乗って不可視の刃を振るう。
割り込むようにして流れ星が氷柱を切り払う。
もう一人の勇者が参戦する。
氷の魔王は絶叫を止め、冷静に回避に努めた。
身体の廻りに氷の障壁を張り直したおかげで、追撃を防げたし、氷の剣で追い返せた。
行動を起こすたびに凄まじい絶叫をあげていた魔女は、その手に取った魔法で生成した氷剣を眺めている。やはり冷静さは失っていない。
『……“吸収”。闇の、勇者……』
氷の剣が欠けている。物理的に破壊されたのではなく、解かされたと理解する。
勇者――。
星の命を受けた守護者たち。
どの時代であっても、光と闇を冠した勇者が現れるのは、星を蝕まんとする悪意がいるためだ……とされている。
異物を殺す白血球の役割を担う。
光の勇者は“光速”、闇の勇者は“吸収”。
それぞれ与えられた力を使い、生を受けた母なる星から、異物を排除しにかかる。取り込んで無害化するのではなく、外敵を消滅させにいく。
風のボードに乗った闇の勇者――その風は飛んでいる竜種の子が魔法で作り出したものと思っていたがその考えを改める。
知識として勇者の特性は知っていたが、聞いていたものと違う。闇の勇者は、魔王が使う魔法を分解し、自身の体内魔力に変えそれを身体能力強化に使うはずである、だが――。
『氷の、魔剣……?』
手に持っていない。
風が形成する円盤に、六つの結晶が生成され、独楽のように風と連動して回る剣となる。
無効化、吸収した能力を行使している。
『闇の勇者の“吸収”はそんな芸当ができるはずが……。いや、実際に目で確かめなければ意味がない、か』
所詮、聞きかじった知識は当てにならない。
目の前で起きていることが現実だ。
頭に響く声や曖昧な情報に左右される前に、眼前の迫る脅威をどうにかせねばならない。
深く考える余裕など、戦闘中に無いのだ。
刃付きベイ独楽みたいもので突撃してくる闇の勇者。字面だけであれば愉快であるが、不用意に近づけばズタズタに切り刻まれるということだ。
遠距離での攻撃手段を持たないと判断し、勇者に合わせて魔女は攻め手を変える。
紅蓮の魔王もどちらかといえば近距離が得意としているが、遠距離から魔法攻撃はしてくる。
ただ文字通り、剣を振るう爆発的な攻めに比べれば幾分おとなしい。
――距離を詰めれば攻撃が激しくなり、遠ければこちらは決定打に欠ける
超スピードで避けられ、生半可な攻撃であれば奪われる。
制空権を奪い、真上から攻撃をしたくても空を飛ばれる。
――分かっていたが、ここで決着は無理か
冷静に考えて戦力を比べた段階で勝負が見えている。それでもあえて挑んだのは、復讐心に呑まれ、自棄になって襲いかかったわけじゃない。立花颯汰が寝返る可能性を僅かに期待していたのもある。
そうなれば戦況は大きく違っていただろう。
ただし現実は違う。不完全な魔王一柱に対し、光の勇者の力を有する魔王と闇の勇者が攻めてきている。
であれば、やることは単純だ。
今は本願が叶わぬとも、目的は達成したようなものだ。
颯汰の『殺すな』というお願いを、守っているからこそ、今も殺されずに済んでいるとみていい。
手加減されているのはやはりどうにも腹立たしいが、その選択によって生かされ、己の最大の目的に到達するのならばこの屈辱も安いものだ、と女魔王は甘んじて受け入れていた。
あとは、時を待てばいい。
怒りに凍った表情の裏で、女魔王はせせら笑う。
悟られぬように立ち回るが、今さらバレたところでもう遅い。泥の海に沈んだ者たちの救援よりも先にこちらに食い付いてくれたのは非常に好都合であったのだ。
◇
一方そのころ――。
無明領域は徐々にその姿を取り戻さんとしていた。
闇の範囲が拡大――つまりは、黒に塗り潰されていない空間が狭まっている。屋敷を囲っていた闇が、じんわりと庭にまで及んでいる。家を囲う柵やらも消え失せた。空は狭まり、星の見えない漆黒が広がる。陽の光らしきものは相変わらず謎に差し込んでいて景色に彩りを与えていたがその正体は永遠に闇の中にある。
その様子を観察しながら、立花颯汰はウェパルに声をかける。
「行こう」
女は黙って肯き、後をついてくる。
先ほどまで、落下する際に逆・お姫様抱っこスタイルで降りた男女とは思えない。男にいたっては悲鳴を上げていた。
出現した黒泥は窓の外までやって来ることはなかった。割れた窓の辺りでブヨブヨとしたものが近づいていたのは見上げて確認できたのだが。
すぐに目的地に辿り着いた。
家の横にある大きな倉。かなり立派なものでレンガか作られたものである。瓦屋根が使われているせいか、日本の漆喰の土蔵を思い浮かんだ。和風のようで、赤い色合いが中華風にも見える。正しく判別つかないのはそこまで観察する気がなかったのと、ここも例外なく透けているせいだろう。建物どころか木や草の類いまで透けているのだから見づらくて仕方がない。
扉どころか壁越しに中の様子が伺えるが、誰もいなさそうである。
ここに『絵画』――最後の一枚がある。
もうすぐ地上に出られるはずだが、ほんの少し進む度にウェパルの様子が変わっていった。
足取りが重く、うつむきがちになり、今や颯汰の背後から袖を掴んでいる。
颯汰は鬱陶しいと邪険に扱うことはしなかった。
彼女の怯え方が尋常じゃなかったのと、それでも口では嫌だと訴えなかったからだ。
明るく元気で、戦うときはモンスターな彼女が、ここまで少女のように縮こまっている。
優しく声をかけたとしても、意味はなさない。
颯汰は黙って進んでいき、レンガで造られた倉庫の扉を開けた。木の質感なのに、透き通っている扉から中へと入っていく。
「絵が飾られているかんじは……しないな。倉庫にしてはやっぱ物がやけに少なくないか?」
颯汰が一度探索に訪れたが中まで足は踏み入れていない。倉庫には木箱やら厚紙製の箱が二、三個ぐらい置いてあるだけでがらんとしている。
脚立のひとつもなく、庭の手入れの道具にしても、剪定ばさみぐらいしかない。妙なほどにものが無い。
ウェパルは、入口の前で止まっていた。震えながら両手で肩を抱くようにして屈んでいた。
冷汗が酷い。
颯汰は一瞬、手を彼女の方に向けたが――、
「…………、絵を探そう」
手を下ろし、首を振る。
絵を見つけて早く決着をつけるべきだ。
幸い物がないため、すぐにそれらしいものは見つかる。他の絵画は大きさが異なるが飾られるだけの芸術的な価値があるような扱いを受けていた。
だが、これは見つからぬよう、潜めてあった。
大きさはこれまでの中で一番小さい。
綺麗で洒落た額縁に納められた他のものと比べると、色はくすみ、欠けている。
裏面であるが、その絵が発せられる何かを感じ、颯汰は確信をもってそれを掴んだ。そのときだ。
「――見ちゃ、……ダメ!!」
ウェパルが懸命に叫ぶ。
「そんなもの……! そんなもの、捨てたほうがいいよ!!」
嫌悪感を隠さない。颯汰はまだ手を引かないが、それが求めているものだという確信と、異常な怯えに眉をひそめる。
土壇場で拒んだことを、蔑んだり馬鹿にしたりすることはない。
だが、颯汰は厳しく言い放った。
「目を、背けるな」
ウェパルの呼吸が乱れる。
息苦しくて胸を抑える。肩は激しく揺れ動き、酷い吐き気に襲われている。
精神性の発作、過呼吸の症状が見られた。
それでも、“彼女たち”には現実を受け入れてもらわなければならなかった。
「この絵は――」
静かに突き放つような言葉と同時に、掴んだ絵を取り出した後、ウェパルに突きつけてこう言った。
「――……こいつは“お前たち”だ」
それは、彼女にとって忌むべき呪いであった。
吹雪の下――。
隷属し支配下においた人々を死地へと向かわせる“魔女”の絵。氷結を操り、固有能力を己が欲望のために用いる最悪の転生者が描かれた、一枚の絵であった。




