93 復讐の呪い
絶叫が雪原を木霊する。
憎しみをたたえた瞳。
狂おしい怒りは燃え盛る。
叫びに呼応するように、立ち昇った泥の柱は鞭となり、苛烈に攻め立てる。
そして降り注ぐのは、冷え切った氷の刃。
絶え間ない連撃に紅蓮の魔王は――、
『さて。困ったな』
大剣から爆炎を生み出し、氷を掻き消す。
呪いの塊は剣で斬り崩す。
見た目の重々しさに反し、乱れ舞う快刀。
黒泥の触手を炭化、消滅させる。
呟いた言葉に行動が一致していないが、彼の独り言を聞き取れたのはこの中で誰一人としていない。それほど、けたたましい叫びと猛追が響き合っていたのだ。
洞窟の前にいるヒルデブルクたちは困惑していた。短い間とはいえ共に旅をしてきた仲間であるウェパルの狂乱の意味が理解できなかった。
アスタルテは、見ていて胸が苦しくなった。
――激情の理由はわからない。
口の横に両手を添えて、止まるように彼女の名を呼びかけるが、伝わらない。
ヒルデブルクは神父が何をしたか想像する。
――恨みを買われるような男ではないとは思うが、彼女の仕草、呼吸、動きから、敵意はヒシヒシと感じ取れる。戦士ですらない王女の目からも、そう映っていた。
困惑しつつ、神父が何をしたのかと問うが、これもまた届かない。
王女から、――少し変わった男ではあるが、非道を行うようなヒトではない、という曇った評価で擁護を受けた紅蓮の魔王は戦いのさ中で首を横に振る。
『怨んでいても仕方がない。お前の怒りは正当なものだ』
真横から紅蓮を挟み込むように迫る黒色の山。
圧し潰すために用意された質量は雪の上の黒い水面を滑り、激突する。
紅蓮の魔王は進出し、狂えるウェパルに斬り込んだ。泥同士が背後で激突する、間延びしているが重い音が聞こえる。弾けて散る泥の一滴にすら呪いと憎しみが深く沁み込んでいるが、紅き光に触れることはできない。
泥の障壁がウェパルの前に三重にして攻撃を防ぐ。拮抗は一瞬で、すぐさま両断されては爆ぜ、二枚目、三枚目の装甲までが消し飛ぶ。
破れた障壁から黒煙を出しつつ、堪らず女は後退りをするが――合わせるように紅蓮の魔王が距離を詰めて大剣を叩きつけた。
女の身体ごと両断しそうな勢いの斬撃に、ウェパルは回避を選択するが、縦にぱっくりと割れた泥の幕の隙間に、紅蓮の魔王は手を伸ばした。
肉薄する距離。
差し出された手は――、
『――あいつは俺が殺したのだから』
赤熱して、そこから業火が噴き上げる。
黒い濁流の呪いで身を固めていた女に逃げ場はない。凄まじい熱は骨まで溶かす勢いで、火柱が屹立し、周囲の雪や氷は一気に溶けて、青白い岩肌の上に堆積していた土砂ごと黒く焦げていた。
爆炎の火柱で決着がつくかと思われたが、
『ウワァアアアアアアアッ!!』
憎悪の化身が姿を現す。
氷と黒泥で全身を鎧う、ニヴァリスの魔王が――アルゲンエウスの魔女が降臨する。
氷晶と黒衣の戦乙女。
呪われし装束を身に纏う魔の騎士。
暗雲をも焦がす勢いで屹立した焔火から女魔王は飛び出し、紅蓮の魔王を強襲する。
黒く濁った氷の結晶を刃とし、切り払う。
柄も長く、振るう瞬間に形成した剣身は持ち主の身長の二倍以上はあるのではなかろうか。
空気を圧し潰すような音を結晶剣は奏でる。
振り下ろされた刃を紅蓮の魔王は横に躱し、星剣による反撃に転じようとしたとき、氷の刃は地面に叩きつけられ、砕け散る。雪煙が舞い、砕けた結晶がきらきらと光るのが見えた。
視界が遮られる。
『なるほど』
目の前にいるはずの女ではなく、紅蓮の魔王は剣を振り回し、爆炎をまき散らしながら後方へと方向転換する。
背後から襲い掛かる黒い影――泥によって造られた人型の怪異が複数体が、赤い炎に巻き込まれて消え去った。
『良い手だ。叫びと巨大な剣により注意を惹き、直前まで殺意を抑え込んだ刺客による闇討ち』
迫る氷の魔法による攻撃を剣と炎で打ち消しながら紅蓮の魔王は感心していた。とくに直前まで殺気や気配を消していた奇襲は、並大抵の敵であれば討ち取れていただろう、と。
激戦を見ていた颯汰とリズであったが、合流は厳しそうな状況となっていた。
魔王同士の戦いに割って入る余裕がない……というわけではなく、また攻撃範囲が広すぎて巻き込まれる危険性を考慮したという理由でもない。
斬り裂いた泥の槍――横たわる黒い円柱の残骸から、触手が伸び、阻むように空へ伸びる。
一本一本がヒトの手のような太さでゆらゆらと揺らめいている不気味な光景であった。
それがかま首をもたげ、多頭の大蛇の如く、颯汰やリズに襲い掛かる。
それをいなし、撃退していく中で、激しい戦闘音により紅蓮の魔王たちの方へ意識が向いたときが丁度、泥の人形が現れたタイミングである。
氷と泥を操る魔女の新たな一手に、颯汰も迷いなく振り返って剣を振るい、同じように奇襲をかけたヒトを模る泥の一撃を防いだ。
次いでリズの下へ四体ほどが殺到する。
ヴァーミリアル大陸で戦った黒泥の兵――勇者の血によって生み出されたドロイド兵だ。
両手が円錐状になっており、それで刺突を繰り出そうとしているのが見える。
さらにその背後に、地面に溶け込んだ黒い沁みから泥の兵士たちが立ち上がる。
追加で六体、半数が颯汰の方へ向かった。
リズの方に向かう泥人形が多い。
限界がきて泥の槍の残骸が機能を停止し、消え去っていたのがせめての救いか。
多少押され気味ではあるが、確実に二刀を操って敵を斬り崩している。天敵である“勇者”を警戒するのと、剣技の冴えから颯汰よりリズに戦力を集中させるのは正しい判断だと言える。
自分が舐められているという卑下はなく、冷静に状況を一瞬で見極めてうえで、運がいいとまで思った。リズの剣の腕ならば自分が三体を片付け終えて、援護の必要の有無があるかどうかだろう。時間的なロスや消耗や負傷するリスクが、自分が相手するときより格段に抑えられる、と断じた。
眼前の敵の攻撃を防いだ後に、剣で弾いてガラ空きになった腹へ踏み込んで斬りつけた。
――浅い
白銀の一閃が胴を掠めるに終えた。
黒の泥の表面を抉るだけで、泥であるのだからすぐに勝手に埋められ修復される。
一撃で両断しなければ絶命――機能停止がしないものであるのはわかっていた。
後方に下がり仲間と合流する選択をした泥に対し、次こそは確実に仕留めると颯汰は息を呑んで集中する。
そのときである――。
そこで颯汰の耳に声が聞こえた。
それは少し前、泥の呪いで焼け落ちた村から出た直後、黒泥の兵から聞こえた怨嗟と同じ声音。
『オ前ハ、否定スルノカ』
『己ノ復讐ガ終エタナラバ、他者ニハ復讐ヲスルナト言ウツモリカ』
『――あ?』
突如、呪詛を唱える汚泥の塊たち。
『邪魔ヲスルナ』
『死ネ。忌ムベキ罪人ヨ』
『復讐ヲ邪魔立テスル道理ナゾ、貴様ニアルマイ』
心を蝕む醜悪な呪い。臓腑から込み上げる苦しみに足が止まる。リズは急に動きを止めて虚ろな目となった颯汰に気付き、すぐ近くの泥を打ち倒した。流し込まれる呪いに塗れた情報に、常人は精神が保っていられない。自分が罪と心の片隅にでも、そう思った意識が影法師となり、その対象の声と姿カタチを写して語り掛けてくるのだ。
颯汰の目には、誰の姿をしていたかは、あえて言うまでもない。
頭でわかっていても、喉は渇き、冷汗が滲む。
リズは声がでなくても叫んだ。
突然、前触れもなく動きを止めた颯汰が危うい。
必死に、猛攻にかすり傷も負いながら、敵を蹴散らして進もうとするが、どこまでもしつこく、粘性のある泥は絡みつこうとしてくる。
動きを止めた颯汰に、黒の泥が躙り寄る。
掲げた泥の円錐状の槍をもって今にも振り下ろさんとした。
『ココデ死……――』
『――うるせえ!』
泥の槍に絡みつくは右腕から展開された烈閃刃。右腕部のリアクターが蒼く輝き、刃は先端から等間隔に分かれ、ワイヤーによる伸縮で鞭のような形態となったものだ。
一瞬で泥の槍を破壊し、次こそは外さないと颯汰は突進して、禿頭の泥人形の腹部に剣を突き立てた。
貫く白銀の刃だけが残り、黒い泥は自壊していった。水分を失い、ぼろぼろと崩れていく。
後方に立っていた泥たちは動きを止めていた。
『復讐? やりゃいいよ。好きにしたらいいさ。だけどこっちの邪魔はさせるかよ』
その行為を止める道理などない。
颯汰は「復讐を成した自分が他人に復讐をするな」などと、説教じみたことを言うつもりはないと考えている。
そうしなければ前に進めない人間だっている。
復讐を成し遂げたが、目的を失って壊れてしまう者だっている。
それでも、己の過去に受けた傷から――
離別するにも、
受け入れて前に進むにも、
どちらにしても復讐という“儀式”を必要とする者が少なからずいるのだ。
重要性を理解しつつ立ちはだかる理由も単純で、こちらに不都合であるからだ。
復讐を肯定しても、その被害を受けるとなれば話は変わる。
――ましてや、帝都に出現した“巨神”を皇帝陛下から奪うためにソフィアを渡せなんて、……それで、『はい、そうですか』と引き渡せるはずがない
などとは、ちょっと気恥ずかしいので颯汰は口には出さないでいる。
『紅蓮の魔王が何やったかは知らないケドさ――』
少し残った泥の塊から剣を抜き取ると、残った泥山も乾き切り、崩れて風に散っていく。
烈閃刃を格納し剣身に手を添える。刃はさらに白銀の光をたたえた。
泥の兵たちに剣を向けたまま、目線は後ろとなった激闘を繰り広げている魔王たち、首もわずかにそちらに向けつつ、言い放つ。
『つーか、そもそも、あいつの復讐って本物なの?』
リズが敵を二体同時に葬りながら、驚いた顔で颯汰を見た。彼にしか聞こえない声で言葉の意味を問う、と
『なんだか、違和感があるんだ。すっげえキレ散らかしてるようで、実はかなり冷静っぽいし』
あの凄まじい激情を、疑っている。
リズであっても彼の考えが理解できずにいた。
それは、得も言われぬ感覚。
漠然とした違和感。
彼女の叫び、憎悪に疑念を覚えた。
この場でそう感じ取ったのは、立花颯汰ただ一人だけである。
リズは疑問符を浮かべつつ、敵の攻撃を掻い潜り、またもや一体倒した。
颯汰は、疑問に答えるものはいないと考えていたが、それは独白に終わらなかった。
『……ナルホド』
『デハ、確カメテ見ルト良イ』
颯汰の眼前の黒泥兵たちだけが、腕から地面へ崩れて始めた。泥がヒトの形状を止め、粘性の塊が地面へ溶けていく。
『確かめて……って?』
剣を構えたまま、形が崩れた泥を見ていたが颯汰であったが、
「きゃあああッ!?」
悲鳴が聞こえるほうを向いた。
いつの間にか、ソフィアの真下に黒い泥の水面が広がり、溢れ出す黒い幾つもの手が彼女に絡みついていた。
「――は、離し……!」
軍刀を抜こうとした手も足も、真っ黒な手に取り付かれ身動きが取れなくなっていた。さらに泥は彼女を水面へ沈めようと引っ張り始めていた。
以前、紅蓮の魔王が、一度迅雷の魔王によって呑み込まれたという――広大な闇の空間と同じもの、異界が形成されているのだろう。既に膝下まで埋まり、ずぶずぶと呑まれていた。
『ッ! そりゃ、まずい!』
リズは、まだ行く手を阻まれてしまい間に合わない。颯汰は迷わず走り抜け、ソフィアを助けようとした。下手に走りながら攻撃を加えれば、彼女ごと巻き込んでしまう。
藻掻いているものの、ソフィアは既に腰まで流砂のごとく絡めとられていた。
助けるために、近付かねばならなかった。
だが、それこそが罠であった――。
『――、な、なに……!』
黒の水面に足を踏み入れ、身体がその結界内に収まった瞬間、泥の魔手が噴出した。
かなり素早く、颯汰も反応して咄嗟に回避しようとするが、足が捉えられ、さらに追加で氷の魔法が放たれ、足が丸ごと氷漬けとなった。
右手から、雷の魔法を流し込んで破壊を試みたかったが、その手も捕らえられ、肩や首にまで泥の手がべったりと張り付いては、下に引きずり込まれていく。
「助け……! ……――」
脱出しようにも、先にソフィアが闇の中に沈められてしまう。そして颯汰を引き込む手の数も仕事を終えた分、集中してしまい、降下速度が早くなった。
『リぃズ!!』
観念した颯汰は天を仰ぐように叫ぶ。
張り上げた声は彼女に届いているか、顔にまで絡む泥でうまく見えない。
『アスタルテを頼んだ! それと、王さまに殺すなって言っ――』
言葉は最後まで言い切れず、颯汰も同じく泥の海に沈められてしまったのだ。




