92 呪詛
鼓動が早くなるのを感じる。
息が浅く、短くなっていく。
居合わせた互いが、そうなっている。
女は――、笑んで見せようとした。
己の限界を超えた力を引き出さんとしている。
男は――、険しい顔となる。
純粋に恐れを抱いていた。あれは、ヒトが超えてはならぬ領分を逸脱しようとしている、と。
どちらも、どうにかその顔を隠そうとしていた。
ただ、女の引きつった笑顔は、闇に隠れた。
『……!』
彼女が腹部に装備していたベルトから、溢れ出す黒色の汚泥は、彼女の足元まで滴り落ちると、雪の上を穢しながら水面の波紋のように広がっていく。黒はほんの小さな円――女を中心におよそ二ムート弱に這いずる泥たち。それは次第に重力に逆らい、蜜のような粘液となり、天へと帰らんとばかりに、緩慢な動きで彼女を覆う壁となる。
颯汰は躊躇わなかった。
むしろ、今ここで討たねば終わる――。
そう予期させるほどの悪寒が奔っていた。
『――うぉおおッ!』
天鏡流剣術。最速たる空の型。
昇る泥の幕、わずかな境目を縫うように狙いを定め――必殺の刺突が繰り出された。
激突する音と衝撃が、柔らかなはずの泥とは異なる。耳障りな金属音と向けた剣がずらされたのを、手首から感じ取れる。
ウェパルは躱す動作すらとっていない。
泥が剣を弾き、さらに包んで覆う。
鉛のように重くなった剣身に、颯汰は柄から手を離して後退を選ぶ。それ以上の抵抗を止めた。
『――ッ! ハァッ!』
去り際に左腕辺りの黒の瘴気に格納していたクナイを三本取り出し、投げつける。
それも当然、泥の幕によって阻まれる。
直撃する際、泥に沈むのではなく、火花散って弾かれたのが見えた。
攻撃の手を緩めるつもりは無い。
戦闘開始直後、密かに背中から離脱させていた竜の子が上空で待機していた。
『やれ! シロすけ!』
暗雲の下、淡い緑の光が見えた。
呼びかけに応えるように放たれるは必殺の一撃。竜種の基本竜術にして最大の攻撃たる神龍の息吹。
内包した体内魔力を用いた光弾が落下する。
地形への影響、今後の事などよりも、今ここで彼女を潰さねば危険だと颯汰は判断した。
一切躊躇いの無い。短い間とはいえ旅を共にした相手の見た目であっても緩めることはせず、純然たる殺意をぶつけていく。
それを――、黒泥の幕の隙間から白い手が上空へと掲げるのが見えた。
颯汰は言葉を失う。
目を疑うべき光景であった。
ウェパルが、光弾を防いでいる。
直撃すれば辺り一帯に甚大な被害を与えるであろう――雪崩れどころか岩肌を削り、土砂崩れ落石などで麓の施設は軒並み呑まれて全滅する危険もあった。それでも、颯汰はウェパルを討たねばと断じた。それほど嫌な気配があった。そしてそれは、現実となりつつある。
『妾への供物か? 馳走となろう……』
光の球が彼女の指先、わずか数メルカンほどの距離で止まる。よく見ると、指の前に泥が集まっていた。泥の壁から溢れた黒が集約し、受け皿となって防いでいる。
颯汰が驚いている間に、背後から仲間たちが洞窟から出てきた。彼女たちもこの光景に目を剥いたことだろう。
溢れる泥はとっくの前に零れた量を超えていたが、まだまだ地面から出続け、押し止めていた光弾をついに包み込んだではないか。
ただ、そこに隙を見出した。さすがに無限ではないのか円柱状に昇った壁に隙間が生まれる。
颯汰が、再び別の剣を取り出し、刀身を白銀に染めて女の心臓に目掛けて渾身の力を込めた一突きを繰り出した。
手応えはあった。
ただし、その切っ先は空を貫き――、刃は泥が被って黒ずんだ手に挟まれていた。
『さっきから使ってるそれ……。参之太刀の……真似事か』
見せた覚えのない業を、彼女は言い当てた。
なぜ知っている、と心の中で叫びはしても、攻撃の手を緩めることはしない。腕部と脚部のスラスターから青白い火を吹かしつつ、その勢いで剣を抜きつつ斬りつけた。
――冗談じゃないぞ
焦りはあるが、精確な斬撃が女を襲う。
女は最低限の動きと、泥の防壁で悉くを防いでみせた。
まだ、彼女の真上で光弾が包み込まれたままであった。
颯汰の頭の中に浮かぶ想像は二つ。
エネルギーを処理し切れていないのか、そのまま此方に放るカウンター技か。
どちらにしても放っておくわけにはいかない。
――おそらく、ウェパルに奇怪な力を与えているのは、あのベルトだ。しかも、あの泥は……!
黒い泥状の流体。
意識しなくても自然と思い起こされる。
迅雷の魔王も同じ力を操ろうとしたが――逆に、操られていた。
勇者の血を加工したとされるもの。
『なんでお前が、その泥を……?』
溢れ出す魔の奔流が彼女を守る壁となっている。本来ならば、触れるどころか近づくのすら危うい。
『ふふふ。ふふふふふ……!』
ウェパルは笑う。
外面は変わらないが、中身は随分と違うのがわかる。闇の汚泥を引き連れた、魔女が笑む。
――やばいぞ。嫌な予感が的中した。それに……
避けたかったのは、
「……、…………」
リズが、この光景を見ることである。
経緯も、何がどうして彼女の血が使われた結果、この呪物が生み出されたかは未だ実態が掴めていない。しかし彼女は心を痛めるのに充分な理由となるだろう。世界を救うべく立ち上がった……訳でもないが、『勇者』という役割を与えられたというのに、ヒトを呪い殺す汚泥が、自分の血が原因で動いていると知れば、少なくとも良識のある生き物であれば心を痛めるというものだ。
否応なしに、傷ついてしまうのは明白だ。
実際、リズの手から力が抜けていた。
湧き上がる怒りよりも、壮絶な悲しみが強く、彼女の心を苛んでいく。もしも、周りに誰もいなかったならば、彼女は膝から崩れ落ちていただろう。彼女を支えたのは勇者としての気概ではなく、他に守るものたちが居る――誰より、無様な格好を見せたくない人がいることであった。
それでも、心の傷となるトラウマは根深く残っていた。彼女の脳裏には、酷い拷問を受けた地獄のような日々。泥によって壊された建造物――それによって起こる火と黒煙によってもたらされた人々の死……その光景が浮かんでいた。
わずかに呼吸が止まる。
倒れなかっただけで、誰よりも先に動いて敵を誅戮すべきなのに、手足が動かないでいた。
それを――すべてわかっていたうえで、男は労うのでも、称えるでも、罵るのでもなく言う。
『そのものたちを頼む』
隣に立つ、《王権》を纏いし紅蓮の魔王が跳んだ。
洞窟の入口から出たばかりの少女たちを護れと命じ、災禍の化身は雪原を蹴った。
未だ颯汰ですら捉えるのが難しい光速。勇者としての力で間合いを詰め、一気に爆発させる。
ただ一振り、大剣が泥に触れただけというのに、焔火が爆ぜる。
この星の加護を受けた剣は、持ち主の心を写し、溶岩のように黒く燃え滾っていた。
――ッ!? 迷いが、ない!
敵と視認してから動くのもそうだが、颯汰が斬撃の後に起こる副次的な爆発さえ避けると見越した迷いの無い範囲爆撃。
慄きながら、颯汰は再び柄を離し、転がりながら回避する。熱風が髪を撫でる。
『お前……随分と、様子が変わったな』
何事もないように、大剣を振るい続ける魔神に、女は声を一瞬失った。
『なっ……!!』
驚く女を余所に、連撃は止まらない。
魔王は何か語り掛けている様子ではあった。
――……あれ、ひょっとして爆音で全く聞こえてないのでは……?
黒い壁を爆破し続ける紅蓮の魔王。ウェパルもきっと聞こえないしそれどころではないはずだ。
幾重も爆ぜる音が重なった。
女の苦悶の声さえ、掻き消される。
さらに、大きく振りかぶった一撃。
とても斬り合いで生まれる音ではない、とびきり大きい爆発音が響いた。
黒煙はすぐ解け、魔王の星剣に変化があった。
表面は黒く炭化した刃から白銀が覗かせる。
だが数瞬で剣は憤怒の色を取り戻す。
灼熱に滾る怒り。赫然たる岩漿のように黒く、熱で赤く光るヒビの入った剣となる。
紅蓮の魔王は、さらに続けざまに攻撃しようとしていたが、女の方が黙っていなかった。
爆音の後の僅かな隙間に訪れるのは静寂ではなく、耳をつんざく奇怪な音。
颯汰は一瞬、黒泥の壁が擦れて奏でられた金属音か何かだと思った。
しかしそれの正体は、凄まじい怨嗟に満ちた女魔王の金切り声であると知る。
女魔王は、怨敵がいることは事前に知っていたし、颯汰にも改めて知らされていた。すべてを奉げて討たねばならぬと心に誓ってはいたものの、“今”ではない。正しいタイミングでなければ、積み上げたものすべてが水泡に帰す……そう理解していたし、心に刻んでいた。
絶叫は、衝撃となって駆け抜ける。
そしてその後に続く言葉は呪いに満ちていた。
『……してやる』
絶え間なく呪詛を投げかける。
泥はその言葉を浴びせるための波濤となって、その凄まじい勢いに女の呟く言葉は呑まれていたが、構う様子はない。
死の呪いと殺意をぶつける。
鬼気迫る表情に、地面に降りた泥は触手となって魔王の周囲に屹立する。
泥は鎌首をもたげ、魔王を囲うと一斉に襲い掛かった。
呪いが破壊を連れてくる。
しかし、紅蓮の魔王には届かない。
『憑代の影響か……? それとも何か悪い友達でもできて唆されたか』
ただ、口にした一分間で何度も『死ね』やら『殺す』などという怨嗟の言葉は届いていたようだ。
声の調子は変わらずであるが、危機は未だに迫る。それどころかさらに重くのしかかろうとしていた。ウェパルは叫ぶ。
先ほどの物理的な攻撃は一切届いていない。
だが、それでいい。
足を止めさせるのが目的であったのだ。
およそ人語と呼ぶには不完全すぎるというのに、乗せられた感情だけは痛いほど伝わる。
女の直上に落とされた光弾――泥が集まり囲い、球状となっていたそれを振り下ろす。着弾すれば爆発的な気流を発生させるものを、ウェパルは受け止めていたが、それを利用する。泥の表面は幾つか剥がれ落ち、露出した光弾ごと叩きつけようとした。泥の腕の拳には白みがかった蛍光色の緑の光が溢れている。
絶叫と共に殺意が着弾する。
地表から生じるダウンバーストは周囲を吹き飛ばし、山から麓まで甚大な被害を生む一撃。
大事のためにその他の生すら小事だと無意識に切り捨てたことに、幼き竜種の子も、命じた立花颯汰も気づいていない。
そして、それが仲間に向けられたことで一旦冷静になる。立ち向かうという選択よりも体が動く。
リズにアスタルテ、ヒルデブルクにソフィアを守るために彼女たちの前に転がり込み――、
『限定行使――索引・ルクスリア!』
奪い取った赤い雷の力。
『マグネティック・フィールド!』
魔法により、磁場の障壁が発生する。
薄っすらと赤い、半透明な障壁が颯汰の前に造り出された。円形で本来は数枚ほど張って敵からの攻撃を防ぐものであるが、咄嗟のことから一枚だけの障壁である。補強する暇もなかった。
造り出した瞬間に破壊の風が突き抜ける。
――と思われた。
叩きつけられる光弾を抱く泥球の槌ごと、巨大な両手が掴みとった。紅蓮の魔王の十八番とも呼ぶべき召喚された鎧う両腕だ。
地面……と呼ぶより紅蓮の魔王自体に接触するまえに、滑り込んで介入した両腕がすさまじい膂力で繋がっている泥をブチブチと引きちぎりながら、ハンマー投げでもするかのように回転しながら、光弾を遠くへ投げ飛ばした。
暗雲の向こうで星となる。
直撃しなかった光弾は、遠くで次第に純粋な魔力となって散っていた。
ただ、残念なことに障壁は無駄になった――わけではない。
黒の触手が槍となって、颯汰の前に殺到していた。
『クッ、こ、こいつ……!』
障壁にぶつかり、泥はねじ曲がる。それで勢いがなくなるならばよかったが、そうはいかない。
障壁を突き破るのではなく、掻い潜る動きを見せたではないか。三本の丸太のような泥の奔流。障壁によって逸れたが、後方へ伸びる。
即座に颯汰は反応する。一本を、取り出した小刀で切りつけ、右腕から烈閃刃を展開し振り向きざまに斬り落とす。
だが真上を通り過ぎる一本だけ反応が遅れた。
まずい、と声に出す余裕すらない。
女魔王は狂気に呑まれていた。
怨讐に駆られ、泥の呪いに理性が溶かし切り、冷静さを失ったかに見えた。
実際は、眼前の忌むべき敵を屠るためには『彼女』が必要だと本能的に理解していたゆえか。この一瞬の騒ぎと生じた隙に、魔の手が女に迫る。
ソフィアの前に呪いが迫る。
恐怖はあった。
自分の識る領域を超えた怪異。そんな素人目であってもわかる圧倒的な呪詛。
怖くないはずがなかった。
ましてや己を取り繕う“客員騎士”の仮面は無い。
考えるよりも先に、手足が動く。腰に納めた鞘を掴み、軍刀の柄を握る。
震えはもちろんあった。
でも、逃げても無駄だと悟ったのだ。
彼女が何者か、わからない。
それでも、帝都を仇なす敵なのは違いない。
時間にして一を数える間もあるかないか、呼吸を十全にする余裕もない中で、死の呪いはやってくる。
それを見過ごせる勇者ではなかった。
「……!」
風を纏い、紫色の星が煌めく。
不可視の剣を握る女は泣きじゃくる少女ではなく、一人の戦士として跳躍したのだ。
錐揉み回転しながら穿孔するような――双鎌剣を華麗に振るい、舞ってみせた。
ぐるりと一回転、泥の槍を斬り崩し、リズは着地した。体勢を変えて、泥の槍を追いすがった颯汰と目が合う。
その淡い藤色の麗しい瞳が強く語り掛けた。
颯汰は一瞬、面を喰らった顔をしたが、すぐに肯いた。無理をしているかもしれないが、少なくとも今は、戦える。
『聞きたいことが増えたな』
振り返り、烈閃刃の青白く光る切っ先をウェパルであった女魔王に向けて言い放つ。
『そのベルト、どこから持ち込んだ? ぜんぶ吐いて貰おうか』
女魔王は何も答えない。
息を吸って吐くように、すでに紅蓮の魔王を強襲している。それは、彼女の本願ではあったが、本意ではないと颯汰は理解していた。
答えを聞くまでもなく、リズと共に駆け出す。
極寒の地に吹き荒ぶは、吹雪と死の呪いを帯びた黒の濁流、熱風の次は太刀風であった。




