90 討伐代行
獣が躍り出る。
黒の瘴気を纏う悪鬼羅刹が。
戦いの匂いを嗅ぎつけた狂おしさ、滾る憎悪を燃やしては宿り主を内から食い破らんとする呪いの産物たる“獣”。
立花颯汰の中にいるそれは、彼と共にあった。
――この感情は、獣のものか
頭に浮かぶ姿、内なる世界に君臨せし巨獣――黒に染まる闇に溶け込む腐肉と銀の骨を剥き出しにした怪物の蒼銀の目が光る。
従うふりをして、したたかに主導権を狙っている、油断ならぬ怪物であった。
――それでも、今は意見が同じだ
相容れぬ存在ではない。
今のところは、不気味なほど落ち着いている。
だから、共に戦えると、手と手を取り合える。
『元より、人間の世界の問題だろ。だったら、人間の手で責任とるべきだ。背負う必要のない罪なんて、ペトラが負わなくていい』
その《神》がどんな経緯で誕生したかは知る由もないが、ただヒトの欲望によって――封じられ、歴史の闇に沈み、深淵の奥底へと葬られていたというのに――再び世界に現れた。
だからこれは、今を生きる『ヒト』が解決すべき問題であると主張し始める。
事の重大さはヒトの世界だけで収まるものではない。それを理解しつつも、彼女に大量虐殺のような真似をやらせるわけにはいかなかった。
耳障りなノイズが奔る音。
存在が確立しているのが奇蹟と見紛うほど曖昧で、空虚を互いに埋め合わした影法師が、前に出る。その歩みに迷いはない。揺れる瞳の蒼の焔火もまた迷いがない。
一見変わりない様子に映るが、驚いて動きを止めた竜種の女王へ、颯汰は近づいていく。
『…………あ、アナタは――』
小さきヒト。
差し伸べたるように手が彼女に向かう。
ただのか弱い生き物が、不遜にも生態系の頂点に君臨する竜種の王者に触れんとするようにも見えた。いや既に不遜にも、己が領分を越えた事案に首を突っ込むつもりであった。
『……、…………』
何かを求めるように伸ばした手。
そっと止めた颯汰は、己の手を見やる。
視界がブレ、何か別のものが見えた気がした。
モノクロームの世界。
黒く、べっとりと付いた何か。
誰かの瞳から見た己の手が。 ――汚れた手。
手が。 ――傷だらけの戦士の手。
手が。 ――老いて干乾びた指先。
手が。 ――機械仕掛けの鋭き爪。
手が。 ――無明の闇。
明滅するたびに、映り、変わる。
その点滅は闇の中で閃光が奔るのではなく、逆に闇によって閉じ、変わっていった。
加速度的に明滅の間隔は早くなっていった。
おそらく上記の手以外も何か映った気がするが、目を閉じた颯汰は、その幻視に思いとどまることもせず、握った拳をつくり、目を開いた。
その夢想に対する思い入れを示さず、ただ目を瞑って脳裏に描かれた夢幻として泡沫に消える。
いつまでも夢想に溺れているわけにはいかない。
白昼夢を振り払い、せっかく格好つけたのだから、最後まで貫けと自分を鼓舞しながら、弱い男は虚勢を張った。
『少しだけ待っていてくれませんか。俺たちがデカブツを止める。そうすれば、ブレスを撃ち込む必要は無くなる。文句は、ないでしょう?』
未知数の力を有する、あまりにも大きな敵。
それも見上げた龍よりも大きい。
戦うなんて選択が浮かばぬようなサイズ差であると、対面してなくてもわかるようなものであったが、立花颯汰は心に決めていた。
『…………あの街に、誰かアナタが護りたいヒトたちが、いるのですね』
颶風王龍の問いに、颯汰は静かに肯く。
ここで無意味に恥ずかしがって否定するほど、彼は愚かではない。
『はい。村から総出で、ただのお祭りを楽しみに来た子どもたちだって大勢いるんです。一緒にいた時間は、そう大して長くはない。――でも、それでも、見殺しになんかできやしない』
テュシアー村の子どもたちも、善良なる市民を巻き込むのは反対であると颯汰は言う。あの巨神が星を蝕む癌であると一目で理解しつつも、彼女のやろうとしていることは認めるわけにはいかなかった。
『俺はあなたをよく知らない。でも、あなたがブレスで街ごと、何もかも全部壊してしまったら……俺は絶対に後悔する。あなたを止めなかったこと、俺自身の無力さを。そして、あなたを嫌いになってしまうことも、あなたに罪悪感の重荷を背負わせてしまうことを、俺たちは絶対に後悔する』
その声、眼差しに、やはり迷いはない。
颯汰自身が自分らしくないと一番わかっていた。普段ならば、ここまで大事に首を突っ込む真似はしたがらない。何だかんだ文句は言いつつ誰かを助けようとしても、それはあくまで手が届く範囲に留めている。今回は明らかに、自分でも無茶なことをしようとしていた。しかし既に心は動き、自然と言葉を口にしていた。引き返すつもりも、この行動の後悔はしない。
立花颯汰の強い光をたたえた蒼き瞳を見て、
『そう、ですか』
颶風王龍はそう答えたが、感情の起伏を感じさせなかった。柔らかな羽毛のせいか優し気な印象を与えていた竜種の女王たる彼女は、未だ強い意志が表層化したままだ。
巨神を葬るという目的のため、奪ってしまう命の重みを背負う覚悟と、それに対する苛んでしまう未来すら、受け入れていた。
それを、颯汰たちは拒んだ。
言葉にはあえてしなかったが『必要のない虐殺』となると唱え、世界を守護する四大龍帝の職務を代わる、と。全部理解したうえで発言はしていないだろう。己の感情と若さが由来の勢いに任せている部分も確かにある。
ゆえに龍は、小さき生き物に問う。
『――……必ず、斃せると言えますか』
役割を代わるなら、颯汰にも同じ質のものを求めるのは当然であった。
勝算なき戦いで意味がない。確実に仕留めなければ、世界全体に災いを招くこととなる。
ゆえに彼女の眼差しも真剣であった。
『もちろん。必ず、ぶっ倒してみせます』
言い切った。
内心の動揺など一切隠し通し、舌が少し余計に回る。臆する心を、高揚感と勢いで誤魔化そうにも、少し冷静になると弱音が出てしまう。だからこういう場合、あえて言葉を走らせるに限る。
『あんな木偶の坊、中から壊せば楽勝だろ。『一寸法師』のように内側から鬼をやっつければいい。お前の手を煩わせるまでもない』
“それに、あぁ言うタイプのボス敵って、存在そのものがステージギミックで、中の本体をぶっ壊すの定石だから”……などと続けて言っていたが、一寸法師の件も、異なる世界で生きてきた彼らに通じるわけもなく、理解できる面々が誰一人としていないので、虚しい独り言に終わった。
『と、とにく! 必ず、止めてみせる! 動力を潰して動かなくなればいいだろ。なにも、外からわざわざ相手する必要ないでしょ?』
相手の反応や冷めた間を恐れ、若干の気恥ずかしさを咳払いすらしないで一気に捲し立てた。
そんな堅い決意を前に、竜種の女王は――声音こそ動揺していないが、本音が漏れ出始める。
『ですが、アナタ独りで巨神と戦うなんて危険なまねは……』
威厳ある風体でありながらも、心優しさは隠しきれない。特に、自分の子と共に生きた青年の前では。
しかし、心が奔りだした今、彼を止める術はない。胸を叩いて立花颯汰は力強く言い放つ。
どんな理不尽な目に遭おうと、叶わぬ復讐であると突きつけられようと、立ち上がってきた。
どんな逆境であろうと、跳ね除けて進むために、その言葉を口にする――。
『それが、どうし――』
『――いや、無論、我らが援護するとも』
言葉を遮って割り込んだのは紅蓮の魔王。呆気に取られる颯汰を余所に、腕を組んで語る焔火の化身はそのまま続けた。
『不足はあるまい。それに、闇の勇者だって力を貸してくれる』
顔を覆う兜から見やる。リズはやる気に満ち溢れていて二度肯いて見せた。両脇と腕の関節を締めて握り拳を作り、頑張りますと言っているようだ。そんなドヤ顔かわいい美少女に対し、颯汰はさらに驚いて振り返った。颯汰は顔を覆う半面が無ければアホ面で口を開けていたことだろう。
ちょっと格好つけてキメ台詞的な言葉を吐こうとした矢先に潰されて感情が迷子となっていた。
颯汰に対しても協力を惜しまないと肯いて見せたところで、颯汰は参ったなと頭を掻いた。
『魔王と勇者、世界を統べる神々の王が力を合わせれば敵などおるまい』
『ちょっと待て王さま。何か大層、変な肩書が』
混乱に乗じて話を進められたが、何やら危ないものに仕立て上げられそうだと気づいた。
『……確かに、そうですね。焔の光、もしもの場合は、あなたが責任を取ると考えてよろしいのですね』
『いいだろう』
小さな意見を、まるで聞こえないように扱う。大人ってこういう悪い癖がある。
無視されて悲しいのではなく、呆れの感情が強い。強者――この場合立場的な意味合いを含めて、弱者を蔑ろにしがちであるのが、避けられぬ現実であった。少し項垂れたところを、紅蓮の魔王が何か勘違いして語り掛けてくる。
『もしや、我らの協力は不要か』
『いやぜんぜん。紅蓮の魔王もリズさんも俺よりマジで引くほど強いし。王さまに関しては最前線で一人で戦ってもらいたいかな』
『頼りにしている、か。そこまで信頼を寄せてもらえるとは、こそばゆいな』
『そこまで言ってねえよ。実際、超強い王さまなら一人で済むんじゃないの?』
自分よりもすべてにおいて強くて、殺しても簡単に死なないような男であるから、ある意味では頼りがいはある。言葉には決してしないが。
『いいや。敵は強大だ。それに私よりも少年、あの手の敵との戦闘に馴れている様子のお前が適任だろう。何より、主役はお前だ。お前が自ら戦うことを選んだのだから』
『適任かどうかは絶対にあり得ないケド、やるって言い始めたのは俺ではある、な……――って、ぅおッ!?』
急に両頬と両耳を両手で優しく触れられる。
リズがいた。距離の詰め方が暗殺者のそれに近くて別の意味でドギマギする。王都では就寝中に何度も命を狙う刺客に襲われ、その度に捕縛してきた颯汰ではあったが、ここまで詰められた記憶はない。
颯汰は、彼女が何を訴えかけているのかは、契約者として繋がりを通さずとも、わかっていた。
『うす。いちばんしんらいしてるのはリズさんっす。目がこわいっす。かんべんしてほしいっす。っすっす』
ちょっと圧が強すぎてチンピラの舎弟みたいな口調となってしまう。心にもない言葉ではないのだが、この場を切り抜けるために作り上げたという部分はある。実際に彼女を信頼はしているが、それに応えることは難しい、と颯汰は考えていた。
それに正直言えば、彼女には無茶はしないでほしいのだ。剣術は自分より遥かに強いとはいえ女の子であり、なにより一度自分を庇って死にかけた。できれば、アスタルテやヒルデブルクを守ることに尽力してほしいというのが本音であった。
冷たいけど柔らかな指が離れ、少し生きた心地を取り戻した颯汰は、安堵の息を吐いてから、切り替えた。
『そういう訳で、あいつを倒すまで、待っててもらえますか!』
母なる龍から、魔の気配が弱まっていった。風は凪ぎ、迸る雷も規模が小さくなっていく。
言葉を発する前に、答えは出ていた。
『地味に条件が変わっていますが(なかなかしたたかですね……)。良いでしょう。優しきアナタに、託しましょう』
颶風王龍に、颯汰は礼を口にして頭を下げる。
竜種の女王はどこか優し気に微笑んだように見えた。翼を広げ飛びあがる。
『私は、ここで待ちます。アナタ、我が子もまた、ヒトの世界で生まれ育った身――力を貸してくれるでしょう。その子を頼みましたよ』
『えっ、連れて行っていいの!?』
颯汰は上空で旋回する巨竜に驚いて訊う。
小さな家族とは、ここで別れるものだと思っていた。少しでも一緒に居られる時間が延びたのは嬉しいが、果たして戦いに巻き込んで良いのだろうか。機動性と瞬間火力は自分より上であるから、いざとなったら逃げられるとは思うが、と颯汰は少し心配した。ただ戦力は多い方がいい。小型で隠密に行動が取れるのも利点だろう。こっそり侵入して動力を潰して、シロすけを母に引渡して王都バーレイに帰還する。それが大雑把なフローチャートとなっている。
「きゅー! きゅうきゅう!!」
可愛げに鳴く龍の子に、颯汰は思わず顔が綻んだ。この子もやる気に満ち溢れ、止めるよりも少しでも共にいたいと願った。
『……あぁ、一緒にいこうか。シロすけ』
颯汰が右拳をあげると、龍の子も翼を広げてくるりとその場で縦に回転し、その尾で颯汰の右手の甲を叩く。
その光景を見て上空で舞う母が見つめていた。
『…………、それと焔の光、くれぐれも契約者と我が子を危険な目に遭わせないように』
『(少年は好き好んで厄介ごとに突っ込む習性を持つから、土台無理な話なのだが)御意に』
『何だか、含みのある間がありませんか?』
『気のせいだ』
さらに暴走特急・主人公と行動を共にするというとどうなるかと言えば……。
守れぬ約束であるが口先だけならなんとでも言える。大人って汚い。
白き翼をはためかせた龍は、美しく舞い、異界化した山頂の台地の湖へと再び潜っていく。
『アナタたちが無事に戻ると祈っていますよ』
そう言い残して羽毛を持つ龍の母は去った。
その言葉を胸にしまい、颯汰たち残されたものは、すぐに行動を始める。
新参者だけは若干困惑していたが、王女もアスタルテも肯いて「行きましょう」とだけ言った。
異界化した山頂から中腹に繋がるゲートへと歩んでいく。春の陽気と薫風に包まれた楽園を去る。光の乱舞を通り、凍土に閉ざされた魔境へ。
中腹の暗い洞窟――神殿への道の途中に移動が完了した。話をしながら移動する。中腹の小屋に非戦闘員に待機してもらう手筈となった。
山頂は安全であるが普通の人間にとって体外魔力が濃すぎて身体に障る。紅蓮の魔王が張った魔法の防壁も長時間は保たない。
ゆえに一番安全なのは小屋ではあるが、何かがあるといけない。颯汰的にはリズに護衛してもらいたいが戦力を減らすことに他全員から反発を食らい、ちょっとばつが悪い。しかし颯汰の言ってることは、何も間違ってはいない。
どこに賊が現れるかわからない。
魔物が絶対にこないという保証もない。
そして現に、なにかが、待っていた。




