86 神を祀る地
大気が震える。
風の中、何か声がしたような気がした。
颯汰は、空を見上げる。
天は暗く、重い色をしていた。
じっくり観ている余裕はない。
何故ならすさまじい勢いで降る雪が、視界を遮ってくる。
吹き荒れる風。目を開けるのも難しいほど、暴風に雪が乗って降り注いできているのだ。
辺りすべてが白に染まっていく。
空と稜線の境目すら、既に曖昧になっていた。
彩りに満ちていたはずの世界はここにはない。
「…………」
モノクロームの景色に、颯汰はふと思い出す。
かつて修行に明け暮れた日々――仙界・第三階層“白亜の森”の光景を。
ただ、空気に満ちているものが全く違う。
温かみを感じる、淡く光る珠が浮かんであったせいか、ヒトがいるべき場所じゃない不思議な空間であるにも関わらず、妙に落ち着ける場所であった。
……修行内容は地獄そのものであったケド。
だがここに満ちるものはヒトを寄り付かせない圧倒的な自然の力。肌を突き刺すような冷気が支配していた。
「くっ……、急に天候が……」
「山の天気はとても変わりやすいと、聞いたことはありましたけど……」
「うぅ……前がよく見えないよ~」
颯汰の呟きをヒルデブルク王女が拾い上げた。アスタルテがぼやくのも無理がないほど、随分と悪天候となっていた。
「少し、急いだほうがいいな」
紅蓮の魔王の言葉に、颯汰が反応した。
「……何か、あったんですか」
単なる気象変動ではないことを、颯汰は察した。そもそも不安定であった天気を、無理矢理にでも快晴にしてここまで来るようにと願ったのが、このペイル山の頂に座する竜種の王であるのだ。
「わからん。頂にいる者が、単につまらん気を起こした訳ではないはずだ」
そういって整備された雪の山道を進んでいく。
颯汰は、それから何か言いようのない不安な気持ちが芽生えていて妙に落ち着かず、頻りに進行方向ではなく、帝都がある地点を振り向いて見やる。
胸騒ぎをしているのは同行者のエドアルトもだ。
ただ彼女の場合、今後の帝都がどうなっていくかも気掛かりなのだろう。叛逆者の汚名を着せられたため退避しているが、(追手がきてないかどうかの心配も勿論あるが)祖国を憂う気持ちだってある。
得体の知れない魔女――“魔王”がいつの間にか入り込んでいて、しかも古くから国に仕える宮廷魔術士として認知されていた。その齟齬もまた不安を掻き立てていた。
『えぇ、その話は、真実。私は皇帝の血を引く者――』
昨日の夜、颯汰と互いに聞いた話をまとめていたときの記憶が蘇る。
颯汰はニヴァリスの魔王から、ソフィアのこと――ヴラドレンに代わるニヴァリスの正当後継者であることを聞かされた。
その話を聞かされたとき、颯汰は胡散臭い作り話であると感じだが、ソフィアはそれが事実であると認めたので颯汰は驚きを隠せない。いや、かなり怪訝な顔をしていた。
『なんだいその目は』
『えっ、いや、……あの、なんでもないっす』
ソフィアはその態度に傷つきこそしなかったが、若干イラっとしていた。彼は黙して何も言わなかったが、目は口ほどに物を言う。己が演じていた冷静な騎士像を思い起こしたから、感情を表に出さず堪えることができた。
魔女の話だと、既に皇子たちにはその存在が認められているらしい。ただし、第一皇子――このまま何事も無ければ皇帝の座に即けるヴラドレンは、受け入れることは決してしない。
ヴラドレンはソフィアの存在を闇に葬らんと動く、と彼女は考えていたようだ。
フェイスヴェール型の霊器《ディスフラース》によって作り上げた虚像たるエドアルトの姿では、憲兵に見つかり次第に即刻、捕らえられる。
そして皇居に連行され、魔女が手助けをし晴れて真の後継者――ニヴァリスの新たな女帝となる……などと上手く話が転ぶはずがない。
――魔女……。私のことを知っている、私の知らない謎の存在。一体何が目的なのだろう?
その魔女こそが信用に値しないのだから。
ソフィア自身がその存在を認識できていないのが大いに引っかかる。
脳裏に映る映像が切り替わる。
暖炉から放たれる温かい熱と光が歪み、姿を変えてみせた。
それはかつて肩を並べた同僚たち。
騎士たちは剣を向けて怒号をあげる。
裏切り者。叛逆者と揶揄する声。そのたくさんの瞳には怒りと嘲笑と失望もあった。
彼らは宮廷魔術士と呼ばれた魔女……ニヴァリスに現れし魔王を既知の存在だと口を揃えて言い、エドアルトを乱心していると認定していた。思い出すと、辛くなる。
――何かしら、怪しげな術を使ったのは間違いない、と思う。あんまり詳しくないけど。おそらく一般的な呪い士の類いとは比べ物にならないほど強力で、大規模なもの……? いやそれとも、私の記憶だけおかしくされた?
俗に「星読み士」とも呼ばれる卜占を専門とする者以外に、呪術を扱って病気の治療や降雨の儀式を執り行う者、邪悪な妖術を巧みに扱う者もいる、らしい。とはいえ、彼らは本当の魔法を操る魔王や精霊、霊獣には敵わない。解呪を頼んでも徒労で終わる。
現時点でわかるのは、魔女という謎の存在は決して心を許せるような相手ではないことだ。
魔女は敵――排除すべき対象だとソフィアは認定していた。
ただし彼女はそんな紛れ込んだ悪意に対し、帝都を救う術を思いついていない。自分ひとりでどうにかできる敵ではないとわかっていても、今同行してくれている彼らに頼ることはできない、と彼女は判断していた。
颯汰たちは他国の者であるし、“魔王”だ。例え魔女を排除しても、その後どうなるかと言えば単純な話――牛耳る存在が変わるだけである。
ニヴァリスを魔女が陰から支配しようとしたのを、アンバードの“魔王”が実効支配する形となるだろう。それも避けるべきだ。
下手に関わらず、そのままどこかへ身を隠した方がいいと颯汰にも提案されたが、目を背けてどこかで生きていくことはきっとできないと彼女は思ってはいた。
思い詰めている様子のソフィアを、颯汰は(指摘されたらムキになって否定するが)案じていた。
颯汰も保護するとまではいかなくても、下山後に港町のアルジャーぐらいまでなら同行しても良いだろうと考えていた。他に行きたいところがあるなら、勝手に行けばいい。帝など七面倒臭いこと、やりたきゃやればいい。ただし、魔女――氷の魔王の暗躍が気になる。
――あの魔王は、紅蓮の魔王に対して『生涯の怨敵』とまで言っていた。そして、このヒト……ソフィアさんこそが真の皇帝の座にいるべき者とも。前半のあの強い憎悪は間違いない。ただ後半部分がどうも引っかかる。真剣さや必死さはむしろそっちの方が強いんだけど……。魔王とソフィアさんの、両者の意見に食い違いは無いのに
会わせて良いのだろうか――?
そんな疑問が浮かぶ。
否、颯汰は最初からずっと思っていた。
妙に必死にソフィアにこだわる彼女を見て、違和感を覚えていた。
あの魔女が善人ではあるはずがない。
颯汰だって最初に会ったとき、殺されかけた。
手足は凍らされ、少しでも対応が遅れれば壊死し、さらに容赦なく魔法の氷柱による凄まじい砲撃によって死に絶えていたかもしれない。
魔女――魔王が善人であるはずがない。
無駄に考える必要などないのだ。
ただ、害虫のように駆除するのみ。
この世界に再誕し、悪鬼羅刹として君臨した怪物どもは根絶やしにすべきだ。
一人残らず、鏖にすべきで――
「そいっ」
「ひゃっ!?」
唐突に颯汰が左腕に手刀を叩きつける。結構な勢いで、やった当人が痛みで喘ぐほどだ。
そんないきなりの奇行にソフィアは驚いて、少女のような声を上げていた。
囁くような悪意の声が内側から聞こえたような気がした。ふとした瞬間、気を緩めたときにそれは憎悪の感情を増幅させ、身体を乗っ取ろうとしている。
「いやほんと、油断も隙もないな……」
一人で脳内コントをしている姿を、他人から見たら不審者そのものである。事情を知っている者ばかりであるから助かっている。
「ぱ……ソウちゃん、またー?」
「難儀なことですわね」
「いや、もうなんか、いつものことだから気にしなくていいよ」
「ぱぱ」と呼びかけたアスタルテと、ヒルデブルク王女の同情の声への返答というより、即、心配そうに左腕を優しく両手で掴んで持ったリズに向けての言葉だ。
一方で叩いた当人より驚きの声を咄嗟に上げたソフィアは、なぜだか気恥ずかしくなって咳払いをして視線を斜め下にしていた。
激しく雪の降る寒空の下、神父のふりをしている紅蓮の魔王が微笑まし気に様子を眺めてから、一同に話しかける。
「そろそろだ。ああ、見えてきたな」
紅蓮の魔王が右手で示す。
多少は整備されているとはいえ、大人であっても山道は厳しいものがある。女子供が多いこのパーティで多少休憩を挟みつつ、ペイル山の中腹に位置する、マナ教の神殿に辿り着いた。
この中で体格も小さく、若いはずであるが疲れをものともしない王女が先に駆け出していた。
坂を上り切って、その全貌を見て足を止めた。
少しだけ開けた場所に出る。入口に看板があり、どうやらここが山の中腹で間違いなさそうだ。
山頂から麓の中間に位置するここは、少し均され、休憩用の小屋まであった。
離れたところに崖があり、そこからおそらく麓、帝都まで見下ろせることだろう。ただし、今は吹雪で危険であるため近寄るのは止した方がいい。
そして目的地の神殿は――……。
「あれが、ですの……?」
王女の首を傾げた一言に、追いついた颯汰たちも納得がいった。
雪が積もった石造りの小さな門らしきものがあり、数人通れるか程度の穴が広がっていた。
「……なんだか想像していたより、こう……小ぢんまりしてる。神殿というか洞穴? 中にちょっとした祠があるタイプの」
質素、あるいは素朴な出来栄え。
正直なところ、黒い石の囲いがなければ人工物とは思えなかったし、紅蓮の魔王が着いたと言わなければ、そこが神さまを奉る場所とは思いもしなかっただろう。
洞窟の入口にささやかながら『崩落の危険があるため立ち入り禁止』と看板が立てられている。
「……というか今更だけどマナ教なのに神殿なんです? 自然エネルギーのマナ自体を信奉するって話でしょう?」
颯汰の疑問に聖職者のふりをした魔王は答えてくれた。
「いたのさ。かつてマナの集合体たる存在がね」
「神さまが、ねぇ……。マナが減少していなくなったわけですか」
「そうだ。存在が保てなくなったのだろう。ただ仙界でも姿を表さなくなった。何か別の要因かもしれんがな」
「へぇ~」
男ふたりが会話している間、先に走って行った女性陣たちが振り返って叫ぶ。
「お二人ともー! 一旦こちらの中に入りませんことー!?」
「ぱぱ、はやくー!」
猛吹雪となっていたため、女性陣は外套の頭巾で雪から顔を庇いながら、小屋の中へ退避しようと既に向かっていた。アスタルテからの呼ばれ方でちょっとだけ顔をしかめた颯汰であったが、やれやれと息を吐いてこの場は諦めた。
「休憩は必要だ」
「そうっすね」
わざわざ降り頻る雪の中で会話を続ける必要は無い。
二人も彼女たちの後を追い、小屋の中へと入っていった。
防寒着はそのままであるが、背嚢は下ろし、スノーブーツのスパイクユニットなどを外してから、玄関から上がる。
木組みの小屋は、暗く寒い。
片付けられていたが、数日前に人が利用したような痕跡がある。暖炉はニヴァリスで普及している太古のテクノロジーを利用したものではなく、薪を焼べる従来のものであった。
シングルベッドが暖炉の奥の部屋に三つ。
ソファは無いが木を編んだ籐椅子が暖炉の近くにふたつ置かれていた。安物の薄いクッションが申し訳程度に置かれている。
小さな机のうえには開かれたままのノートやペンの類いが置かれ、訪れた人間が何かしら記念にメモ書きを残しているようだ。
ここで少しの間、休憩をとることにした。
休憩の間に、紅蓮の魔王が神殿の調査に単独で外に出ていく。マナ教の団体としてはそれが主の目的ではある。だが、あくまでも偽装であり、本来やらなくてもいいことでもある。それでも紅蓮の魔王がわりと神父ごっこを楽しんでいるのか、率先してそういった行為をやりたがる。
そこまで長居をするつもりはないが、火を着けて暖を取る一同。とにかく外は厳しい寒さで、下がった体温をあげる必要があった。
「軽くだけど食事にしようか」
颯汰の背から頭に登って顔を出したシロすけを含め、全員が彼の意見に賛同した。
霊山の標高は高く、ここまでそれなりの時間が掛かった。太陽の位置がわからないが、早朝から出て昼は過ぎているはずであった。
颯汰はさっそく準備に取り掛かる。
新鮮な食材の入手には失敗したが、燻製にしたベーコンなどの保存がきくものは所持していたので、簡単なスープを作ろうと背嚢を開けた。――そのときである。
突然、颯汰の顔に何かが飛び出した。
赤いそれは舌のように伸び、颯汰の顔に巻き付かんとする。
「――んなッ!?」
慌ててそれを振り解こうと掴んで叫ぶ。
「な、なんだこれ!? うわっ!」
それは首辺りにぐるぐると巻き付いて外れない。リズもシロすけも近づいて引っ張ってそれを外そうとするが、それ自体が動き颯汰もつられて右にくるりと回ってしまう。
「これは、あの霊獣の、布か!?」
手触りと片目を覆うほど暴れる赤い布切れで該当するアイテムはそれしかなかった。
リズが代わりに受け取ったが、颯汰が持つべきだと彼女は颯汰に渡していたのだ。
暴れ狂う布がまるで生物のように動き、翻弄する。小屋の中はパニックとなった。
「そう、……じゃありませんわ。ヒルベルト!」
「わわ!」
「一体何がどうなってるというの……!?」
王女にアスタルテ、それにソフィアまで状況が呑み込めないままであるが、颯汰の救出に協力しようと駆け寄った。
本人の意思を無視し、巻き付いた布の先端が身体を引っ張っていく。千鳥足のような片足でステップを踏む破目となっていた。身体を向けていない扉の方へ、小屋の外まで運ばれていく。
布が勝手に扉を開け、颯汰を外へ連れ出した。
凄まじい勢いで降る雪の下へ出ていく破目となった。
吐く息は凍るように冷たい。
目には雪が猛襲する。
「ちょ……、いったい、なんなんだ?」
容赦ない冷たさが襲い掛かる中、身体は勝手にある場所へ導く。正面を向けず、顔に巻き付く布で視界が上手く見えないため、どこへ向かっているか気づくのに少し遅れた。
誘われるは暗き闇への入口――崇め奉るために存在する神殿へ向けて移動している。
そうして休憩を挟む予定であった全員が、洞穴の中に導かれるのであった。




