81 羊の記憶
その都は異様な雰囲気に包まれていた。
感情が激しく揺さぶられ、熱狂に包まれた。
喜びから、悲しみ、絶望から希望へ転じる。
高鳴る鼓動は今、どんな感情から生じたのか、一瞬混乱するほどの激動であったと言える。
突如、世界は赤く染まった。
それは戦禍によって流れてしまった血などではなく、光によってもたらされた。
帝都の中心に座するは皇居たる空中庭園。
その下部に設置されている神の宝玉から眩い同色の光が周囲を照らす。
そして降り注ぐ高エネルギー密度のレーザー光線がこの地を染めたのであった。
そして、《神》が降臨した。
広大な帝都の中心の大穴からそれは出現した。
三重螺旋の支柱は光に呑まれて消滅し、不思議なことに庭園も宙に浮かんでいたが、誰もそれを目に止めることはない。破片や石材、金属もまた重力に逆らって浮いていた。帝都に張り巡らされた索道用の鉄線のロープも、消滅したものを除いて、チロチロと自然の法則を無視して上へと昇ろうてしていた。
それなのに、誰も気に留めない。
当たり前である。
目の前に大いなるモノが降臨したのだから。
想像の埒外たる巨大な人型のそれに対し、人々は畏怖と畏敬の念を覚え、そして“死”を克服した皇帝と一体となったことを早々に受け入れた。
あまりにショッキングな出来事であったからか、それとも、ある種の洗脳の賜物か。
民は恍惚と、新たな神を崇め奉る。
それは建国祭の生んだ楽し気な騒がしさとは異なる、熱狂であった。
遠退いた意識。
気が付くと、身体は宙に浮かんでいた。
微睡みに落ち、現実と虚構の区別が付かない。これから起こる事象に干渉できない観測者としてただぼんやりと景色を眺めていく。
重力に逆らい、また誰にも認識されない透明な存在であることに対する疑念を抱けるほど、意識は研ぎ澄まされてはいなかった。
茶褐色のセピア調の景色。
見覚えのあるような無いような街並み。
道路は整備されてはいるが、石畳による舗装はされておらず、細かな砂が目立つ土壌のようだ。
人々がただ日常を過ごすのを空から見下ろす。
目抜き通りを歩く人だかり。
ほとんどがローブを着込み、頭を隠している。
どこぞの宗教団体かと思われたが、街中がそうであったから、そういった流行なのか、あるいはこの街全体が敬虔な信者なのだろうか。
天気は晴れ。
周囲に雪など影一つ無く、また日照りが強い。
少なくとも永久凍土とはかけ離れている。
石材の家々は、感覚が狭く敷き詰められている。この辺りではどの家も軒がなく、橋代わりに木の板で隣の家へ、さらにもう一枚の板を伝って隣の家へ……、と歩けるようになっていた。
雨もどうやら少なそうだ。
空気に熱も感じないが、遠くで砂埃が舞っている。
風はきっと渇いているだろう。
――砂漠……エルドラント大陸? いや何か、何か違う、あの山の形は……
それ以上の考察は不可能であった。意識がまだ正常ではなく、さらに姿なきまま身体の自由は効かず、ただ意識的にある一点を見つめるようになったからだ。人だかりの中、その人たちだけ、色が着いて見えた。
二人。
周りの人と変わらぬ姿格好ではあるが、やけに目立つ気がする。色のせいもあるが、その“姉妹”を見つめていた。
ローブの頭巾で顔が見えず種族もわからないが、一人は成人しているのは間違いなく、もう一人はかなり幼く見える。一見すると買い物にきた親子と言われてもおかしくないが、直感的に“姉妹”であると認識する。
彼女たちを見ていると何だか懐かしい気持ちがして、観測者は己の身体すら見えていないのに、その裸体の胸に手を置いた。きゅっと締め付けられる思いがした。
気づくと人混みの中に紛れ、意思と関係なく彼らを見ている。幸せそうな光景である。
露店街へ買い物にやってきたようだ。
並ぶ果実には見覚えがある。
港町アルジャーにて商人が植物を編んで作った大きな籠一杯に、丸くて黄色い拳大の果物をどっさり入れて背負っていたのを見かけたのを思い出す。
他にも野菜や果物が豊富に並んでいる。
隣の店には干し魚や干し肉、大きな鍋で豪快に料理を作って販売している店もある。
衣服や装飾品以外にも日用品がずらりと並ぶ。
音もぼやけているが、何となくわかる。
貴族が好みそうな洗練さはなくとも、きっと人々はその営みに、緩やかで温かい喜びを感じているに違いない。
ただ一人……女性に手を引かれる幼い子どもを除いて。
姉の方が何か頻りに声をかけ、少女を楽しませようとしている風であるが、妹の方は何だか俯きがちで、足取りがおぼつかない。
無理矢理引っ張っているようには見えないが、塞ぎがちな少女はたどたどしく歩いている。
ひきこもりの幼女を連れまわしている、とか――拉致した他人の子を家族のように連れまわしている、とかそういう案件では無いと思うのだが、姉の方がかなり妹に気をかけている様子で、治安維持を務める兵や警備を担う者がいたら声をかけるのではなかろうか。
そう観測者の方が心配していた。
ただよく見ると周りの人々や親子もそこまで他者に興味関心を示さず、見ていても奇異の視線というより、温かい目をしていたことには観測者は気づいていない。
姉は妹を少しでも喜ばせようと何か露店の果実を指さした。丸くて白の網目状の模様が入った緑色の果物……かなり高級なものだと何となくわかる。まさかあれを買うつもりなのだろうか。姉は妹の方を向く。おそらく少し待つようにと声をかけた後に、店の主人に近づいて話し始めた。
今まで、会話すら遠く声を正確に聞き取れなかったが、次の瞬間からハッキリと捉えることができるようになった。
『きゃっ――!?』
『邪魔だクソガキ!』
妹を突き飛ばす大男。わざと身体をぶつけてきたのだと見ていた観測者でなくともわかる。
ローブから頭を出している男は人族のようである。大柄で横暴な態度を取る厄介者であると一目見てわかるような顔つきであった。
『貧乏臭ぇところには貧乏臭ぇガキが集まるもんだな。おいおい、店主よ、何時立ち退くんだコラ……って――』
男は転ばした妹を一瞥する。そこで少女の痩せこけた足首を見て目の色を変えた。
『てめぇクソガキ“ヒツジ”じゃねーか』
そういうと男は妹に近づき、乱暴にローブから細い手を取り出し、頭巾は取らなかったが首元も確認して笑った。その目は弱者を見つけた――無条件でいたぶってもよい相手を見つけた人間の、恐ろしい光を湛えていた。
『やっぱり“ヒツジ”! 平民以下の“ヒツジ”か! 貧乏なだけじゃなくて臭ぇわけだ!』
“ヒツジ”という言葉が、この国で定められた新たな身分である。貴族や国主に向く不満を一時的に逸らすために生まれた制度。手足を含む首という首に、外せない輪の装着を義務付けられた者をそう呼ぶのだ。
疫病や飢饉、戦争や支配による不平や不満を推し込めるための苦肉の策のつもりなのだろう。
人権が完全に失われるわけではないというのは当然表向き。貴族だけではなく平民からも罵られ、暴力の的となっていた。
『俺様が買い取ってやるか? カーッカッカッカ!!』
品性の欠片もない男は笑ったすぐその次の瞬間、
『要らねえよ、こんなゴミ!!』
自分の言葉を否定しつつ、妹を蹴り飛ばした。
地面を転がる妹、場に戦慄が奔る。
興味を失せ、店主に噛みつかんばかりに近づいて襟首を掴んで引き寄せようとしたところ――、その逞しい腕の上にトンと静かに手が置かれた。
『あァン?』
男が睨みつけた先には、姉たる女であった。細く柔らかな手が置き、女は真っすぐな瞳で男を見て言葉を返す。
『謝ってください』
『なんだ? お前も“ヒツジ”……いや、手首に無いな。俺様に媚を売りたいわけか?』
会話になっていないことに腹を立てているわけでは当然なく、姉はわかりやすく言う。
『あの子に、謝ってください』
あの子とは妹のことである。
妹は蹴られたお腹を押さえつつ、何とか涙を堪える。泣いたら駄目だと彼女はそう思い込んでいた。泣いても誰も助けてくれない。それどころか民衆は面白いものであると加虐的になる。経験から妹はそう学んでいたのだ。
姉は今すぐに駆け寄りたい衝動にかられながらも、諭すように声をかけた。店主の男は驚いて声を失い、目をまんまるにして当事者の一人でありながら呆然としてしまっている。
下品な男は悪びれずに然も当り前のように言い放とうとした。
『“ヒツジ”を痛めつけて何が悪い? 俺様は貴族――』
『――いいから、あの子に、謝ってください』
言葉を遮る。言葉の節々から強い感情と圧を感じさせた。置いた手は男の腕を掴むと、そのまま妹の方へ引っ張ろうとする。いや、引っ張っていった。驚くべき怪力により、店主の襟を掴んでいた手は放されてしまう。
『な、なにをする! 無礼な女め!』
振りほどく勢いに加えた足蹴で、女を店の商品がある棚に突き飛ばす。木箱は崩れ、商品である果実類は地面を転がっていく。
痛みに悶えていた妹は、驚き、顔を上げて姉の方を見た。
周囲に人だかりができていたが、誰もある一線から距離を詰めずに傍観者となっていた。
誰も助けてくれる者はいない。そもそも、自分は“ヒツジ”であると彼女自身が身に染みてわかっていた。誰にも期待できず、野垂れ死ぬ運命であると受け入れていた。
――だけど……!
それは違った。父は兵役の訓練中に事故死、母は病気で亡くなって身寄りがなくなった少女を、死の運命から救ってくれたのはあの姉である。その差し伸べられた手が、光景と握った手の温かさがフラッシュバックする。
身体に活力が戻ったわけではないが、不思議と痛みを忘れ、少女は――妹は立ち上がって駆け出した。
――『お姉ちゃん!!』
言葉が重なる。
途端に、世界は白い闇に包まれ始めた。これが何を意図するのか、観測者にはわからない。
目を覚まして、気付く。
夢に終わりを――。
過去の、ある日の出来事を切り取ったほんのひとかけらの再生が終わる――。
少女の背後から立ち上るように伸びた影が生まれたことは、霧散して記憶に残らない。
それは男であった。やけに背が高い。一つ頭が抜きんでている。少し伸びた金色の髪を後ろで縛った男。鬼人族のようながっちりとした筋肉質ではないというのに、その巨躯よりも大きな剣を携えている。
それはまさしく当代の“光の勇者”。
紅き閃光が迸る寸前で途切れ――……。
「――っ、お姉ちゃん!」
声を上げて上体を起こす。
「あ、……れ……?」
観測者である女は目を覚ました。
微睡みに落ちていた意識と、朧げであった視界は徐々に色を取り戻して明瞭となっていく。
「夢、じゃない……」
夢を見ていたのは紛れもないが、それは過去の情景であることは間違いない。
それは失われていた記憶――。
森で目覚めた頃よりも前の、遥か過去のもの。
女は、己の両手を見る。
白く透き通る白磁の指先。
そして己の顔に触れる。
質感。目や鼻、口の形を摸る。
女――ウェパルは悟った。
全部、全部思い出したのだ。
目から、雫が零れ出す。
溢れて、溢れて、止まらない。
滂沱の涙は止まらず、言葉を静かに繰り返す。
「おもい、だした……。思い、出した……」
悔恨の念や、贖罪にも聞こえる独白。
暗い部屋の質素なベッドの上にて。
すすり泣く声だけが残されると思った部屋に、
「起きましたかァ!!」
扉を勢いよく開けて入って来たデリカシーゼロの男。ウェパルは少し固まったが、すべてを思い出した今、それが誰なのかも当然理解している。
「……第三皇子、ヴィクトル」
他の兄妹よりも獣刃族の雪の民としての血が色濃く残っているのか、好戦的な男だったと記憶している。この邦で知らぬ者はいない、超有名人。それ以前に、例の式典で専用車両に乗って民たちの黄色い声に応えて手を振り返しているはずであったが……。
「やや! 顔はさっき始めて見たものの、魔王殿の人格か? まったく、面妖なものですな!」
さっきとは、皇帝が神となる前のこと。ウェパルがヴラドの前に現れたときに、車両に乗っていて腕組みをして、瞑想しているかのように座して動かないでいた男が彼である。民に対して悪態をついていたわけではなく、彼には彼の考えがあって時を待っていたに過ぎない。
そして、行動を取ったから、今この場に氷の魔王がいるという結果に繋がった。
「……? あぁ、君は妾を――魔王を悪霊の類いだと思っていたわけね。……否定しづらいかな、うん。そうね」
「????」
首を傾げる皇子に、ウェパルは少しだけ笑った。




