80 巨神
「な、なにゆえ……!?」
寒さでも怒りでも、恐怖でもなく、女の声は震えていた。
この地に降りかかる呪詛は解かれていない。それはこの冷気・氷結等を操る、氷のような女魔王が一番よくわかっていた。
それなのに、凶弾は皇帝を射抜いた。
慄いたのは、その凄惨な光景を見ていたからではない。己の計画では宝玉が生み出すエネルギーを取り込み生き長らえ、皇帝を殺すつもりは無かった。しかし保険としてその選択も当然、視野には入れていたが、手筈通りではなかった。
万が一それを実行すると決めた場合――、
帝都中すべてのシステムを制御下に置き、この地を宿痾のように苛んでいた呪いから解放できた、という前提条件があり、狙撃の合図は(院内などの重要な設備を除く)帝都中の全電力を一時的に落とすことである。そして、暗闇の中を狙撃させるつもりであった。
魔王が施した特別な力はあくまで補助であり、レライエはほぼ己の実力でそれを可能とする。闇夜であれ、彼は狙って獲物を外しはしない。
実際にはライトアップをされたせいで眩くて上手く狙いが付けられなかったが、銃の扱いに慣れていないはずの彼は、寸分違わず皇帝の脳天を撃ち抜いた。まるで慣れ親しんだ武器を用いたように。
魔王は困惑している。
皇帝は死んだ。
いくら偉大な皇帝、ニヴァリスの血を引く男とはいえ脳に銃弾がめり込んで、回転しながら毛と皮と血と、細胞の何もかもを巻き込んでズタズタにしていけば生きる道理などない。
――だが、皇帝は、わざと……
挑発的な物言いをし、嗤ったまま、死んだ。
まるで自分はすべてを理解し、手の内通りに事が進んでいると信じて疑わぬ傲岸な顔であった。
わずかなとき――数えるなら一から二に満たぬ間であろうか。ほんの短い忘失から、彼女を我に帰らせたのは物音である。
ガチャリガチャリと重々しく煩い金属音。
仮称・吸血兵がその鈍重な見た目に反し、最速で動く。弾丸を撃ち放った刺客を捕らえんと、驚異的な速度で離脱――また壁をよじ登って建物から建物へ駆け抜けていった。半数の十二体が包囲するように散って跳んで行くのが、音から察せられる。
あの男は助からぬ、と魔王の表情は曇り、苦虫を潰したような顔をした。
残りの兵は、こちらに向くはずだ。
暗闇にまだ混乱した人の子らは動けないし、騎兵は民草の悲鳴でウマを興奮させぬよう必死に宥めていた。つまりここで彼女に向かうのは残った十二の人外の兵士――否、兵器たち。
ウェパルであれば間違いなく苦戦したが、混乱に乗じて首級を取ることはできたかもしれない。
……これも前提として彼女が革命をなさんとする戦士たちと共に戦うのと、本人が皇帝を殺すべき相手であると認識しているかが重要ではあるが。
今の彼女は死にかけとはいえ魔王であるため、それらは敵ではない。だが力を使えば消滅が早まる。
謎は解けぬまま時間は過ぎ、脅威は迫る。
民の悲鳴は、止むことを知らず。
闇の中、混乱は続いていく。
天蓋から垂れる雲は重く、螺旋の下は影となり光は届いてこない。
祭りへの期待や高まる感情が、完全に反転した。
唐突に、死は風を切り裂きながら運ばれてきたのだ。
目の前の光景を、受け入れがたい現実を前にして精一杯であるから、誰もがこの後に続く最悪なシナリオ――繁栄の終わりまでは想像できずにいる。それも仕方がない。時間で言えば今起こったばかりなのだ。
皇帝が、前のめりに倒れ、落下して闇に消えた。
そして、帝都中に設置してある照明器具の類いが、ジジジと音を立てながら明滅した後、復旧していく。闇が晴れていく。
直面しなければならぬ現実が、そこにあった。
「…………!」「あ、あぁ……」「う、嘘だろ……?」「こ、皇帝、陛下……?」
近衛を務める兵士や、車両に乗り合わせていた宰相が叫びながら、転がったモノに駆け寄る。
目に映るからこそ、動揺が加速していく。
柵の前で守衛が必死に人波を押さえんと、民と同じ感情を抱きながら武器を取って威嚇する。
止まった車両から転落し、血だまりの上に横たわっていた皇帝であったモノ。ヴラドレンとヴァジムがいつの間にか寄り添い、懸命に声をかけているのが見える。車両では他の兄妹たちは、椅子から転げ落ちて腰を抜かしていたり、目を剥き口を押さえていたりする。
ただ一人、座して腕を組んで動かぬ男もいた。
一つの時代が終わりを告げる序曲。
破滅が足音を鳴らしてやって来る。
地を揺らし、天を揺らし、世界を揺るがして。
慟哭、絶望、哀悼――感情が爆ぜるように波打っては、帝都を覆い包み込んでいく。
誰かが思う。いや、皇帝を愛してやまない誰もが願った。
これは、夢であって欲しい。
早く覚めるべき悪夢だ。
認めたくない。
嘘だ。何かの悪い冗談だ。
起き上がってください。
息を吹き返して。
今すぐ、目を覚まして。
暗い闇、これから起こる最悪の未来――。
それを晴らすのは、たった一言であった。
「静まれ。民らよ」
落ち着き払った声。
どっしりとしていて、決して大声ではないというのに、しっかりと胸に響く。願いは天に届くとは限らないが、闇はいつか晴れるものだ。
「余は、まだ死なぬ……」
目を見開いたまま、虚空を見つめる皇帝。
即死と思われたが、まだ息があった。
ただ、その目は虚ろであり、残された時間は少ない。ヴァジムが衛生兵を呼びつける。車両にひっそりと同乗していた彼らは救急道具を手にして駆け出してきていた。
「いい。余は、死なぬのだ……」
強がりに近い言葉から、妙に優しさを覚える。
赤い水面が広がり、生きているのが奇跡であり、それが短いものだと察せられる。
「余は、永遠――。ニヴァリスの繁栄もまた、等しく永遠なのじゃ……」
どこか儚げなのは、一層声が掠れていたせいだろうか。
死を前にしたヒトの戯言を否定するような、心無き者はいなかった。
「のぉ、我が息子、ヴラドレン……」
「――……父上!」
三十代半ば過ぎの、獣刃族の皇子は、それまで見せたことがない、悲痛であり深い愛情を感じさせる表情で応えた。
「ヴァジム、よ」
「陛下……いえ、父上!」
常に冷静沈着で少し痩せ気味で三白眼、肌の白さも相まって病的に見える次男は、冷徹な男を演じきれずにいるように見えた。その目頭に熱いものが宿っている。
「我が身は、今、神に至る。この地を、永遠に護るため、外敵を滅ぼす、神と」
彼の皇帝の言葉は、余人には理解不能なものであった。周囲に顔をしかめる者はいない。
魔王にはその言葉が届かず、ただ呆然とそれを見ているしかできない。油断すれば、武器を構えている怪物たちが、一斉に命を奪りに来ると身構えていた。その巨体を包む全身鎧と、重々しい武装。戦槌に戦斧、大型の戟に、トゲ付き鉄球に鎖が付いた武装などを有しているが、想像以上に速く動けることは既に理解しているためだ。
視界から敵を外さないが、即死したと思われた皇帝が生きていることに魔王は言葉を失う。
父は死に際に子に伝えたい言葉を続ける。
「だが、ヒトの世を導くのは――次代の皇帝の任は、ヴラドレン……其方に任せる」
「父上……!」
「ヴァジム。すまないが、兄の補佐を、頼まれてくれるか……」
「…………はい。謹んで御受け致します」
息子たちの目から雫が滴れて頬に伝う。
それを見て、皇帝が微笑む。皇帝のこんな表情はいつぶりだろうかと、息子たちも宰相も悲し気にその顔をみつめた。
安らかに眠りつくと思われた皇帝だが、力が抜けていた顔に活力が宿る。
それは、散り際の最期の輝きか。
残った生命をすべて振り絞るように告げる。
「では、見せよう。我が、最期の光。そして、これからのニヴァリスの栄華を絶対とする光を――」
手を伸ばした先には、三重螺旋の柱の向こう。中天に座する空中庭園。
その真下に燦然と煌めく紅い宝玉。
その最期に呼応するように宝玉が力強く光ったのを、民は見た。
すべてを使い切ったように手はだらりと力が抜けた。
皇帝が、息を引き取った。
そして――、
「な、なんだ……?」「空中庭園の――」「えっ? 何が起きているの」「見て! 神の宝玉が!!」
民たちは叫び、指をさした。
空に浮かぶ宝玉はその色と同じ紅い光を発していたのだ。いつの間にか周囲の照明はスッと消えていたが、視界のすべてを赤く照らし、塗り潰してみせた。
ばちばちとエネルギーが迸る神の宝玉。
光は次第に強まっていき、解き放たれる。
真下へ、光が落ちる。
庭園を支える三重螺旋の柱を呑み込み、注がれるエネルギー。
地下から凄まじい、極太のビーム状のエネルギーが屹立し、それが庭園を持ち上げているようにも見えるかもしれないが、間違いなく上から下へ注がれていった。
帝都の中心の大穴を埋める赤い光の滝。
螺旋状に展開された都市で、誰もがそれを見ていた。
それとは、即ち、神の降臨。
地下の最奥まで行き届いた光によって、それは起動する。
かつて世界が――文明が滅びる前に製造されたシステム。注がれた高エネルギーを供給され、超速度で生成される。
そして生まれ変わった《神》が目覚めた。
ビームが徐々に細く弱まっていき、供給が止まった。辺りはまた闇に包まれたが程なくして照明が、再び都市部を照らし出す。
人々は異変の連続でおかしくなりそうであったが、次の出来事もすぐに察知していた。
音が、奈落の底から響く。
重圧をもって昇ってくるのを知覚できた。
耳をつんざくのは馴染みの無い音。
それは、大穴から現れた。
青白い炎を背部や脚部から放ち、足は地面から離れて浮かんでいる。
両手があり、両足があり、顔もある。
シルエットだけ見ればヒトに近いが、大きさが全く異なる。彼の大いなる存在がヒトであるならば、我々人類など蟻などの小さき生き物に近しくなってしまうほどのサイズ差。
圧倒的な存在感に、人々は再度、言葉を失う。
巨大すぎるそれに対し抱く感情は様々であるが大部分は畏怖、畏敬――誤っても敵対するなど発想は出るはずがない。
表皮は灰色で、巨大な彫像のようにも、なにかの生物の硬い外殻のようにも見える部位もある。
ヒトを模る何かが、宙を佇んでいる。
顔の形状はヒトから離れ、人間の両目の間に宝玉と同じ色をしたやや透明感のある赤い装飾。
そして赤く光る二つの眼もあった。
無心にも思える顔からは何も読み取れない。
鼻も口もない、あるいは装甲に覆われている。
だが、赤く怪しく燃える瞳が、発せられた言葉にリンクして明滅し始めた。
『民よ。絶望することはない』
その声は、紛れもなく、今、死した――皇帝のものであった。
何がどうなっているか、混乱が加速する。
眼前に降臨せし魔神。
あまりにも規格外の大きさを誇る。
神々しさと得も言われえぬ圧があった。
『なぜならこれで、ニヴァリスは真に不滅となったゆえ――』
永久の眠りについたと思われた皇帝であった遺体の口が開き、同じ文言を語る。さらに目からも眩い光が発せられていた。
現れた魔神が上昇し、件の騒ぎが起きている階層に合わせて腹部を近づけると、ガタンと音を立ててハッチが開く。そこから悍ましい金属の蔦、触手の類いが何十本も飛び出てきては意思をもって皇帝の骸へと向かう。息子たちに抱きかかえられていた骸に触手は絡み、そのまま中へ連れていく。何も知らぬ兵は思わず一歩踏み出すか、退いていたが、医者を含む皇帝の近くにいたものは誰一人として止めようとしない。
何が起きているのか知っていたのだろう。
内部に引きずり込まれる前に、皇帝は再度口を開く。
『我が民よ。これこそはニヴァリスを永劫に守護せし余の――神たる姿。余は肉体の檻を捨て、今やニヴァリスを守護せし者――新たな神と一体となるのだ』
静まり返る帝都。血塗れで見るに堪えない貫通痕を晒しても、民は目を離すことはなかった。
皇帝が、神に取り込まれ、一つとなった。
「……ざい」「ぉ、ぉおお……!」
「……か、ばんざい」「陛下、万歳……!」
誰かが声を上げると、それに呼応する。
この地に恵みを与え、神と讃美されていた男が、ついにその域に自らを至らせた。
「皇帝陛下……いや、ニヴァリスの守り神! ヴラド神! 万歳!」「ニヴァリスに栄光あれ! ヴラド様! 我が帝国に永遠の繁栄を!」
騎士たちもまた、称賛し始める。
その力の片鱗すら垣間見ていないというのに、ただそこにいるだけで絶対的な存在だと認めてしまう。高まる興奮が再びこの地に木霊する。
何も言わずに涙を流しながら手を組んで拝む者まで現れる。
凄まじい熱をもって、神聖なるものを皇帝であったものを受け入れる。神と崇めた皇帝の死を認めたくないから、この異常な光景をすんなりと受け入れられたのだろう。
「ニヴァリスに神が、本当の神が降臨なされた!」「あぁ、ヴラド帝は神となった!」「ニヴァリス万歳!! ヴラド神、ばんざーい!!」
この熱狂は一度、地の底に落ちるような体験をしたからこそだ。
そして実際にこの帝都ガラッシアの最奥――地下の奥深くにて、長い時間をかけて入念に準備をなされていた。発掘された半壊の骸を修繕し、随分と資源も費やしてきた。
そこへ、神の宝玉から降り注ぐ、溜めに溜めたエネルギーによってシステムは起動した。それにより、剥き出しの骨格と人工筋肉、それを覆う装甲。欠けて無くなっていた右腕部。焼けて黒くなった心臓部などが急速に作り直されて誕生した。
それは《巨神》と呼ばれし兵器。
生物でもあり、機械でもあり、神とも称された破壊の化身である。
『呪いが滴る水のように沁みていく――』
民が神を無条件に礼讃するこの光景を見ていたならば、そう思ったに違いない。
魔王――不遜にも皇帝を襲撃に荷担した不埒者の姿は、既に消えていた。




