79 崩壊の序曲
誰もが、予想できなかった。
この帝都ガラッシアは滅びることは無い。
……いや、そういった想像すら無縁であった。いつまでも帝都、ひいてはこのニヴァリス帝国が当たり前のように在り続けるものだと無意識に思い込んでいたのだ。
雪原での防衛戦に熟れ、鍛え抜かれた騎士。自然の要塞を利用した盤石の守り。未知なる兵装に固められた帝都ガラッシアを攻め滅ぼすものなど他国にいないと思われた。
一線を画す、太古の技術を次々と軍事転用していく中で、この国は紛れもなく強国と呼べるものに変わっていった。山岳地帯の隣国たるシルヴィア公国との国境付近でつまらぬ小競り合いなど今だけである。攻め落とすのは時間の問題だ。
極寒の地でヒトが簡単に生きられるような世界ではなかったが、ニヴァリスの地下施設からあらゆる道具を発見し、蘇らさせていった。
爆薬や大砲、銃器だけではなく、空を飛ぶ船さえ生み出した。世界を手中に収めるのは遠い夢ではなくなったのだ。
ただ、一つ懸念は“魔王”と呼ばれるもの――こことは異なる世界から転生したとされる、欲望の悪魔の子孫たちだけだ。空白の時代を超え、大罪七帝と呼ばれた邪悪な存在の逸話は口伝し、この時代まで残っている。
何故、この繁栄を約束されたニヴァリスの絶頂期ともいえるこの時代に、魔王が降臨したのか。帝都の一部の貴族たちは大いに嘆いていた。
しかし、さらに上にいる者たちは知っていた。
それすら帝都は、いやニヴァリス帝国は超えていけると確信していた。
『あんなものを見せられたならば、誰であろうと納得せざるを得ない』
今や祭りは盛り上がりを見せる中、真実に触れた者たちの顔はさまざまである。
世界最高の国の上流階級にいるという喜び。
浮かれて心から祭りを楽しんでいるもの。
時折、暗い影を落とすもの。
反乱分子として投獄されて、死を待つもの。
ヒトの手に余ると理解し、震えるもの。
そこに唯一、怒りの表情だけ無かった。
まるで足りない感情を補うため、一人の女が現れる。人混みを歩み、距離を縮めていく。
「……まれ」
「? え?」
「止まれ、と言うておる」
人々の歓声の中、聞き取れなかった皇帝の言葉の鋭さに御者が身震いをした。
「ッ! は、ははー!」
現皇帝ヴラドの命を受け、皇帝一家を乗せた車両が緊急停止を始める。
第三皇子以下の年齢の子らは、何事かと驚く中――頂上に座していた皇帝は静かに立ち上がる。
「来おったか。叛逆の徒よ」
掠れた声での独り言はどこか嬉し気であった。
皇帝の車両が止まったことにより、軍の行進も止まる。それでも、美しい音楽だけは帝都内に響き渡っていた。
少し静まった後、何事かと民が別の意味で騒がしくなり始める。
「……!? 一体何が起きた……?」
街の中心に屹立する螺旋型の巨大な支柱――超長距離から狙撃を試みようとしているレライエも異変に気付いた。
鳴りやまぬ楽器が奏でる音の渦の中、軍靴の音はひっそりと消える。
停止の命を受け、車両とその前後を歩む帝国の剣たる騎士たちは従うものの、兜を外した者や面頬部分を上げて進む者たちは表情にこそ出さなかったが、泳ぐ目線に困惑を物語っていた。
それはこの式典を眺めている民衆もそうであったし、襲撃を企てている反乱分子――『ミスリルの目』の者たちもそうであった。襲撃こそ企てていたものの、このタイミングではない。
群衆の中、車両へ向かって歩む。
その覚悟の重さが足取りへ影響していた。
ただ、女の表情は強ばっている。
少女から大人へ至る途中とも見れる麗質さ。
その端整な顔たちは崩れることは無かったが、額は汗ばみ、頬はほんのりと赤い。
倒れそうな身体に鞭を打って、踏みしめて前へ、前へ。人波を超えていく。
騒ぎはするが動かない民たちの中で、彼女は異彩を放っていたと言うべきだろう。
人々は次第にその美女に気づき、道を開ける。
何人たりとも歩む道を阻むことはなく、海を割って進む先導者のように。
人だかりが開き、守衛を務める奇妙な格好の騎士たちが一斉に構えた。見た目こそ鈍重な全身鎧――潜水服のように一切を包む姿をした吸血兵たちがどの騎士たちよりも素早く動き、外敵の排除に務めようとしたが――、
「よい。貴様らは下がれ」
皇帝の一言でそれらは止まる。
そして、皇帝が手を差し向けて言う。
「そろそろやって来る頃合いと思っていたぞ」
「…………」
皇帝の言葉に、女は苦し気な顔を上げて睨むだけで終わる。その目に強い敵意で満ちていた。
右手にアタッシュケースのようなものを持ちながら、見上げる女。
「ほぉ。新たに一体、取り込んだか」
皇帝は、女の顔を初めてみた。見知らぬ顔。一度見れば忘れない美女ではあるが記憶にない。
だが、その人物が何者かは知っている。
ここにやって来た女――ウェパルだって初対面のはずであった。
「私の、言いたいこと、わかるわね?」
息切れしながら、不遜にも皇帝に問いかける。
「無論だとも」
皇帝は掠れた声で笑って答えて見せた。
「お前に残された時間は無い。我が頭天にある神の宝玉、お主が活動できたのもそこから魔力を供給されたがゆえ、だからな」
「…………」
「自我を持てば離反することなど容易に予想できた。だから手を打つのは当たり前であろう? お前はすぐに魔力が尽きて死ぬ運命であったが……生きておるな。辛うじて」
「御託は、いい。私の要求はひとつ。私への魔力供給ラインの再起動。しなければ――」
ウェパルと同じ顔をした女が手に持っていたケースを前へ差し出して、
「――この一帯を、吹っ飛ばすわ」
警戒している騎士たちもただ緊張した面持ちで事態を見守るだけであった民も、その言葉の意味が一瞬わからなかった。実戦で凍結されるため爆弾というものが何なのか知らない民が多かったが、家屋が吹き飛ぶという言葉にあるものを連想させた。
最初に答えに至ったのは、皇帝であった。
「……なるほど。エネルギー・コアか」
「御明察。あなたもその家族も、民もぜんぶ、火の海に、沈むことになるわ」
嘘ではないという証拠に、中を開けて見せる。開けた途端、四角い物体が宙に浮き、光る紋様を浮かばせ回転を始める。女は拳ほどの大きさのそれをすぐさまケースを閉じてしまい込んだ。それは、ニヴァリスにおいて暖炉に用いられたキューブ状のエネルギーユニット。扱いを間違えると爆ぜて周囲一帯が大惨事になるような代物である。
民から響動めきが奔るのは無理もない。
騎士たちも臨戦態勢をとっていたが、皇帝は制止させ続ける。まだ会話は終わっていない。
「止めよ。ふむ……自爆覚悟……、いや違う、か」
「私ならば、爆発の時に生じる魔力エネルギーを吸収し、生き、長らえる…。すぐにそれをしないのは、何も貴方に対する慈悲ではなく、すぐに支配下に置くこととなるこの地を、壊したくないからよ。でも、条件を呑まないなら、……はぁ、はぁ……私は、私は躊躇いもなく、ここを爆破する。もう、残された時間が、……無いのだもの。あなたが死んだ後、宝玉を掌握し――」
車両で脅える、または困惑している皇帝の子らの、末妹が女と目があった。
「な、なに……?」
言いようのない怖気に、イリーナは声を震わせる。遠くからやって来た女は、その纏う雰囲気と表情から、外套の頭巾で顔が隠れていたせいではなく、本当に知らぬ者だと皇女イリーナは思った。掻き上げるように頭巾を外すと、イリーナは驚愕した。しかし怒りの感情よりもずっと、強い恐怖を覚えた。知り合いのようであって、雰囲気がまるで違っていて、顔の作りこそは同じはずであるというのに。
知っているのに誰かわからない。
暗い陰に隠れて真っ黒な渦を幻視する。
否、それは幻ではなく――顔がぐにゃりと変わって、姿まで変化したのだ。
空気に満ちた緊張感までが凍り付きそうなほどの冷気が漂う。踏んだ地面から、霜が水面に伝う波紋のように広がっていく。
人々は、恐れを抱く。目の前の異常な光景ではなく、降臨した悪魔の存在そのものにだ。
恐怖という感情は伝播し、病よりも疾く人々の心を苛んでいく。
得体の知れない気持ち悪さに、イリーナもその場から逃げ出したくなった。
「“魔王”……貴様、最後のピースを埋めるつもりか」
ただ一人、泰然とした調子の皇帝が“氷の魔王”――彼女の最大の目的を口にする。
「えぇ。そうして、妾は完全な復活を遂げる」
「ふん、愚か者め。大人しくこのニヴァリスのために従う――無償で知恵を授けるだけの、自我も肉体も持たぬ亡霊のままであればよかったというのに」
「ほざけ下郎めが。……大人しく、宝玉を制御し、妾に魔力を流すのじゃ。さすれば今までの狼藉を許してやろうぞ」
「くだらぬ虚勢を張るのは止せ。不完全であるから王権から魔力の供給が行われていないだけであろうに」
皇帝の言葉が事実であるため、魔王は激しい怒りをその目に宿して上から睥睨する男を睨んだ。
「今でさえ、存在を保つのがやっとであろう。その箱を壊す力さえ、今のお前にはない」
「無策で来ると思うたか? 起爆のための衝撃など――」
「狙撃か?」
「――……!」
間髪入れずに皇帝が刃先のように鋭い答えを放ってきたため、魔王は言葉に詰まった。その様子を見て皇帝はほくそ笑んで、続けた。
「戦槌など、付近に武装したものがおれば話は別だろうがな。そのようなものはいない。自滅覚悟で魔法を行使すれば、エネルギーを得る前に消滅は必至――であれば協力者を要するはず。幸い、お前のイデア・スキルであれば必要な駒を揃えるなど容易であろう? ……王権を不所持であろうとも、十全に機能を果たしていたのは驚いたがな」
お前のすべてを見知っているぞと言わんばかりの物言いに、感情を爆ぜさせて思うがままに破壊の限りを尽くすこと……をしなかったのは、皇帝の言葉が正しく、彼女は消滅寸前であるためだ。歯軋りこそ鳴らさなかったが、その表情から察しがつく。このまま舌戦を繰り広げていても徒に時間が過ぎるだけだと魔王は気づき、ペースを握らんとした。
「……慎め。すぐにでもこのコアを撃ち貫くことはできるのだぞ。そのように調整したからな」
「……だが狙撃する対象は別であろう。お前が持つそれではなく、このヴラドだ。少なくともお前はそう吹き込んだはずだ。そして狙撃手は銃の練度は無くともお前のイデア・スキルで狙撃の名手となっているだろうが、完全な未経験者――銃に触れたことが無い一般市民ではない。軍務経験者や狩人、あるいは非合法で銃器を手に入れた地下のごみ溜めの住人どもか。お前の能力は確かに凄まじいが、万能ではない。多少は道筋が必要――そのシナリオこそ余の暗殺。余を、皇帝を殺すためだと叛逆者どもを唆した。完全に行動を操れるならこんな回りくどいことをしなくてもよいからな」
「っ……」
「それにお前は自爆などするつもりはない。この地を掌握したい強欲な魔王ではあるが、それ以上に貴重なピースを傷つけることはするまいよ。お前はともかく、それが死なぬという確証があるなら構わず自爆しているはずだ。起爆方法が狙撃であるためそのケースだけを投げ込むことは難しくても、交渉などする必要がない」
「む……」
「今までは我が一族に知識を授けるだけの傀儡であったが、自我を持った魔王など危うい。余はすぐに制御室から目に見えぬ線を断った。しかし偶然にもお前は先ほどの姿の女子を見つけて僅かだが延命した。そこら辺の仕組みは曖昧だが現にそうなっておる」
「……、…………」
「供給が止まり放っておくと自然消滅が決まり、後の無いお前は、どうにか王権を使える状態になるか、余から宝玉を奪うしかない。そのために叛逆者のクズ共を利用したのだ。テロなどの騒ぎに乗じながら接触を果たせば、一対一で交渉するよりも上手くいくと考えたのであろう。家族を盾にすれば条件を呑むと」
「…………」
「叛逆者が、無辜の民を巻き込んで殺すなどというテロリズムを行うかの、是非は量りようない。だが、民衆を必ず敵に回すにしても、大量虐殺者であるより、たった一人――余を、ヴラドを殺すであれば違うだろう? お前は宝玉から魔力を奪った途端にまずは余の排除から試みるはずだ。今までは自我が無きゆえに余を殺せなかったが」
まだまだ続けようとしていた皇帝であったが、女魔王の様子を見て言葉を止めた。
「…………そんな一から十まで、全部喋ることないではないか」
魔王は空いた手の拳を握りしめながら震わせていた。絞り出す言葉は悔しさが滲み出ていた。
したり顔であった皇帝は、それを見て若干のばつが悪そうな表情で返す。
「……言われると、少しばかし悪いとは思う。だが、余を裏切った罪は重いぞ」
「はぁ!? そっちから裏切ったんじゃろうが! 魔力が無くなったら妾、消滅じゃぞ?」
今まで言われっぱなしで堪えきれずにいた感情が爆発する。
童女のように魔王はギャンギャンと吠えた。対照的に皇帝は極めて落ち着き払っていた。
「どうあれ自我を取り戻したお前は余を殺す。この地に接続されし宝玉の全機能を掌握し、“魔女の呪い”を解こうとするはずだ……。そして、凍結の心配が無くなった銃を狙撃手に撃たせ、後にそやつまで処すつもりであったのだろうが――無駄だ。お前の願いは叶わん。が、餞別としてくれてやってもいいものもある」
皇帝の掲げる腕は、老いて少しばかり細くなっていたが、力強く天を衝く。そして指を弾いて音を鳴らしたと同時に、世界は闇に包まれた。
「そろそろ、無駄なお喋りはここまでとしよう」
響動めきがさらに強くなる。
帝都を照らす光の一切が沈み、僅かに天井から厚い雲が垂れているのが見えるだけ。
「簡易的な誘導である。ガラッシアが闇に沈み、一点の光があれば、叛逆者どもはどう動く? 羽虫のように光に誘われるのであろうな」
「……、――っ、まさかっ!」
皇帝は再度ハンドスナップで指をパチンと鳴らす。すると帝都上部の幾つもある照明が皇帝だけを照らすように向けられ、照射された。
闇の中、唯一目につく皇帝。
離れていたものはそれら一連の行動が、単に演出の一環であると安堵の息を吐こうとした時に、それは起きた。
誰もが予想できなかった。
空気をつんざく音が到達する頃には、すべてが終わっていたのだ。
皇帝の後頭部から顎下にかけて、何かが通り抜けたと思うと同時に、衝撃で皇帝は前へ倒れ込み、頭から転落するのが見えた。
多方向から照らしてきたスポットライトから外れ、闇に呑まれるようにも見えた。
一瞬の静寂は誰かの悲鳴により破られ、堰を切ったように怒号と絶叫が木霊する。
あんなにも建国祭で喜び、心から楽しもうとしていた民たちは絶望するしかなかった。
目の前の光景が信じられない。
だが、間違いなくただ転落したのではなく、何者かによって遠距離から撃ち抜かれたと正しく認識できていた。
「ウェパルの言った通りだ。都の光が消えたとき、神の宝玉の支配権が失われ、皇帝の力――いや“魔女の呪い”の効力も失われる」
放てぬはずの銃弾が、空を切り裂き狂いなく皇帝を仕留めてみせた。
狙撃をしたのは当然レライエであった。予め闇に慣れさせるために目の上に巻き付けていた包帯を解き、そして光の中にいた憎き皇帝の頭蓋を撃ち貫いてみせた。しばらくは隠していた方の目からスコープを覗いていたが、死を確信した途端に感情の無い機械のように、余韻に浸らず機敏に動く。
「狩りと同じか。案外、終わるときはあっさりとしたもんだ」
世界はいつだって、何が起きても不思議ではない。死が突然訪れるように、崩壊は何の前触れもなく、やってくる。それは、栄華を極めんと失われた技術と知識を解析し、発展に努めた輝かしいニヴァリスであっても例外ではない。
魔女の呪いが、解かれていないままであることなど知る由もなく、レライエは武器を捨て置いて離脱を始めていた。




