78 沙汰
アルゲンエウス大陸――。
雪に覆われながらも、生命は静かに芽吹く。
白色になった木々の下、鼓動が、息吹が、
たとえ微弱であろうと脆弱であろうと、
間違いなくそこにはある――。
ニヴァリス帝国領内では、開拓された農村や漁港、わりと活気立った街では石材だけではなく、木材の確保も重要であるため、自然に手を入れる必要があった。巨大企業の資本からなるエゴイズムではなく、生存のために住居や施設を整えるためだ。
大自然は、その礎となる。
ただし、大規模の伐採は皇帝の命により禁じられた。ヴェルミを参考にしたのわけではないが、各地の森は貴族の領地として管理を任せ、保護に務めさせていた。
山林の中、聳える巨木たちの林冠に遮られた地面。低木層でも吹く風によって雪は積もるが、その下に蠢くものがいた。
腐敗した木々や葉などの有機物が堆積して出来上がった土壌は、生命を養い続ける。
青白いカサの広いキノコ類――(食用としてもイケるが非常に良く似た毒性のものがあるため単純にこの世界では毒物として認知されている)。
地衣類は繁殖し、地面から木々へとその身を伸ばしている。雪があっても屈することはなく、足掻いてみせている。地中には極寒を耐え抜く虫までいて、微生物もいた。
静かな森で育った実りたる果実、葉や若芽を食らう魔物、さらにその肉を食う魔物。出した排泄物やその屍、朽ちた樹木は倒れては、いずれ地を肥やし、生命は流転する。
――『完成されたこのサイクルを、ヒトの欲望により、無暗に脅かしてはならない』。
彼のニヴァリスの皇帝が自然に対し博愛の精神を持ち合わせてはいないが、念入りに自然環境の保護を推していた。その姿は息子である第一皇子ヴラドレン、第二皇子ヴァジムの目からも不審がられていたという。
ニヴァリス創設時から、ガラッシア周辺一帯の自然には、資源採取のための伐採の痕跡は無い。
霊山は創設よりも前に手を加えられていたものを、整備したに過ぎない。
ガラッシアという透明なドーム状の都市自体が、風体からしてもかなり異物であるが、近隣の森は不必要な伐採など行われずに残っていた。
ゆえに人界に関わり合いを拒む霊獣の類いが、時折、闊歩している。
立花颯汰御一行の前に、またしても現れしは、マナがかなり薄まった地上であっても活動できる“山の使い”と呼ばれた霊獣。
本来なら捕食対象にならざる超常の魔物。
それが如何様な理由で、姿を見せたのか。
茂みに身体を隠し、震えている彼の霊獣。
それを見て唾液を垂らすは生態系の頂点たる竜種の幼子――名をシロすけ。
竜種は心臓で魔力を無尽に生み出し続け、それを糧に生き続けられる。
ただし幼きシロすけのものは未発達の器官。多少、飲食が必要であった。
「…………そうか」
立花颯汰がそう呟くと、左手を腰に帯びた短刀の柄に伸ばした。
「最後、だしな……」
歩きながら近づく。その声は穏やかであった。
外套の中から抜かれた白刃がキラリと光る。
「紅蓮の魔王が火を起こせるし、ジビエ料理と洒落込もうか」
迷いない歩み。整備された道から外れ、震える霊獣から目を外さずに向かう。
シロすけはすぐに颯汰の右腕からするりと背へ移動し左肩から顔を覗かせる。
颯汰は柵の鎖部分から潜るが目を離さない。
あまりに淀みない行動に呆気に取られていた少女たちがワンテンポ遅れて動き出す。
「ちょ、待ち、……待ちなさい!?」
「いやちょっとなん、なにするつもりなの?」
ヒルデブルクの悲鳴の如き制止命令に、ソフィアは柵越しに颯汰の右肩を掴んで止めた。
リズは跳躍するように飛び込んでは颯汰の前に立ちはだかり両手を広げ、アスタルテは事態を呑み込めずに困惑している。
そんな中、颯汰が何を邪魔をすると言わんばかりにソフィアの問いに答える。
「なにって、シロすけが食べたそうにしてるから……肉」
「待って。ちょっと、待って待ちなさい。……ヒルベルト、君がこの子を治したはずだよね?」
「あくまで応急処置と傷の縫合だけですが」
「え、ううん。そういう細かいところはいいの。そのとき、たしかリザさんに『まだ生きたいって目で言ってる』みたいなこと言ってなかった?」
村でエドアルトと初めて会ったとき、リズにそう言ったのは颯汰も覚えていたし、どうやら彼女も薄っすらと聞こえていたようである。
「? 例えどんなに獲物が生に執着していたとしても、その意思を捻じ伏せて狩る。そうしなければ、食べて、――命は生きていけない。それが現実ですよ?」
「そうだけど! そうなんだけどさぁ!」
救った命であるのになぜ殺す必要があるのか、また今ここで狩りをやる意味が全くわからない、と叫ぼうとしたが、颯汰は淡々と続ける。
「それにシロすけが食いたそうにしてるなら、最後くらい、食わせてあげたい」
基本的に仙界にて呼吸と共に体外魔力を吸い取り、飲食が不要な生物ゆえに栄養がきちんと取れるのかわからない。抉れた肉の断面を直接見た颯汰には生命らしさを感じ取れてはいた。おそらくトナカイの肉のように、淡泊で臭みやクセがないのではとも颯汰は予想している。
少し先、雪の斜面で立ち塞がるように手を広げていたリズが颯汰の顔を窺う。状況が状況であるから雑念なく推し量れる――その瞳に淀みはなく、むしろ澄んでいる。敵対するものへの強い恨みを抱いた、殺意で濁っているわけではない。冷たい感情ではあるが、正気である証拠であった。
それはまさに、狩人の目。
あるいは精霊のような瞳であった。
どちらもリズにとっては、触れて来ていない世界ゆえに困惑が強まる。真っすぐで、まるで正気なのだから。
しかし急に心変わりしたわけではない。
事はシンプルで、例え仙界にてこの霊獣を守ろうと動いたが事情が変わった程度のこと。
保護対象が攻撃対象に変わっただけだ。
下級精霊のように談笑していた次の瞬間、魔法をぶっ放し気まぐれで殺し合う異質さに比べるとかなりまともとは言える。
「大丈夫。できるだけ痛みも無いように即死させるから。……暴れられたらそれだけ肉が不味くなるし」
後半部分が聞き取れないくらい小声で言う。
仕留めた獲物は速やかにその場で血抜きをきちんとやらなければならない。この場は寒いため鮮度は落ちにくく早々に腐食することはない。だが、せっかくいただく命であるから、食える部分は残さず持っていきたいと考えていた。この人数でも余してしまうだろう。
「なにに対しての大丈夫なんですのそれ!?」
とはいえ生まれ育った環境が異なる少女たちから――騎士の経験があるソフィア以外は野宿や狩りとは基本的に無縁であったから、いざ命を殺めて戴くという行為に難色を示すのは無理もない。
暴走を始めているようにしか見えない彼を止めるには、どう動くべきか。この僅かな間に答えを最初に見つけ出したのは――。
「あ、シロちゃん。これあげる」
アスタルテが思い出し、背嚢から取り出した。
帝都の豊富な地下資源から生成されたものを、原料として使われている。
それは携帯食料として優秀な保存性の高さと手軽に持ち運びができ、さらに高い栄養価があるもの。小麦で出来た生地に砂糖が加えられたシンプルな焼き菓子。円形のビスケットを小さな紙袋から一枚差し出す。彼女お手製のものではなく、昨日に店で購入したものであった。
呼ばれたシロすけはその声に応じ、羽を広げてふわりと飛んでアスタルテの方へ向かい、その口でビスケットを受け取る。
パタパタと羽ばたいて宙に浮いたまま、むしゃむしゃとビスケットを食べるシロすけ。食べ終わると颯汰の頭頂まで移動し、満足そうな声を上げた。
「……もう、要らない? そうか。わかった」
颯汰は短刀をそっと鞘に納める。
カチリと音が響くと、冷たい空気に満ちていた緊張が解れていった。
「まったく! ヒルベルト、あなたって子は」
それが颯汰にとって大事な家族――シロすけのためであることはヒルデブルク王女は責められず、非難の言葉に続かない。
この場にいるほぼ全員がそれを理解していた。
そこに、被害者たる“山の使い”が嘶く。
怯えよりも、訴えかける怒りの感情を感じる。
「……?」
小さく鼻を鳴らし、霊獣はリズの前に出る。
折れた片角に結ばれた布きれを差し出すように頭を動かして近づけた。
迷ったリズは颯汰と、紅蓮の魔王の方を見る。颯汰は首を横に傾げていたが、魔王は鷹揚に肯いた。それをみてリズはおそるおそる手を伸ばし、その片角に縛られた布を解いた。
雪の白さのせいか、緋色の襤褸切れが余計に栄えて目に映る。紅蓮の魔王の王権時の外套は染み付いた血のように赤く禍々しいものに対し、こちらは少しばかり鮮やかで明るい。
《……宝石?》
リズは心の声で呟く。
両手に取った長い布には、黒の鎖の装飾が巻き付いたブローチのようなものがあった。涼やかなアクアブルーの宝石部分の縁を飾るためではなく、鎖で縛るようにも見える。
なんだろうか、と眺めていたが渡した張本獣は再び嘶き、颯汰たちを一瞥すると、木々の中へ姿を消していく。
「…………」
みなが呆気に取られる中、紅蓮の魔王がそれが何なのか理解しつつ説明にしないで進み出す。
「まだ先は長い。もう少し進んでから休憩を取ろう」
「あ、あぁ。はい」
不敵に微笑んだ後に、前を向いて進み出す。
そこで我に帰った皆が魔王の後ろを追いかける。整備されているとはいえ雪の山道であるから踏みしめて、転ばぬように努めながら。
子どもたちは霊獣から受け取った襤褸切れをなんだろうかと話しながら、また足元に気を配りつつ中腹を目指す。
その頃、帝都は狂乱に満ちていた。
祭りに喜ぶ民たちが騒ぐガラッシアが、対極の絶望と失意に呑まれるとは、未来を視ることを叶わぬ常人が知るはずがない。
欲望が、悪意が、都に住まう人々を巻き込む。
かつて滅びた大いなる神を模した兵器――巨神が目覚める。




