77 白衣の死神
舞台は再び、帝都ガラッシアに戻る。
ドームに覆われ、寒さと風とも縁のないこの地に、涼やかな風が流れる。
澄んだ空気が満ちた帝都。
だが相反して人々の熱狂は高まっていく。
阻む白色の闇はすべて、風に流されて散った。
目を覆いたくなる闇や背けたくなる悪意、隠したい太古の技術、秘すべき超常の力などは、地下に追いやっている。
この日はその事実から目を背け(あるいは知らないまま)、ただただ今日まで生きれたということを喜び、また明日から続く未来への糧として、民たちは建国祭を楽しまんとしている。
「…………」
レライエは静かに息を吐いた。
帝都各地に配置しようとした射手を半分にまで削った。理由は帝国側の人間にその地点を警戒され、監視役が置かれると知ったからだ。
叛逆の徒――革命を成さんとするレジスタンスの勇士は、機会を窺う。
ないものとして地下に追いやられた者たちも、秘密裏に地上へ出て潜伏している。
払われた霧が無くなるこの日こそが好機だ。
その胸にあるのは正義感だけではない。
淀んだ復讐心。醜い欲望。中には破滅主義を内に秘める者もいたかもしれない。
ただ口では皆が“正義”を掲げる。
戦争だってそうだ。そうでなければ、普通はヒトを殺せない。
道徳を逸脱した者は、もはやヒトではない。それでも、戦争はいつの時代であっても起こる。
誇り高き聖騎士であっても、ヒトを殺め、略奪を是とするのは“正義”を掲げているためだ。
敵は悪魔だから滅さねばならぬ――。
命を張ったからこそ、価値があるものを自由に手にしていい。
嘆く敵地の領民を虐げても主君が許す。
だから戦い慣れた兵士は喜んで戦場へ赴き、ヒトを殺し、殺し尽くし、食料や金品を奪い、火を放ち、命すら弄ぶ。それでも彼らは『人殺し』と呼ばれない。
“正義”が理由となる……――否、言い訳に使われているだけだ。従わせる兵や己自身に迷わせないための枷、あるいは劇薬か。
どんな非道な行動にも、大義名分で自分自身を誤魔化し、正当化しなければ、精神を保てない。
中には、その痛みや苦さを感じない者もいる。先天性か後天性かにもよるが、失ってはいけない感情であることは間違いない。
誤魔化すことに、薄汚さや嫌悪感を抱かれかねないが、それでこそ“人”なのだ。
どうあれ殺人などヒトの倫理観から鑑みて、何も思わないほうが狂気であるのだから。
……今、暗殺を決行するつもりのレライエはどちらであろうか。
彼は掲げられた“正義”に酔いしれることないが、苦悩しながら生死――すなわち命と向き合っているかと言えば、異なるだろう。
深い憎悪を内に抱きながらも、一切それを他人には見せまいと心掛けていた。作り上げた己を壊さぬよう仮面を被る――お茶らけながら、その日に吹く風に任すような男を演じていた。
父の教えを守る意味もあって、『狩り』のときだって殺意を極力漏らさぬよう心を無にしてきた。乗り気がしない任務や、敢えて相手を推し量ろうと思ったときだけは例外として。
野生の魔物などの獲物は、僅かな臭いや音に敏感に反応する。静かに森に溶け込み、感情を殺しストレスから発生する臭いの変化を生じさせぬのと、仕留めることに集中しすぎて周りが見えなくなり、小枝を踏んで音を鳴らしたり、肉食動物の接近を許したりしないためなどが理由だろうが、レライエの父はそういった理由をいちいち説明しなかった。
冷徹なまま、ターゲットを捕捉する。レライエの目に、皇帝の姿が見えた。本来ならば、人の肉眼では捉えれぬ距離であった。巡る螺旋に展開された――敷き詰められたように並ぶ住宅や各施設、高層ビルに似た建築物もあるが、そこからではない。交通手段である索道は、式典の最中は全機停止され、そこからでもない。
彼の頭天には赤の宝玉が燦めいている。皇居のある空中庭園に設置された“神の宝玉”だ。
闇の深淵たる地下まで伸びる、白の三重螺旋の支柱の影に潜んでいた。少し足を滑らせれば死が約束されたような場所。風が恐怖を煽る。そのための装備と命綱はきちんと用意していた。
そこにレライエはいた。
侵入不可能に見えた場所であるが、常に森や断崖絶壁の岩山にて狩りをこなしていた彼にとって、人目を忍んで訪れることは容易であったのだ。
前日から颯汰たちと別の宿に泊まり、入念に準備を整えて今に至る。
格好こそ、立花颯汰を暗殺しようとした時と同じで顔を隠すべく包帯を巻いて、片目だけが露出していた。ただし色合いはここに溶け込むべく用意したのか白色に統一され、包帯の上からさらに仮面を被っていた。
かなり怪しげな格好であるが、例えこのまま街を歩いたとしても、そこまで不審がられなかったであろう。何故なら今は祭りの時期であるため、衣装の一つとも見られた可能性が高い。
ガラッシアでは二日目のパレードのために衣装の貸し出しも行っていて、顔こそ仮面で隠していないが、浮かれ気分で格好だけ既に扮装している者もいたからだ。
その祭りの二日目の夜は厄除けの意味で、派手な仮装をしたヒトが練り歩くというイベントがある。仮面を被り、様々な伝承の怪物の格好をして、広場に設置された大木型のオブジェクトにある扉から中へ次々と入っていき、点火して厄を払うというものだ。当然、中に入った人は裏口から出るように作られているし、万が一焼死しないように燃えているのは上の部分で、光で内部まで燃えてるように見せかけている。
もしも皇帝が直々に参加してくれたならば、事故に見せかけた暗殺に利用していた。
その方がきっと被害は最小限で済んだはずだ。
まるで流された霧の集合体の、死神たる彼の手に、存在しないはずの武器がある。
命を刈り取る大鎌でも、彼が愛用していた弩でもなく……――。
「…………」
慣れ親しんだ武器以外で挑むのは悪手だ。
しかし、レライエにはこの武器を選ばざるを得なかったのだ。
――悪魔の誘いに乗らざるを得なかった。
一体なぜ、彼の手に銃が収められているのか。
五百ムート以上もの距離から見やる。肉眼でも望遠鏡ではなく、スコープでだ。
その銃は非常に大きく、射手の身長を優に超えるようなもの。
過去の遺物――異物でありながら、時代を一歩二歩、先に進んだ技術力によって生まれた武器。
その武器に、名は無かった。開発の途中で中止になったものを設計図から盗み、地下の技術者や職人が作り上げ、そこで改めて名を付けたのだ。
狙撃銃。同胞であった仲間に託された品だ。既に分解されていたものを組み立て、構えていた。
近くに受け取った狙撃銃の部品が詰まった箱と、ここに予め準備してあった箱が置いてある。
もう一方にも部品が詰められ、組み合わせて、この白が基調の狙撃銃は完成した。
重く、長く、立ちながら撃つのは容易ではない。二脚銃架で固定し、座りながら構える。
「……ナディア。大昔の言語で“希望”だったか。ゲン担ぎにしては安直すぎる名だな」
声こそいつもの調子だが、その顔は真剣そのもの。失って二度と取り戻せないものに思いを馳せ、なおかつ標的の未来を奪わんとする。
今すぐにでも、皇帝の頭蓋を撃ち貫きたいと思いつつ、その指に力は入れない。
帝都に、――否、ニヴァリス領全土に蔓延する“呪い”があるせいだ。
地下深くにある正体不明の機械類の大半は起動方法すらわからない中、生命を脅かす武器の製造は上手くいった。頑強な盾や鎧すら射貫き、超上空から紅蓮の焔を撒き散らすような数々の死の具現たる兵器の開発は進んでいた。
しかし、協力者でありこの地の機械を知り尽くしていた魔女は、忽然と消えただけではなく、兵器の使用を不能にさせた。
引き金を引いても弾は出てこない。例えレライエほどの腕前があっても、発射されなければ当たることはないのは当然である。
だから別のものを撃て、とかつての同志の託した紙面から指示を受けた。
皇帝一族が乗る車両から目線をずらす。
ごった返す人の波の中、どこにいるか探すのは簡単なことではない。
予め、指定された地点で“事”を行うと決めていたため、時間が来るまで休んで待機するべきではあった。しかし、レライエは黙って目を閉じ待つことができなかった。
どんなに心を殺しても、昂りは抑えきれない。
もうすぐその時が訪れる――。
それが悪しき皇帝の最期であり、蔓延している欺瞞は次第に解消され、希望へと続いていく。
そんな殊勝な心掛けなど、彼にとっては最早どうでもよかった。
作戦開始直前まであった迷いは無い。
ただ、皇帝を殺さねばならぬという使命や義務ではなく、心が叫んでいる。
『皇帝を、殺せ』と――。
後に歴史書に残るならば『客員騎士乱心事件』と共に記述されるやも知れない。むしろ、前者が霞むほどの大事件として記録されても不思議ではない事柄が起こる。悠久の時、呪いと繁栄が織り成すニヴァリスの栄華に、重大な危機が迫っていた。もたらされるのは終焉か。はたまた、更なる発展か。
答えは今はわからない。
ただ、すべての趨勢を握っているのはレライエ……ではない。
「…………いた。あそこか」
皇帝ではなく、一人の女を見つける。
はしゃぐ何百何千もの人々の中、そのわずかな間を縫うように歩む人影。外套に身を包むが一見、不審に思えない儚げな美女である。
彼女こそ協力者であり、本来はレライエ自身の警護を――狙撃後に追っ手を撒くために運用しようと考えた人外のモノ。しかし、レライエが超長距離から狙撃が行える、行う必要があるとなった今、護衛ではなく白兵戦へ切り替えていた。
仕掛けるタイミングは、打ち合わせている。
――仲間たちも既に移動を始めているはずだ
広間で演説を始める前にケリを付ける。道が丁字に差し掛かる地点、あと四半刻で到達するであろうところが、攻め時と決めていた。
建物を両棟とも押さえた。賄賂に応じるようなものは、守衛にはいないが、元より革命を起こさんとする同志であったため確保ができたのだ。
ガラッシアを包むドームを沿って螺旋状に展開された道であるため基本的にルート変更はないため、戦力を各地に分散させずに済んでいる。
ただ、最初の襲撃は、一人にやらせる。
囮として立ち回れる能力をもつ怪物――己を亜人種の上位たる始祖吸血鬼と称した女。ウェパルが単独で行く。
そこから作戦が、革命が始まるのだ。




