76 ペイル山
今、世界で最も熱い――ヒトと文化によって生まれた情熱を帯び、楽しい日々が幾日も続くと思われたニヴァリス帝国の首都ガラッシア。
……から程なく離れた場所に位置する、霊山の麓にある小屋にて。
帝都では感じることの無かった寒さを全身で感じることとなった。外気は氷点下。吹く風は刃のように鋭く、吐く息は当然白く、頬は赤くなる。
早朝から出かけたが、積雪でここまでの移動もそれなりに時間がかかった。もうすぐ、帝都ではパレードが始まる時間だろう。
「はい、たしかに。入山許可証……ですが、なにもこんな時期に登らなくとも」
「ハハハ。こちらも天命なので。このペイル山の中腹にある、マナ教の神殿へ赴かねばなりません」
「はぁ……、まぁ、天候はここ数日ではかなり良い方ではありますけど」
受付の男が怪訝そうにやってきた団体を見やる。団体とはいっても人数はそこまで多くなく、男児一名、女児一名、若い女子が三名、成人男性一名……六名だけだ。前にいる長身の男だけは成人を迎えているとわかる。しかし連れの者たちはローブや上に羽織った毛皮の防寒装備をバッチリ着込んでいても、女、子どもばかりだ。
「ガラッシアではもうすぐ、はじまりのパレードが行われる時間ですが、ほんとうに良いのです?」
「目的は神殿へ参拝です。それに神殿内部には入らず、外から少し破損及び崩落具合を確かめては、すぐに下山するつもりなので。全日程の参加は厳しそうですが、そのあとにもこの子達に、素晴らしきガラッシアのお祭りを楽しんでもらおうかと」
せっかく訪れた帝都の建国祭を最初から堪能してもらいたいという親切心を抱いた受付の男であったが、物腰柔らかい神父を名乗った男の言葉を素直に受け取るしかなかった。それ以上の介入による御節介など職務に含まれてはいない。それに、正当な手続きで発行された許可証に、入山の理由は神父が語った通りであった。おそらく帝都でも同じことを言われたに違いない。
二十年に一度の建国祭、その記念すべき開催当日にわざわざ帝都から許可証を持ってここに来るとは、かなり奇特な団体に思えた。元は広く分布していたとはいえ今や廃れた外国生まれの宗教であるマナ教。その教義もよくわからぬが、そちらを優先させた彼らを邪魔する道理はない。ただ、
「……既に注意は聞いているでしょうが、くれぐれも中腹から先へは進まないようにしてください。非常に危険です」
「えぇ。存じておりますとも」
「護衛兵の貸し出しもやっておりますが……」
「中腹までは険しくないと聞きました。それにヒトを襲う魔物の目撃例もないとも」
「いやしかし子どもが」
「すいませんが、無い袖は振れぬ状況でして」
受付のテーブル越しに男は詰め寄って耳打ちをするように右手を口に添えて小声で話す。
「うう~ん……」
それを聞いて受付の男は唸るしかない。
中腹までは、もちろん雪は積もってはいるものの、基本的に整備された山道である。
ただ事故が起きぬとは限らない。魔物の目撃例は確かにここ最近は無いが絶対とは限らない。できればガイドとして護衛兵を雇って欲しいところではあるが、強くは言えない。
「安心してください。何かあってもそちらに責任を追及するようなマネはしませんよ。それに、この子たちは見た目以上に強いのです。ちょっとやそっとのことではへこたれませんよ」
「そ、そうですか……?」
まだ幼い、十代になるかならないかの年齢の子どもまでいる。それに面子が殆ど女性だ。
手袋や帽子などはもちろん、ストックを担う杖……軽量で丈夫な金属が用いられているもの。緊急時に生き残るための食糧や飲料水も入ったバックパック。腰部のベルトにはピッケルが鞘のようなケースに収められていた。小屋では床が傷まぬように紐や金具を解き、脱いで貰っているがまるで獣の鋭い牙のように地面に突き立てるスパイクユニットをスノーブーツに装着させる。
みながそれぞれ装備を整えているが、やはり不安はある。基本的に外国からの入山希望者はフォン=ファルガンの修行僧ばかりで、子連れもたまにはいるものの、下手に事故を起こしてもらいたくはない。契約書にサインはしてもらったが、受付の男はまだ心配そうな顔をして、本当に大丈夫ですかと念押ししてきたが、神父は丁重に、笑んで応えた。
小屋を後にし、関所のような石造りの門へと向かう。それぞれが歩んできた軌跡を残しながら、談笑しつつ辿り着いた。
雪をかぶった灰色の砦にいる兵士に、窓部の格子の越しに書類を渡すと、兵士は何も聞かずに離席し、伝声管の蓋を縦に開けて上にいる兵士たちに連絡を取る。すぐに門の格子が持ち上がる。いよいよペイル山へ入山する。
しばらく雪を被った針葉樹林が続く。
背に高い木々の深緑に、白い雪がこれでもかと被っている。自然の傘の役割を担うには、ここは少し雪が厳しすぎるか。
珍しく陽光が厚い雲から地に届きそうなほどに明るい。山道ではウマやミラドゥを利用して除雪をした形跡はあるが、しばらくするとまた雪が降り始め、それすら埋まってしまうことだろう。
寒空を垂れる雲。それを貫くばかりに屹立する霊山の全貌を眺め、息を吐いた。
「半日ぐらいで着くんでしたよね」
小さき子ども――立花颯汰が魔王に問う。
「休憩なしだとそうらしい」
先ほどまでの神父としての優し気な雰囲気は消え、本性があらわとなる。
中腹までは自力で登った後、他人の有無を確認してから、紅蓮の魔王が魔法で全員を一気に運ぶ手筈となっている。受付の話を聞く限り他に入山者はいないが、念のため途中まではマナ教信徒として神殿に赴くという体にしていた。
「ふーん、じゃあちょっと掛かりますね」
颯汰一人であれば、おそらく休憩なしでぶっ続けで登らされただろうが、連れがいる。彼女たちの方に振り向くことはしなかったが、
「あら、ヒルベルト。私たちを侮っていらっしゃるのかしら」
ふふん、と鼻を鳴らすヒルデブルク王女。体格も最小で年齢も最年少、自分が足を引っ張る要因だと見られていると彼女は思ったのだろう。
「いや、なんか流されてすごい距離歩いたって話は聞きましたけど……」
その話を初めて聞いた女だけが驚き、ヒルデブルク王女の方を向いて「流され……?」と小さく零した。
「それでも休憩は取るべきですよ。ほら、姉さんは一応アレですから。アレ」
「アレって……、なんかもうちょっと、無かったのかしら? ――っというか一応って何ですの!? 失礼じゃないかしら!?」
マルテ王国の王女、あるいは人質兼来客とはここでは言えないため、指示代名詞で誤魔化す。「あれ……?」とまたもや女――霊器を用いて性別を偽ってまで客員騎士エドアルトを演じていたソフィアが、何の話かわからずに首を傾げていた。
「私のことなら心配ご無用。それに――」
ヒルデブルクが徐に近づくと、神父を僭称している魔王は背負っていた背嚢をそっと右手に持ち、屈んだ。そこへ――、
「いざとなれば神父さまの背を借ります!」
紅蓮の魔王の背にヒルデブルク王女が乗ったあと、魔王は立ち上がる。高い背丈から見下ろしながら、堂々と王女は言い放った。
その後、魔王は優し気に声をかける。
「今からでも大丈夫ですよ?」
少女の装備と体重では荷物の内に入らないと気にしてない様子の魔王であったが、
「いいえ、限界まで自分の足で歩きますわ」
王女の方はできる限り自分の足で進んでいくと答えた。そのやり取りは傍から見ればたいへん和やかなものであるが――、
「恐いものが無いって、強いなぁ」
颯汰は無感情に呟く。
そこに敬意や見下すといった感情すら無い。
颯汰の声に同意するのか、頭の上で鳴いて返事をするシロすけ。人目が付かなくなったところで、フードの中から外へ出してやろうと颯汰は考えていた。共に過ごせる時間はあと僅か。そう思うと切ないが、できるだけ声や態度に出さぬよう颯汰以外にも、皆が気を配っていた。
「……?」
ふと気配を感じて颯汰が振り返り、一瞬固まり、どうすべきか考える。
無視すべきか、意図を尋ねるべきか。
アスタルテが、爛々と目を輝かせながら両手を広げている。広げて、待っている。
それは自分がただハグされて運ばれるのか、それともアスタルテを背負えと要求しているのか。颯汰にはわからなかったが、「その手には乗らんぞ」的な言葉で斬り崩さんとしたが――。
その隣に並ぶリズが、目を逸らし紅潮した顔を少し伏せつつ、同じように手を広げる。いや、若干控え目で両手が伸びきっていない。
「照れるならやるなっ」
なけなしの勇気ではあるのだが、それに対する術も勇気も何一つ持ち合わせていない颯汰は、静かにツッコミを入れて前へと歩いていく。
アスタルテは不満気に口を尖らせていたが、極力会話をしないよう努める。颯汰との約束を守り空気を読める子なので、同行者であるソフィアの前で「パパ」呼び禁止を忠実に従って守ってはいた。が、甘えていけないとまでは言われていなかったのでルールに接触しない程度にいつもの調子でいく腹積もりのようであった。
そしてリズの方は残念なような、むしろ本当にいざ来られたら困っちゃうみたいな複雑な乙女心に煩悶していた。言葉は少ないがわりと面倒くさい子である。
それを眺め、相変わらず仲が良いんだなとソフィアが溜息を吐く。彼女は己の物語る目線と、口から出た溜息の理由に気づかぬ、無自覚なままであった。
一同は緩やかな山道を進んでいく。
ただし、道から外れれば雪の被った灌木と林。奥へ進むと迷って戻ってこれなくなりそうだ。雪の深さもわからず、足が取られて転倒する危険だってある。ただでさえ雑木林で景色が同じに見えるから、一度迷えば遭難の危険性が高い。
それを防ぐために木の杭と鎖などで簡易的な柵が作られている。腐食防止で漆のような塗料が塗られているが、鎖は少し錆びている。
また木々や地形でそれすら必要とならないで天然のコースを作り出している。それに人が歩んだ道は他よりも歩きやすいから、早々道から外れるようなことはならないはずだ。
「…………」
眠るように静かな山であった。
今は雪すら止んでいて、葉の騒めきも無い。
鳥の羽ばたく音も聞こえない。
生命が眠るに相応しい、森閑とした世界。
しかしながら、命が尽きた世界ではない。
実りがなくとも、懸命に生き延びようと活動を続ける魔物がいるはずだ。
新芽や根、木の皮などを食す魔物――シカやヤギ型、ウサギ型や小さなリス、ネズミ型のもの。
それを狙う冬毛のオオカミやイタチ型、キツネの魔物だっているはずだ。
しかし、人界に踏み入れると余計なことになると理解している彼らは、不用意に近付くことはしないのだろう。吠えずに声を殺すのも、他の生物の気付かれたくないのも理由であるが、今だけは別の理由の比重が大きい。……刺激すると、ろくなことにならない危険なモノが、山を登り始めたと嗅ぎ取ったのだ。
「…………」
龍の子が少しだけフードの隙間から顔を出して森を見やる。遠くから観察していた魔物の群れが一斉に逃げ出した。シロすけはそれを見つめていたが飽きたのと、戻れと催促する颯汰の指に押され大人しく引き下がる。
会話は絶えていた。
足取りも少しばかり重い。
よく喋るムードメーカーを兼ねていた案内役の男と、明るい調子の女がこの場にいないのも要因であるが、これから別れのために歩いていると考えれば自然と気が滅入るものだ。
帝都から逃げ延びたソフィアも、余計なことは何も語らず、でも少し迷いながら進んでいく。
あのまま帝都に残れば間違いなく良い目には合わないことは明白で、命の危険さえあり得る。
一時的に退避したが、帝都の問題――未だ白い闇に包まれた見えない何かを解決する術が見当たらない。匿ってくれた恩義もあるので、文句は口にしないが、山登りもしている場合ではないのではと焦りはあった。
まるで葬儀のように黙々として、物寂しい。
景色は変わり映えせず、時間がいたずらに過ぎていき、疲労感も僅かながら感じ始める。
そこへ――、
「――ッ!」
山道の茂みから気配を感じて三人が反応した。
リズはアスタルテとヒルデブルクを守るように、ソフィアは腰を下ろして鞘に収めた剣を抜こうとし、颯汰はナイフを既に抜いていた。
一斉に茂みを睨んだが、出てくるものの姿を見て、呆気にとられる。
「お、お前は……」
颯汰が驚き、声を絞り出すように呟いた。
それは予想だにしていない来客。
人でも、魔物でもない。
神々しい、神聖な生き物に見えた。アルビノのヘラジカを思わせる特異な生物。仙界に住まうゆえに地域によっては神獣とも称されるもの。
「あの時の“山の使い”……!」
ソフィアが続ける。
村で魔女の使い魔が憑りついた熊型の魔物であるポルミスに襲われ、大怪我を負った霊獣だとすぐにわかった。角は片方が折れているからだ。……その折れていない角に、妙な紅い布が巻き付いていた。
小さく嘶いた彼は、茂みから出て来てはヒョイっと柵を優雅に飛び越える。
毛先の金色と体の回りから重力に逆らうように登っていく光の玉などから、一部の人々が神獣と崇めるのも無理もない。超常の化身として颯汰一行の前に姿を見せた。
徐に颯汰に近づいた牡鹿は、礼を言いたげに鼻を鳴らして距離を詰めようとして、足を止めた。
全員がなぜだろうと思ったとき、颯汰の頭上に隠れていたシロすけが出てくる。
ジッと目が合い、互いに動きを止める。
同じ仙界に生息するもの同士、語らずとも分かり合える何かがあるのだろうか。
そう思った矢先、颯汰の頭上から小さなお腹の音が聞こえ、そそくさと颯汰の右手に這って進んだシロすけの口から涎が出ていたのが見えた。
「あ、完全に捕食者の目だ」
颯汰がそう呟くと“山の使い”は悲鳴を上げて茂みに逃げ帰る。そして茂みから顔だけこちらに出してプルプルと震えていた。
「一体、何の用ですの……?」
ヒルデブルク王女の問いに人語で答えられるものはいなかった。
代わりに上空で吹いた風の音はどこか物寂しく、きっと凍えるほどに冷たいに違いない。




