75 観兵式
風が吹いた。
壁面など至る所に搭載された送風設備が起動し、ガラッシア全体を包む霧が晴れていく。
凄まじく、重々しいファンの回転音を掻き消すは同じく街中に設置された伝声管に似たパイプなどから響いてくる、宮廷楽団が奏でる音楽だ。擦弦楽器の音が帝都を包み込む。
壮大にして荘厳、豪華絢爛の帝都にて。
ニヴァリス帝国が生まれし日を祝う。
中央の大穴、頭天に浮かぶ皇居たる空中庭園。さらにその奥、透明なドームの向こうに空が見える。普段であれば――厚く垂れ下がった雲、降り頻る雪による厳しい冬の夜空が映るはずが、此度は違う。天までがまるで祝福したかのような快晴……とまでは言えないが、乳白色の雲が浮かぶ。呪われし永久凍土に、か細く僅かながら太陽の光が届こうとしていた。
ガラッシア全域を包む白き闇は消え去り、心地よい朝の始まりを告げる音色と人々の期待に溢れる。二十年に一度の建国祭。誰しも興奮していた。
家の扉を開ける子どもの表情は明るい。いや、大人たちだって目が爛々として、無邪気に楽しもうとしているのがわかる。
飲食店や今日だけ特別に展開した屋台など商売人たちも気合を入れ、一拍叩く。
祭日前であるため酒屋は普段より早い時間帯に閉まっていたが、昨晩の遅くまで飲んだくれていた大人だけが、疲れが抜け切れていない顔をしていた。
大都市の地下の領域以外、ほぼすべてが祭りの会場となる。花やフラッグガーランドなどでどこも飾り付けられ、提灯のようなランタンも至る所に吊るされている。
この音楽は、正式な祭りの始まりの合図ではない。音楽が止まったおよそ半刻後に行われる式典を終えてから、真に祭りが始まるのだ。
人々が中央の大穴に向かって集結する。天から降りる、現人神たる皇帝を迎えるために。
皇帝一族が乗る専用車両が、帝都が誇る騎士――軍人たちと共に行進するのだ。
帝都で名を連ねる英傑たちが揃い踏みすることも、人々が熱狂する理由のひとつであった。だが、――客員騎士という地位でありながら誰よりも民から人気であった武人が、何らかの罪に問われたという噂が流れてしまった。緘口令が出ようと、人々の口を完全に塞ぐのは土台無理な話であった。現れた謎の怪異――帝都を騒がすガルディエルの怨霊に道連れにされ、地下の奈落へ呑まれた英雄の生存は絶望的とされた。
それでも一目、姿を現すかもという期待を胸に、民たちはパレードに臨む。
そして、音楽が静かに消え行く頃。
阻む煙幕は消えた透明な街には人々の声と歯車やら何か機械が動く音に満ちる。
ガラッシア中のヒトが、集まった。
一般客を通さぬため、柵が設置され、監視役の憲兵が数ムートおきに配置されている。
ヒトが集まると言っても、地下の治安の悪いスラム街と化した魔窟たる階層は除いている。当直の騎士や憲兵たちは災難であるが、閉じた隔壁を監視する役目を担う者が必要であった。あくびを一つして恨めしそうに空を見やる。軍人として行進に参加することは名誉そのものであり、これも大事な職務とはいえ、やはり参加したかった。こういう日にこそ行動を起こさんとする輩がいる可能性もあるが、普段から何も起きないせいで気が緩みかけていた。
そのお陰で商売が楽にできる、と売人が秘密裏のルートで地上と地下を行き来ができた。
光が眩しいほど、陰は色濃くなる。
人身売買、違法薬物の取引、法を破って儲けるために動く、社会的に制裁されるべき悪もいた。
しかしそれすら児戯に等しいと思える、忌むべき悪意、悍ましい野望に燃える者がいた。
地上の、螺旋状に展開された都市部を照らす照明器具と、人々の楽し気な声に隠れているが、狂気は着実に肥大していた。
大望を抱くものは、歓喜する。
滅びを願うものは、哄笑する。
偉大なる“神”の降臨に――。
完全にフェードアウトして静まってから、人々は少しずつ声を抑え始める。
そして、高らかに木管楽器の音が響き渡る。
地を揺らすような始まりの合図の後、喨々と金管楽器が交ざり、演奏が行われる。パレードは始まり、人々の騒めきがまた生まれた。
まずは軍靴の音を響かせて進む歩兵。
伝わる音楽よりも、目の前を進む彼らが踏み鳴らす力強い音の方が、強く耳に入ってくる。
規則正しく、一糸乱れぬ統率が取れた行進を民に見せつける。神の尖兵たる彼らは冷徹な剣でなければならない。
次いで歩むのは騎兵。街を巡る緩やかな坂を、駿馬に跨がり進んでいく。極寒の永久凍土たるアルゲンエウス大陸にて、大荷物での長い距離の移動は専らミラドゥ種が適しているが、開戦時には乗馬での戦闘も行う。身体が大きく、毛も長いがよく手入れされたウマもまた、堂々と歩んでいく。ただし、複雑怪奇な形状をしている帝都内でその機動力を如何なく発揮できるものは、それこそ客員騎士エドアルトに他ならない。
その次を弓兵、弩兵が行き、遂に見えてきた。
人々が歓声を上げ、喧騒に拍車がかかる。
彼の者は民に、恭しく額を床に付けることを望まない。何故ならこのニヴァリスに住まう民は家族そのものであり、そのような真似をさせたくなかったのだ。
「「「うぉおおおおっ!」」」
「陛下!」「皇帝陛下!」「ヴラド帝! 万歳!」
「ニヴァリス万歳! 皇帝陛下、万歳!」
心の底から、彼らは敬愛すべき者を呼ぶ。
馬車よりも大型で広い専用車両の上に、玉座に座りながら手を振るのは、ニヴァリスの現皇帝――ヴラド四世。さらに皇帝の子らが群衆の歓呼に応えると黄色い歓声がスーッと突き抜けていく。
黒のボディと紫の幕でシンプルながら厳格さを醸し出す車両は蒸気機関で駆動している。それなのに前で牽くは、鋼鉄の馬たち。立花颯汰が見れば、きっと仰天していたことだろう。大きさこそ本物のウマと違えぬため、仰々しい銀の装具を身に着けたものだと思い込む人の方が多かった。
また車両は四角いピラミッドのような構造で階層が分かれ、頂点に皇帝、次段に息子たち、次々段に娘たちと近衛騎士がいた。
出産が近い長女レギーナが、安静にすべきであるため此度の祭りに参加していないことを、事前知らされていたとはいえ、民は残念がっていた。
ただし、一つの不安要素は払拭された。
「おぉヴラドレン様!」「ヴァジムさまー!」
二人の皇子が皇帝に反逆し、投獄されたという噂も流れたが、現に二人は笑顔で手を振っている。軍人の弟たちより控え目ではあるが、歳相応の落ち着きを見せて民たちに応えていた。
第一皇子ヴラドレンと第二皇子ヴァジムの名を、安堵し喜びながら叫ぶ。
噂話に正確さを求めてはいけないのはどこの時代、国でも同じことであるが、ショッキングなニュースほど、容易く伝播する。しかしそういった噂もたかが噂と斬り捨てられる結果となった。現に、皇子たちは元気に手を振っておられる。くだらぬ噂、けしからん噂であるとデマを流した見知らぬ者を軽蔑しつつも、今を楽しもうとすぐに記憶の隅へ追いやっていたヒトが、殆どだったであろう。めでたい日に、待ちに待った楽しい日々に、わざわざ怒りの記憶を保持し続ける暇な人間はいないのだ。
興奮して近づこうとする人を制する憲兵。
その奥、見覚えのない兵科の者たちが専用車両の回りを、警護するように配置されていることに民たちは気づいた。
全身を鎧う姿――颯汰や転生者が見れば一様に「潜水服」を思い浮かべることだろう。街の至る所にある金属と同じ銅色で、関節などは黒色のラバー素材を用いられている。丸い頭部の、円形の硝子の窓の奥は少し見えづらく誰がこの装具を身にまとっているか分からない。
背部に四角いがバルブの付いたガスタンクのようなユニットが装備されているから余計に彷彿とさせた。何よりも二十四人しかいないその変わった見た目の兵は、重々しい機械式の戦斧や、大型のメイスのような突起の付いた棒を装備していた。ゴテゴテと何か装飾と歯車のようなパーツが取り付けてあり、不穏さを感じさせる。ズシズシと重いが決して遅くない足取りで皇帝たちと共に進む。少しだけ驚いたり困惑して顔を見合わせる民たちもいたが、それでも静まるようなことにはならなかった。
「吸血鬼兵……!」
人波の中、誰かが呟く。
喧騒でそれを捉えられる者はいない。
皇帝を守護するそれを、異物だと断じる。
襤褸を被り、ヒトを掻き分けて進む。
ちらりと遠くを見るために頭を上げる。
薬品によって落ちた視力でなくとも、そこにいるとは判別つかなかったが、男はそこに“彼”がいると信じ切っていた。
これ以上、不審な動きをすれば危ういと観察を諦める。似たような格好のものは他にもいるが、それでもリスクを背負うのはまずい、と男は考えた。自分の身がカワイイわけではなく、己が捕まれば警戒はさらに強まる。これ以上は、成り行きをただ見守るしかできないことに、男は歯痒さを感じながら、パレードを――立ち上がり手を振る皇帝を睨んでいた。
そして皇帝一家のあとを騎士大隊が後を追い、その後に続くは憲兵隊、さらに後を輜重兵を担う新兵たちが、やや緊張気味で硬い表情のまま行進していった。
兵役で集められた若者たちは少し初々しい。
貴族の子や武人生まれは騎士として配属されるが、兵役で集められたものの大概は歩兵と輸卒を担うように振り分けられていた。
そしてパレードは十数クルスもの道を進んで街の中央部にある広場へと赴く。
軍事パレードから少し間隔をあけ、今度はそれぞれの区画の町人たちが精を出して作った山車が至る所で進んでいく。
「これは……、さすがニヴァリス帝国、何もかもスケールが大きく派手なものですな」
「ええ。なんでも本来は神聖な皇帝の行進と時間を分けて庶民のパレードを執り行うそうですが、皇帝陛下が我々のような来賓にももっと楽しんで貰いたい、かつ自由時間を増やしたいと要望し、このような形になっただとか。いやはや、懐が大きいと他者を気遣う心の余裕まで生まれるのでしょうな」
歓談する他国からきた貴族たちは、優雅にホテルの解放された屋上から様子を見ていた。憲兵に武装をしていないかチェックされたときは不愉快そうな顔をしていたが、こうして人混みに紛れずに屋内でパレードを覗けるのはいい気分だと喜んでいた。
これから起こることを何も知らずに、ただ祭りを――友好国の客人として楽しもうとしていた。
「――……む? あれは……?」
「どうかしましたかな」
「いえ……、まぁ……ちょっと……――」
「いかがなされた? ネロン卿」
「――かなりの美人がいたように見えてな」
「卿はまた奥方と揉めたいのですかな? ……口ぶりから察するに、皇女殿ではない?」
「外にいたのだ、あの鉄の馬車ではなく。ひと際美しい――外套を被り、横顔しか見えなかったがかなりの麗しさとみた! 口にこの装具がないから現地人だろう」
外国から来た客人に装着を義務付けられたマスクを自分の人差し指でさしながらネロン卿と呼ばれた男は興奮気味に語る。
「……一応、卿の奥方に監視するよう頼まれた身なので自重なされよ」
「ううむ、しかし、美形のエルフ――いや、人族? もしや噂に聞く海鱗族か?」
「獣刃族も竜魔族も充分にあり得ますぞ?」
「いや、あの儚き令嬢のような気配……もしや精霊なのでは?」
「卿はもしや、既に一杯ひっかけて酔っている? もしくは知らぬ内にハーブか何かをキメた?」
「ううむ! こうしちゃおられん! すぐに追いかけ夜のお誘いをせねば!」
「卿の頭には性欲しか詰まっているわけではあるまい。そろそろ奥方に本当に逃げられますぞ」
「び、美人がいて誘わないなんて失礼極まりないであろう!」
「あんな綺麗な奥方を裏切る方が失礼極まりないですぞ?」
「いくら卿とて我が愛は止められ――な、なにをする憲兵諸君!? じゃ、邪魔をしないでくれたまえ!」
手すりから身を乗り出さんと注視していたエルフの貴族が、すぐに振り返って抜け出そうとしたところ、随伴した監視役の憲兵五名が総動員で彼の奔走を止めにかかった。
「すまないガラッシアの偉大なる勇士諸君! いや卿は本当、そういうところがヒトとしてダメだな!?」
友人でもあるもう一人の貴族がほとほと呆れ果てていた。額を押さえやれやれと溜息が出る。
美しいものを眺めることだけなら罪ではないが、それ以上の狼藉は悲劇を生むに違いない。彼の妻に報告しなければバレはしないが、一件でも止めなければ味を占め、歯止めが利かなくなるのはそれなりの付き合いから、何となくわかる。ゆえにしがみついてでも止めるつもりであった。
一体誰を見たのだと男は何気なく視線を人だかりに向けたが、それらしき影は見当たらなかった。
色ボケで面食いの人でなしではあるが、彼のお眼鏡に適うとは相当の人物なのは間違いない。
「……さすがに、いくらなんでも精霊などと」
愚かな考えだと首を横に振って霧散させる。
憲兵に取り押さえられながら未だ諦めきれてない友を、どうにか宥めようとそちらに思考を切り替えて男は歩み寄った。
麗しき女は、青白く血色のない顔色でふらつきながら人波をすり抜けていった。
ゆったりとおぼつかない足取りではあるが、車両と並走するように――。




