68 駆け引き
帝都ガラッシアの風のない地下。
かつて栄えた高度な文明の面影は、錆と埃に塗れて久しいこの場所にて――。
仄かな明かりの下を歩む二つの影があった。
薄闇の中から男が独り現れ、二人に言う。
「おうよお二人さん。若い男女でナニ、修羅場ってたのかい?」
未だ余裕さを崩さぬ態度は大人ゆえか、あるいは並みの修羅場は乗り越えているからか。野盗を束ねていた“頭”と呼ばれた男の言葉に、颯汰は無感情に返した。
『軽口は死に直結しますよ』
「おーコワ……。ほんと、ウチの組の奴らにも見習わせたいね」
おそらく、職が無い野盗崩れの住民以外に、裏稼業の仲間がいるのだろう。なんであれ颯汰にとってそれは関係のない話だ。
そんな些事などより、大事な話がある。
『貴方にもう一つ、頼みがあります。実は――』
颯汰が、頭にある依頼をする。信用ならない相手ではなるが、他に頼る手がなかった。
無論、無料ではない。相応の支払いをする必要があると分かり切っていた。内容自体も簡単ではないだろうが、金さえあればこの男は動くと踏んでいた。学校生活という社会に溶け込むために、得る必要があった人間観察というスキルはこういうときに活きる。
彼はその内容を聞き、わかりやすいくらいに考える動作――顎に手を当てて唸った後に、
「――……なるほど。引き受けよう」
報酬は確約されているうえに、前金もキチンと支払われると聞いたうえで、悩んだふりをして依頼主である颯汰の反応を窺っていたのだ。
一方、颯汰は自分自身がこの男に観察されているのもすぐに察した。下手に出ていれば付け込まれる。ただ泰然として焦りや弱みをみせないように努めた。
ちなみに予算については、仮にも(颯汰自身も認めてはいないが)一国の代表として、お金は結構持っているので問題ない。そもそも戦後のゴタゴタや多方面に起こる問題への対処などで使う暇すらなかったのだ。
一つの懸念は、本当に彼が約束を守り、依頼を遂行してくれるかだ。欲に目が眩んで裏切らないとは限らない。ゆえに成功報酬を用意したが、念には念を入れた方がいいだろう。
一手、“恐怖”を差し込む。
颯汰の何も持っていなかった左手にそれは出現する。黒く禍々しい雰囲気を醸し出す、頭を覆うフルフェイスの兜。それを頭頂から被るのではなく、直接顔に押し付けるようにすると、闇が霧散しながらすり抜け、装着される。
瞳のある部分は爛々と蒼の鬼火が灯り、首元から全身を包む襤褸の外套が形成された。
怨霊を僭称した怪異の姿――。
南大陸の大国を一時期簒奪し、権力ではなく暴力により圧政を敷いた魔王。その悪魔が身に着けていた兜と酷似しているとは、この場にいるものが知る訳もない。それでも、不思議な怖気を煽るには、充分な力を有していた。
『……わかっていると思いますが、その人に手を出したら――』
「あ、ああ、……わかってる、わかってるよ。皆まで言わなくとも! 必ずやその依頼、果たしてみせよう。お前さんがこれから何をしようとも訊かん。俺は見合う報酬さえ受け取れれば、それで良いしな」
出来れば落ち合い、直接成功報酬を頂きたいと男は言ったが、それは保障できかねないので、神父服の男に話せと命じ、颯汰は独り闇の中へ消えていく。
残された頭と慕われている男と気障ったい衣裳に身を包んだ少女、壁の滲みのように背景に溶け込んでいたゴロツキどもが何名かがいた。
中には値踏みするような目や、もっと下品でいやらしい目つきをして彼女を見やるものもいたが、誰一人として進んで約束を破るような真似をしない。
彼らはこの少女が何者かは知らないし、知る必要はないと断じた。おそらくどこぞの貴族の娘で、奇抜な格好は客員騎士の真似事――憧憬の末の奇行か、コスプレの類いなんだろうとあまり深くは考えていなかった。
ただ、手を出すとその連なる家系の貴族様から狙われ続ける危険性と、去り際にキツイ釘をぶっ刺していった怪物に恐れを覚えたからこそ、金払いさえ良ければそれでいいと割り切れていたのだろう。
少女は今や不満、あるいは不愉快そうな顔つきではあった。元凶が去り際に放った言葉と、離れていく姿を見たときの表情の変化を、頭目敏く、見逃さなかった。
そっと鳴らす口笛に、機敏に反応した少女の睨む顔から男はそっと目を逸らす。
下手に首を突っ込むと死に瀕すると――先ほど受けた脅しではなく長年の経験と勘から判断した男は、部下が暴走しないよう注意しつつ、忠実に依頼をこなそうと心に誓ったのであった。
立花颯汰は闇の中を駆け抜ける。
自分の行いで罪を被った少女――霊器によって外見を偽装し、人族のエドアルトを演じていた者を助けるために奔走する。
罪滅ぼしと、一つの疑念を晴らすためだ。
目的地は、昨日訪れたばかりの場所。
地下の各施設で生産された物資を、帝都中に運ぶ貨物に乗じて、天空の宮殿へ向かうのだ。
――魔女……、まずは、あの氷の魔王に会って頼んでみよう
憲兵の話だとエドアルトを叛逆者として捕えよと命じたのはどうやら彼女らしい。
もしも、本当にエドアルトが洗脳装置を破壊した犯人だと思い込んでいる場合は、それは誤解だと伝えるしかない。それは、もれなく自分が罪人だと認める形となる。
氷の魔王はわりと颯汰に同情的であり、話せばわかる人物であったが、許される保障はない。
無論、ただ無抵抗に殺されるつもりはない。
だが、勝つことは難しい……否、不可能だ。
初対面のとき、彼女にとって戯れ程度の力で嬲り殺されかけた。戦うだけ無謀だ。
準備をする余裕はないが、全力で逃げられるよう退路の確保をすべきだろう。
――もし、もしも……
命の心配もあるが、颯汰が引っ掛かっているのは別件であった。殺されないとは限らないというのに、そこは実はあまり心配していない。
いきなり凍らされ、死に至らされるネガティブな妄想が頭に過らなかったわけではない。それよりも引っ掛かるものがあったのだ。
その答えは、どのみち進んだ先にある。
左腕のナビゲートを頼りに進み、途中から見覚えのある場所から迷いなく駆けて行った。
『ここは……』
暗黒の螺旋を下る。途中のフロアにて――。
颯汰は足を止める。
ヒトを避けて駆けていたため、己の足音しか聞こえていなかったが、長く間延びした音が、しばらく遠くまで響いた後に、静寂が訪れる。
視界は相変わらず悪いが、目は暗闇に慣れた。空気は僅かに淀んでいるが今の状態の颯汰にとって大した問題ではなかった。
ただ、普通の人体には悪影響はあるかもしれない。地下街の荒んだ環境、住民の衣服、暗さが物語る。子どもと観光客に着用を義務付けている防塵マスクのようなものを配るあたり安全性は疑わしい。
平時は閉鎖して地上との行き来が簡単にできないようにしているのは、単に技術流出を防ぐためだけではないのだろう。
肌寒く、感じるニオイは他の階層やヒトがいたところと違ってかなり薄い。流行病によりヒトが消えて久しい、隔離された区画ゆえだ。
本来、誰もいるはずがない場所であるが――。
左腕から瘴気と共に、小振りの金槌を取り出す。左手に握ったそれを見つめてから、そんな街の入口を見てから颯汰は続けて言う。
『あのお爺さん……、いるのかな。せめて、その弟の娘さんの名前とか、きちんと教えて欲しかったんだけど』
空中庭園までの抜け道を教えてくれた老人は、突然光となって消えた。「よろしくと伝えろ」とは言ったが、この鎚も渡すべきなのだろうか。それに何か地下でやることがあると言ったが、彼はいったい何者なのだろうか。
これで封鎖された区画に入り、家の中に押し入ると、普通にいたらかなり拍子抜けではある。
そんなように想像してから少し考え、「一応、寄るべきか」と呟いてから寂れた街へと入ろうとした。そこへ――、
『ふん、お主……、やはりここに来たか』
突然、背後から声を掛けられる。
その声に覚えがあったが、驚きを隠せない。
あまりに早い出会い。予見していたにしては、いくら何でも早すぎる。
『何故ここに? と尋ねたそうな顔つきじゃの』
『…………会いに行く手間が省けたんで、こちらとしては好都合です』
動揺を悟られまい、と颯汰は声を絞り出す。すぐに内面に本音を隠すべく顔つきを戻した。
凍った瀑布を思わせる髪色。
宝石を散りばめたようなドレス。
血が通っていないような白い肌。
雪の結晶を模った錫杖を握った女がいた。
氷の魔王――ニヴァリス帝国に巣食う脅威。
空中庭園にいるはずの女が、ここにいた。
『ほぉ……。妾に会いたかったと』
『間違ってないんですけど、自分で言ってからちょっと照れるの、止めてもらっていいです?』
『う、煩いわい! そんなことより――』
咳払いをしてから女魔王は続けて言う。
『――さっさと本題に移ろうとしようかの。……お主、あの騎士をどこに匿った?』
声が一瞬詰まる。
空気が文字通り凍り、吐く息は白くなる。
他者を圧倒する気迫と強い敵意を感じた。
無意識に、颯汰は己が半歩後退していたことに気づく。それを恥とは思わないが、恐怖を感じたとはしっかりと認めていた。
返答次第では冗談抜きで命がないと知る。
『…………、まずは、誤解を解きたいんです』
颯汰は何が起きたのかを説明する。
皇女姉妹のところにいたのは既に説明していたが、その際に件の洗脳装置なるものを危険と判断し破壊したことを。その際にエドアルトと戦闘となり巻き込んでしまったが、彼は装置の破壊に一切関与していない――無実であると言った。
『――……という訳で、あの人は犯人じゃないんです』
少しの間、言葉が詰まる。大きく溜息を吐いた後に、颯汰は自分がやったことだと告白する。
『なるほど。……報告書通りか。お主の言い分はわかった。して、あのモノはどこぞにおる?』
怒りの感情を、彼女から感じない。
しかし、精霊のように笑っていた数瞬後に急に激昂し刺し殺そうとしたり、泣いていたと思ったら急に無感情となるような人と生きるステージが根本から違う存在であるゆえに、油断ならない。
『報告書、通り? 待て、待ってくれ。……アンタは、あの人をどうするつもり――』
空気が凍るパキパキという音が聞こえた途端に、颯汰は大きく後ろへ飛び跳ねた。数瞬後に、颯汰がいた位置に氷柱の鋭い先端を向けて、斜め上から三つほど、素早く降り注いだ。
瞬時に、颯汰は形態を変える。
わずかでも寒さへの耐性を上げるべく、氷河を生き抜く戦士の姿となる。毛皮と腰布など、動きやすいが厚着でさら装甲を纏う。
地面にぶつかると爆ぜるように結晶が展開し、直撃を受ければその鋭い氷塊に肉が貫かれるか、身体丸ごと氷漬けとなっていただろう。
『問うているのは妾じゃが。あのモノをどこに匿った。てっきりここにいると思ったが?』
今度は、明らかに強い感情を感じた。
明確な苛立ちを、氷の魔法に乗せていた。
――どこかで、ホテル前にやり取りを見ていたのか? 下手に、嘘を吐くのはマズイ……!
慎重に言葉を選ぶ必要がある。
遠視などの魔法か、あるいは使い魔を飛ばして遠くから観察していたのかもしれない。
尋ねている辺り、地下に堕ちてからの動向は把握していないようだ。
『……、恥ずかしい話、なんですが。地下に落ちて気を失っていて、気付いたらあの客員騎士の姿は無く……、どこかに落下したのかも』
言った当人ですらだいぶ苦しい言い訳だと自覚していたが、他に言いようが無かった。
動揺して目を泳がさないように、必死に冷めた目を見つめ返す以外に術はない。
もっともらしい嘘を考える暇は無かった。
こんな口から出任せで騙されるはずが――、
『なん、じゃと……』
あった。
氷の女魔王は、口元を押さえて呟く。
颯汰は『あ、イケる』。しめた、と思った。
殊更、青くなった顔でおろおろしていた魔王であったが、
『落下したらさすがに死ぬ……いや、死んでいないのは間違いない、か。と、ともかく使い魔を飛ばして下から……まずいの、何日掛かる?』
独りでブツブツ言った後に、
『おおぉぉお!! お主ぃい!! なんてことをしてくれたんじゃあぁあああ!!』
狂乱しながら颯汰の襟を掴んで持ち上げて、ぐらぐらと揺らし始める。直接攻撃されるのもキツイが、これはこれでキツイ。首が絞まり、息苦しく藻掻いていたところ、女魔王は手を離す。
落下して尻もちをつき、首を押さえて咳き込む颯汰。恨めし気に女を睨む。
その目を見て逆上することは運よく無かった。
『……クッ、知らぬゆえ仕方ないとはいえ、お主、やってくれたな』
『……一体、何を? なんのためにあの人を捕まえようとしているんです? 無実であっても理由をテキトーにでっち上げてまで』
元より、エドアルトの罪の有無は関係なく、あくまで彼女を捕えるための方便であったようだ。
『…………後継者じゃよ』
『え?』
『あやつは、現皇帝・ヴラドの小僧の子。つまり、正当後継者なんじゃよ。……あのまま放っておけば、刺客に処されたじゃろうて。すぐにでも保護せねばならぬ』




