65 岩石落とし
「――逃がすかッ!!」
相手の出しうる最高の速度を想定して、後ろ向きに跳ぶ颯汰。それを追うエドアルトは叫ぶ。
客員騎士たるエドアルトは凄まじい速度で駆け、その剣先が金属製の床の上に触れる。擦れる音に激しい火花を散らしてみせた。
――……!? 何かマズいぞッ!
第六感が告げる。
そして、それを補強するように颯汰の視界は白から反転して無明の闇と化す。
死を予期し、危機察知が自動で発動したのだ。
見えている世界のすべてが漆黒の闇に呑まれ、身に降りかかる不幸を回避する術を、光で教えてくれる。行くべき場所には足跡が見え、襲い掛かる脅威に対しての最適解が、線などで表現される……それに合わせて剣などを振って、今まで災いを回避してきた。
数をこなすと、具体的にいえば紅蓮の魔王との鍛錬という名の地獄のシゴキに日々耐えた結果、見えるヴィジョンも、少しばかり精度が上がっていった。
――危機察知で動きが視え……ッ! いや、嘘でしょマジかっ!?
幼い頃から見えていた忌むべき幻覚――昏く燃える漆黒の靄が、どうあれ己の命を守るために、“災厄”は形を変えて具現する。
現実の敵と乖離して躍り出るのだ。
淡い幻は対象を模りながら、先んじて動く。
エドアルト本人から実体のない靄が脱け出す。
限定的な未来視が対象の次の行動を――此方をどう殺そうとするかを示す。消費するエネルギーの多さや、疲労から変身が解けると元も子もないので今回は使うつもりはなかった。
だが、勝手に発動したということはこのままだと死に繋がるという事だ。
黒い亡霊のふりをした颯汰は、その幻を見て愕然とする。
颯汰はあえて同じ技を放つよう仕向けたし、それを打たれてもまだ耐えられる自信があった。
構えは変化したとはいえ、以前に見たこともあり、自分も試したことはあった。
無影迅による高速移動――特に最高速度に達したと同時に放つ、蛟牙こそが本来の使い方である。
加速した身体を、制止させずに勢いそのままに斬りつける。
剣を振るうまでなら颯汰にもできるが、単体では極める領域まで及んでいない。
ただ知識としては当然知っている颯汰は、未熟である自分と違って、この客員騎士は無影迅から蛟牙を使うと予想はできていた。
エドアルトは弐之太刀・蜃燕……予備動作も一切見せずに、初動から最高速度で斬りつける奥義。泡沫の夢・幻の如き居合抜きを使わぬこと、他の型での奥義も習得していないとも斬り合う中で颯汰は悟る。
蜃燕は、前提として目で捉えることが困難な速度を出さねばならないため、蛟牙よりも難易度はさらに高い。怪物のふりをした颯汰が現れた途端、一瞬でエドアルトが詰め寄ったときにはその片鱗は垣間見えたが、どうやらまだその極みに至っていない様子であった。
だから、必然的に蛟牙が飛んでくる。そこまでは予想は正しかった。
直前にて異変に気づく――。
本来は気づけるはずもない、予兆なき変化を読み取ったのは、刻まれたトラウマのお陰かもしれない。
腕が二本、斬り落とされる悪夢の記憶が蘇る。
そして――、嫌な予感ほど良く当たるものだ。
実際に見えてきたヴィジョンは、神速の刃が二つではなく、倍の四つだと教えてくれた。
《始ノ太刀――》
紛れもない幻聴、脳が作り出した幻が蘇る。
すべてを否定したい衝動に駆られる相手、黒衣の男の姿が浮かんでは消えた。
幻想であろうと、刻まれた恐怖は真であった。
それゆえなのか、防ぐ予定であった次の攻撃を、受ければ危険――最悪、死に瀕すると颯汰は放たれる直前に予期したのだ。
上下だけではなく、左右からも同時に来る。
つまりは、縦横の四方向から挟まれる。
仮に両手に剣を一本ずつ、黒獄の顎でもう一本持たせたとしても、一発は食らう。そこまで距離が詰められている。両腕部からジェット噴射して後ろ向きに加速するにも、機動までのタイムラグによって間に合わない距離だ。
プロセスを変える必要が起きてしまった。
本来は、蛟牙を防いでから行うべきだった工程を今、実施するしかない。
不幸中の幸いなのは、互いに着地前……若干足が浮いてる状態だからこそ決まりやすい。
『――クッ……、行けッ! 黒獄の顎ッ!!』
左腕から溢れ出す黒煙のような瘴気を束ねて造り上げた貌の無い捕食者の口。
向けるのは目の前のエドアルト。
苦し紛れの抵抗ではない。勝機を掴み取るための第三の手として、きちんと機能すると颯汰は賭けていた。
「!?」
放出された黒の闇は一拍数える間もなく激突する。追う速度も速いから当然だ。
エドアルトも、颯汰の右腕から武器が展開されるまでの時間は足りないと正しい予測はできていたものの、濃密な闇が喰らい付くとは選択肢から外していた。先に右腕の武装にて大盾を両断し、高々と掲げて見せつけたのが大きい。
エドアルトは咄嗟に攻撃行動ではなく、その闇を払うべく剣を振るった。だが実体を持たぬ闇に刃は通り抜ける。……というのに、すり抜けた後の瘴気が集まってできた集合体は実体を持ち、エドアルトの胸部に喰らい付いた。狙ったのは胴体であったが斬撃を受けて霞んで、僅かに狙いがズレたのだろう。
『あっ……』
「なっ――!」
兜の下に隠れていた顔の、崩れた表情を一瞬で引き締めて颯汰は思いきり金属製の足場を踏みつける。同時に展開された両脚部の外側にある姿勢・反動制御用の白銀の杭が伸びる。
勢いよく突き刺さる杭は床を抉り、その場に留まろうとする。
さらに腕部のリアクターとスラスター部を展開し、青白い光が火を吹いた。
『フル出力で――』
黒獄の顎に掴んだエドアルトを、
『――ぶっ、飛べぇええッ!!』
黒獄の顎と連動している左腕を右手で押さえながら、まるで釣り竿を引き上げるように思いっきり後方へ引っ張った。見事と言える一本釣りで、客員騎士の身体は宙に浮き、弧を描く。常人は宙で姿勢を保つことはできず、エドアルトはされるがまま引き上げられ、頭から落ちていく。黒い塊がぶつかる痛みは然程感じなかったが、その浮遊感に恐怖と危機感を抱いた。中心に立つ颯汰から五、六ムート浮いて真後ろへ頭から落とされる。激突すれば、勿論ただでは済まない。
「ぐっ、……わぁあああッ!?」
だが、抵抗する間もない。すぐに景色が文字通り反転している。白の薄靄に包まれた街であっても天地が逆さとなるのは感覚でわかるし、はっきりと見えないことがさらに恐怖を煽る。
怪物に扮した颯汰はそのまま暴虐の徒となりて、エドアルトの頭部から落として殺すつもり――では無い。
真っ逆さまに落下させられ、恐れて目を瞑った客員騎士。
その黒の怪異の左腕から伸びる影は、もう一本の腕のような役割を担っているわけだが、どうやらそれがエドアルトを叩きつける前に、何かと衝突したようだと揺れで理解する――前に、連動してエドアルトは壁に身体ごと強打した。頭からではなく背中からであった。
衝撃でエドアルトの手から武器が滑り、奈落の底へ消えていく。
痛みで喘ぐエドアルトは事態を呑み込めないでいた。
足場がない浮遊感。上を、己を掴む黒い影が伸びた先を見やる。
自分を噛み付きながら、さらに黒い靄でしっかりホールドしている線形のシルエットが曲がった先に、金属製の壁が見えたことでエドアルトは気づいた。
――や、やられた……!
誘いこまれたのだと知る。
ホテルから斬り合いながら、視界の悪い白煙の中で条件は同じ――むしろ顔を覆うフルフェイスの兜のせいで余計に見えづらいはずであろうに、この悪魔はまんまと自分を誘い込んだのだ、と。
ニヴァリスの帝都・ガラッシアの特異な造りを利用したのだ。
街の中心は大きな穴が地下深くまで続いていて、街は緩やかな螺旋状の回廊に建てられている。ホテルのような高い建物の屋上には、緊急用の鉄製の螺旋階段が設置されていて、登ればそのまま上の階層へ避難ができるようになっていた。
索道がいくつも交差する歪な都市。大穴に落ちれば助かる術は、まずない。そのため転落防止用の壁が設置されていた。地下の脆くて低い柵とは違い、きちんと手入れされているうえに簡単に身投げができないような高さで造られていた。それも建国祭の開催が近くなったので、万全を期してどこもプレートによって塞いでる箇所の方が多い。正直言えば景観を損なうほど良い眺めではないし、まず年中、満ちた霧状の白ではっきりと見えないことの方が多い。
――頭をぐちゃぐちゃにして潰すのではなく、闇の中へ落下する恐怖を味わわせるつもりか!
エドアルトが落下防止用のプレートと床部分に横から振り子のように激突して怒りに震え、呪いの言葉を思いつく限り吐き出そうとしたところ、再度落下する感覚で声が止まり言いようのない寒気がした。
宙ぶらりんの時間はすぐに終わり、身体がずるっと落ちる感覚。
エドアルトは悲鳴をあげる――その途中で、驚いて声に詰まった。
霊体のような腕の如き闇を操る怪物が、
『あぁぁああぁああ……ッ!!』
何かすごい、自分以上の悲鳴をあげつつ、プレートから垂直で駆け降りてくるではないか。
蒼の焔に加え、次は地獄の紅い雷を迸らせながら、怪物は飛び込んできた。
身動きが取れぬエドアルトは、今度こそ死が訪れると思った。
だが怪物は跳躍したがエドアルトを通り過ぎる。左腕と繋がっているため、エドアルトもまた引っ張られて斜め下方向に連れられた。
「お前は一体!?」
『………………!!』
返答はない。ただ歯を食いしばって吐息を漏らすような音だけが聞こえてきた。
直後に衝撃と音。
ガン、と索道を進むゴンドラの天井部分に怪物が着地した。衝撃で横に揺れ、中の乗客は悲鳴を上げ、乗っかった当人は声を押し殺していた。
「何をするつも――」
『あぁぁ……!』
答えはしないで、淵から覗き見て、地を震わせるような重々しい声を吐いた。怪物は両腕でがっしりと天井の上に張りつきながら周囲を見やる。
ロープを伝って動くゴンドラから、薄靄の先を蒼の目で睨む。
『……行くしか、ないかぁ。嫌だなぁもう』
ボソッと小声で言ったあと、再度跳び込んだ。
一、二、と何度か繰り返して降りていく。エドアルトも何度も歯を食いしばり目を閉じた。
次は壁を爪を立てて滑り下り、また乗るが、これより下は街から街を張り巡らされた糸は無い。
大都市の内周を巡る緩やかな坂は続くが、これより下は、別の領域となる。
『……歯ぁ、食いしばってろよ』
「お前、まさか……!?」
地上を満たす白の闇から、地下の暗き世界へ。
街灯の光だけが点々とある無法地帯へ。
颯汰たちはそこまで降りねばならない。
それこそがこの客員騎士を救うたった一つの方法であるのだから――。
そういう意図とは本人はわかるはずもなく、懸命に藻掻く。
闇の中を鬼火が舞う。
二人とも努めて叫び声を押し殺し、地下へと降りて行った。
声にならぬその叫びの二重奏こそが、事情を知らぬ多くの民草に恐怖心を植え込んだ要因となったとは彼らは知る由もない。




