64 寸劇
突然の来訪者――人外らしき、黒の瘴気を纏う虚ろな怪物の出現に、大多数が驚き、困惑にしていた。遠くの景色も霞む濃霧の如き白煙。それを侵す昏き影の化身は、まるで人界のすべてを嘲笑い、見下すように睥睨していた。
大のオトナですら身が強ばり、心からの恐怖を植え付けられる暴虐の怪異の乱入に、場の混乱は極まり、ある種の坩堝と化す。
それでも――、
即座に殺しにかかった鬼気迫るエドアルトの冴えわたる剣戟を見て、多くが安堵を覚えた。
薄靄の先でも燦然と輝く姿――。
世界に、夜空に輝く星の数だけ英雄と呼ばれる豪傑たちがいるとすれば、この騎士もその一つに数えられたことだろう。
誰もがその雄姿に英雄の像を見た。
例え、正気を失いつつあり、異常な行動に出ている彼の英雄を捕まえるという役目を、上から命じられてもである。
白き闇の中を躍る乱舞の太刀風。
衝撃が風の音と共に、周囲の闇を吹き飛ばす。
怪異が不定形の揺らぐ幻のような見た目とは違って、実体のある存在――斬れば死ぬ相手だということを知れたのは大きい。皆に安心感を与えた。エドアルトの攻勢が続き、すぐに決着が着くものだと考えていた。
だが、鉄と鉄がぶつかり合い、火花散らす中でその考えはどんどん陰り、不安な気持ちが胸の内でわだかまる。
そして、それは決定的なものとなった。
湖が映す月の如き鏡面――。
だが僅かな水面の揺らぎすら無い。
写し出されたもう一つの剣。
その構え、振るう刃の早さまで同じものとなる。
全く同じタイミングで振るわれ、衝突してみせた。
「まさか……――」
エドアルトは相手の多少の癖から見抜こうと観察を試みていた。未熟な部分や、逆に得意な行動を把握できれば、戦術は立てられると思った。
だが、その矢先であった。
思考よりも先に行動を加速せねば対応できなくなっていく。そうして至るは今の鏡写し。相手も全く同じ、太刀筋となって襲って来たのだ。
――いや、同じ流派はあり得ない。断じて無い。ならば、もしかして……見ただけで完全に模倣している? それにあの光は一体……?
目の錯覚かもしれないが、怪物の胸の方で黒の襤褸切れに隠れた漆黒の闇の中で、ぼんやりと光が灯っているのがエドアルトは見えた。
紅蓮の魔王は何食わぬ顔で玄関口まで出てきて野次馬と化しているだけ……な訳がない。
意思の疎通など不要とばかりに彼の体内にある王権で生成した魔力を契約者である颯汰に譲渡し続けている。紅い光がその証拠であった。
「ふむ。しかし、長くは持つまい」
小さく独り言を呟く魔王。
遠隔での魔力の譲渡は少量しか送れない。いくら魔王の王権が無限に魔力を生むとしても、それが流れていく先の颯汰が受け取る分以上に、消費してはいずれガス欠となる。単純な話である。今は無理矢理、身体を強化し何とか互角風に装っているに過ぎない。ただ、多くの者はそれに気づかず、相対するエドアルトも不気味に思っている程度である。
紅蓮の魔王の呟きは正しい。戦い続ければいずれボロが出るのは間違いないし、限界もきてしまう。その前に騙し切る必要があった。
『当たれ……!』
天鏡流剣術の強みは、無影迅による最速の機動力を利用した多種多様な剣技。狭い空間では壁を、森では木々を利用して飛び跳ね、正面ではなく奇襲が基本であり、是としている。中には移動を抑え、敵の攻撃を弾いたり逸らしたりしつつ、カウンターを決める……膂力で多少劣る女であっても戦えるよう生み出された型もある。前者を“空の型”。後者を“柳の型”と呼ばれていた。
実はこの剣術は奇襲――闇討ちどころか、飛び道具の使用を容認している。と言うのも単純に騎士道などという“ヒト”の持つ道徳観や感性など戦いに於いては足枷でしかないという、ある種の皮肉から来ている。精霊にとってそんなもの唾棄すべき瑣事であり、護るべきはプライドではなく命だと考えている。
颯汰の師である女型の精霊も本来ならば剣に加えて魔法を躊躇いなく撃つし、技術や持てる術があって使わぬ方がおかしいというスタンスであった。ただ剣術修行中にそちらばかりにかまけるより、まず魔王やその尖兵と渡り合えるだけの戦闘力――相対した魔王との実力差に気づけた颯汰が、何もかもかなぐり捨ててでも逃げ切れるだけの足の速さを身に着けさせる、そのために其方をメインで叩き込んだのだ。
――腕輪の霊器の力は当然使う。正体が周りのヒトにバレてないから。だけど他のクナイとかの飛び道具はおそらく最後まで使わない。エドアルトは、そう演じているから
そう口には出さず、颯汰は懐からクナイを取り出す動作をしてるようで左腕で生成した武器を投げつける。
至近距離で刀剣同士がぶつかって離れる際に、指と手首の力だけで放たれた二本の刃がエドアルトに向かって吸い込まれていく。
顔と胴を狙って縦軸に並んだからこそ、縦に振って切り払えるが、その隙を逃がさないとばかりに黒の怪物は追撃する。
「飛び道具なぞ……! ひ、卑怯な!」
誰かの野次の声。それは泊まっていた客か誇り高き騎士か。
距離を詰めて斬りつける颯汰の剣をすぐにそのまま斬り上げて弾き、間髪入れずに不可視の斬撃が颯汰をズタズタに斬り裂こうと襲い来る。
――これの方が余っ程卑怯でしょォ!?
すぐに地面を蹴って横へと大きく回避する。
本来はもっと接近戦を繰り返すことが目的であったが、すぐにガタがきてしまったので颯汰は止む無く当たらないと分かっていて飛び道具を用いた。玄関口の外までヒトが大勢集まってきている。離れてくださいと憲兵だけではなく従業員も制しているが、着々とギャラリーは増えていた。
時間稼ぎも限界であり、今が好機だ、と颯汰は渾身の大振りでエドアルトを吹き飛ばす。
蒼の焔が燃え盛り、火の粉が妖しく光る。
そしてその双眸も同じくギラついた。
『貴様の剣技、既に見切った……』
「――っ、何……!」
『会得、した、という、ことだ。……流派を、言え。名も無き業では、なかろう?』
「…………!」
予感が的中していた。――と誤認させる。
人間は形ないもの対して、すぐ何か意味や理由を当てはめて安心したがるものだ。わりと雑に用意されたミスリードであっても、心が納得さえすれば、それこそが正しい答えだと誤認してしまう。特に深呼吸さえまともに行えない、そんな状況であればこそ。
エドアルトは苦く忌々しい顔で思考する。脳裏に浮かぶのは相対する怪物の不可解さであった。
――最初、剣の系統がまるで滅茶苦茶だった。傭兵上がりの粗い我流の剣技かと思ったが、急にスイッチングしたかのような変化……! 少なくとも二つ。過去に模倣して覚えた剣術を織り交ぜていた……?
違和感があった。剣戟に無駄が多いわけではない。だがどこか、生きる為に命を奪う選択を即座に選ぶ必要のある、戦場の合理的な剣ともまた違う感覚があったのだ。
剣術はその土地……戦う場所によって変わる。雪原や流砂、泥濘んだ湿地に足が取られまいとする――足の下から伸びては、その場でへばり付こうとする“根”を張るような感覚は若干あったが、まだまだ甘く、“柳の型”を思わせる動きや構えではなかった。
正道の剣術とは違う、ただそうだと理解する間に変化していて、気付いた時には彼の方からネタ晴らしをされたのだ。
――今はもう、同じだ。使い手の癖らしいものが見当たらない。完全にこちらの剣を模倣している。剣をぶつけ合うたびに、近づいていた。どんどん此方の型に……!
陰謀、計略など大それたものではない。
見切ったというのは大見得。大言壮語である。
ただし単なる虚勢という訳でもなく、ある嘘を効果的に染み込ませるための布石であった。
“見切った”の一言に食いついて、エドアルトが動きを止めたのは大助かりである。颯汰も息を整え、再びいつでも動けるようにする必要があった。「戯言を」と言って攻められ続けるのが一番つらい。
颯汰も合わせて動きを止めたことにより、彼だけではなく周囲の人も話を聞く姿勢となったことが狙いである。ほんの僅かでも動揺し、言葉を詰まらせている内に、一気に引き込む。
『素晴、らしい。我が右腕、それに、劣らぬ鋭さ。業の冴え、だ……』
わざとらしく空の右腕を掲げ、武装を展開する。烈閃刃の発光する刃が高速で回転する様を見せつける。
そして、振り返って一閃――。
「ぐわッ!?」
正面から振り下ろされた青白い光刃は、こっそり近づいてきた憲兵を切り伏せる。
距離は通常の剣の間合いではなく、弓よりは近い槍の距離だろう。放たれた右腕部に展開された武器はしなる鞭のように振るわれる。接近する憲兵の身の丈ほどの鋼鉄の大盾を真っ二つにした。
あくまでエドアルトを押さえようと用意した武装だ。複数人で囲むことで高機動を面で制圧し、隙を見て別の者たちが持って来たサスマタを捻じ込んで鎮圧を図るつもりだった。
戻ると謎の第三勢力と激しい剣戟を繰り広げている確保対象が、じわじわと近づいてくるのが見えたのだ。誰を押さえるべきかは瞭然である。
憲兵は隙だらけだと思えた颯汰を背後から奇襲したのだが、完全に読まれていた。
『――臆することなく、我に近づいた……、その、蛮勇、敬意を示さん……』
縦方向に斬られた憲兵は己までが両断されたかと数瞬動けなくなっていた。ハラリと前髪が数本斬られ、落ちてからもしばらく動けないまま。
特殊な金属により、従来の盾よりは多少は軽量化されているとはいえ硬度は充分にある大盾を、布を切るかのようにスパッと裂いた。
倒れる憲兵。遠くから見ていたものは一太刀で殺してみせたと思った。
悲鳴が遠くから聞こえた。
敵対する客員騎士が動く前に、好機を逃さぬと一気に畳みかけにいく。
『地下にあった、あの禁忌の装置――』
囁くような声であるのに、はっきりと聞こえる。眼前のエドアルトだけではなく、一部の憲兵までがビクリとした。
『人の世に不要な、あの装置を、我ではなく、貴様自身のその剣技を以て、両断できるやも、知れぬな?』
「「なっ……!?」」
想定通りのリアクションをしてくれる憲兵たちに颯汰は思わずホッと溜息が出てしまい、慌てて咳払いをする。まだ策士や策略家には程遠い。顔が隠れていて本当によかった。
『我、こそは、冥府神の使い――……まだ、この地にて、雪がねばならぬ、罪有り――』
おどろおどろしく、オーラのように見せた瘴気の出力をそっと上げる。複数の相手を超常の存在であると誤認させ恐怖心を煽るためだ。
『貴様の、剣技。先ほどで見切ったと言ったろう?』
両手で握った剣を構える。
前に出した剣を少し斜めに向けて立つ。
雲耀の疾さが求められる斬撃は、同時に上下から襲い掛かるように錯覚させる。
まさに喰らい付く蛟の牙が如く――。
エドアルトは寒気を覚えた。
――まさか放てると言うのか? たった一度見ただけで……? いや――
一息。
エドアルトは平静さを取り戻す。
戦いに於いて呑まれた方が敗ける。
ゆえに呼吸を整え、同じ構えを取る。
彼らの中で音は消え去り、じりじりと焦がれるような、時間の経過が緩やかに、永く永く延びていく感覚――。
誰かが生唾を呑む音がいやに大きく響いた。
やはり、動いたのは同時であった。
直後に煌めく白刃が衝突し奏でる音は二つ。
その奥義を、名声と共に知らぬ者は帝都の上層では誰一人としていない。その神速の太刀が客員騎士の地位を確立させていた。
だからこそ、更なる動揺が奔る。
“空の型”の奥義、始剣・蛟牙――。
まったく同じものが激突する。
類い稀な剣術の秘奥まで模倣したと、怪物の口ぶりから放たれ、事実であると証明してみせた。
その誤認こそが颯汰が求めていたものだ。
必殺の剣が互いに防がれると知ったうえでの追撃。音を幾重も響かせる。
再び始まる閃光の乱舞。
何度目かの鍔迫り合いとなり、顔が近づいた時だ。次の好機だと悪魔は囁く。
『アンタは無実だ。だから俺に合わせろ』
響き方が違うどこか聞き覚えのあるような声。
周りに届かぬようにしたその言葉に、どんな言葉を返すべきかわからぬ状態になった客員騎士に対して颯汰は付け加えるのもただ一言。
「――な、」
『静かに! 何も考えないでアンタは俺を追え』
僅かな間に長々と説明できる余裕はない。
この茶番も閉幕に導くために、今度は観客に聞こえるよう大芝居を打つ。
『容易い業だ。たかだか二撃程度。造作もない』
見え透いた挑発。エドアルトが再び冷静さを失って、颯汰をこの場で殺しに来ることも想定した拙い作戦だ。
「……本当に容易いかどうか、その身体で受けて見るといい」
エドアルトは静かに同じ構えを取る。
颯汰は彼が自分を信用しないだろうなと踏んでいる。相手にゆだねるのではなく、どちらであっても自分が望む結果になるように仕掛けていた。
『いいや。潮時だ。我は、この場を去ろう。貴様は、愚かな仲間に、無き罪を責められ、死に至る。そのときに謁えよう。……冥府へと導く際に、その剣術、名を、聞くとしよう』
背を向けず、闇は後方へ跳んだ。
舗装された石畳みを抉るのは己が怪物だと印象付けるための演出であり、後にそれが幻ではなく現実であると刻み込むためだ。地面を蹴る破砕の音と共に、どんどん遠くへ退いていく。
後方に目が付いてるように迷いなく。
「――逃がすかッ!!」
それをまた跳ねるように、距離を詰めようと追うエドアルト。その足運びもまた迷いなく。
互いに限界の一歩手前か外にある状態――決着はこの瞬間に訪れようとしていた。
エドアルトの剣の構えは体勢によって変わったが、放たれる斬撃はさらに加速した。その縮地の走法に合わせて放たれる最速に、最速が乗る斬撃。
修行を経て成長した颯汰であっても、己の力だけでは充分な威力で放てない蛟牙。――否、それどころか、エドアルトはその先を行っていた。




