55 氷の女王
立花颯汰が目を覚ましたのは、衝撃や物音の類いによってではない。
「――ッ! 寒っ……!」
闇の中、何か不測の事態が起きた場合にすぐに動けるよう身体を休めていた。考えたくはないが途中でコンテナが落下などしたらいくら“獣”を内に宿すとはいえヒトの身では保たない。
著しい気温の変化に目を覚ます。
吐く息が白い。
「……食糧庫に着いたのか」
あれからどれくらいの時間が経過しただろうか。完全に熟睡する前に、ベルトコンベアではなくエレベーター的なもので上へと運ばれた感覚があったような気がする。コンテナの中から外の様子は見る事がかなわず完全に状況を把握できなかった。運よく、途中でトラブルに見舞われることなく地上に着いたのは喜ばしいことだ。
「ファング」
『既に探査完了済み――。
探査結果:報告。
周囲から他生体反応認めらず』
「そう。ならさっさと出よう」
左腕からの声を聞き、颯汰は行動を始める。
このコンテナは本来外からしかロックできず、外すこともできない代物であるが、案内をしてくれた謎の老人がロックを完全にかけずに置いてくれたため、颯汰も野菜の入った箱から降りて簡単に扉を開けることができた。一応慎重に、子どもにとっては少し重い扉を開ける。
「……よし、誰もいなさそうだ」
左腕から抗議の声を出そうと出ようとした黒い靄を押さえつけて帰し、自分の目で確かめる。
仄暗い倉庫に、コンテナが複数積まれている。
「――……面倒だけど、あの女の人も連れて行かないとな」
暗闇の中を探す。明かりもないので全貌はわからないが、かなりの広さを有しているようだ。縦にもコンテナが何個か積まれていて、ざっと見ただけで何十個もある。
自分と同じタイミングで運ばれたはずであるため、すぐ近くにいるはず――なのだが、
「――! コンテナが、開いている……?」
ちょうど右隣りのコンテナの両扉が既に開いていたのが見える。海鱗族の女性が入ったものだと、コンテナの張り紙に書いてある文章と番号から判断できた。颯汰はそっと中を覗き見る。
暗がりではあるが積まれた木箱のおかげで狭く、どうあっても奥で隠れるのは不可能である。というのに女の姿がまったく見当たらない。
「中に誰もいない……。あの人、一体どこへ?」
疑問を口にし終えた途端に“それ”は現れた。
倉庫の気温が一気に下がった。錯覚ではなく、芯から凍り付くぐらい冷え込んだ。
凄まじい重圧と冷気で身体が動けない。
何かが、いる――。
『――……』
一瞬、振り返れなかった。
背中が比喩ではなく薄っすら凍り付いていた。
外套から、足元まで霜が生えて白くなる。
寒気が止まらず、熱を送る以外の意味でも心臓が強く高鳴るのを感じた。
意を決して振り返る。
冷たい突風。吹雪が顔をなぶる。
そこには、氷の女がいた。
そう形容するに相応しい存在。
それは凛冽なる殺意と呼ぶべき化身――。
「!?」
『――……』
青みがかった白銀の髪。氷をくり貫いたようなアクアマリンのティアラ。タンザナイトの輝きを宿したドレスと雪山の白と暗雲を思わせるマントを羽織る。青白い死人のような肌。その手には雪の結晶を模った杖が握られ、青系の宝石が何個か付いているのが見えたが、黒くくすんでいるものもあった。
永久凍土に君臨する氷の女。
その姿を見た途端に颯汰は気づく。
「こいつは……! ッ!?」
言葉を発する前に、激しい黒煙が左半身から溢れ出した。黒いそれはもはや対象を喰らわんとする粘液のように、颯汰の内側から這い出ては右側まで侵食を始めようとする。
驚いた颯汰が抵抗しようとする間に、顔の前に現出する黒鉄の半面。それが顔の下半分に覆い被さった途端、縦に分割された。
『――グォォオオオオッ!』
瘴気が全身を包み込み、黒の球体を形成する。
そこから亀裂、溢れる白銀の光と共に砕け散った中からは“獣”が顕現する。
『滅ぼせ。罪深き七つの柱――!』
颯汰の身を乗っ取り、強い殺意が暴走する。
身体が本来の年齢と同じだけ成長し、手足は鎧われ、表皮と毛先まで濃紺の闇に染まる。――だけではなかった。凄まじい冷気、攻撃対象を見て、付け焼刃の防護策を講じた。
着ていた外套などを再構築する。
以前、吸血鬼退治のときは軍服をそのまま成長した身体に合うように形状を変えた。だが此度は違う。サイズだけの変更ではない。動きやすさ重視で余計にヒラヒラとなびかぬように、大きくデザインが変わっていた。宗教関係者のローブに毛皮のコートというスタイルから、氷原を戦う戦士――ヴァイキングのような格好に変わっていた。頭部は今まで通りだが、追加装甲として毛皮のベストに腰布。纏う衣服も色は目立たぬよう、また陽光を少しでも吸収する黒を基調としいた。
漆黒の怪異は腰を下ろし、片手は地に付けて睨む。蒼く輝く瞳は殺意に滾っている。
――ま、まずい。暴走!
肉体の主導権を奪われた颯汰が自由が利かぬ身体をなんとか抑えようとするが、怪物は奔る。
両手を後ろにし駆け出す。一気に跳躍をして鋭利にした爪を立てて飛び掛かった。
『――……』
女は何も語らない。
一切動かないまま、冷めた目で害獣を見る。
すると、彼女の前に雪の結晶型の青く透き通る障壁が宙に形成された。
“獣”の爪は障壁に阻まれ届かない。
それどころか突き立てた右腕が青白く凍り付き始める。“獣”は吠えながら大きく跳んで後退しようとした。
そこへ女が無表情のまま、右手に持った王笏を少し持ち上げ、下ろして地面にぶつける。
コツンという音よりも、そこから出でる氷の波――空気まで凍らせる音の方が大きかった。
地面を駆るように、氷は細かい棘を生やしながら、進んでいく。六ムート近く跳び退いた“獣”の真下まで向かう。直後勢いが失せた代わりに、着地する先に白い霜が広がって待ち受ける。
明らかに罠、地面に触れようとした瞬間に襲い掛かる類いのものだと看破しつつも、“獣”は真っ向から挑む。
その左腕に紅い雷が迸らせ、落下する。
地面からは氷牙がいきり立つ。氷柱どころか氷塊であり、肉を容易く貫き砕く鋭さと硬度を持っていた。
二つの力が衝突する。
倉庫に凄まじい音と煙霧が包み込む。
赫雷を宿した左手を地面に叩きつけ、氷を散らしたのである。激しい雷撃の熱と恐るべき冷気がぶつかり合ったお陰で、辺りは一気に白む。溢れる蒸気の煙が視界を奪う中、怪物は迷いなく突き進む。白き闇に乗じて攻め込もうとしたが――、
『ぐッ、ガァアアッ!?』
煙霧の中、氷の枷が多方向から四つ飛び出してきた。鎖まで氷でできた枷はまず左腕を掴み、一歩踏み出そうとした“獣”の右足首に絡みついた。脱け出そうにも順々に残りの手と足を拘束された。暴れ、吠えながら突き進もうとするが、白煙は消え去った。
女は、未だその場から動いていない。
身動きが取れない“獣”に対して女は、左手の平を突き出すように向けた。
宙に氷柱が何十何百も生成される。
二十~三十メルカンほどの長さで、人の胴に風穴を空けるには充分の太さのある針が空間を埋め尽くす。尖った先がすべて“獣”を捉えていた。吠える害獣に対し、女の目は感情を宿さず、左手を握りしめる。
それが合図となった。
数え切れぬ氷針が一斉に“獣”に襲い掛かる。
手足の自由が利かず、回避などできない。
まるで回転式機関砲でも撃ちこんだような爆音が響き渡る。ズガガガガと絶え間なく。
白煙が再び周囲に立ち込め、霧散する。
ほんの僅かに、氷の女に反応があった。
血塗れであったのは予想通りではあったが、
『が、っつあああ……――!』
肩も手も血に染まっていたが、息はある。それどころか肉体を保っていた。
四肢を繋いだ氷の枷の、鎖が途中で千切れていた。無論これらもただの氷ではない。鋼鉄よりも堅い魔法によって作られたもの。
肩で息をする怪物の右腕の先に、蒼く輝く烈閃刃――高速回転しているはずの刃が止まっていた。
黒の装甲は一部が青白い氷に侵され、赤黒い血が滲んでいる。傷だらけであった。左腕は力無く、だらりと下がっている。
致命傷だけは何とか避けようと切り伏せてみたものの、すべての猛撃を防ぐことはかなわず、今や立っているのがやっとだった。
『……ろす、殺せ。すべて、滅ぼ……せ――!?』
激しい憎悪を言の葉に乗せ、懲りずに再び襲い掛かろうとしたときである。
右腕の刃が腕部に格納され、右手が“獣”の顔に向く。右手が頬の装甲を掴んでは閉じ、半面に戻した瞬間に剥がし取った。
身体中から溢れ出す黒の瘴気が半面に吸い取られるように流れていった。傷だらけのまま、子どもの姿に戻った立花颯汰が半面を握り潰すが、ふらふらと尻もちをついた。
「――……っぁぁ。めっちゃ痛い……」
苦悶する颯汰。
吐く息は白く、寒さに凍える。
弱った隙に自分の肉体の主導権を奪い返せたはいいものの、状況は一切好転していない。
見上げると、氷の女が無感情にこちらを見つめている。
颯汰はどうすべきか、脳内で必死に活路を見出そうと思考していた。
このままでは、成す術もなく殺される。
先に動いたのは、女の方であった。
コツンと床の鉄板を踏む音。
数歩進むにつれてか、機械のように無機質な女の目に生気が宿ったように思えた。
女が動けなくなった颯汰の目の前に立つと、左手で喉を押さえ、
『あー、あー……。ふむ。これで、声も出せる。実に久方ぶりじゃ』
発声練習を終えて独り言に続き、
『まったく。お主は随分なモノを飼ってるようじゃのう。なればこそ念話が通じぬのも道理か』
氷の女は颯汰に語り掛けてきた。
「しゃ、喋った……」
『戯け。妾を一体何と思っておるのじゃ』
圧倒的な“力”。
それに付随する傲慢さ。
王者たる気質を持ち合わせた怪異。
「…………“魔王”?」
『ほぉ。少しは聡いようじゃの』
氷の女――“魔王”は肯定する。
やはり……と颯汰は心の中で呟いた。内にいる“獣”がここまで殺意を剥き出しにして暴れる相手で、それに魔法を連発して圧倒するような相手は限られている。
『褒美に飴でもくれてやろうかえ』
氷の魔王は続けて変なことを言い始める。
見上げる長身の女が、紙で包装していた飴玉を取り出す。指で軽く摘まんで挟んだそれは、青くキラキラと輝く宝石のように見えた。
「いえ、別に」
『遠慮をするでない。毒だと疑うと言うならば妾が……その、妾が……、く、口に入れ、そなたの口に移してやろうか?』
「顔真っ赤にするなら最初からそんなこと言ってんじゃないよ」
思わず呆れてツッコむが、機嫌を損なった瞬間に死ぬという状況である。
『くっ……童のくせに』
「……それで、“魔王”が何だってこんなところに」
『妙な気配がしたものでな。妾が直々に来てやったのだ。頭を垂れ、咽び泣くことを許そう』
「生憎ですが、そんな力も残ってません」
颯汰は立ち上がり虚勢を張れるだけ力は残っていない。逃げるにも女の後ろにある扉の方へ行かねばならなかったため、会話を続けていた。体力の回復をはかる時間稼ぎであり、あわよくば最強の助っ人たちが命の危機に反応してやって来てくれるかもしれない。……だいぶ望み薄いが。
『それは難儀じゃの。まぁ、飼い犬の躾を怠る方が悪いということで許すがいい。それで貴様たちの非礼も帳消しじゃ』
魔王はニィっと薄く笑み、右手で持った杖を左手でポンポンと叩く。氷のような女だったと思われたが、感情豊かに笑っていた。思った以上に話がわかる相手なのかもしれない。殺すつもりならば既にやっているはずだ、と高を括り過ぎるのも危険ではあるが、今は話して機を覗うしかない。
「……貴女が、この国を治める“皇帝”?」
『いいや。政は全部あの若造に任せておる。まぁ妾も復讐という目的のためにお手伝いはしておるがの』
――若造……、現皇帝のことか、それとも皇族の男児のどれかか。いやそれより……
若い女が老齢の皇帝を若造扱いよりも、引っ掛かる文言があった。
「復讐……?」
『ああ。妾の最大の目的よ。あやつを今度こそ殺めるためじゃ』
ふいに女は笑みを消した。
苦く、重々しく、因縁の相手の名を言い放つ。
『……我が生涯の怨敵。全てを奪い去った焔火――“紅蓮の魔王”をな』




