53 縋る
「「き、記憶喪失……!?」」
男たちの声が重なる。
老齢のわりにがっちりとした筋肉のある男の方は目をまん丸にして驚き、少年の方は捻くれてる部分があるため疑いの眼差しである。
「は、はい……。その、あの、……信じて、貰えないかもしれませんが……」
大人びていて非常に美しい海鱗族の女が言う。格好の派手さと相反して性格はかなり控え目のようだ。その類の衣服のせいもあって幼き義理の姉妹とも呼べなくもない、少女のことを思い出す。黒地に黄色い薔薇の意匠が目立つ、魔人族――英雄の子のラウム。
その姉の圧も相まって、颯汰の方が若干だが苦手意識を持っていた。それなのにアンバードでしばらく雑務に追われていた時期、妹の方が意外にも積極的に声をかけてきたことがあった。明らかに怯えながらであったがきちんと一歩を踏み出しつつ、相手の観察を重ねて向き合っていたように思える。
その少女よりも遥かにビビり倒しているこの海鱗族の女は自分が記憶喪失だと言い始めた。
「気付いたら真っ暗な部屋で……、それで歩いていたらお腹は空くし、そう思えばシャワーっていつ浴びたかなって気になって……。どこの蛇口を捻っても水が出るところが無くて、やっと見つけたのがこの家だったんです」
「それで嬢ちゃんは勝手に侵入してシャワーを使い、途中でタオルがないことに気づいて歩き回り、足音に気づき、ふと見るとボウズと鉢合わせしたと。……不用心過ぎるな。強盗やワシ以外の地下の住人じゃと身売りコース間違いなしじゃぞ?」
「うっ……、ごめんなさい」
「まったく。外国から来たマナ教信者の孤児に、どこから来たのかすらわからない海鱗族の女か。死んだ街というのに、今日は随分と賑わってるわい」
高らかに老人は笑う。呆れるようにものを言っているが、内心寂しさが和らいでいるのかその顔は楽し気であった。女が話せる状態になる前に、颯汰は自分のことを軽く紹介した。あくまで偽の情報であるが、疑っていないようであった。
「すみません。すみません。あまりに誰も住んで無さそうなお家ばかりだったので、つい……」
――この女、態度のわりに、割ととんでもないこと言ってんな。というか、シャワーの存在を知っているとなると、やはりガラッシアの貴族なんじゃ? ……そういった設備が一般家庭に普及してるかまでは知れないけど。……もし、仮に貴族サマだったらまた面倒なことになりそうだな
記憶を失ったと偽る理由として挙げられるのは、どこぞの頭フラワーガーデン姫のように脱走したパターン。だが帝国の皇族は皆が獣刃族の雪の民だという話が正しいならば、そこまで大それた人物ではないはずだ。
――……いや、どこぞの令嬢ならまだ良いケド、貴族とかの奴隷が脱走したパターンだとかなり面倒くさいのでは?
颯汰たちが侵入する際、外国の事情に明るくないままだと不便であるため、ある程度の情報は収集したが、さすがに貴族全員についてまでの詳しい情報は集まらなかった。ただ、海鱗族の美女となれば自然と人々は口にし、耳に勝手に入ってもおかしくない情報である。
それに、アルゲンエウス大陸までマルテの奴隷商が船でやって来るという話も実は有名であった。金にものを言わせ、数少ない海鱗族の美女を買い取った権力者がいてもおかしくない。
――海鱗族の貴族か奴隷のどちらか。服装も綺麗だけど、寵愛してるからこそ着飾らせたいという欲が湧いたって可能性もあるし。……どっちにしろ物珍しい海鱗族の情報なんて一切聞いてない。完全に秘匿していたのかな……まぁ、俺には関係ない話か
これ以上ここに長居する意味もなければ、関わり合う余裕もない。早く地上へ戻るべきだと颯汰は考えた。
「すいませんお爺さん。俺を探してるだろう人たちがいるんで、もう地上に向かいます。パン美味しかったです。助けてくれてありがとうございました」
礼を口にして立ち去ろうとする。何か礼の品が手持ちにないうえに、交易硬貨を渡そうにも子どもが持っているには少し不自然さが出る気がして止めた。何より手荷物が無い設定なのに黒い靄から革袋を出したら騒ぎになる。屋根裏部屋に置いてきた上着と着用が義務付けられたマスクを取りに戻り、すぐさま上に戻るべきだと動き出した。
「お前さんの育ての親の、マナ教の者たちか。……大事な巡礼とはいえ、その歳の子を入山させるのはあまり勧められたものじゃないのぉ。まぁ、ワシが干渉できる問題じゃないのじゃが。……ところでお前さん、上に行く方法、知らんじゃろ」
「……てきとうに上を目指して歩いてりゃ着くのでは?」
「……お前さんがどうやってここに降りてきたか知らんが、門番に止められるがオチじゃぞ」
「門番? 守衛の人が? やっぱ皇女とかの息がかかってる感じなんです?」
「? いや、この帝都は地下と地上は隔絶されておるのじゃ。それは建国祭であろうと例外じゃない。天上から地上まではパレードが大々的に行われても、決してこの暗闇まではやって来ない。それは、逆もまた然り」
「…………あの、まさか、地下から地上へ簡単に出られないってこと?」
「左様」
「左様て……。いや、俺、この国の者じゃないし、言うなれば単なるマナ教の敬虔な信者の子どもなんですが……。その事情を説明すれば――」
「まぁ聞き入れてはくれるじゃろうよ。膨大な時間と莫大な金を失うこととなるじゃろうが」
「いや待て待て待て。手続きに時間はかかるとして、お金まで取るんです?」
「ちゅーかそもそも地上を目指すにあたってガキが一人で歩くのが自殺行為なのじゃ。この区画は誰も寄り付かんが、上を目指してる最中にまずそういった飢えたハイエナどもに見つかるじゃろうな」
「皇女とか?」
「いや、普通に盗人じゃが」
「なんだ盗人か」
「そのうえで門番に金を取られる」
「クソかな」
「手続きも一月は掛かるじゃろうな。最低で」
「うん? この国、実はすごく腐敗中?」
「間違ってはいないな。ただ、地上から上を治めるのが皇帝であり、地下を治めるのが“別の王”ってだけだ。支配者が敷くルールが単に上と下で違うだけじゃよ」
「別の、王……?」
もはや王やら支配階級に対し否応なしに反応をするようになった颯汰は一瞬考える。
この強大な帝国を縦で二分にして、納めている者がいるナニモノかについてを。
「なに。金に汚ぇ薄汚ぇババアよ。ボウズみたいな子どもと――」
老人は闊達に笑いながら言っていたのに、突然真顔で方向転換し、
「――嬢ちゃんみたいな若くて艶のある女を商品的な意味で大好きなタイプのな」
脅すように言い放つ。老人のその一言により、海鱗族の女は青ざめていた。
「……ちなみに殺して部位ごとに売るとかも平気でやらせる女だ。男だろうと女だろうと関係ねえ。反吐の出るクソババアだ」
老人が吐き捨てるように言う。
真偽の確かめようがないが、記憶の隅にでも留めておいても良い情報かもしれない。颯汰が用のある“魔王”が、あえて地上ではなく地下を牛耳って好き勝手やってる可能性は否めないからだ。
――調べたいところだが、本当にその醜悪な女王が俺が求める“魔王”なら、単独で行くのは危険だ。紅蓮の魔王やリズの協力は必須……。やっぱ一度地上を目指すしかない
思わぬところで収穫を得た。確実な情報ではないが、元の世界に戻るためなら、例え小さなことでも見逃せない。そんな颯汰の子どもとは思えぬ目の座り方に、気付けた者はどうやらいない。
「お爺さん。このお姉さんをここで匿うのは?」
颯汰が女性に指さして訊ねるが、
「無理じゃな」
思いの外、キッパリと断られる。勝手に自分の趨勢を決められていることに腹立たしいと感じるよりも、即答されて女は驚いてすぐにしょげた顔をする。
口を挟まぬ女を余所に、老人は理由を語った。
「パンの一個二個ぐらいは用意できても、何度も行き来すりゃあ、そりゃ怪しまれるわい。それに女子にゃ必要なモンが男と違って多いじゃろ。ワシのような老いぼれが、おいそれと簡単に用意できるわけがない。何せこんな地下ならば余計にな」
「(そんな助けたり養う義理も無いしなー。それこそ、商品としてなら別か……)……誰か、他に預ける宛とか無いですか?」
「無い。ワシは今は独り身じゃしな。頼れる兄弟もこの国にゃ居らん」
「…………」
どうやら八方塞がりのようだ。
溜息を一つ吐いた颯汰は、顔を上げて、
「……じゃ、俺はこれで――」
「――ま、待って!」
仕方がないか、と立ち去ろうとしたところを海鱗族の女に肩辺りの布地を捕まれた。振り返ると、女の瞳はもう決壊寸前であった。見た目こそは気丈そうな大人であるが、記憶を失っていようといまいと海鱗族のメンタルはフィジカルにつられてかなり弱っていた。
「――そ、そんなすごい嫌な顔しないで……!」
「いやだって」
彼女に対し、自分にできることは何もない。
元より早々に上に戻り、帝都で手続きを済ませて霊山を目指さねばならなかった。敵がどこまで自分たちの居場所を狙い、暗躍しているかがわからない今、竜種の王に会う必要があった。王であればその力を借りて民草を守る責務がある。偽りとはいえ王である颯汰は義務感と呼ぶよりも――自分に向かうだけじゃなく、誰かに向かう火の粉も放っておけないのだ。
そう、この男は敵以外には基本的に甘い部分がある。
「しゅ、宗教関係者なら簡単に人を見捨てたりしないよね? ね? それにボク、孤児だったんだよね?」
「見捨てるって何を……。それと孤児の何が関係が――」
「入信します!」
「え、やだ、却下」
「なっ、……なんで!?」
効果音が聞こえてきそうなほど、思わぬ即答にショックを受けている女に対し、颯汰は容赦なく理由を述べ始めた。
「素性がまったくわからないお姉さんを、簡単に受け入れられるわけないでしょ。他に家族いるかもしれんし、保護者とか雇い主とかいた場合、漏れなく厄介だ。それにどうやってこの都市・この国から出られると。必ず素性が調査され――」
「待てボウズ。それ以上言うな。また泣くぞ。いやもう泣いとるわい」
「…………」
涙が決壊寸前どころか、もはやポロポロと落ちていた。さすがに颯汰の方がギョッとしてしまう。嗚咽などなくただ自然と雫が零れ落ちていく。
言葉を止めた颯汰はただ困惑する。自分が彼女にやれることは何一つないし、付き合う義理などもない。
言葉を出さず、ただ涙を流す女の代わりに老齢の男が口を挟んだ。
「……ボウズ。元の国まで戻って世話しろとまでは言わねえ。だけど俺からも頼む。この嬢ちゃんを外まで出してやってくれねえか」
「「え?」」
唐突の申し込みに二人が老人を見やる。
「……帝都に居ちゃあ遅かれ早かれ誰かの餌食になるのは間違いないんじゃ。それに……どこかの海に、海鱗族の国があるはずなんだ。海にさえ出ちまえば後は何年掛かるかは知らんが、必ず仲間と一緒に暮らせる。ずっとここで脅えて暮らすよりマシじゃ」
「……俺に、どうしろと?」
颯汰が肩を落として言う。
もうその一言の時点で、半ば連れて行くことを認めているものである。だが実際問題、正体を隠している以上、子どもとして振る舞うしかない。
「外――地下は危険なんでしょう? それなのに、このお姉さんを連れて行けだなんて……一体さっきの脅しは何だったんです?」
何も知らぬ女と行動を共にするのは、一人よりはマシどころかリスクの方が大きすぎる。
「慌てなさんなボウズ。これから楽に、金もかけずに地上へ行く手段を教えてやるわい」
「……でも、手間と何らかのリスクは当然かかるんでしょう?」
「当ったり前じゃよぉ。じゃが、ただ無謀に上を目指して歩くより遥かに安い。なんせ殺されりゃ命、捕まりゃ人生が終わるんじゃからな。それに比べりゃあ……。二人ともそこまで身構えなくてよい。おそらく思ったよりも楽で拍子抜けするじゃろうから」
「…………」
「先に玄関で待っとるわ。準備ができ次第、出発するとしようかの」
そう言うと、老人は返答の有無を聞かずに廊下の暗闇の中へ解け込んでいった。
残された二人は顔を見合わせる。
「が、頑張ろうね!」
「何をです」
「うっ……、それは、あの、脱出、とか?」
何か気まずさを紛らわせようと空回りしているのが、颯汰にはよくわかっていたが、つい素っ気なく返してしまう。
「……じゃあ、上で荷物取ってきますから、先に玄関行って待っててください」
「……! 私、頑張ってマナ教のこと覚える!」
見た目こそクールビューティ系であるのに、中身がポンコツの、チワワかポメラニアンみたいな女である、とこの短いやり取りで理解できた。愛嬌を感じるが、
――面倒だからすぐ海辺に流せばいいかな
少年の方は、尾を振られても、構わず既に捨てることしか考えていなかった。




