49 激情
怪物が“霊器”を付けた右手を掲げる。
その二の腕にギラギラと輝く籠手のような“霊器”が付けられていた。
客員騎士の人並外れた剣技を支えていた――彼にとっての生命線に等しい力の証であった。
それは、指定した範囲に斬撃を発生させる魔法を放つ装置となっていた。
溢れ出す力の奔流が、螺旋を描く光の渦となって怪物の右腕ごと包む。振り下ろされれば、目の前のエドアルトの命はない。
『……斬り裂け』
怪物は手を、振り下ろす――、と同時に振り返り、手刀が真っすぐ下ろされた。
すると右腕のブレスレットの宝石のような部分がきらりと輝いては、離れた場所にある洗脳装置に、大きな青白い光の線が通り抜けた。さらに回転しながら手刀を斜め下から振ると、同じ位置に光が駆け抜けたのが見える。
一撃のようで、光の線が幾つも重なり物体を切断していく。
装置は両断され、さらに時間差で分割された。
ガランと音を立てて崩れ、中から露出したコアたる立方体が、何やら不穏な挙動と発光を見せた。怪物は既に装置に向かって走っていた。
『――ッ、喰らえ!』
左手をコアに向けると、黒の瘴気が溢れ出し、それがコアに喰らいついた。左腕を引くと連動してコアが引っこ抜かれる。すると黒い粒子はコアごと闇に溶けて消えて行った。
エドアルトには何をしたのかわからなかったが、素人目でも装置が使い物にならないほど破壊されたことはわかった。
『……危なかった』
誰にも聞こえない小さな声で怪物は呟く。ただ、それでも反響して届いたやもしれない。
溜息を一つ。一人で大いに焦り、一人で安堵していた。
『さて……目的は果たせたが――』
振り返って見やる。肩で息をしながら、重すぎる一撃を喰らった箇所をエドアルトは押さえていた。朦朧とする意識の中、立っているのがやっとのように見える。
その様子を注意深く観察し、そっと目を伏せてから離脱を図ろうと動き出した。
『貴様の視えない斬撃は、この腕輪によるものだった』
「……ッ!」
死した目に僅かに光を宿るのを怪物は見た。
過去に何があったか知らぬが、強い力というものに執着するのがヒトという生き物の性である。それは腕っぷしの強さだけではなく、競うもの――運動や勉学などの分野だけではなく、(当人の物差しによる)顔立ちや声の美しさ、芸術の分野などにおいても――他者を圧倒できたものは、その甘美さを一度味わえば抗えなくなる。
この隠していた“力”こそが、彼にとって非常に大事なものであると一目でわかる。
であれば、次の行動は簡単だ。
『もはや、我には無用なもの。返そう』
そう言って腕輪を外すと、エドアルトから見て左の方向、壁に向けてゆったりと放り投げた。
宙を放物線を描きながら、震えている子どもたちを通り越していく。
怪物はすぐに移動を始める。
怨霊の如く、足がないみたいに地を滑る。
真ん中にある装置ではなく、部屋の唯一の出入り口の扉でもない。
壊されて斜めを向いている通風口。瘴気を纏った怪異は、元来た道を戻ろうとしたのだ。
一歩、二歩、跳ね跳びてすぐに垂れた通風口に辿り着いたところで、怪物は上を見上げた。
『――ッ!?』
瞬間、白刃が首筋を狙って迫る。
背後、屈めて頭上を通り過ぎる刃。振り返ると第二撃が襲い掛かる。鞘から抜き放ち、首級を取らんとエドアルトは、懸命に痛みを堪えながら一矢報いらんとしたのだろう。
黒の籠手の人差し指と中指の間に、命を取ろうとした剣身が挟まる。
「トドメを、刺さずに、……はぁ、はぁ……目的を、達したと? ならば、はぁ……、あとはここを、去ろうとするのみ……!」
攻撃行動をとったものの殺すつもりは(この怪物にとっては加減しているつもりで殺意は)無く、あとは逃走するつもりだとエドアルトは見破った。だから、その無防備な背を躊躇なく斬りつけた。
だが身体は限界に近付きつつあると、様子からすぐに察せられる。エドアルトはこの奇襲が最後のチャンスだと残った力を振り絞った。
一瞬の拮抗、刃を掴もうとするがエドアルトはすぐに剣を引いて、袈裟斬りを放つ。斜めから打たれる高速の剣は空気を破る音を立てた。
短い振りであるというのに、豪快な音から察せられる剣閃の力強さ。
しかし、その音を掻き消すように、金属同士がぶつかり合う音が覆いかぶさり響いていく。振り下ろされた剣に合わせて右腕がぶつかり合ったのだ。怪物は攻撃を弾いて、エドアルトの腕ごと浮かび上がる。その生じた隙を逃がさない。黒の左手がその眉目秀麗の顔を掴みにかかる。
光すら呑み込もうとする暗闇が形成する五本の指から逃れるために全神経を総動員して回避に努める。エドアルトは過剰なまでに遠くへ飛び退きながら、その腕を斬り飛ばさんと剣を振る。
傷すら付いている様子はないが、衝撃の痛みは確かにあったのだろう。
『くッ……! この“――”、すごい気迫だ』
それは、何気なく溢れた言葉であった。
よく耳を澄ましていなければ――、
極限の集中状態でなければ――、
その言葉に対し思うところがなければ――、
きっと聞き逃すくらいの小さな声。
「――――」
空気が一変したことに、憐れな怪物は気づいていない。己を取り繕い、言葉を紡ぐ。
『その死に体で、よくもまぁ動いたもの――』
「――ぅぅうるぁあああああッ!!」
咆哮と共に剣が命を断ちにくる。
先ほどまでの剣の鋭さがさらに増し、再び剣戟が始まる。黒鉄の怪物は寸で回避するものの、第三、第四と流れるように剣が迫る。霊器が大事なものではないのか、と問う余裕すらない。
凄まじい殺気が剣に乗り移ったとでもいうのか。さっきまで息絶え絶えで、怪我のダメージでまともに動けなかった剣士とは思えぬ。
その剣術で怪物を一気に追い詰める。
手足の鎧と剣がぶつかり合う音が木霊した。
『どこにそんな余力が……――、ッ!』
斬撃や刺突を弾く。その返答代わりにまたもや攻撃が激流となって襲い掛かる。一体、何があったのか。急激な変化に戸惑いつつ、甘いマスクの優男の顔を、薄闇から確かめる。
『――……!』
声を失った。
無の黒――。
すべての感情を喪失したような瞳。
だが確かに“何か”で淀んで濁り、コールタールのような漆黒となっていた。
この昏さは危ういものだ、と本能が警告する。
ケダモノゆえの直感とも言うべきか。猛烈に嫌な予感を感じ取っていたのだ。
距離を取りたいが当然詰められる。
一瞬の怒りに我を忘れたような叫びこそ、心の平静さを取り戻す手段に過ぎなかったのだろう。鬼気迫る表情よりも、この冷めきった無の方が恐ろしく見えた。
溢れ出した底知れぬ力の正体を、怪物はわかった。自分も深く知る“何か”――。
対し、エドアルトは氷のように冷静になった。
早い段階でこの怪物を、無傷で捕縛することは不可能だと断じていた。
この脅威たる存在はここで討ち取るしかない。
全身全霊でこの怪物をここで止めねば――。
……などという使命感もあったのだが、それ以上に占める感情に支配されていた。
それは、本来冷静さを狂わせるもの。
冷たい汗が体温を著しく下げていく。
湖の薄氷の上を歩くような、いつすべてが終わってもおかしくないという不安感を抱きながら、エドアルトは剣を振るう。
「知ったからには、ここで、殺す……!」
エドアルトの中に疑念はあったのだ。
この怪物に扮する人間離れしたヒトが、霊器の腕輪の存在を見抜いたことに一つ疑念が湧く。
――『どうして、怪物は霊器の腕輪の存在に、気がついたのだろうか?』
入念に隠していたという点もあるが、常人では見抜けない、存在を認知することもできないはずであった。
それを見抜いたから疑いの芽が出て、怪物がつい口走った言葉によって確信に至る。
どうやら怪物も、数瞬の間のあとに『あっ……』と気づいたらしく口のある場所を押さえだす。
鍵となる言葉を自身が吐いたと気がついた。
決して侮蔑など込められていないし、言葉自体に悪い意味もない。
だが、エドアルトにとっては臓腑を撫でられたような死に直面するのと同時に非常に不快感が伴う言霊となっていたのだ。
己の非と軽率さに猛省する知性や理性などが怪物にあるのだろうか。
だが、もう遅い。
死に瀕した身体に再び熱が生まれてしまった。
振るう剣も生まれ変わり、生を刈り取る怨讐の刃と化していた。
もはや釈明の余地などない。
今更謝ったところで手を止めるはずもないとわかった怪物は、剣戟に応えるしかなかった。
反応が遅れて、全身から漂わせる黒の瘴気で隠れた場所に、痛みを覚える。剣の型が変わり正しく対応できなかった。しっかり観察したわけではないが剣の速度は勿論、隙も減っている。
――型が変わった……。いや待てこれは……!
感情に任せて闇雲に剣を叩きつけるのではなく、緩急を織り交ぜて確実に詰めていく剣技。
それを知っていたからこそ、次に放たれる奥義に対応ができた。
一刀で、上段と下段からほぼ同じタイミングで襲い掛かる。それは獲物を喰らわんと牙を剥いた蟒蛇の如き斬撃。
怪物はそれを両腕を予め刃が来る方向に置いて、防いだ。
「……ッ!?」
エドアルトの目が僅かに見開く。それでも手は止まらせずに刺突を繰り出そうとした。
そこへ怪物がカウンターとばかりに奥の手を使う。
『鬼神咆哮……!』
怪物を中心にして二ムート弱程度の範囲を包む漆黒の波動。上の階層にも届く轟音。闘気を声に乗せ、範囲内のすべてを麻痺させる鬼人族の業。
エドアルトは直撃を喰らい、手から剣が落ちては、膝から倒れる。身体の自由を数瞬だけ奪われた。ほんの僅かな時間ではあるが、殺し合いにおいてその刹那で充分となり得る。
苦悶と悔しさ、凄まじい激情が籠った瞳で相手を見据えようと、痺れて自由に動かぬ身体を起き上がらせようとした。
端整な顔が、狂気に歪ませたまま射抜かんばかりの目力で敵を捉えようとした。
ままならぬ首をなんとか起こした。
「……!?」
が、いない。
忽然と目の前から消えている。
直後、痺れが解けたエドアルトが飛び起きると、
「あっ! 待て!!」
黒衣の怪物が通風口の中へ呑み込まれていく。
身体の大きさから鑑みて突っかかるはずだというのに、まさに通風口が生きているかのように見える勢いで、黒い靄が消えていった。
エドアルトが急いで腕輪を回収して装着し、通風口の中にいる敵ごと斬り裂こうとしたが――、
「――……」
既に離脱したとわかり、剣を鞘に納める。
その握られた拳は怒りに震え、振りかざしたとしても下ろすべき相手がもういない。
エドアルトは階段の方へ駆けて行く。
「絶対に、逃がしてなるものか……!」
階段途中や上階で待機していた仲間も、その衣服の血等の汚れと剣幕に慄いた。皇女姉妹はエドアルトの吐いた血を拭って赤くなった袖などを見て言葉を無くし立ちはだかる障害として意味を失った。怪我に大して医者に見せるべきという部下たちの正論も捻じ伏せ、軽く指示を出してから姉妹たちの楽園から脱する。
隠れ家から飛び出したエドアルトは壁と一体化している管を見つける。外は地下であり、照明の光量は室内より少ないが、ファンと金網が破壊されている跡が見えた。
蒼い鬼火は暗闇で瞭然としていたが任意で消せるものだろう。戦った感触から実体はあるものの、身体に纏う闇が周りの景色に溶け込むに違いない。外で待機していた部下たちが目撃している可能性は薄いが、聞いてみるしかなかった。
「――ふむ。やはりあのダクトが壊されたと」
「ええ。うちの隊はみんな見てました。いや壊された瞬間は見てませんが、何か物が落ちた音でね。何事かと目を凝らすと、そこから薄っすらと黒い霧みたいなのが、ファー……って出てきて。しばらくすると止まってしまいましたが」
「…………逃がしたかも」
「えぇ? 一体何が……?」
「…………キミたちも中へ手伝いへ行ってくれ。……装置はおそらく――」
言葉の途中で、闇の怪物の一言が脳内で再生される。『さて……目的は果たせたが――』。
「――全て、壊されている」
「「えええっ!?」」
装置を運び出す輸送班として待機していた彼らもさすがに面を喰らったように目を見開いて声をあげる。だがそれ以上は時間の浪費は許されないと、エドアルトはロープウェイへ向かった。
「手がかりは、これだけか」
右手で掴んでいたものを広げる。
それは布の切れ端であった。怪物との戦いのさ中で斬り落とした黒い毛皮であった。
「…………参ったな。絶対に見つけ出して殺さなきゃいけないってのに」
専用の鍵を用いてロープウェイを操作し、動き出した中。エドアルトは物騒な独り言の後に大きく溜息を吐いた。愚痴に対し、返答するものは誰一人として中にはいなかった。
「……こわっ」
しかし、そのロープウェイの下。籠状のゴンドラ部分の真下。自前の縄を用いて張りついた小さな子どもは高所の恐怖とは別ベクトルの怖さに慄いていた。




