47 ガルディエルの怨霊
悪夢のような光景であった。
泣きじゃくる女、怯える女がいる。
治安維持を担う憲兵のエリート組を中心に構成される予定ではあったが、諸々の事情により寄せ集めの混成部隊が誕生した。
その指揮を担う者もニヴァリスでも有名な客員騎士――南西の大河(と呼ぶには足りないほど広大な淡水の河川・デロスの大口)を越えた先、海商連合州よりも奥の、エルドラントの大砂漠の中にある小さな小さな友好国からやって来たという余所者。実力を知らぬものにとっては、信用に値しない部外者と見られていたエドアルト。
最初こそ何故、彼と我々とが皇女の秘密の屋敷に押し入り、指定された物品の押収を命じられたのかわからなかったが、今ならわかる。
必要なのはまず、体格だったのだ。
この部隊は種族も混成ではあるが、平均的に身長が高くガタイのいいものばかり。そして次いで顔――優し気な表情をしているものは作戦行動前に顔を隠すように支給された仮面を装着した。突入班全員でない理由もそこにある。顔だ。この顔を見て、皇女姉妹に恐怖を与える。……正直言えばショックではあるが、作戦はこれによりかなりスムーズに進んだと言える。
思った以上に大人しいと有名なリュドミラ様が食いかかってきたときは、己の首が飛んでしまうとヒヤヒヤしたものだが、そこにオアシスを設置する――この中で唯一の顔見知りであり、さらに顔も良いエドアルト隊長だ。
もしも隊長抜きで突入すれば、話し合いの余地はなかっただろう。装置は強奪できても最悪の場合、皇女さまに怪我を負って、その責任で全員の首が今度は文字通りの意味で飛ぶ危険性だってあったのだ。とある貴族が王位を狙って皇女さまに近づいたばかりに家系ごと追放――食料も水もなく与えられたボロ布の服に素足のまま放り出された。都から一歩出れば極寒の大地。魔物も闊歩する生きるのに厳しすぎる環境に出され、事実上の根絶やしとなった。……こと家族に関わる問題であればヴラド陛下ならば躊躇いなくやる。もちろんその貴族の自業自得の面が強いけど、それでも当人の処刑だけでは収まらず、一族諸共追放となったのは恐ろしい。少しでも何かを間違えば自分たちがそうなる番なのだ。
だから今が恐ろしく、覚めてほしい夢の中にいるようなものだ。
首の方まで懸命に伸ばした手が、襟を掴んで揺すられて、気が遠くなる。
「はやく! 返して! 返して!」
「いや、あの、わ、わたしの一存では決めかねまして……」
いろんな意味でコワい。揺さぶられる中、同僚たちに助けを乞うように見やるが、誰もが苦笑いである。いやマジで誰か助けろ。
頼れる我らがリーダーは、報告以外にも装置があるに違いないと即席で捜査班を編制してしらみつぶしで探しているようだ。それよりこの麗しい危険物をどうにか処理してほしかった。
一方、秘匿された地下の階層――。
構造的に人が侵入できる経路は一ヵ所のみ。
入口は壁に偽装され、階段の先も小さな倉庫に扮してある。……が、狭さや物の少なさに違和感を覚える。隠してあるくせに金目のものが一切見当たらない。さらに通風口も天井から壁を沿って床下に伸びているのも怪しいとよく見れば気づく。その道を、隠し部屋を誰かに発見される前に、混沌の権化が姿を現した。
正面の入口を一階としたとき、地下は二階まであった。地下一階には退避させた少年メイドを集め、待機させていた。そこより下の階層にて、子メイド長が選んだ四名と、先ほど“家族”となった新たな一名を連れて何かをやろうとしていた。
その、件の洗脳装置が隠された地下二階。
唯一つの通路を使わず、それは現れた。
それは、おどろおどろしい雰囲気を纏う闇。
黒鉄の兜のような頭。
眼窩は蒼く蒼く燃える鬼火。
身体は黒い靄と同化した襤褸の布切れで覆われてるように見える。
暗闇ではその姿を正しく認識しづらいが、それだけではない。直視するのを頭の中で無意識に拒ませる、何かがあったとしか言いようがない。
大きさは、人と相違ないが見た目以上に存在感があって与える圧の大きさもあり、部屋に突如巨大な肉食生物が現れたのと似た、非現実的な感覚に皆が陥る。
そこにいるはずなのに、認めたくない。
幽鬼の類いかわからない。
何故、ここにいるのかさえ謎である。
ただ、危険であるのは間違いない。
刺激さえしなければ襲ってこないのでは、と息を止めて永く思える時間が過ぎた後に我に返って冷静に考えられたのは救いだろう。
のそりと立ち上がった怪異は言葉を発する。
『――騒ぐな』
ただ一言で、この場を支配するに値する絶対的な力を見せつけられたように少年たちは感じた。
腰が抜け、へたり込む。
呆けた口からは空気が漏れ、焦点はブレているが目だけは見開いている者。対照的に呼吸が荒く、目を逸らすしかできなくなっている者もいたが、誰も他者へ気遣いできるほどの余裕がなかった。
『――我を、騙る、人間、どもめ……』
声が奥底に響く。心を恐怖心で鷲づかみにし、揺さぶるような悪鬼羅刹、あるいは物の怪の声。
地下一階と同じ構造の大広間。
薄暗く、物は最低限しか備えていないが、でかでかと例の洗脳装置が二台置かれている。その一つに、先ほど装置を使われた少年が再びこの階層にて再使用するために椅子に座らされ、頭にヘルメットのようなデバイスを装着させられていた。
洗脳され意識が朦朧としたままの少年に前途の通り何かやろうとしていたのは明白であったが、その途中だったのだろう。頭が覆われたまま首が座っていない赤子のように天井の方を向いては、口から唾液を無造作に垂らしたまま、現れた怪物に対して反応を見せていない。
それ以外のメイドたちは言葉の意味が理解できず、ただただ恐怖するしかなかった。
『――我、冥府神の、使い、なり……』
しばしの間を置いて、メイド長がハッとする。
何が何やら未だわかっていない子と、わかった少年と顔色は同じ青いままだ。
冥府にはガルディエルと呼ばれる死と闘争を司る神と、その配下の神々がいるとされる。その神々に代わって地上の魂を捕縛する役目を担うのが、使徒たる亡霊――即ちガルディエルの怨霊である。
彼の怪物は、己がそうであると言い放つ。
この場にいる誰もが、それを否定する材料も度胸もなければ、疑う余地すら持っていない。そんなもの、対峙すれば真実だと思うしかない。
だが、目的がわからない。
まさか、自分たちの魂を冥府に送ろうとしているのではなかろうか。震えながら、少年メイドたちは互いの目を見やる。その怯えを察知してか、怨霊は溜息を一つ吐いた後に静かに言った。
『――汚名を雪ぎに、参上仕った』
明らかに言葉が足りていない。
余計な混乱を招き、メイドたちは更なるパニックに陥っているのが目に見えてわかったが、怨霊は構わず、襤褸切れから黒色の手甲と黒い粒子を纏う左手を出して、指をさす。
指し示す先には、少年と洗脳装置。
事情をよく知る、いわば幹部的な立ち位置にあるここの古参のメイドたちはすぐにわかった。
「……れ、れんぞく、じどう、しっそうじけん」
メイド長が震える声で言うと、怪物は静かに肯いて見せた。
『――左様。貴様らの行い、孤児を誘拐し、ここで洗脳するという身勝手な所業に、我らの名を使ったであろう?』
「……ッ! ち、違、……います! その噂は勝手に流れただけで、ボクたちも、お嬢さまもまったく関係な――」
『――この期に及び、言い訳か……?』
鋭い眼光が遮り、重々しい言葉を返す。
今ニヴァリス全土で起きている、児童を中心に次々と神隠しに合うという怪奇現象……メイド長は無論、帝都や外でどのような噂が流れているかは存じていた。
『――……真偽はどうあれ、その装置こそ、事の混乱を招いた根源。なれば、破壊するに限る』
正体不明の怪物はゆっくりと動き出した。
その目標が何なのか理解した子ども――メイド長の役割を与えられたものが立ち上がろうとしたが、一睨みが、再度呪縛となる。駆け寄る暇もなく、支えるべき足が力が抜けていく。
『無駄に、命を、棄てるというならば、我が主たる、ガルディエルに捧ぐための、贄と、なっていただくが。……冥府神に、捧げられた魂は、永遠に捕らえられ、輪廻転生もなく、苦痛を味わい、続ける。その覚悟、あると、言うのだな』
暗がり、熱いものが瞳だけではなく別の場所からも溢れ出す。音も臭気も耳に入らない。大量の汗が出ているのに寒気しかしない。凍えるように歯がガタガタと音を立てる。
もう、誰にも止められないと皆が悟る。
ガルディエルの怨霊は、その睨む目の冷たさは一切変化させず、もはや無駄な抵抗はしないと断じてから、再び動き出し始めた。
地面に足が着いていない、滑るように、装置に近づいた。布切れで隠されているが、本当は足などとうに失って久しいのではなかろうか、と子どもたちの想像力が一層、己自身を追い詰めていく。
装置に繋げられた未だ反応がない子どもを見たあと、装置のカバーの留め金を外して、勢いよく投げ捨てる。響く金属音に意識のある子どもたちはビクリと震えあがっていた。
構わず、怨霊は装置の中へ両手を突き出す。
ちょうど、どのメイドからも死角となっていてその手の動きはハッキリと見えなかったが、左腕から黒い瘴気がブワッと噴き出した後に引き抜いて、次いで右腕ごと、凄まじい早さで中を払うように動かした。聞き覚えのない音が静かに響く。そしてもう一度、左手を突っ込む。両手で何かを――落下したものを受け取り、それをゆっくりと音を立てぬように置くような動きを見せた。
おもむろに腕を抜いてもう一つの装置の方へ歩く。
装置から怨霊が離れたことで、その背で見えなかった部分……即ち装置の中身を見ることができたメイド長は言葉を失った。
装置の中身が、文字通りズタズタにされている。どんな手品かわからぬが、一瞬の内で洗脳装置を破壊して見せたのだ。
「あ、ああ……ぁ」
ショックのあまり失禁の次に気を失ってしまう。怪物はそれにまったく興味がないように一瞥をくれてから、残りの装置に歩みを進める。
誰もが絶望に瀕した。
気を失ったものの様子から察したのであろう。
悲鳴。絶叫。嗚咽。
静かに兵たちが去るのを待つ約束を忘れ、彼らは阿鼻叫喚の地獄へ至る。
少年たちはその装置こそ、自分の命であるかのように大事に思っているというのに、身体が動かせない。それが壊されると最後、すべての未来と希望が潰えてしまうと錯覚しているというのに。
一人のメイドが潤み、霞んで見える視界からその影を必死に追う。
何もできない。無力感に苛まれ続けるだけ。
それでも、懸命に手を伸ばした。
「……けて」
声にならない。
「だ、……か……たす、……て……」
叫びは胸に木霊し続けているというのに。
「たす、けて……」
祈りを誰に捧げているものかすらわからない。
「だれか、……だれか、たすけてぇええ!」
ただ、このまま命と希望が奪われるという恐怖に怯え、縋るしかできなかった。
叫びが、祈りが、言葉が、やっと口から溢れたときに、鋭く甲高い音が響いた。
そして、次の瞬間――、
『――ッ!!』
急に怨霊は大きく跳躍する。すると、数瞬前にいた場所に青白い光が線となって現れた。
闇の中ゆえか子どもたちもハッキリと見える。
さらに音が、響いた。
怨霊は宙を舞うように避けたあと、即座に姿勢を変えた。推進力として蒼い炎を放出しながら地に落下すると、やはり先ほどガルディエルの怨霊がいたところに光が襲い掛かった。
『マジか』
そして落下地点に、罠を張っていたように光の線。怨霊は左腕を前に突き出すと、蒼い炎が一気に燃え盛った。
その勢いのまま壁まで飛び移った怨霊はドアを見た。
いつの間にか開け放たれたそこから、一人の剣士がやって来た。
歩く度に、鞘に結んだ鈴の爽やかな音が鳴る。
「どういう訳かまったくわからないけど――私が相手だ」
『…………』
客員騎士エドアルト。
その姿を捉え、怨霊は燃える瞳を細めた。




