33 王者の問答
身じろぐこともできない程に強い圧を感じる。
空気自体が、重く圧し掛かるように思えた。
外気の低さも何もかも変わっていないはずなのに呼吸するのも厳しい。
返答次第でその爪か牙の餌食となる、と首筋のゾワリとくる怖気などでハッキリとわかっている。それなのに、
――相も変わらず視えない。何か、普段と違う……!
敵意や殺意に敏感である颯汰は、違和感だけは掴めたが、終ぞ正体までは掴み損なっていた。
攻撃が来るとわかって反応ができないのともまた違う。優れた動体視力と観察眼は、いずれそれ自体が“術”と呼べる域にまで至るはずだが、それをもってしてもわからない。予兆があるというのに正しく認知ができず、対処ができない。
で、あるならば――
『……目的は、単純な話です』
話せばいい。
別に後ろ暗い目的があってアルゲンエウス大陸に訪れたわけではないのだ。むしろ胸を張っていい部類だろうと自分を鼓舞して、颯汰は説明をしたのであった。それで納得されなかった場合はいよいよ全力で逃げるだけだ。
ややあって――
『――……なるほど』
黄昏の狼王はそれだけを呟く。
大まかな説明すぎて伝わらなかったのか、もしくは信じて貰えなかったのだろうかと内心焦って顔色をうかがう。むっつりとした鼻面の長いオオカミの顔から情報を読み取るのは困難であった。
別に颯汰はアルゲンエウスの二大国に攻め入るつもりも、焦土に変えるつもりもない。本心から穏便にことが済んでほしいと願っている。
狼王は言葉を最後まで聞き入れて、天を仰いで目を瞑る。そうして暫し間があって、再度、同じ言葉を口にする。
『……なるほど』
微妙にニュアンスが異なっているとはわかったが、何を意味するかは当人以外にはあずかり知らぬ案件である。颯汰は深く突っ込むほど互いに心を許してはいないだろう、とそこに触れずに話を進める事とする。
極寒の地にて毛皮のコートの中で震える思いであったが、元の十かそれ以下の子供に戻っていたのは、敵意がないことを証明するためだ。変身を解除すると寒さが一気全身を包んだ。山の頂で吹き荒ぶ風は、かいた冷汗すら凍て付かせる。
またもや生まれたての冷風が撫でてくる。
「寒っ。……さっき言った通り、戦いにきたり迷惑かけるつもりじゃあないんです。それに、あなたが言った懐かしい香りってのはシロすけのことなんでしょう?」
『シロすけ? ああ、龍の子、か。……もう少しまともな名前を考えてはどうだ』
「?」
『……ふぅむ。われらと感覚が違うからか。生きる“時”も違えば、感性もズレが生じるか』
困ったように目を細めては独り言を呟き、やはり自問自答で納得した様子である。
それを見た颯汰は「どうにもそりが合わない」と肩をすくめていた。
それよりも彼の助力があれば願いはあっさり叶いそうだとわかり、本題へ入る前に確認を取る。
「俺たちは国に潜んでいる黒い泥のバケモノどもを撃ち払うため、竜種の王に会いにきた。親である、ドラゴンに。……この階層の本来の“管理者”なんでしょう?」
『さすが、察しがよいな』
管理者代行が不敵に笑んだ。
力が強いものが王座に至るのは、地上も仙界も変わらない。力の定義によっては、我々が住まう星もまた同じではあるが、このふたつの世界はまだシンプルなもの、少し悪い言い方をすれば原始的なままである。
戦う力を持つものがすべてを制する――。
だからこそ上位の精霊たる大精霊や、この霊獣王のような特殊な個体が往々にして頂点に立つ。
「……ほんとうの“管理者”が何の用事かは知らないけど外にいて、それもペイル山の頂上にいるってことでいいんですか?」
『然り。あのモノもまた、世界を守るために外界へと降りたのだ。“管理者”の任と同様に、私欲のためにその役目を担うことはない。人間どもの王などとはわけが違う』
敵意のある言葉を隠さず真顔で言われたが、痛い所であるため颯汰は言い返さないで曖昧な笑みに似た表情をとる。そして彼の巨狼の言った言葉を再度口にして考えた。
「世界を、守る……。もしかして、あのホッキョクグマの化物と関係が――……いや待て、違う。そうじゃない」
颯汰は途中で言いかけて止めてから、声が自然と小さくなる。ブツブツと独り考察に入る姿を狼王は黙って見つめていた。
「だったら見逃がしたら意味がない。すぐに対処するはずだろ。……監視だけなら任務じゃない。それだとただの自己満足に過ぎない……」
あの敵は確実に危険な生物であり、世界を崩す“魔王”が生み出した尖兵たる異形。それをただ見ているだけならば意味がない。
「……山から距離は確かにあるけど、シロすけの親なら速度も尋常じゃないはず。人里を風圧で巻き込むのを恐れた? 来れないなら先んじて、何か別の手を打てるはず」
発見が遅れ、意外にも自分たちが早く対処しすぎた可能性もある。……もしも、気付かなかったなら、もはや目も当てられない。そうであったならば王者の名折れ。無能もいいところだろう。
――仲間であるこの鹿が襲われた。……世界は守護するけど、小さな命に対して関心がない?
口に握り拳を当てて、思う。
ふさふさの毛を持つ鹿型の霊獣。生命力は高く、傷をかなり早く回復させたが、それにしてもあのまま放置すれば殺されていたのは間違いない。野生の掟たる「弱肉強食」を重んじる、こちらの法や理性を主軸とした、秩序が通じないのかもしれない。とまで考えつく。
「? 関心が、ない? ――あっ!」
自分の心の中の呟きを反芻し、別の答えに辿り着こうとした。
「まさか、あのクマに引っ付いた“魔王”の使い魔を、脅威と見なしていない……?」
霊獣を襲った怪物に竜種の王が気づかなかったわけがないと颯汰は当然のように決めつけていた。そして、より恐ろしい『敵』を注視していたのではなかろうかと考えたのだ。その独り言に対し、答え合わせを始めるように狼王は言う。
『外すと思ったが、やはり末恐ろしいやつよ』
言うほど、驚いてる様子はない。
からかっているのだろうと颯汰は思う。
心なしかニヤついて見える。
その態度に憤りを覚えるが、色々な想いで溜息がまず最初に口の中から飛び出していく。そして言葉で後を追わせるのだ。
「“魔王”は怪物ではあるが、あくまでヒトというカテゴライズをして、人間同士の問題は人間が解決しろや的な感じでわざと無視した?」
『あのモノの本心がどうかは、われには計り知れぬが、われであったら同じく傍観に徹しようぞ。仲間への情はあっても大事のために鬼となろう』
……ヌシと同じよ、と続けようとした言葉を狼王はグッと呑み込んで心内にしまう。
“魔王”よりも恐ろしい、注視しなければならない――世界にとっての外敵がいるという事実を突きつけられた颯汰は、イヤな顔をするしかなかった。
「うわマジか。となるともっと規模がデカい、何か? ……なんだろう? ……うん、もうこれ以上、厄介ごとに関わり合いたくないって感情しか湧いてこない」
“魔王”――転生者に関るあれこれで手一杯なのに、何か見当もつかない問題を、避けられない気がしてならない。ただそれをこれ以上、言葉にすると本当に起こってしまいかねないと思い、口をつぐむ。
『フッ……。つくづくヌシは奇縁に結ばれる。そういった星の下にいるのだろう』
「おう、勝手に遭遇する前提でそんな暴言投げつけてくるな」
知ったような口を叩く怪獣に、もはや敬意や畏敬といったものを抱かずに言葉を返し、本題へ――もっとも知りたい情報を探るようで、直球で尋ねるのであった。
「……それよかアンタは代行とはいえこの階層を治めているスゴイ狼。だから仙界の門を自在に開けて俺を招いたわけだ。だったら逆に、ある程度は任意の場所に移動用の門設置できるのでは?」
『ヌシの考えは読めた。期待しているところ悪いが、われの力で竜種の王がいる地点へ送ることはできぬ』
「……なぜです?」
『まずは、自在ではないのだ。特定の地点から然程しか動かせぬ。好きな場所へ自由へ送り込めるわけではない』
「……そう思えば師匠のは、ほぼ毎回森の中の同じ場所、池とか水場だったような。帰る場所も同じだったかもしれない。……それ以上に修行の時は水の中に放り込まれた記憶の方が強い」
思わず右手で額を押さえる。剣の修行で仙界――“白亜の森”へ招かれるとだいたい決まって落とされる。スパルタ教育もある意味、愛ゆえなのだが、とても厳しかった。思い出すと今でも身震いが止まらない。
その呟きが小さすぎて風に流されていく。そこへ狼王は言う。
『今われがしてやれるのは、ヌシに感謝の言葉を贈り届け、地上に送り届けることよ』
したり顔。すごい、渾身のしたり顔だ。
顔を逸らしてツッコまねえぞと口だけ動かす。
『不満か。やはりヌシは業突張りよな。よかろうよかろう。今すぐではないが、きちんと礼の品を用意しておこう』
喰えん奴よとまた笑んだ。なぜか彼を見ていると背筋がゾワっとするらしく、颯汰の両肩が震えながら上がってしまう。それを取り繕うように咳を一つ、そして言葉を紡ぎ出すのであった。
「いや別にそういうわけじゃ……。どうにか雪山を登る以外に“管理者”に会うことは――」
『――できぬ。竜種の、それも帝王の位に至ったものが、安易に地上に降りればそこは異界となる。ヌシも知っておろうに』
「ですよねー。だから人が寄り付かない、干渉されない山の頂上に居座ってるわけだ。……でもあんな険しい雪山――、巷じゃ神の寝床だとか世界の屋根だとか言われてる霊山を、マナ教の神殿があるとかいう中腹までくらいは人の手である程度は整備されてるそうですけど、その後頂上まで登るのはなぁ……」
『……準備を怠るとヌシとて危ういと思うぞ』
「普通の山ですら危険なのに、素人のしかも子どもだと準備してても危ういでしょうに。……うわ、なんだか憂鬱になってきた」
『われらも影ながら応援はする』
「気持ちだけありがたく受け取ります。――ふぁぁあ……まずい。寒さで眠くなってきた」
『そろそろ帰した方が良さそうだな』
「本来は深夜ですからね。いや、でも日中に拉致されるよりはマシでしたが」
知らぬものが異界に連れていかれる光景を見れば大いに驚くであろうし、連れの者たちのおそらく半数がパニックに陥ると颯汰も認識している。
その光景を幻視して溜息と一緒に肩を落とす。
愛されていると言われると、表向きにはイヤな表情をして否定するのがこの弱いままの男だ。
狼王が右前脚で虚空を薙ぐと、その方向――颯汰が現れた地点と同じ個所に裂け目が生まれる。差し込む曙光が反射したわけでもなく自発的に光り、こことは異なる空間へ導く扉となる。
ブモオォと低い声で鳴く牡鹿の霊獣。門の前に立つもう一頭がさっさとついて来いと言わんばかりに首だけをこちらに向けていた。
「あ、こら、ちょっと……」
少し呆れていたら、近くにいた治した牡鹿が身に纏った外套を噛んで引っ張っていこうとする。されるがままに退場を強いられているが、呼び出した当霊獣王も用向きはなさそうであるから従うように歩き出し、そのまま門をくぐろうとする。
「とにかく、俺は何も悪いことをしたくて訪れたんじゃあないんです。……そりゃ信じろなんて言えないけど、アンタが危惧してるようなことは起こらないから安心してく――」
門へ連行されながら颯汰はそう言っていたが、途中で光に呑まれ、ともに消えていった。
『…………』
残された狼王は空を見上げる。
さっきまで吹いていた風が止み、仲間の狼たちもまだ戻ってはこれない。
精霊たちは気づいたのだ。異質なものが潜んでいる、と。
『して、ヌシは帰らぬのか? 蛇の使い』
黄昏の狼王は岩場の――裏に隠れたものに呼び掛けると、それは姿を表す。紅い鎧姿の二本角の戦神――《王権》を身に纏う、紅蓮の魔王であった。
『気づいていたか』
底冷えするような声を反響させる、羅刹の如き魔王は隠れていたというのに、いやに堂々と前に出てくる。
『無論だとも』
『そうか。私も契約相手が無事ならば用はない。大人しく去ろう』
無風の空間に、身の丈くらいの大きな星剣を取り出し構える。無理矢理帰り道を作ろうとしたところを、
『“鎖”がヌシを捕えるまで暫し時間がある』
『……、何を話す?』
狼王が引き留めるとは思ってもおらず、兜の奥で驚いたように目を見開く。剣を炎と光に還し、対話に応じる姿勢をとった。
『知れたことを。ヌシの契約相手の小僧っこについてだ。いくつも混ざったニオイを持つあの者を、ヌシはどうするつもりなのだ』
『……他の四大と変わらん。世界の均衡を崩すやもしれぬ存在の監視だ』
『なにも王位に就かせなくてもよいだろう。首輪でも付けて普通のごく一般の子どもとして飼い殺しで……。表現とて、言ったわれ自身が気分が悪くなってしまった』
『その王位こそ枷であり鎖なのだ。今更、普通の子どもとして扱えるほど無知ではない。だがそれ以上にすぐに突っ走る蒙昧さがある。だからこそ、その枷は必要なのだ』
一瞬だけ間があったが、淀みなく答えたのは元から聞かれた時の為に答えを用意していたのか、はたまた本心からなのか。
『ま、われがヌシを止められる訳でもなし、今はその言葉を信じるしかないか。ところで――』
目線を泳がせて考えた末に狼王はとりあえず納得した。そして再び門を開く。去ろうとする背中に向けて、狼王は最後の確認をする。
『ヌシたちの目的地である帝都にて、彼奴が目覚めたと知っていて乗り込むつもりなのか』
血を吸ったように赤い襤褸のマントの背中。首だけ横を向き、何も言わずに前を向き直して歩き出す。狼王は無言の彼の答えが何なのかわかり、空を眺めた。
雲海の上。明け空の紫の霞と橙の光が混ざり合う景色に、嘆息は風に流されては、世界をゆるりと巡っていく。




