31 獣王の饗宴
立花颯汰は息を吸い、長く吐いた。
閉じた目を開き、集中した。
ニオイも空気の冷たさも、一切が遮断される。
眼前で横たわる生き物は、その翡翠の如き輝きを宿す目を閉じてはすべてを委ねていた。いや、実際は諦観に近い感情だったのだろう。抵抗は無意味だと悟り、暴れることなく目を瞑る。
そんなことはお構いなしに、颯汰はすぐさま処置に移る。白く光る草原――いや、太さから鑑みるにツタと呼んでも差し支えない長い毛を退かし、傷を見た。獰猛な大型の魔物に襲われ、一般成人男性の太腿よりも太い前脚に詰まった筋肉で振るわれた爪で、この程度で済んだのは奇跡的であろう。切り裂かれた部分は血が滲み、奥には痛々しい赤と黒を晒す。
「動くな」
そう短く言うと、無造作に地面――雪の上に刺さった小瓶サイズの壺に指を突っ込み、付けた軟膏を患部に塗りこんだ。
“山の使い”の目がカッと見開く。
染みる痛みで上がる声が轟く。
黙ってその頭を優しく撫でていたリズも、広場の前の人だかりも驚きを隠せない。
ただ颯汰だけは耳につんざく怒号も届いていない面持ちのまま、続ける。容赦がなく、手を忙しなく動かす。止血効果のある薬草は不要だと革袋にしまい込み、包帯を巻き終えて他の傷へ。
「この箇所は……。やはり血が既に止まっている。見間違いじゃない。……ああ、そうか、仙界の動物だからか。……なるほど、破れた血管も魔力で塞いだわけか。だが回復が遅……、止まっちゃった。魔力切れか」
寒空の下で颯汰は呟く。誰に語るのではなく、自分の考えをまとめるために口に出している。
牡鹿のぱっくり開いた傷口。そこだけ血が通っていないみたいに、不自然なほどに血が出ていない。それどころかジワジワと回復を始めていた。
彼の負った傷は本当はさらに深いものあったのだが、驚くべき治癒能力で傷を修復していた。
ただ外傷の回復はできても、臓器に達していれば命の保証は無かった。それを含めても運が良かったと言えるだろう。
“獣”などの回復速度に比べると劣るが、それでも充分に早い方ではあった。だが再生し始めた細胞が、中途半端なところで止まっていた。
血抜きされた生の食肉に包丁を入れたような創傷。鞄から清潔な布を取ってはそこで指を拭い、もう一つ取り出したのは、お椀サイズのすり鉢とすりこぎ。
中に葉を二枚、さらにガラス製の小瓶を取り出し、蓋のコルクを外しては注ぎ込む。
それをすりこぎで混ぜていくと、すり鉢の中で変化が起きる。
「……うーん。いつ見ても、ねる〇るね〇ね」
粘性が生まれて出来上がったものを見てそう零した。放射状に配置された電球が輝くと同時に鳴る、耳に残る軽快な音が脳内で響いた。
木製のすりこきで伸びるところを覗き込むように背中から首を伸ばしてみる幼龍シロすけがジッと目で追って、再び興味がなくなったように潜って行った。
白一色であれば長芋でもすりおろしたようにも見えるが、色合いが紫で毒々しい。
そんな精製したものをそのまま、すりこきを使って傷口に塗りたくる。
「麻酔剤。一時的に痛覚を遮断しただけだ。材料も貴重な品らしい」
もう身悶えして暴れることはなくなったが、薬品の冷たさと傷の熱さに呻く。
だが次第に患部の痛みが引いていき、感覚が喪われていく。未知なるそれに慄くが、少女の撫でる手の優しさにより、安堵を覚える。……のは束の間であった。淡々と処置を進める颯汰が次に使うは、金属の針と黒い糸であった。
それを見て神獣はそっと目を閉じる。
痛覚が無くなったとはいえ、針が通る感触ははっきりと知覚できる。針が肉を通り、糸が後を追う。颯汰が村に住んでいた際、干し肉を作る機会が何度もあった。そのお陰か慣れた手つきで傷口を、縫合する。
葉や液体はこの世界のものだが、それらの容器や応急処置に使用した道具は別である。すぐにまた建設中の都市やヴェルミへと発った元・魔王のグレモリーから頂いたものだ。魔王としての象徴たる《王権》は失われても、固有能力は健在であり、元の世界から引っ張ってきた道具も、持ち主から離れてもどうやら大丈夫のようだが、壊れると消滅する。厳密にいえば退却する、らしい。
余裕のある大人の女性は特に、得意な相手ではないため接触はなるべく控えつつも、やはりこの世界や転生者についてを深く知るには、今後も関わり合うしかない。
そんな一瞬の憂鬱を振り払い、断ち切るように小さなハサミで糸を切る。
「よし……。これで終わりだ」
作業自体は滞りなく進み、軽く傷がない箇所を手でトントンと叩いて声を掛ける。
「反対側はどうだ?」
答えるように、ヨロヨロとなんとか身体を起こす。逆側は見たところ傷は覆われた毛によってないように思える。
片角の神獣はぶるるるると鼻を鳴らす。
その目から警戒は解いたようだが、体力を消耗し過ぎたのか疲労の色が見える。
「歩けるか? よし、いい子だ。仙界に戻って大人しく休んだ方がいい。傷が完全に塞がる前に、精霊か誰かに抜糸して貰ってくれ」
入場した時とは正反対に、緩やかに歩みを進める。リズも颯汰も森のある方角まで歩いて見送る事とする。
踏む雪の音。懐かしいにおい。肺に送られる空気は済んでいて爽やかであった。
青く澄み渡る空。雪がかかる山嶺の奥には、白の月が奥ゆかしく顔を隠していた。
……――
……――
……――
その月が位置をぐるりと変え、色も背景の紺に映える、金色に変えた。月の女神だけが雲の衣を纏い、欠けることなく艶やかに、微笑みかけていた。
誰もが寝静まった夜――。
颯汰はふと目を覚ます。
治療した後は神獣を森まで送ると、出迎えとして同じ種族の鹿が六頭も崖の上から見下ろすように並んでいた。そこで仲間の下へと還し、牡鹿に別れを告げては颯汰とリズが引き返し、橋を渡り、河川を越えて戻ってきた。
それからの事はあまり颯汰は覚えていない。
というのも、戻ってきた頃には村の大人たち、マタギ衆、医者、さらにエドアルトの部下なのか帝国の憲兵までが集まっていた。
皇帝の娘までいる中、大型の魔物が現れたのだ騒ぎにならない方がおかしい。
そこへ神獣を送り届けて戻ってきた異邦人の子供が質問責めに合うのは当然と言える。
立花颯汰はコミュニケーションは不得手だが、出来る。出来るが不得手なのだ。
一対一なら会話はできるが、発表の場など、意識をしすぎると顔色が悪くなる。集団に一斉に見られるのも声を掛けられると、顔はニコニコできても吐きそうになるタイプであった。
くたくたになり宿へ戻る。
ベッドに倒れ込み、起きて食事は取ったがすぐまたベッドにダイブした。
行く先々で質問と事情聴取の嵐であった。また場所も場所であるから普段以上に解答には気を付けなければと気を張ったのも原因か。
大人組も戻り、互いに何があったか説明をする。どうやら明日にはこの村を発てる。目的地も別であるし、悪意はないとはいえ、すぐにでも出て行きたい気持ちであった。長居すればするだけボロがでてしまうという恐れもある。
温かい風呂にも入ったが、すぐにまたもやベッドに潜りんだ。
そうして夜が更けた時である。
月の光に照らされ、影が伸びる。
導かれたように颯汰は独り、外に出る。
スヤスヤと眠る仲間たちを起こさぬよう、また身体に纏わりつく腕をするりと抜けて。
龍の子も、勇者も置いて、独りきり。
月に魅入られ、誘われ、……た訳ではない。
呼ばれたから歩く。
月明りだけが頼りの道を、前の足跡を追う。
いや、暗がりを照らす光はそれ以外にもあったのだ。
そうして訪れるは件の広場。子供たちの遊び場であった場所は、普段の賑やかさも、昼間の喧騒も嘘のように静まり返っている。
大熊ポルミスの遺骸は既に無い。
本来であれば熊の遺体からは毛皮を剥いだり、肉も胆のうも利用するべきなのだが、さすがに回収はせずに燃やしたと聞いた。颯汰は個人的に調べたかったが、余所者のましてや子供が干渉などできるはずもなく諦めた。
その代わり――。
「……入れ、ってことか」
夜闇に浮かぶ光の円。
七色のサイケデリックな光の乱舞。
門――仙界への入口である。
何もないはずの空間に出現した穴の前で、颯汰を招いた張本人? がいる。
淡く毛先が金に光る白い鹿、“山の使い”。
昼時に会った内の一頭であろう。
目を覚まして、夜中だと気づき、再び寝入ろうとした時に何か言いようのない気配を感じ取る。窓を開けるわけにもいかず、宿からそっと出るとそこには、雄々しい二本角を携えた神獣がいた。
静かに扉を閉めて見なかったことにしようと思ったが、角で扉を突く音が聞こえてきて降参したのであった。
毛皮にマントを羽織り、抜け出して、導かれるままここにやって来た颯汰は足を止める。
――仙界のゲートを開けるのは“管理者”と呼ばれる存在。……すっげえ嫌だな、そんな精霊がわざわざ俺を呼んだってのが!
一瞬、逃走を考えたがここまで来たからはごまかしも効かないため、諦めた。
急かすつもりか分からぬがむっつりとした神獣の目線を真っすぐ受け、足を進める。その後ろに毛の長い牡鹿が付いて来た。
酔いそうな色が捩じれて変わる空間を進んでいく。すると唐突に景色が一変する。
吹く風、運ばれる冷気やにおい、空気までもがまるで違っていた。
まだ日が昇るまでは時間が掛かる夜の世界だったのに、眩い曙光が見えてくる。
射抜かんばかりの光。颯汰は慣れぬ眩しさに目を細め、右手で遮ろうとした。
慣れた途端、すぐ視界に飛び込んできたのは角が半分折れ、半分が根本から無くなった牡鹿――昼時に応急処置した個体であった。
岩場を蹴り、横になってこちらを見る神獣の下へ颯汰は駆け寄った。
低い嘶きは歓迎するように聞こえた。
「もう大丈夫なの……って。ん? もしかして抜糸の為だけに俺を呼んだ?」
少し呆れ、がっかりするような安心したような微妙な顔を浮かべて颯汰は話しかける。
ヒトに似た形の精霊を見知っているせいか、そういったものがいると思い込んでいた。もしや手を使えるものが他にいないのかもしれないと颯汰は思った。彼の傷も魔力が回復し本調子になり、すでにその段階に至ったのは間違いなかった。
鞄ではなく、そんな予感がしてポケットに入れておいたハサミを取り出そうとした時である。
辺りが急に暗くなり始めた。
「――ッ!?」
見上げる。
それしかできなかった。
どこまでも広がる大空よりも、広く映る。
視界の大部分を制する巨大な影。
雲海の上――。
黄昏時の空は、天上の神々の降臨を予感させるに相応しい輝きであった。
そんな感動を味わう余韻は一切ない。
一瞬で薄暗く、夜闇の帳が下りた濃紺の世界に染まったのだ。瞬く星は確認できない。
酸素が薄く、おそろしく肌寒い。
「…………」
言葉が出ない。
寒いのに汗が止まらない。
巨大な“それ”から息が伝わる。
ニオイを感じていられない。生暖かさよりも冷たさで、どうにかなりそうだった。
ただ吹き荒れた風が、髪も服もめくれ、つい腕で顔を庇う。
見上げるだけの大きな身体。
ウマや馬車など軽く超えるほど。それどころか自動車、下手すれば大型トラックを凌駕する巨体。
「いや、これは、冗談キツイ……」
なんとか言葉を絞り出す。
それは長い鼻面に発達した顎を持ち、歯は肉に噛み付き、喰らうために特化している。四足で地を駆け、獲物を襲う陸上のハンターたるもの。
狼。
ただその大きさが先に記述した通り。その口であれば、並みの動物は余裕で一飲みに違いない。
白銀の狼。
青白い岩山に、囲うように配下の狼がいた。真っ白なユキオオカミとはまた違う白さ。幻想的で、儚げでありながらも、強い蒼の瞳を持つ。
それらは普通の大きさではあるが、おそらくこの群れのボスたる巨狼だけが段違いに大きく、さらに毛先が淡く金色がかっている。
揺蕩う玉状の、淡い光を放ちながら此方を見ている。その毛色と光がどことなく、見覚えがあって、ハッとする。
足元で横たわるものを。
神獣――“山の使い”。
義理などないが、見捨てるのも目覚めが悪い。
歯を、強く噛み締めた音が鳴る。
見上げる巨躯、鋭い双眸を受け止めた。
存在感に圧倒され、呑まれつつあったが、雄々しく咆え返してみせる。
『悪いけど――』
反響する声に、周りの狼が呻る。
左腕を中心に溢れ出す黒の瘴気。
黒の繭に白銀の亀裂が奔り、中にいたはずの小さな子供は、黒い魔神へ姿を変えた。
『――コイツもやらねえし。俺も、ただで喰われるわけにはいかない』
双腕の黒鉄に、蒼銀の光が灯る。
展開されし機甲の刃までが同じ輝きを宿す。
鋭い剣閃――。
振り払う度に太刀風が舞い、音が伝わる。
見上げる瞳もまた強い意思が宿っていた。
その視線を受け、冷たく睥睨する瞳。
それもまた君臨する王者のものであった。




