30 客員騎士
熊の首が空に舞い、ドサリと雪の上に落ちた。
鞘に刃こぼれした剣を納め、カチリという小気味良い音に、鞘に結んだ鈴の揺れる音が追う。
一瞬の静寂に、それらの音が冷気と共に風に乗せられ運ばれていく。
突如、子供たちが集まる広場に現れた巨影。
ポルミスと呼ばれる大きなホッキョクグマに似た魔物であったが、やってきた剣士の放つ渾身の斬撃により、その命は断たれた。
血の臭いだけでは咽せかえる事はなかったが、獣の体臭が混ざればあまり良いニオイではなくなる。早々に風に巻かれて去ってほしいものだ。
これですべて終わり――。
と、思わなかったのはこの場に二名だけ。
その内の一名たる立花颯汰が動く前に、剣士は振り向きざまに再び剣を抜いた。
スラリとした白刃が雪原の上で煌めく。
剣士は殺気に反応し、動き出した熊の顔を斬る。
幾度目かの不可視の斬撃が、虚空に閃く。
獰猛なポルミスは憎しみをもって牙を剥き、ひとりでに動き出して飛び跳ねた。
そんな首だけの猛獣は、自分をこのような姿に変えた剣士に一矢報いるつもりだった。
剣が届く範囲ではない。さらに剣閃なども一切見えないが、幾つも傷口が新たに付けられる。
毛も斬られ、血も流し、首だけになった猛獣は低い絶叫をあげ、ついに事切れたのであった。
再び地面へ、転がり落ちた熊の首。だらりと幾つも枝分かれした舌を垂らし、頭の右半分の毛どころか表皮が捲れたグロテスクなものであった。
そこへ追加で幾つも切れ目が入り、黒い目は飛び出て、脳しょうを撒き散らして――沈黙した。
剣士は、外の冷えた空気に息を吐く。
重責から解放されたという安堵の息でもある。
「まさか、まだ動くとはね」
息を吹き返して首のまま暴れるとは思いもしなかった。類いまれな反射速度で対応してみせたので、何とか事なきを得た次第だ。
――……まぁ、こういうキモチワルイ系のモンスターって首だけで動くのありがちよね
颯汰のは予感というより経験だ、映像作品やマンガ、小説やゲームなどの。
魔法や精霊も、様々な種族がいるファンタジーの世界であるのだが、首を斬った生き物が動くなぞ、この世界の常識でもあり得ない事態だ。
どこぞの国で動く死体を見たという話はあったし、理解できないものは魔術や呪術の類い、悪魔や転生者の仕業と決めつける節はあっても、職業軍人や猟師などは市井の者たちよりも現実的に物事を考える傾向にある。実際に命のやり取りをして生計を立てているゆえだ。
生き物の首を斬れば死に至るという常識。それが通じない相手であっても、戦いに身を置いているだけあって容易に切り伏せてみせた。
落ち着きはらった様子に見える。
実際、彼は落ち着いているし深く考えるのを止めていた。柔軟な思考、と呼ぶより「そういう事もあるか」と考えを放棄したのだ。少しもの耽る横顔さえも美しいのだが、頭の中では「学者殿たちに任せよう」と投げやりである。わからぬ事を考えるよりも、と功労者たちに言葉をかけた。
「大丈夫かい? 君たち」
「あ、はい」
一人の少年が答え、ローブで顔を隠している年上らしき少女は肯く。
「これは返すよ。……助けてもらった身で言うのもなんだけど、あんな無茶はもうしないでくれたまえ」
軽く咳払いしてから小言を一つ。
本当は、逃げるどころか無謀にも立ち向かおうとした事を、きちんと叱るべきなのだろうけど、彼の援護のお陰で、反撃に転じる隙が生まれたのだ。
借りたナイフを颯汰に返し、剣士は遺体を一瞬だけチラリと覗いた後、この場で最も権力のある少女の下へ足を運んだ。
受け取った少年は剣士の白くなびくマント越しの背を追う。
――あのデカい熊の首を獲った最後の攻撃……、一刀で刎ねたように見せかけてあの“見えない斬撃”を重ねて断ち切ったんだな
鬼人族の戦士が大斧などを使えば可能であろうが、若い剣士がその膂力だけで簡単に熊の首を断てやしない。
熟練の人族の戦士でも厳しいだろう。ましてや一撃で刎ねるなど、余程の技量を要する。
――霊器かと思えば、俺のナイフでもあれを撃てた。それに魔王でもないから魔法じゃない。……そう考えると末恐ろしいな
受け取った自分のナイフを少し眺めた後、空を斬る。当然、剣士が放ったような遠距離攻撃が出るはずもなかった。
――……紅蓮の魔王は自分を含め『勇者は二人以上、同時に世界に存在できない』とか言ってたけど本当なのだろうか?
そこで湧いたのは疑念。あるいは希望。
アンバードで内政ごっこを半ば強制されていた偽りの王が、自分より多くを知るはずの魔王に幾つか質問を投げかけたのを思い出す。中には煙に巻かれて誤魔化されたものもあったが、勇者について問うた時にそんな事を言われたのだ。勇者でありながら魔王に堕ちた――詳しい経緯こそはあまりにデリケートすぎて聞けなかったが。
「実は勇者、とか?」
ちょっと己の欲が声に混じる。
その独り言に対し、リズが首を横に振り《違うと、思う》と心の声で答えた。
「そうかー……」
少しの落胆。もしかすると勇者ならば、協力者になり得るかもしれない、と思ったのだろう。
普通に考えれば勇者でありながら魔王となった男や、魔王をその全てを投げ捨てる覚悟で討ち滅ぼした魔少年なぞに協力するはずがないのだが。
では何者なのだろうかとその背を見て思う。
軍属の騎士にしては少々目立ちすぎな気がした。ニヴァリス帝国内に侵入してから遭遇していなかったが、中央の軍人は皆がこういった、どこかすかした気障ったい格好――人を選びそうな服装なのかもしれない。若いうちは似合うが、中年を過ぎてこの恰好はなかなか勇気がいる。
そんな若い剣士は目的の女性――この中で最も位が高い少女の前に立つと、すらっとした脚で膝を突いた。
謎の氷仮面を付けたポルミスの登場に絶望の淵に叩き落されかけた少女は、未だ震えていた。
第四皇女イリーナは、やって来た顔に覚えがあり、そこでふと意識が現実に向く。
恐怖、怒り、羞恥。
恐くて恐くて堪らなかった。
誰もが自分を見捨てて逃げていく姿に憤った。
今までの彼女ならば、ヒステリックに怒りを爆発させ、逃げた子らに鞭打ちの刑を実行しようと騒いでいたに違いない。
――みんな私を置いて逃げた。でもそれも、仕方がないこと。だって私も、こわかった。こわくてこわくて仕方がなかったから、最初に一人で逃げようとした!
宮廷で蝶よ花よと愛でられ、そんな自分がこんな何もない田舎に押し込められたという境遇に酔い、溺れた少女。
理解したのは自分という人間を一人の少女としてではなく、『皇帝の子』という点だけで、もてはやされるという事実だ。
個人として愛される事は親兄妹以外に無いというのに、さらにその親からも引き離されたイリーナ。その感情に蓋を閉めてみて見ぬふりをしつつも、自然と他者へ容赦なく、権力を振りかざすようになっていた。
そんな自分を真っ先に救いに来たのは彼の剣士でもなく――、今も震える少女を抱き寄せ、『大丈夫、安心して』と声を掛け続けた人。自分に楯突くような者は例え異邦人であろうと許しはしないと決めていたというのに、――さっきまで睨み合い、互いの頬までつねった相手が、いの一番に飛び込んできた。
今は気恥ずかしくて突っ撥ねようと両手を浮かせるが、静かにその手を下ろす。
遠い記憶、死に別れた母の温もりが心に滲みた。
皇女はその暖かさに頬を染めながら、跪く剣士を見る。剣士がやって来たことで、ヒルデブルク王女は気づいて、ゆっくりと皇女から離れる。
「あっ……」
名残惜しそうに、離れる女を見てから、キッとキツそうな目で睨んだつもりだが、やはりまだ幼いからさほど怖さを感じない。ただ多くの民はそれだけで震えあがるのだが、剣士はどこ吹く風と言わんばかりの涼しい顔のままだ。
「あんたはヴァジム兄さまの……!」
「お久しぶりですねイリーナ様。ヴァレリー様とヴァシリー様が成人となったあの日以来でしょうか」
近づいてきたイリーナに面を上げぬまま語る剣士。そして、イリーナの手の甲にそっと触れ、優しく口づけをする。やましさや下心などを一切感じさせずに、ごく自然にやって見せたのだ。
むしろ、やられた本人の方が若干照れてる始末であった。
それをうらやまし気に見ていた王女が問う。
「一体、あなたは……?」
剣士は問いに対し、立ち上がっては振り返り、丁寧に頭を下げて名を申す。
「こんにちは。異国の勇敢なお嬢さん。私はニヴァリス帝国第二皇子・ヴァジム様の剣――客員騎士のエドアルトという者です」
「エドアルト様……。私はヒルダ、あちらは弟のヒルベルト、姉のリザ、アシュです」
髪を結った剣士は名乗る。
それに対し、さらりと偽名を口にする王女。いつの間にか全員家族というおかしな状態だが、そこに突っ込むのはもはや野暮か。
「なんだってあんたがここに……?」
「ヴァジム様の御命令でして」
「どういった」
「それは、その……」
「……。まぁいいわ。どうせヴァジム兄さまが秘密にしろって言ったんでしょう? ヴラドレン兄さまもそうだけど、末っ子だからってみんな私を子供扱いして除け者にするから嫌い……、……………、とまでは言わないけど、こんな村に追いやった理由も話してくれないから、むかつく」
「イリーナ様。ヴァジム様は勿論、ヴラドレン閣下も口では言わないだけで、貴女様を愛していらっしゃいますよ。それにレギーナ様も身篭りながらも何度もここへ訪れようとしていたそうです」
「ふん、口先だけなら何とでも言えるわ」
口を尖らせて王女は不満そうに悪態をつく。
少しゆとりが出来て、繕う余裕が生まれたのであろう。
――皇帝の息子、第二皇子の懐刀ってところか。……うわ、めちゃくちゃエリートじゃん。これ以上、関わり合いたくねえな
聞き耳を立てながら、颯汰は積極的に関わろうとはせず、別の問題を優先させるべく動き出す。
本来の立花颯汰という臆病な傍観者は、どんな場面であっても情報収集に徹する。そうして得た情報を活用しては他者と迎合して世渡りをしてきたのだ。だけど、彼らの会話が遠くさせる。
「それより、まずは――」
颯汰は重症者を見やる。リズはその、横たわるものに膝を突いて優しく撫でていた。
荒ぶる猛獣に襲われた鹿――“山の使い”。
未だ危機は去っていないという目で近づくものを睨み付けるが、
「落ち着け」
刺激しない優しい声音で言いながら、剣士から返して貰ったナイフや短刀を結んだベルトごと外して雪の上に落とす。
「体力もずいぶんと消耗しただろ。治る傷も治らなくなるぞ」
興奮していたが、威嚇する声も苦しくて出せない山の使い。《どうするの?》とリズの問いに、
「“楽になりたい”ってなら話は別だけど、まだ生きたいって目で言ってるから、やってみる」
そう短く答えると、牡鹿の前に座り込んだ。
野生動物特有の臭いは薄く、どこか懐かしい匂いがする。
そんな牡鹿は何か言いたげな目で見てくる。颯汰はその目から若干顔を逸らしつつ、彼の身体にある傷を見つけ、注視する。羽毛の如き肌触りの毛皮に、しっとりと血が染み付いていた。
「ふむ、外傷の程度に反して……」
患部辺りの毛を手で退かしながら観察し、ブツブツと独り言を言っているところに、
「やってみるって、なにをだい?」
意識を一点に集中していたせいで、普段の颯汰が気付くはずの接近を許してしまう。
驚き、肩から全身をビクリと揺らして振り向くと、エドアルトと名乗った剣士がいつの間にか、すぐ近くで屈んでいたのだ。
「うわ本っ当にびっくりした……! 急に後ろに、しかも耳元で喋らんでください」
「ふふ。すまない騎士の君。ヒルベルト君だったね?」
非常に興味があります! という視線に辟易した様子で颯汰は目を逸らし、牡鹿の方を見る。
「距離が近いと緊張するんで、離れて貰っていいです? あと広場に大人が増えるとコイツが興奮しちゃうんで、入らぬよう見張りをしてくれると助かります」
「それは、心得たが、……君は一体」
「診れる範囲で傷を診て、処置するんです」
あ、薬師や医者だけは通してください、と続ける颯汰に、エドアルトは静かに驚いた顔をした。
「治す気……、なのかい?」
「薬の作り方は習ったんで。でも応急処置ぐらいしかできません。専門家でもないので」
アンバードの英雄とエルフの狩人、魔女などから薬の基本を習った。応急処置に関してはエルフの女医から盗み見て覚えたものである。相手は動物ではなく、ヒトであったが。
何か普段以上にぶっきら棒で塩対応の颯汰は、手を動かし始める。
その手には包帯。置いた少量の血を吸った布と軟膏が入った小さな壺を駆使する。
手元に置いた革袋から道具を取り出したのはわかるが、その袋はどこかに持っていただろうかとエドアルトは首を傾げる。
その視線を後ろからヒシヒシと受け、颯汰は思わず目を泳がす。
“獣”の力を宿す左腕――。
主に武具だが物体を生成したり、いつぞやの兜や旗など収納したように、少しだけなら物をしまいこめるようである。フォン=ファルガンで現皇帝に押し付けられた宝槍も、中で眠っている。
目線で本当に緊張しているが、それだけだと思い込んでくれたエドアルトは立ち上がった。
「わかった。他の大人を寄らぬよう見張ろう。邪魔して済まなかったね」
エドアルトは然してその反応を強い拒絶と認識はせず、頭を下げて歩き出す。そんな颯汰の態度に、『エルフの如き良い顔たちで嫌味もなく爽やかな人柄。さらに剣の腕も立つこの剣士に、同じ人族として嫉妬心的なものを抱いているのでは』と偽姉が邪推していた。またそんな勘繰りをしつつも、自分たちがここにいても邪魔になるだけだと理解していた王女は言う。
「私たちも行きましょう」
「え、あ、……、……!」
差し伸べられた手を、イリーナは困惑しながら応じようとした。しかし遠慮がちに退いた右手。ヒルデブルクは何も迷いもなく、皇女の手を掴んでは歩き出し、途中でアスタルテの手も引いて剣士の後を追う。
広場の入口には不安そうな様子でおそるおそる戻ってきた子供たち。もう少しで大人もやってくるだろう。
既に大変な騒ぎとなっているが、これ以上となれば傷に障る。
そうなる前にこの神獣を逃がすべきだ。
牡鹿をなだめる役割を担うリズ以外が退去したとなれば、こちらのものだ。颯汰は左腕から溢れ出す黒い影から、とある道具を取り出す。仙界と付近の森までが行動範囲の彼に、それが何なのかわからないが、小さいが鋭い剣のように光る金属部分を見て、卒倒しそうになりまた現実逃避で目を瞑った。
(やだ私の弟、ひょっとして嫉妬? けっこう可愛いところもあるじゃない!)
(……あのお馬鹿姫。あの目はきっと、ろくなこと考えてないな)




