24.5 私怨
走る。
走る。
走り続ける。
息が切れようが関係ない。
肺が潰れようが関係ない。
走らねばならない。
苦しかろうが、辛かろうが、生きる為だ。
今すぐ、逃げねばならなかった。
何故――? という疑問もあった。
どうして? という不条理に対する怒りもだ。
だが、どうしようもない。
およそ対話は出来ない怪物たちだ。
俺たちは何もしていないのに。
「うらぁああああっ!!」
夜闇を駆ける死神の声。
その後に仲間の断末魔が続いて響いた。
夜鳴き鳥ですら息を呑み押し黙るほどの戦慄に、涙を零しながら、とにかく逃げようと走る。
仲間がまた一人死んだが、追走は終わらぬ。
全員を殺さねば気が済まないのだ。
一体、俺たちが何をしたというのだ!
凍て付く夜の外気と底冷えする恐怖により、憤怒と激しい運動によって生じたはずの熱を奪い続けていく。
「ギャアアッ!!」
悲鳴。
隣にいた仲間が倒れた音がする。
遠くから弓矢の類いで狙撃されたのだ。
すぐ横で雪の白を真っ赤に染めて、のたうち回っているのがわかるが、もうどうしようもない。
起こしている間に距離を詰められる。
万が一起こせても負傷者を担いで逃げ切れるほど現実は甘くない。
「……やはり見捨てたか。人らしい情なんてもの、とうの昔に捨てたと見える」
遠くから嘲るような声が聞こえた。
酷く憤りを覚えたのは、その状況を作り出した張本人が言うべき台詞ではない点と、彼はわざと仲間を即死させずに急所をずらし射った点だ。
近寄れば今度は自分が射たれる――負傷した仲間は相手にとって囮で、近づく間抜けが恰好の的となるのだ。
見捨てる他ない。
例え酒を呑み合い盃を交わした友であろうと。
「クッソッ! バケモノガアアアッ!!」
俺は怒りの感情を大にして叫ぶ。余計な事をして体力を失ったり、狙われてもおかしくないのに、この不条理に対して訴えられずにいられなかったのだ。勝手に口から出た憎悪が込められた罵倒の言葉。だから当然――。
「ッ、アアッ!!」
肩を射抜かれる。
音だけで正確に敵の位置を把握できるのか、あるいは本当に夜であっても見えているのか。
よろめきながら、自分の失敗を責めている暇はないと思い、足を止めない。
左肩後ろから強引に引き抜いた、金属製の鏃の後を追うように血が零れ、すぐに真新しい赤が噴き出す。痛みを歯を食いしばって我慢する。血の痕を追われるより、刺さった矢を引き抜かねば不味いと当たった瞬間にわかった。
戦うという選択肢はない。
無惨に散るとわかりきっている。
家畜がユキオオカミに勝てぬのと同じだ。
あれらは見た目こそはヒトのそれと相違ないというのに……。ただ、道楽で命を弄ぶところは同じか、それ以上に悪辣に思える。
急にふっ、と全身から力が抜けた。
足がもつれ、前から雪の上へと倒れ込む。
起き上がれない。
何が起きたのか即座にわかった。
「毒……!」
矢に毒を塗っていた。
最初の襲撃で毒を用いていたのはわかっていたが、これほど強力なものとは身をもって知る事となる。終ぞ知らぬままであれば――追いかけられ怯懦に震える事もなく、一撃で殺されればどれだけ幸せだっただろうかと今ならわかる。
痛みが不意に和らいだ事に余計恐怖が募る。
神経系が麻痺し、自分の身体ではないみたいに、雪の上で冷たくなっていく。
ザッザッザと早い感覚で雪原を駆ける音が大きくなり、死の具現が近づいてくるのがわかる。
死を予期した。
覚悟なぞない。
そんなもの、受け入れ難い。
「イャアアアアッ――!!」
悲鳴。
闇の中で凍った湖の如き青の光が閃く。
仲間の女の声だとすぐにわかった。先に進んだ、俺を迷わず見捨てた方を殺したのだ。
宙を舞い、紅を散らし、雪に突き刺さる。真っ赤な噴水が辺りの雪を被った草木を汚していく。
俺が死んだと誤認し、逃げ去った獲物を狩ったのではと淡い期待を抱いたが、ざくりと女の首を獲っては拾い、投げ捨てた後、それがまやかしであると打ち砕きにやって来た。
ゆっくりと、息を殺して死んだふりをした俺の前に、怪物が立つ。
「君が最後の一匹だよ~」
優し気で美しい声、人から離れ過ぎた異質過ぎる美は時として畏怖を覚えさせる。
足で雑に転がされ、下から眺める木々は青ざめていて、仰ぐ空には星ひとつも見えない。
女の姿をした怪異は死を告げる。
もはやどうにもならないと悟り、俺は必死に懇願する。怒りなど、真の恐れを目の前にして塗り潰されてしまった。どうにか、命だけはどうにか助けて貰えないだろうか。
「ダ~メ」
女の方は蠱惑的に笑っているようで、その目は一切の遊びはない。玩弄するつもりもなく、ただ家に侵入してきた害虫を駆除するように機械的に処理しようとしているとわかる。
どうして俺たちを殺すんだ。
俺たちが何をやったのだ。
唇も震えて呂律が回らなくなりながらも、必死に叫ぶ。理解して貰えはしなくても、せめてこちらは不条理のわけを知りたかった。
「……本気で、言っているの?」
女の笑みが消えた。
ローブの被ったフードの下、凛冽なる瞳の鋭さに輝きが増したように思える。
「あなた達、似非吸血鬼……ゾンパイア・格上が何をしていたのかわからない?」
似非……、ゾン……? 何を言っているのか。
「嬢ちゃん、その通称はかえってわかりづらい」
もう一人がやってくる。
声は先ほどの皮肉屋の狙撃手の者だ。
闇夜に解ける装束を身に着け、夜でも見通せる目をもって、やっとその存在を目視できた。
「それに今更何を説明したところで変わらん。帝国で造られた吸血鬼は全て死ぬべきなんだ」
毒づく男の方を見やる女。
「……でも」
「そいつの顔をよく見てみるといい。まるで自分たちが被害者のような面をしているだろ。帝国製の吸血鬼はみんなこうだ。罪の意識なぞ持ち合わせちゃいない」
「…………」
何を言っているのかわからない。
俺たちは何もしていない。
「何人、喰った?」
「オ、オレハ……」
「おじさんに言ってみろ。何人、殺したかを」
抑揚の無い感情を殺した声であったが、その内に秘めた激情は行動に現れる。徐に出したナイフを逆手に握りさらに此方に近づき、振り下ろしてきた。
「――ヒィッ!!」
顔の真横に銀の刃が突き立てられる。磨き抜かれたそれを見て、震えあがってしまう。
狙撃手は静かに続けて言う。
「最近ここいらで人が立て続けに行方不明になってるらしいが、お前さん達の仕業だろう?」
何を言っているのだろうか。
何を勘違いしているのだろう。
人攫い? 人を食った? 何を馬鹿な。
……彼らは傭兵だろうか。付近の村かもしくは領主が雇った余所者だろう。だから、俺たちを殺人犯と勘違いしているのでは。
…………なんて傍迷惑な話だろうか!
「何? 人違い? 吸血鬼じゃないだって?」
男が一瞬眉をひそめるが、別に女と話し合うつもりも目配せをする事もせず、
「……はぁ」
溜息を吐いた。なんて態度だ。実際に死人まで出ている始末、どう責任を取ってくれる!
「……お前さん、最近自分の顔を見た事ある?」
何を言っている。
今も顔の横に突き刺さったナイフ――その鏡面に映る、酷く青ざめ、恐怖で歪んだ顔さえ見たばかりだ。要領を得ない言葉に困惑していると男は続けていった。
「……お前達、あの場で何をしていた?」
夜食の最中に襲撃を受けた洞穴の事だ。
さっき絶命したばかりの、宿屋の亭主だった男が仕入れた食材を、今殺されたばかりの酒場の看板娘が捌き――他の仲間たちと団欒と卓を囲んでいただけだ。
立ち退きを言い渡されて抵抗していたという理由で濡れ衣を着せられ追われた者、結婚前夜に婿となるはずだった男が殺された者、厚い信頼を置かれていたが借金を肩代わりしてから地獄の日々を送る事となった元教育者、貴族に言い寄られて逃げる破目となった帝国の元給仕係など――何一つ、罪も咎もないのに居場所を失った人々はここしか居場所はなかったのだ。
野菜は高値で買えず、川で魚を他人に気づかれぬように獲れるかどうか。運が悪いと木の皮を食べ、糊口をしのぐ生活が続いていた。
……そして、久方ぶりの肉にありつけた。
最初はどこから盗ってきたと非難する声も上がったが、すぐにそんな言葉より溢れる唾液と共に押し流されていった。
笑う事が減った皆に笑顔と活気が戻ったのが何よりも嬉しかった。
それなのに、それなのに……!
思い出が脳内を一気に駆け巡る。
堪らず怒りを叫ぶ。
失意と絶望、憎しみの声が爆音となって暗雲の下を駆け抜けていった。
みんな死んだ。
俺以外、みんな殺された。。
いずれ降る雪に埋もれて、冷たくなっていく。
俺は帝国の為、主君の為、民の為、軍人として生きてきたというのに。どうしてこのような仕打ちを受けねばならないのか。
あの時は新鮮な生肉を仲間と一緒に味わっていただけで何も悪い事はしていない。
「……その白く濁りながら血走った目、不自然に肥大化した筋肉。何より口から首にかけてべっとりと着いている血液――あの場に散乱した死骸。あれで何もやってないとは良く言えたもんだな」
あれは人じゃない。家畜だ。豚だきっと。
「喰わなくても生きていける癖に、食人衝動に駆られるのがお前さん達吸血鬼だ」
「おじ様?」
「あ、悪い。訂正――お前さん達、帝国製の吸血鬼だけだ」
あれはただの肉だ。死んでいる。食べ物だ。
「そもそも吸血も気合でどうにか出来るからねー。気合で大気中に溶け込むマナを掻き集めたり、食事で補ったりね。吸血はあくまで最終手段だよー」
おいしい肉。ケモノの肉だ。少しばかり腹が空いてて出来心で獲っただけ。
「わかってる。お前さん達は好きでそうなったわけじゃないんだよな。本能でそうなっちまう。呼吸するように、飯を食うように生き物の――ヒトの血肉を求めちまう」
違う。違う。違う違う違う違う違う!!
あれは飼育された動物の肉。あるいは野生の魔物の肉だ。決して、断じて、そんなはずがない。
「……ダメだ。声が届いていない」
あんなおいしい肉が、そんなはずがない。あんな酷い仕打ちをした奴が、奴らが、罪人共が、あそこまでおいしいはずがない。
新鮮でまだ暖かい首筋にかぶりつき、甘みのある汁が喉を潤す感覚は堪らなかった。飢えと渇きを満たすのは魚だけでは事足りない。思い出すだけで唾液が尽きず零れそうになる。
次はどうやって食べようか。抉った目を酒に入れ炙るのは良かった。舌の刺し身は個体差もあるが、弾力もあって噛めば噛むほど味が染みて美味であった。次は肝を塩で揉んで戴くのもいいだろう。だけどやはり肉は生に限――。
思考が止まる。
見えなくなった左目だけが痛い。
痛くて、痛くて、頭が真っ白になる。
ヒトより高まった聴覚が心音だけを捉えて煩い。
右目で捉える。何かが左目にある所に。それがナイフだとわかった時には、憎悪の絶叫よりも高くけたたましい叫びが口から吐き出される。
引き抜かれた刃にはおいしそうな赤が滴り、次は胸に落ちて行った。
痛い。痛い。何度も何度も刺される。
いずれ傷は治るとはいえ、毒で鈍ったとはいえ鋭い痛みが襲い掛かる。
痺れて拙くなった声で必死に憎悪を込めて、紡いでいく。恨み節はきちんと言葉になっていたかわからない。この悪行を肯定する運命も神々をも呪い続けてみせよう。死して塵となり空に昇り、詛呪の雨となって降り注いでみせ――。
「もう黙れ」
布を下敷きに口元を抑え、万感の想いを乗せて首を断ちにいく。ゆったりと抵抗しようとするものの、暴れる力はもうない。
血の油で汚れて切れ味が鈍った刃が、ざくりざくりと表皮から肉、繊維を断つ。
激痛から発せられる喘ぎを、無理矢理押さえつけて黙らせながら、手を止めずに言う。
負けて劣らぬ呪い節である。
「お前たちは、生きているだけで、罪なんだよ」
「ガ、ア、アアッ、アアア……――!!」
音が途絶えた。
吹雪のない夜に相応しい静寂が帰って来る。
物言わぬ亡骸の、今にも飛び出そうとした両目の瞼を指を使って閉じさせ、立ち上がる。
「俺はお前達を、お前達を生んだ帝国の連中も決して許しやしない」
帝国が生んだ復讐鬼は返り血に浴びながら独り言ちる。安寧はまだ遠いが、かつてより確実に終わりへと近づいた手応えがある。
「お疲れー」
常人なら掛ける言葉を失いそうな場面で、女は何事もなかったかのように労う。男は髪と顔を覆う布のせいで表情は見づらかったが、なんとも言えず、一仕事終えたという息と手で会釈をする。
そこへ、もう一人の男が降りてきた。
「どうだったー?」
「あの場にあった遺体は、行方不明者の特徴と合致しましたが……。どうにも行方不明者リストの数と合いませんね。何処かで遺棄したか、ただ偶然事故に巻き込まれたか。あるいは……」
女の問いかけに礼儀正しそうに答える。それを聞いた復讐鬼は少ない情報だけで考えるのは無駄だと判断したのだろう。
「どうあれ変わらないさ。確かめる手段も元に戻す術もない以上、帝国の吸血鬼は皆殺しにすべきだろう。これ以上、被害を増やさない為にも」
異議なーしと快活に答える女を余所に、復讐鬼は洞穴の調査を終えた男にふとした疑問を、一瞬躊躇いを見せつつ、意を決して投げかける。
「……神父殿。死んだ者は決して蘇らない、死んだ者が仇をとれと言った訳じゃない。何よりこいつらは殺った張本人ですらないわけだが、……復讐なぞ馬鹿げていると思うかい?」
女と似た恰好をした――旅人にしては軽装な神父と呼ばれた男は(はて)と少し顎に手を当て考える素振りをしてから、それらしい言葉を吐く。
「安易に肯定する気も、諌めるつもりもありません。復讐だけが原動力、あるいは救いとなる者も世の中にはいますから。新しい歩みを進める為に必要な試練や儀式と捉える方もいるでしょう。その先にどんな結末が待っていようと、それは当人が選んだ道です」
「…………」
「中には茶化すような真似をする輩、知ったような口を利いては復讐を止めるように言う者もいるでしょうが、結局は最後に決めるのは自分自身です。……私の場合、そこに正当性を感じられない、法や倫理観を無視した行い、それに駆られて周りが見えなくなった時は実力行使で止めるかもしれませんけどね」
「……そうかい」
「それに、あの吸血鬼たちを放っておく方が問題でしょう。周辺の村々で現に被害者がいる。特に子供の行方不明者が後を絶ちません」
「……あいわかった。変な質問して申し訳ない」
「いえいえ。それより、明け方には農夫たちも目を覚まします。騒ぎになる前に、吸血鬼化した遺体を埋めて戻りましょう」
「えー。放って置いたらまた雪が降って来て埋まんないかなー? ここに普通の人が近寄らないような場所だから、あのゾンパイアの人たちが隠れ家作ってたんだしー」
「野生の魔物が餌として死体を求食るかもしれんからな。そうなると味を占めて人を襲ったり、万が一死体の一部でも見つかると大変だ。なるべく深く掘って埋めた方がいいぜ」
暗躍しては闇を討ち、凍土の奥に葬る影たち。
ニヴァリス帝国領内で起きた誘拐事件はこれにて幕引き、とはいかない。まだ多くの者は、事件が各地にて、ほぼ同時期に起き始めているとも露にも知らぬままであったのだ。




