17 好転、そして……。
フィリーネは船乗りの娘にして、輝ける水面に浮かぶ睡蓮を思わせる淡い白の髪色を持つ優しい子であった。
愛称はフィル。人族であったが少し病弱である彼女の肌はエルフのように白く透き通っていた。
フィルは海を眺めるのが好きだったし、船乗りの船長である父が大好きであったため、船に乗って旅をするのが長年の夢であった。この世界において、女の子が船に憧れを抱くのは珍しい部類である。
専ら普段はカルマンの居酒屋兼料理屋にて、裏方の仕込みの作業と昼間の忙しい時に母の手伝いをする――そんな時間の方が、船を眺める時間より多かったのだが。
この世界では子供も働かせるのは当たり前である。生活するのが精一杯の家庭だって多いのだ。それでも両親はなるべく彼女を楽させようとしたが、フィル自身が働くことを望み、自由時間では海か船を眺める日々を過ごしていた。
そんな庶民の味である料理屋に、ニコラスは食事――ましてや酒を飲みに訪れた事などあるはずがない。
ただ何度か店の前を通りすがっただけであった。
街の誰もが子爵の子である少年を畏れていた。面倒ごとにならないように触らぬ神になんとやらを心がけている。
彼は、王都で過ごしている内に人の表情を読み取るのが上手くなっていたから、ここに移り住み始めたが、市井の人々が心からの敬う精神がないと薄々《うすうす》気づいていた。
皆、態度が変わり媚びているが本心は別にある。それに対して彼は意外にも不満に思う事はなかった。貴族たるものが民に敬われて、憎まれるのは当然であると考えているからだ。
しかし、彼女は違った、ように思えた。――わからなかったのだ。
初めて会ったのはある日の夕方であった。橙に染まった空を写す海。もう少し経てば遠くから紺色の帳が降り、星が瞬くだろう時間帯。
どうにも彼女はその日、両親と言い合いになったらしい。仕事で何かしらの失敗をしてしまったのか、はたまた船に乗せろとせがんだのかもしれないと安直に考えた。
憂いに満ちた表情を斜陽が赤く照らす。夕焼けに目が沁みただけではない理由で、涙が頬を伝っていた。
そうしてニコラスに、今まで感じた事のない感情が芽生えた。
――綺麗だ……
純粋に、そう、思った。
人族なんて粗暴ですぐ寿命を迎える種族だと見下していたのに。
呆けた顔で眺めていた後、気持ちを引き締め振り切るために、顔を横に何度か振ってから声を掛ける。
『お前、そこで何をしている』
直ぐに、声を掛けた事を後悔した。
彼女は慌てて涙を拭うが、悲嘆を押し隠そうとした彼女の双眸からは、雫が止めどなく溢れていた。
『ごめんなさい――』
そう言い残して、彼女は走って行った。
後にその日、ここから出港した、海を横断する交易船が数隻沈んだと知った。原因は巨大な海魔か龍王の一柱かはわからないが、荒波に飲まれて船員が殆ど海に投げ出されて亡くなったそうだ。
その中の一人、エルフの若い男がいた。若い男と言っても人族と比べるとかなり年上であった。
どうやら彼女は……親子より歳が離れているかもしれない男に想いを寄せていたらしい。そんな男が亡くなったから、彼女は泣いていたのだ。
衝撃を、禁じ得なかった。
エルフと人族は共生はしているが、法での縛りはないにしても、暗黙の了解で愛し合う事は禁忌とされていた。
他種族同士、恋に落ちる事がどれだけ無意味で残酷な事か知らないわけではないだろう。長命のエルフと結ばれたとしても、どんなに足掻いても人族が先に寿命を迎えるのだから。
必ず、死が二人を分かつ――。
人族の夫に先立たれた者ならば苦しみに浸る前に現実を直視する必要がある。亡くなった相手を想うだけでは腹は膨れず生きてはいけない。即ち、家計を支える働き手が失ったのだから生活を維持するために行動を起こさないといけないのだ。
これは種族が関係ない話であるが、この世界で求められている労働力は肉体的なもの――力仕事が多い。細かい作業は女性の方が向いているのだが、狩りや採取、鉱石採掘に加工などは男性がやった方が効率もいい。地域によっての差はあるが女性の働き口が少ない。そんな中どうにか稼がないとならないのだ。税収は夫の死で変動なぞしないのだから必死だ。
広大な土地を持った農家、国から船を貸し与えられた船夫の娘などは、まず再婚をしなければ税が払えず生きていけなくなる。女手一人で作物の管理や子供を養うことが出来るほど、農業も畜産も甘くはない。漁業も交易もまた然りだ。
人族の妻に先立たれたならば、永きの間心焦がれる想いを胸の内で燻ぶらせる。長寿であるゆえに、彼らが何かに費やす時間は永い。未練を断ち切れるか忘れるか、はたまた癒えぬ傷となるかは当人次第だ。
……実際、そうして心の傷を抱えたまま没する者も少なからずいたからこそ、戒めとして後世にも伝わっているほどだ。
――バカな女だ
そう言葉で断じるのは簡単であった。
ただの子供の気の迷いや憧れから転じた感情だと切り捨てることもできた。
だが、彼女は笑い続けた。翌日、働く彼女を遠目で覗いたが、笑顔で働いていた。
店の外に置いてある木製のテーブルへ料理を運ぶ。……不思議とその表情に本物か、偽者かの区別がつかなかった。
だから、彼は彼女に興味が湧いた。微笑みなのか、本物なのか。
そうして時は流れたが、少年から声を掛けることは一度もなかった。
心に生まれたものを見ないふりをし続ける。そして、彼はいつの間にか無意識で他の子供が彼女に近づかないようにすべく歪な行動をし始めた。
彼女はそれにも気づく事はなかったのが幸いか。
そんなニコラスの感情も、想いも、過ぎ去った日々も、浮かんだ泡のように消え去ろうとしている。圧倒的な悪意の波に飲まれそうになっていた。
眼前で笑う無法者に死を突き付けれている。何もしていないのに寒空の下にいるように手は震えだし、歯もガタガタと音を鳴らす。
得体の知れない“武器”から発射された球体が、矢よりも早く包帯男の肩を撃ち貫くのを見てしまった。
何より自身が感情任せで動いたせいで彼は大怪我を負って、そのせいで彼も自分も殺されてしまうと気づかされた。
何もかも失いそうになっているせいか正直な話、死を前にして後悔よりも、『どうして?』という疑問の方が勝っていた。
海賊は撤収すると言ったが、それは嘘であると表情から子供ですら読み取れる。下っ端に捕まれ曲刀の刃が向けられて、もう詰んでいた。
ここにいる者では何もできない。無力な自身が何をしようと詮無いことである。
肩からどくどくと血を流している男は呼吸も荒く、揺れている。
憲兵も自身が人質であるため行動不能。
理不尽――。
或いは不幸――。
そんなものに敗北する。悔やんでも悔やみきれない最期のはずだ。
戦わずにして、敗れ去る。最悪の終わりのはずだ。
しかし、少年は諦めてしまっていた。生きるのも、戦うことでさえも。
本当に愚かだったのは誰か。そういった間違いに気づき、そんな自分を変えたいと思ったのは全てが終わる頃であった――。
港の大通り付近にいた憲兵たちが、音に気付く。特徴的な長い耳は遠くの音を正確にキャッチしていた。海賊たちの中にもエルフは何人かいたが、彼らは笑っていたせいと油断から、それに気づくのに大いに遅れたのが敗因の一つだろうか。
近づく音はおそらく一頭、何人かは後ろをそっと見て声を失う。最早、憲兵たちはどうすることもできない。アレを身体を張って止められるものではない。何より、思いのほか近い距離まで詰められていたのだから仕方がない。
石畳を叩く小気味のいい音がどんどん大きくなっていく。
無辜の人々を襲った理不尽な悪意が、さらに理不尽な暴力に蹂躙されるのだ。
海賊たちの一部も、その異変に気付いたがもう遅い。――黒影が巨体を揺らし、躍り出てきたのだ。
嘶きを発しながら憲兵たちを軽く飛び越え、直進し、海賊たちを容赦なく蹴り砕く。
さらに真っすぐ、海賊船長がいる方向へ進んで行く。
突然の事に、船長はさながら蛇に睨まれた蛙の如く動けなかった。自身も相当大きい部類であるが、直進して襲い掛かる大きな獣を相手に、身体が固まってしまった。
その獣の背に乗っていた少年は、専門的な詳しい知識を有しているわけではないが知っていた。それが“銃”である事も、そして何発も連射が利く武器ではない事を。
故に咄嗟に向けられた銃にも怯む事もなく、前進する。多くのものが、知らないからこそできた蛮勇であると思っていたが、少年には銃声は先ほど聴こえていた。そこからさほど時間が経っていない、何よりあの恩人《包帯男》が、装填する間を与えるわけがないと信じ……予想していた。だから臆する理由にならなかった。……実際のところ、勘に賭けた蛮勇的行為なのだが。
更なるイレギュラーに思考が追いつかないうちに、馬蹄が容赦なく降り注ぐ。
軽く跳躍し、前足二本に体重を乗せたスタンピングで押し倒し、そのまま走り踏み抜かれる。巨体を持ち、丈夫な身体である鬼人族の骨ですら砕いてみせた。
ぎょっとしている憲兵と海賊たちを余所に、前進した獣は前足を持ち上げ、後ろ足だけで立った。まるで英雄から皇帝へと登りつめたナポレオン・ボナパルトの愛馬マレンゴのように、絵画にも残る美しく雄々しい姿を見せる。ただ、背に乗る人物は英雄らしい余裕は全くなかったようだが。
ニコラスを人質にしていた海賊はその様子を間近で見た恐怖のせいで武器を落とし、そそくさと逃げ去ろうとした。そんな背中を、獣が追いかける。
「掴まれ!!」
その獣にしがみつく、小さな影がニコラスへ手を伸ばす。訳も分からず手を出したニコラスの手を、影は必死に掴み取り引き上げる。大きく揺れる背中に乗せられ、目の前の後ろ姿に見覚えがあり、驚きのあまり生気が戻ったのか声を張り上げた。
「お、お前は!?」
「――舌を噛む、黙っとけ」
ニコラスを引き上げた者は、短く手早く要件を言ったせいで乱暴な口調となる。そして獣の腹を軽く両脚で蹴った。嘶きと共にそれは加速する。本当に無駄口を叩けば舌から血が出てしまいそうなほど大きく揺れ動いた。
逃げ去とうとした腰抜け海賊を踏み荒らし、この場全てを大きくかき乱す。
踏み抜いて後方へ落ち、ボロ雑巾のようになった鬼人族は倒れたまま起き上がらず、人質だった貴族の少年――ニコラスはその獣の背に無事保護されたのを確認した、憲兵たちのリーダー格の男性が叫んだ。
「今が好機!! 全兵、突撃せよ!! 暴虐の徒を許すな!!」
兵が動き出し、率いた頭は潰され、戦況は一変した。たった一つの要素が加わったことで海賊たちは瓦解し始めた。
全ては、獣とその背に乗る彼の登場によって引き起こされたのだ。
「ニール! それに、ソウタも……!!」
ボルヴェルグはその者たちの名を口にする。彼らのお陰で事態が大きく好転したが、その表情は保護者として複雑な感情が入り混じっていた。
大きな黒馬であるニール、その背中には立花颯汰とニコラスが必死にしがみついていた。ニールは主に応えるように吠え、海賊たちを踏み潰し憲兵の手助けをする。颯汰も指さして伝令し、ニールを敵へ誘導する。
それを見ていたボルヴェルグは、外套の一部を破り捨てて、傷口を圧迫するように縛って立ち上がった。
額には脂汗が浮かぶ。――だが……まだ、決着はついていない。
「――クソが……!! 舐めやがって!!」
倒れた男が起き上がる。
左手は馬に轢かれた際にひしゃげたのか、今はもう使い物にならない。身体中が血と汗でナメクジのようになっていたが、それを気にする余裕はない。
右手に直刀を握り締め、男はまさに羅刹となった。その顔に笑みはもうなかった。
「『神鬼、解ッ放』……!! 」
男の額にある二つの角から目視できるほどのエネルギーが迸る。これは体内魔力が体外魔力と反応した際に起こる現象――『魔法』と理屈は同じである。ただこれは意図してやっていない。体外魔力が減少した世界に残る僅かな量を掻き集め、角で体外魔力へ変換する際にほんの少しが体内ではなく、外へ出てしまっているのだ。
血管の一部が浮き出ているのは無理な状態で発動したからである。だが、動けるのは一瞬でいいと断じていたからこそやった無茶だ。端から、もう勝てる戦いではなくなっていると男自身が一番分かっていた。
――部下が大勢、死に絶えた。全ては馬とそれを操る小僧のせいだ。だが……!!
確かに恨みはある。しかしそれよりも、目の前で痺れるような殺気を放っている包帯男と決着を着けるべきだ、と魂が叫んだ。
赤毛は輝きを帯び、双角は魔力が迸り、元よりあった筋肉は少しだけ肥大化、牙を剥き、瞳は白く染まっていた。痛覚は遮断された獣から、猛々しい咆哮が響き渡る。
捨て身の切り札――神鬼解放。
この戦いの末、どう転ぼうと彼にとっての勝利などありはしない。
2018/05/15
あわせて修正。
気のせいか過去作の方が丁寧に書いてるような……。




