18 夕立
雨脚が強まっていく。
滴が木々の葉を打ち揺らし、地を潤していく。
そんな森の中を進む立花颯汰一行も異変に気付いたようだ。
「いない……!?」
「閣下! あの男の姿がありません!」
狼狽えだす鬼人の部下たち。対する颯汰は頭がおかしくなっていた分か、いやに冷静に映る。その理由も至極単純で、
「落ち着いてください。あの人が追いかけるのを、わかってて見逃しましたから」
わざとであるからだ。
「魔人族の疑似魔法による透明化――いや薄っすら見えていたから認識を阻害するものかな? 正直詳しくは知りませんケド、離脱してあの吸血鬼の娘を追いかけたようです」
困惑を隠しきれない二人に颯汰は説明を重ねる。
「あの男の人、戦ってる最中に隙を狙ってた節がありましたから。それに裏切り者である吸血鬼化した男を討てたのに、他の連中が何故わざと見逃したのか……、その理由も気になっていました」
確証はないので背中を狙ってきた時に対処しようと思っていたが、ようやく尻尾を出した。
「あの吸血鬼の娘もわざと独りになって誘い、釣ろうとしたみたいだから」
「一体、何故に……?」
「自分の手で決着をつけたいから? 吸血鬼の問題は吸血鬼自身で、みたいな。男の方は一人一人消すつもりで……。いや待て。勝てる見込みがなければ無意味だ。――まさか……」
降り頻る雨に打たれ続ける、砕けた戦陣。
氾濫はまだ生まれる様子はないが、ポツポツと波紋が伝わった水面から、底は濁り見えなくなるのも時間の問題だろう。
そのすぐ横にて――。
また一つ、戦いが終わった気配があった。
「手コズッタガ、ココマデダ」
「ぅぅ……」
およそ美醜に関心がなくとも、つい対比してしまう歪な姿の怪物と端整な顔立ちの少女。
少女はその怪物の太く長い腕の先に――大きな指に首を掴まれ持ち上げられていた。
酸素の供給が滞り、苦しそうに歪む顔。その美しさは健在であるようだが、すぐに摘まれる儚さゆえ、そう映るのかもしれない。
足はだらりと垂れ下がり、首ごと胸を圧迫されて逃れようと手で抵抗しても無駄であった。
「貴様ナド、モハヤ敵デハナイノダ」
怪物は心から楽し気に笑い、低い声で叫んだ。
「仲間ヲ喰ッタ。全部全部全部ゼンブゼンブ! 生キ残ルタメ!! 俺ハ死ナナイ! 最強ノ生物トナルノダ!」
その手は最初から血に汚れていたためか、一線を越えるのに何も躊躇はなかった。
「仲間ヲ――吸血鬼ヲ喰エバ喰ウホド、強クナルト気ヅイタ! 仲間タチハ危険ダト別レタガ、裏切リハ必然ダ……生キ物ヲ、人ヲ! コノ手ダケデ殺セルノハ楽シイカラナァ!!」
ぴくりと少女――ウェパルの抵抗が止んだことに正真正銘の怪物となった男は気づかない。
吸血鬼化した仲間たちの遺体を平らげ、増幅した力は本物であることは痛いほど身に染みていたウェパルは、その腹の中で蟠る感情を一切出さずにいる。
僅かに残っていた人間性――罪悪感すら食い散らかした怪物は真の狙いを、本当の目的を、メインデッシュを前に舌なめずりをして下品に笑う。
「サァ、サァ、サァ始祖吸血鬼! 我ラノ基トナッタ吸血鬼ノ始祖ヨ! ソノ血肉デ我ラヲ導キタマエェェッ!!」
実験で造られた怪物は仲間同士で喰らえば強くなるという結果が求められたものなのか、副次的なものかあるいは全く求めていない邪魔なものかは確かめる術は今はない。理性を解かしきってまで一方的に他者を暴力で捻じ伏せる悦楽を覚えたこの怪物にとって、もはや実験体にされた憤りもなく、力に溺れたいがためにオリジナルたる吸血鬼の上位種を食したいという欲に従うだけだ。
造られた贋作ですら(数を多く取り込んだためと言えるが)ここまで強大な力を得たのだ、本物の吸血鬼の血肉を喰えば、魔王など恐るるに足らず。どんどん喰らい尽して思うがままに快楽に浸ろう。首に回した太い指に力を込める。
木ぐらいならばマッチ棒のように簡単にへし折れるが、さすがは本物。早々容易には首の骨が折れない。ならばと両手で掴み掛かる。
「グヘヘ……ウビャッハッハッハ……!!」
前後で挟まれ首どころか全身の骨からミシミシと嫌な音を立てている。悶え暴れても無駄だ。叫びも締め付けられて、空気が口から抜けるか細い声しか出せない。握り潰し、果実のように血袋は破れて飛散する。甘美な汁と果肉を味わえる喜びにヨダレが止まらない。
遂にその時が来た。
初めて耳にした破裂音が心地よい。
癖になりそうだと怪物はさらに笑う。
顔にかかった新鮮な赤、手に残る肉の感触――狂気に満ちた瞳が最高の光景を幻視した。
そんな浅薄な夢は、閃光と共に潰える。
「――ンナ、……ナニィイイッ!?」
弾けたのはウェパルだった肉塊ではない。
怪物の指。己の手だ。
太ましい指がバラバラになって飛び散った。
「はぁ……。最期まで聞いてみたら、本当、心底下らない理由だったね~」
「!?」
肉の拷問機から降り立ったウェパルが吐き捨てるように言う。血の噴水、鮮血の雨を浴びながら真っ赤に染まった女は続けて言い放つ。
「てっきりもっと崇高な目的があるとか~、誰かの悪知恵によって唆されたのかと。でも、例えそうであってもどうでもいいかな~」
血も滴る髪を拭うように掻き上げた途端、一気に外気が下がったように思えた。凛冽なる凍土――北大陸の霊山から吹き荒ぶ山颪を受けたのかと思うぐらいに、鳥肌が立った。
「もう、きみに対する興味はない」
その差し伸べた右手――距離のある自分の心臓を下から優しく触れているように思えた。
冷たい汗がどっと溢れ、雨と共に流れていく。
その右腕に壊し尽くしたはずの戦輪が自転している。大きさは川の畔に投げ捨てたものたちの半分より小さく、その数は三つ。真ん中の輪だけ左向きに回転し、腕と輪の間に薄っすらと光でできた膜のようなものが波紋によって確認できる。
それが何等かの作用をもたらしたのに間違いない。そうでなければ素手で、強化された筋肉も骨も引き裂けるはずもない。
そこへ視線と意識を向けていたのは一瞬、すぐに吸い込まれるようにその目へと導かれる。
絶対者の睥睨はあまりに冷たかった。
吐いた言葉はまた凍る程に冷え切っていて、まるで前に立つのが同じ少女だとは思えない程に。
男は痛みを堪えながら、噴出し続ける血を抑えようとするが、両手の指が全て落とされたのである、どうにもならない。
声を出して叫ばないのは強がりからではない。理解できない情景と恐怖に声が出ないだけだ。
「だから――」
指輪の煌めきは、吸血鬼特有の真紅の目と同じく寒々としていて、心まで射抜かんとしていた。
心音が煩い。警鐘が鳴りやまない。
故郷の猛吹雪が想起される光景――。その場で凍り付きそうだった身体を何とか動かせたのは偏に生存本能からだろう。慄きと唾液を口から漏らしながら、男はその場から逃げ遂せようとした。
「――殺すね?」
喚き声、雨の音、水を踏み鳴らす音。
そこを通り抜ける透明な声。
男は少女の姿を目にしていない。恐怖から逃げる事だけを考えていた。見たとしても、何をしようとしているのか理解はできなかったであろう。
ウェパルの右腕で戦輪が唸り輝く。
回転が生み出す凄まじいエネルギーが彼女の手の中へ集まっていった。
腰を軽く落とし、左側腹部辺りに手を置く。
収束した光が、棒状のものを形作った。
集中の極致。彼女の中で音は途絶えた。
後はたとえ記憶がなくとも身体が勝手に動く。
地面を蹴り一気に加速し、己が間合いに入る。
吸血鬼化した男の速度すら上回る疾さにて、到達から刹那、右手で握られたエネルギーが降り抜かれる。
「――うらぁああっ!」
輝ける青のエネルギー。放出する光は実体を持たないが剣の姿を模った。激しく、そして際限なく空気に散ろうとする魔力と似た性質から、模ろうとしたと呼ぶ方が正しいやもしれない。
響きこそ女の子らしいが、その声が聞こえた瞬間、男の非常に大きな背を刃が通り抜けた。斬られたと認識した途端、痛みと血飛沫が舞う斬撃。
それだけでは終わらない。
背を斬りつけたはずの女が、眼前にいる恐怖はもはや言葉にならなかった。
紅い目と目。捕食者と被食者の関係が逆転――否、最初から変わっていなかったと思い知る間もなく、恐怖は最高潮に達した。
逆さまの女が、落ちてくる。
錯覚でもまやかしでも、幻想でもない。
斬りつけた始祖たる吸血鬼は、そのまま斬撃を浴びせると同時に跳躍、自由が利かぬはずの空中にて方向転換し、降下。横軸に回転しながら放つ斬撃――再度、閃光が迸った。
振るわれた剣と共に女は地に足を着けた。
脳天から一直線、一つの身体は二分した。
残る命は一つ。何もかもが余計に破壊され尽くした跡地にて、ウェパルはふぅ、と息を吐いた後に膝から崩れ落ちた。
「痛たたた……。ちょっと、余計に貰い過ぎたかなー……」
肩で息をするほどで、身体には無理が祟った証拠が随時に現れていた。
「……痣も、傷も、生きてる、証拠ー……」
そう言って何とか身体を起こし、引きずりながら、河原を後にした。
だが折れたテントの名残だったものの横を通り過ぎようとしたところで、力が抜ける。
さすがにもう強がりを口にする余裕はない。それを聞かれても困る事もないのだ。
重力に引かれるまま、大の字で寝転がる。仰ぐ空からは雨が止めどなく降り注いだ。
「あ゛ー。疲れたー……」
濡れるのも泥に汚れるのも最早気にならないほど、敵と自分の血で汚れていた。
認めたくはないが、想定以上に苦戦を強いられた末の辛勝である。
頑強な肉体に、高い素早さ、驚くべき破壊力――もしも戦いの心得を充分に持っていたならば、最悪の事態もあり得た。
目的やその実験とやらが行われた詳しい場所も聞きたかったのだが、前述のとおりだ。彼が本能に従ったように、彼女もまた己の中の矜持に従ったまで――吸血鬼としての誇りを踏み躙る存在に大いに怒り、赴くままに倒した。堪忍袋の緒がブチ切れて、衝動に身を任せた理性的ではない選択であるが、どの道相手もまともに答えなかったであろうから結果は変わらなかったに違いない。
――……一休みしたら、北へ行こうか
弱い他の吸血鬼たちではなく、始祖の力を用いた実験。どのような非人道的な真似をしているかは想像できないが、そこに仲間がいる可能性があるならば、行かねばなるまい。
次第に強まる雨の中でも、一向に動く気になれず、しばらく眠りにつこうとウェパルは考えた。
そして近づく足音に気づかない程に僅かな間だけ深い眠りについていた。
目を開ける。垂れ下がる暗雲と透明な滴よりも視界の大部分が、彼で収まっていた。
「……大丈夫、じゃあないな」
見た目相応の若いというよりも幼い声。肩に羽織っていた深緑のコート、防水加工など別に施されてはいないものを着ていた颯汰少年が言った。
「あれ……? こっち来ないと思ったのにー。ボクのとそこの下等生物の目的も理解してたみたいだしー」
下等生物とは、河原で真っ二つに裂かれた遺体――裏切り者の事だとはすぐに颯汰は察せた。
「何かあるとまた面倒だからな」
「心配してくれたの?」
「いや全然」
「そこは嘘でもしたって言う場面でしょー」
横になりながら苦く笑うウェパル。
「まー、楽勝だったけどさー」
「いやいや、その割にボロボロじゃないか」
「うーん、まぁー……、思ったよりは凄かったよ合体吸血鬼」
「……そうか」
周囲を確認して不自然に消えた遺体の数々から、嫌な予感が的中したと颯汰は心の中で思った。
もしもウェパルまで捕食され、その力がそのままあの男に加算されれば太刀打ちはできなかったであろう。
――ともかく、何とかなったか。……残りの吸血鬼化した敵はいないとは言っていたが信用できない。紅蓮の魔王なら調査も会敵しても問題なく対処できるだろうし、やって貰おう。…………その前に
ウェパルが自力で起き上がろうとする。泥に塗れながらも、仰向けからうつ伏せに姿勢を変え、まだ力なく震える手で身体を起こそうとする。
「あっ」
ガクリと今度は胸を地面に着けそうになるのを、何とか崩れなかったが時間の問題だ。颯汰は仕方がない、と言いつつすぐに“獣”の力を解き放ち、彼女へ手を差し伸べた。
『ほら、立てるか?』
「あ、……ありがとう」
驚くウェパル。飛んだ砂礫か擦った拳風にでもやられたのか傷ついた白い手が、黒鉄の手甲に触れる。
体力的にも精神的にも疲れ果てたのかやけにしおらしい。くちゅんと可愛らしいくしゃみ、ウェパルが恥ずかしさを誤魔化す笑みを浮かべて、颯汰の手を使って立ち上がった。
そこへ青年と呼べるほどに肉体を再度成長させた颯汰は、深紅となったコートを脱いでウェパルに着せる。
「え?」
『いや、だって寒そうだし……(それ以上に目のやり場に困るし)』
そうは思いつつ、彼女が寒そうだから咄嗟に貸したのは打算や恩を売るなどという目的はない善意であり、キモいから要らないなどと拒絶されたらどうしよう、と思春期脳がネガティブ思考までフルドライブしていた。それは杞憂で終わる。
「そっかー。じゃあ、ちょっとの間、借りようかなー」
ウェパルは颯汰の上着に袖を通す。差し出した上でやんわりでも拒否された日には、ダメージで三日以上は寝込み、その痛みは癒えず毒のように蓄積し毎晩枕を濡らす事となるが、どうやらそうならずに済んだようだ。
『おう。……歩ける?』
「よゆーよゆー……っとっと」
歩いて数歩ですぐによろけ出す。
『ダメじゃないか。……仕方ない』
覚悟を決めた。
森で足を挫いた女の子に対し、背負って出るというお決まり……は残念ながら無視だ。
颯汰には彼女を背負って森に出る事はできない。何故なら颯汰自身の見立てだと途中で魔力が切れるからだ。
だから彼が行うのは少女を歩けるだけ回復させる事。ただ、回復呪文みたいなものはない。だから差し出せるのはこの身だけだ。
颯汰はさらに上着とその中のシャツのボタンまで外し、空いた左手で襟辺りを引っ張り、開けさせてウェパルに言った。
『ほれ。こっちも魔力切れしそうだから少しだけな。森の前にいる仲間と合流すれば後は馬車で悠々と帰れる。そこまで歩け』
上着だけなら変化させたままでも保てるが、と説明していたが、ウェパルは聞こえていなかった。
「…………」
目を丸くしながら呆けた表情の少女を見て、颯汰は頭天に疑問符を浮かべつつ問う。
『吸血すれば回復するんじゃないのか。え、違うの? やめるか。やめよう?』
「……め」
少女はやっと言葉を絞り出したが雨音の方が強くて聞き取れなかった。
『?』
「そ、そういうの、だめー!」
『えっ!?』
「なに、な何なの? その上着のボタンを外して鎖骨を見せつけるのはー!? もうーだめだめ! えっち過ぎるよー!」
何がだと驚き、理由を尋ねる前にウェパルは今まで見せてこなかった側面をここでも発露した。顔を真っ赤にして、右手で自分の目を覆い隠しつつ、左手でぶんぶんと横に振り、よろよろとしながらも後退し出す。くしゃみよりも、自分の格好――白ワンピの下には何も履いてない事よりも、強く羞恥を示していた。
『……お前が何で今まで吸血したことがなかったのか、なんとなくわかった気がする』
確実に親の言いつけだけのせいではあるまい。呆れた颯汰は言葉の後に深く息を吐く。
……斯くして、ここでの戦いは真に終わりを迎えたが、まだ通過点に過ぎない。
吸血鬼騒動もこれから起こる大事の前の小事であったと、今の颯汰たちに知る由もない。
もっと巨きく、もっと悪辣な欲望が着実に育っていたのであった……――。
右手で自分の目を覆い隠しつつ(指の隙間からは覗き)




