04 狩猟
◇
重圧を感じる。
絢爛華麗、贅の極みと呼べる謁見の間。
座して君臨する男は低い声で言う。
「おもてをあげよ」
膝を突き首を垂れていた青年が、ゆっくりと顔を上げる。緊張で舌が渇き張り付きそうだった。
「そちの武勲は余の元まで届いておる。まこと素晴らしい活躍ぶりだ。叛逆者たち――…………名をなんと呼んだか」
「“ミスリルの目”です陛下」
隣にいる宰相が耳打ちする。
「あぁそうそう。件のレジスタンス組織をも壊滅させたとなると、さながらそちはこの国の『英雄』と呼んでも差し支えないの」
北のボルヴェルグとでも称するか、と冗談なのか本気なのか分からない言葉を口にする支配者。
「……勿体なき御言葉」
青年はそう言うので精一杯だった。
「さて、勲章の授与といこう」
玉座の手前の段を降りてくる。
見上げていた顔が、近くなる。
光の加減から、その顔は影で暗くなったというのに、目の輝きだけは一層強くなって感じた。
心臓の鼓動が、嫌に大きく聞こえる。
「さぁ、受け取るがいい。これからも余のため、延いては国のために、そちは存分にその力を振るえ。頼んだぞ――」
途端に景色が歪み、音が遠くなる。
夢から覚める時が来たのだ。
そうだ、これは過去の情景。
あれから幾つも歳月が過ぎ去って――
◇
バーレイの廃城の背面は自然の要塞となっている。まずそこから侵入するのは命懸けであるし、常ならば北の最も背の高い、監獄も担う監視塔にて敵は察知されるはずであった。
王都を散策した様子から活気づいて来ているが、街に甚大なダメージを抱えたままであり、代表はまだ決めかねている。おまけに王城は全壊に等しい状態のまま放置。今や監視塔は城や防壁ごと崩れ去り、本来ならば兵が監視の目を光らせるべきなのだが、かなり手薄であった。
山も山羊くらいしか登れぬ断崖絶壁であるとはいえ、警備が足りない――王都を騒がせる事件の数々で手が回らないのだろうか。
――違った! これ自体が罠か!
誘いと知らずまんまと乗せられた事に気づいた暗殺者の顔は青く血の気が引いている。暗殺に失敗したどころか、居場所まで知られたのだ。焦らない方がおかしいというものだ。
一応、麓に敷かれていた警備を掻い潜り、ピッケルとロープを上手く使って、なんとかここまで辿り着いたというのに――。撃った矢は掴まれ、敵は空を飛んで近づいてくる。
今まで相対した敵も獲物も、手強くなかった訳ではないが、ここまで常識外れではない。
――落ち着け、呼吸を乱すな。焦りは足元を掬うぞ
今すぐ叫びたい気持ちを抑えて急ぐ。
細くて脆い足場だが、駆けては跳んで下りつつ、岩山の裏側へ向かう。
登る際に使用したままの――岩山と岩山を繋ぐように張られたロープを伝って逃げるのは現実的ではない。あえてロープを切って落ちたと見せかけ、崖を真下の方へ降り、迷彩の役割を担う外套を被ってやり過ごそうと男は考えついた。
思いのほか自分の冷静さにも驚きつつ、暗殺者は実行して見せた。
上からはちょっと突き出した岩の死角となる絶妙なポジションを見つけ、張り付きながら一息ついた。
「…………」
男は元は狩人であり、暗殺任務は初めてではなかった。対象が子供の姿だと聞いて嫌な気持ちはあったが、相手は超常的な力を用いている“魔王”だとは聞き及んでいたし、実際にあの『光の柱』を見た時は本物であると頭では理解していた。だけど、実のところ直前までは躊躇いはあったのだ。
岩山を登り切った際――自分の居場所を、暗殺対象の少年に見つかるまでは。
普段であればどんな緊張も弩を構えた瞬間は平時通りの、狩猟をする時の自分になれた。
それを狂わせる蒼く輝く瞳。
吸い込まれる美しさよりも、断頭台に収められたような生命の危機を強く感じた光であった。
そして弩で射た矢は、飛距離もあって多少は勢いが衰えても普通は掴むことはできない……それなのに、少年は難なくやってのけたのだ。
改めて自分が相手する者たちの怪物性をいやというほど叩きつけられた暗殺者。
それでも彼は成さねばならなかったのだ。
大事な狩り道具であるためちゃんとロープで身体に括り付けている。それを、念のため何時でも放てるよう、手回しハンドルで弦を張る。
「……っ! きたか……」
外套で身を隠し、息を殺した。
シュルシュルと不自然に風が巻く音がする。粛清に来た少女の方だろうと男は確信していた。
一方、飛んできたリーゼロッテ……リズは風を操り、切れたロープと崖の下をすみれ色の瞳で見つめる。峡谷の狭間は昏く、光が差さない奈落と化していた。
追ってきたリズの動きが止まる。
呆然と覗き込む闇の彼方。
深淵を覗いても何も見えなかった。
足場として展開している風の音と、谷の間を奔る風の寂し気な音だけが場を埋め尽くす。
リズは背筋にひやりとしたものを感じる。追っていた暗殺者が落下したのだと彼女は思い込んでしまった。
「――……!!」
声は一切出ていないが、その動揺っぷりがアタフタしている動きでわかる。きょろきょろと周囲を見渡すも、ヒトの気配はなかった。
一方、岩場の影に隠れる男は、呼吸を止めるように口を押さえ、早く帰れと心の中で祈る。
状況は全く違うが、奇しくも似たような口の前に手を置くポーズをしている男女。年齢も境遇も、種族も性別も異なる二人であった。
深さは岩山の上からでは瞭然としていない。
リズは二つの思いに板挟みとなる。ひとつは生け捕りにして来いという命令を遂行できない可能性。もうひとつは自分が追い込んでしまったせいだという自責の念。例え大事な人の命を狙う相手とはいえ、多少は歪みがあっても、勇者以前に彼女は人間としての罪悪感は失っていない。
だから彼女はかなりテンパりながらも、男を助けなければならないと思った。
リズは足元で渦巻く風のボードを操る。
上から奈落へ追いかけては間に合わないと断じたから、上昇する。
風の流れの変化に隠れる男は勘付く。
何をする気だと小さく零した刹那、嫌な予感が全身を駆け巡る。見えないが、わかる。
――何か、しでかすつもりだ!
リズは、足にわだかまる風を蹴った。
放たれた風のボードだけが下へと突き進む。
一滴の美しさを持ちながら、高密度のエネルギーが空から零れ落ちていく。
それは凄まじい加速を見せ、最高速度にて地面へ到達する前に――解き放たれた。
魔法で生み出された新緑の風が周囲の空気を呑み込んで爆ぜる様子は“風”を与えてくれた友と呼べる龍が放つ――《神龍の息吹》を想起させた。
岩山と岩山の間で嵐が生まれた。
さすがに本家の破壊力は有してはいなかったが、激しい風が崖の下から、突き上げるように吹いたのである。
「なんだとぉおッ!」
荒れ狂う暴風は万象を逃がさない。壁にしがみつかんとする暗殺者も例外ない。
山に吹く滑降風の恐ろしさ、自然の前に人が如何に無力かは知っていた。だがこれはなんだ。
身体が宙に浮かぶ。風に揉まれて視界が二転三転激しく移り変わる。
空と雲が見えた後、岩山が小さく映ったところで、どうやら止まったらしい。
ふんわりと緩やかに時間が流れて感じたが、現実は何も変わりなく、動き出していた。
風が止み、次は男が空から落下し始める。
歯を食いしばり悲鳴を殺すのは、叫びに羞恥を覚えたわけではない。思考を止めず、生きるために足掻くため。または衝撃で舌を噛まぬためだ。
構えるのは弩。
狙うは岩山に立つ少女――ではない。
反対側の岩壁だ。
撃ち放った矢にロープを通していた。上で断ち切った杭とロープと同じもので、これを用いて隣りの山へ渡ったのである。
鏃は壁に突き刺さり、厳重に結んだロープが背嚢から弩を通り、波打つそれを掴んだ。
ピンと伸びきった命綱。
身体は重力に引かれる。
ロープしがみつきながら、壁への衝突を全身ではなく両足の裏で受け止めた。もしも革の手袋じゃなかったら手のひらが擦れて離してしまったかもしれない。
杭は上手く岩にはまり、そのまま落下死という最期はなんとか回避できた。
だがまだ安堵はできない、すぐに足場を確保して逃げねばならない。そう思った直後だ。
敵の所在を探すためではなく、気配を感じて振り返ると、すぐ後ろに、いた。
立った場所から地面を蹴って、跳んできたのだ。
身体を縮めるように、両手を交差させている。手には何も持っていないように映った。
だがその手には確かに武器が握られていた。
星に選ばれし勇者の証であり、外敵たる魔王を討ち滅ぼす刃――“星剣”。
彼女が持つのは二振りで一つの鎌剣である。
柄も刃も無色透明、不可視でありながら並みの剣よりも堅く鋭く――、
「くっ、うぉおおッ! ずぁッ……!?」
背後から剣で斬り裂かれた感触。
肉が裂かれ、背骨を達し、通り抜けていく。
驚きからか手がロープから離れる。否、指先まで力が入らなくなった。
再び、身体は背面から落下していく。
伸ばそうとした手。力なく空を掻いた。
谷底まで隠す暗闇が広がっていき、今度こそ『死』を予感させた。身体の奥の方まで達する感覚から、かなり深く斬られたに違いない。視認はできていないが出血が酷く、痛みすら感じないほど身体が麻痺し力が抜けてしまう。
捨て台詞も恨み言も、何も残せぬまま死ぬ。急速に視界はぼやけ、男の意識は遠退いて行った。
彼女は男を背中から斬り裂いたのは間違いないが、命を奪うために振るったのではない。
二振りの不可視の鎌剣。定まっていないゆえに形があらわになっていないこの星剣は、他者を傷つけず力を奪うという特性を有していた。
彼女の意思で任意で切り替えられる仕様で、剣は肉体を貫けど傷を付けず、血を流さずに済む。
その力を失った亡骸――否、まだ生きている男を、リズは再度展開した風のボードに乗せて運んでいく。斬り裂いた際に、背嚢と衣服には剣が通った跡が残り、荷物の一部が零れて谷底に呑まれていったが、上出来だ。リズは無事、颯汰の望みを叶えられた。
――『暗殺者の生け捕り』。
その第一号がこのぐったりしている彼であった。数日前から王都にて怪しい人間を何人か見つけては目星付けていたのだが、今月に入って暗殺を実行したのは彼が最初であった。
人一倍、敏感な颯汰にとっては非常に煩わしく感じていた。まずは誰が雇い主かを探り、その次は紅蓮の魔王が奨めた通り、『見せしめ』が必要となるだろう。他に潜んでいるであろう暗殺者を牽制するためにもだ。
誰もがアンバード内の貴族か、あるいは隣国だったヴェルミからの刺客と思っていた。
まさか北方から伸びる悪意に満ちた手が、こんな早くすぐ側まで来ているとは、まだ誰も思ってもみなかったのである――。