69 受け継がれし刃
響く声音。
衝撃は雷鳴の如し。
身体に受ける絶え間ない連撃よりも、心に強い重しとなって圧し掛かる。
エリゴス・グレンデル――。
姉妹の片割れの視線を受けて、下手すると颯汰は眼前の敵よりも畏縮してしまいそうであった。
共闘した際には、あまりの忙しさに大して言葉を交わす暇もなかった。互いに多くは語らず目的の為に奔走した。ゆえに誤解やすれ違い――確執を残したままである。
ボルヴェルグ・グレンデルの死――。
それに対する弁明も、この男は用意はしていない。
颯汰が彼女の父である英雄・ボルヴェルグと別れた後、ボルヴェルグがヴェルミからアンバードへ渡り、どのような経緯で迅雷の魔王に処刑されたかは知らぬままだが、共通認識として『颯汰が原因』と思い込んでいる節があった。だからエリゴスは立花颯汰を許せないし、颯汰も彼女たち姉妹に責められても文句は言えないと思っていた。
ボルヴェルグの仇である『迅雷の魔王』ですら正体不明の“なにものか”に操られていた可能性が浮上し、さらにその“黒幕”が今王都を荒らしまわっている黒泥を創り出したという疑惑――影で不穏な動きを見せ始めているが『確証』はないのである。それが正しいと頭では思っているが納得させる材料が不十分。颯汰には納得させるだけの能弁さはない。そこで喚き散らしては却って逆効果であると知っているからこそ、完全に掴めるまで口にする気はないのだ。それに「脳内に住んでいる殺したはずの亡霊も言っていた」などと口にすれば精神の異常を疑われるに違いない。……だからある意味、裏に潜む“黒幕”を見つけ出す事は真に復讐を果たせるだけではなく、潔白も証明できる。ボルヴェルグと別れてからは颯汰は一切関与していない為、罪も罰もないのだが、つい彼女たちを目の前にすると罪悪感で苛まれてしまうのであった。
「グォォオオオオッ!!」
頭と下半身がない汚泥の巨人が叫ぶ。
なだらかに広がる泥の山の中心から、上体を生やしている黒い泥の塊だ。
塊に槍の穂先が突き刺さったまま、蒼の爆炎の噴出に押され、王都を囲う防壁に激突した。その衝撃で壁にひびが入り、泥の山は壁に縫い付けられていた。
攻撃を受けた怒り、痛みによる恐怖、それに対する威嚇行動――まるで生物であるかのように振る舞い始めている。その空気を痺れさせるような怒号が、却って麻痺しかけた身体を自由にさせてくれた。
本来なら「不定形の泥」であるから、脱出は容易だったであろう。
竜の子であるシロすけが察知した異変――泥から何かに変わろうとしていたゆえに、動けなくなっていた。それに加え“獣”の生み出した蒼炎がその身を焼き、脱出を阻んでいたのだ。
巨人の右腕が壊れ、左腕は壁に押し付けられて潰れてしまったから、敵を排除するために身体の一部を弾丸にして飛ばす以外の行動が取れない。
並みの兵であればそれだけで有効であった。
現に颯汰はその泥の散弾に身動きが取れなくなっている。
巨人の腹部辺りから突出した砲身がどこまで可動するのか、追尾の早さも分からぬため、下手に防御を解くのは危険だと判断した。
それに、今まで通り『危機察知』を用いて回避――という訳にもいかない理由があった。
核となった人間に生えていた結晶物を喰らって傷を回復させても、目と頭の違和感が残ったのだ。『危機察知』の副作用なのか、目の神経と脳に生まれた違和感は正体を現し、使えば使うほどズキズキとした痛みが増していく感覚がした。
ゆえに全部の攻撃を回避に使わず、敵を攻め入れる瞬間だけ使うように心掛けていたからこそ、先の自爆を完全回避が出来なかったのである。
“魔王”であれば死ぬ事はないだろうが颯汰は今、ヒトより上のステージに、指を引っ掛けてぶら下がっている程度である。勇者や竜種には及ばないし、鍛え抜いた境地にいる猛者にも先手を取れなければ大概は負ける。他者より回復は早くても身体に傷はつくし、殺されれば死ぬような脆弱さがあった。
だがいつまでも守りに徹する訳にもいかない。
捨て身で前進するのが周りへの被害も少ない、と諦めていた時に女の声がしたのだ。
視線を右斜め上へと向ける。王都を囲う防壁の上、流れる風に銀の美しい髪を揺らして立っている。「……何故そんな場所に?」という疑問も浮かんだが、巨人の声に掻き消され、さらにその轟音の中で凛とした声音が響いた。
もう一度、エリゴスは颯汰の名を呼んだ。
己の中の複雑な感情は未だ渦巻いているが、自分が何をすべきかは理解していた。
だから託す。
家宝であり、遺産であり、形見であるそれを。
エリゴスはギリっと食いしばった歯を鳴らす。
自分の感情に流されてこれ以上、多くを犠牲にするような選択をするのはグレンデル家の、英雄たる父の娘としての恥である、だから――
「――受け取れっ!!」
彼女が右手に持った武器を、思いっきり投げた。高速で回転しながら落ちていく。空を切る重い音の後に続く、舗装された地面を割る衝撃。
颯汰のすぐ傍の二、三ムートもない位置に棍が突き刺さった。
両腕の手甲で泥の弾丸から身を守りながら、そっと右方向にめり込んでいる棒を見やる。
目視で確認した瞬間、躊躇いはなかった。
颯汰は駆け出す。
髪や顔、身体を掠る弾丸。
直撃も体表を包む黒い装甲も防いではくれた。
『……ッぅ!』
致死には遠いが当たると苦悶で声が漏れ、顔が歪むぐらいには痛みはあった。
姿勢を低くし弾丸の雨をぐるりと転がりながら避け、地を滑るスライディングで移動しながら長柄の武器をバトンやフラッグのように掴み取る。
黒の弾が追いかけてくる。
広い目抜き通りは本来ならば店が並び、積み荷を運ぶ馬車や人々が行き交い活気が溢れ、喧騒に満ちた場所であるはずなのに、今や悍ましい怪物が放つ穢らわしい弾丸のみが通るのだ。
それももう、終わらせる。
立ち上がった颯汰がエリゴスから渡された棍を地面から引き抜き、くるくると振り回す。一切の迷いもなく、初めて手にしたはずの武具を自在に操り始めるではないか。踊るように舞うように振り回しては長い棒で弾丸を弾く姿に、泥も意思があれば驚いていただろうし、武器を投げた本人も眉をひそめた。
予想外の動き――。
ただ上手いだけではない。
棍を両手で握って構える姿が同じなのだ。
エリゴスが棍術を披露したのは地下牢と迅雷の魔王の星輝晶が保管されていた塔などと、ほんの僅かな間であった。だが、間違いなくそれと同一だ。息遣いに佇まい、遠目でも瞭然とわかるのは、それが自分のものと全く同じであるからだろう。
武器の構える姿勢に身体を揺らすような独特なリズムを取っている。地下牢の番人たる巨大なオークと相対していた時のものだ。対人戦で体格が近い相手ならばどっしりと地面に足を付け、貫きにてカウンター狙いを取れるが、相手は巨大な怪物。さらに距離を詰める必要がある。いつでも重心を前後左右に動かし、身軽に動けるようにしている。
動き出す。右方向に逸れながら、前へ向かう。
移動は颯汰の俊足である。
それでも回避しきれない面制圧の乱射に対し、棍を前方で高速回転させながら盾のようにして弾丸を防ぎ、確実に距離を詰めていく。
泥を撃ち放てる秒数も無限ではない。
泥の攻撃が止んだ、その隙を逃がさない。
駆けながら右手で握った武器を後方に下げると、変化が起こる。横目でそれを見て驚きつつ、足を止めずに正面へ加速する。
両手で余る武器の黒い柄の長さが変わり、白銀の刃が覗かせる。日の光を浴び燦然と輝き放つ。
『――これは……!』
棍が、剣に変わった。
赤い宝玉が煌めく黒の剣。
見覚えのある、忘れるはずのない長剣。
魔人族の禿頭の大男、ボルヴェルグ・グレンデルが持っていたものに相違なかった。
そして、これもまた精霊が宿る武具“霊器”であるとここに来てやっと理解した。
巨人が咆哮し、右の剛腕だったものを切り離し、下ろす。身体の下に溶けて拡がる泥の水面へ堆積し、泥の波となる。盛り上がって生まれた波の端からは太い触手が生え始め、上へと屹立する。並び立った尖塔は一つ一つ建物を砕くのに充分な威力を有している鉄鎚である。
それを迫る脅威を排除――否、巨人は己を守るために振るうのである。
襲い掛かる泥の触手を一つを正面から縦に豪快に斬り落とし、駆けながらやって来る二つ目を避けて斬り払い、突き進む。
第三第四を斬り上げ、腰を軸に剣を水平に振る。ただ眺めるだけだった漢の剣技と、身体に染み込んだ精霊の剣技を混ぜて練り上げて次々と斬り崩していった。
颯汰は己が使う特異の剣術を特に意識せず、必要な状況に応じて自然と選択していた。
――すごい、なんて切れ味の剣だ
内心で感嘆する。バターを切るのに似た感覚で硬化した泥もそれに付随する石材などの建築材料すら容易に斬り落とせる。自前のチェイン・エッジですら表面をガリガリと削りながら、断ち斬っていた。この剣なら置くだけで自重で斬り裂けるやもしれない。
よもや颯汰を止められるものはいない。
距離が近くになるに連れ抵抗は激しくなるが、颯汰が振るう今の己と同じ長さの剣の速度が緩むことはない。まるで手足のように、剣が非常に馴染んでいくように思えた。
――今なら、やれる……!
泥の海を渡る。
例によって赤い雷のフィールドを形成し、泥のほんの数メルカンだけ上を浮いて駆け出した。
足元に拡がる泥の道は二十ムート弱まで及んでいる。そのすべてが命を狙うように設定されているため、当然様々な方向から攻撃がやって来る。その全てを進みながら薙ぎ払っていく。
泥の巨体に変化が起きた。
意思のないはずの怪物。その胸、首のない胴体部分に浮かび上がり形成したのは『顔』だろうか。その額(と呼ぶべきか迷う場所)に浮かぶ逆さの頭蓋骨。その眼窩にはあの薄っすらと光るセンサーの役割の球体が右片目にだけ存在していた。
生物的な反応――怒りや憎しみの他に、嘲笑うような表情にも見える『顔』。
センサの他に泥の全体が光り、明滅を始める。
自爆するつもりだったのだろう。
光の明滅は段々早くなるが、もう遅い。
極限の集中が、闇に染まる視界の中で光を導き出していた。
後は、それに沿って剣を振る――。
『天鏡流剣術――』
祝詞のように呟く颯汰の姿が、一瞬消えた。
上から目で追っていたエリゴスも、遠くで見守るように見ていた民も、正面から捉えていたはずの泥の巨人ですら見失った。
そして響く炎が巻き上がる音、鋭い金属音。
白銀の光が線となって奔る。
黒い泥と頭蓋の眼球となった部分、後ろの防壁のすら斬り裂く渾身の一撃。
『――弐之太刀・蜃燕』
弐之太刀・蜃燕――。
無影迅を極めないと到達できない神速の域。
そこから繰り出される居合斬りは真空の刃となって敵を斬り裂く――のだが、これもまた不完全なものであった。本来の蜃燕は、三六〇度どの方向に対しても予備動作なしで瞬時に移動し、対象を斬り捨てる奥義である。
無影迅で上下方向に移動するのが不得手というか出来ていない颯汰は、足りない速度と上下移動を両腕の手甲から噴出させた蒼い炎で補い、上に向かって斬り裂いたのである。
形すら紛い物であるが、その絶技の鋭さは本物であった。
消えたように見えたのは、泥のすぐ真下の死角へと潜り込んだからであり、そこから颯汰は一気に跳び上がりながら、構えた剣で下から斬り抉るように振るった。
跳んだ距離は十ムート近く、そのまま落下はしない。足元に再度、フィールドを形成し、斬り裂いた泥の残滓の中へ左手を突っ込まんとする。その一度後ろに引いた手は、瘴気が形成する顎と同化し、左腕は捕食する器官と化していた。
そうして捻じ込まれた左腕は泥の中から結晶体だけを噛み、引き抜く。そして足場を蹴って後方へ宙返りし、泥がへばり付く地面へ着いた。即座に握り潰すように手に力を入れ、黒獄の顎にて噛み砕いて、結晶体を捕食する。
身体の痛みも引き、魔力を使った時の特有の疲労感も回復していくが、頭痛と目の痛みだけは強まっていくのを感じた。
斬り裂かれた髑髏――いや、球体だけがぱっくりと真っ二つに割れ、汚らしい泥山が崩壊し始めると、内部から出現するのは被害者たちと犠牲者たちであった。
爆発することもなく粘着質の泥は完全に崩壊し、その名残を辺り一面に広げて沈黙していた。次第に泥は地面へスッと溶け始め、石畳の間へ染み込んで消えていく。
これにて、王都に蔓延る邪悪は全て討った事となった――。
『…………』
その手に持った長剣を空に掲げるようにして颯汰は眺めた。ボルヴェルグが使うから少し長い剣に見えたが、改めて自分が握ってみるとかなりの大きさである。
感慨深そうに息を吐いてから周囲を見渡す。
未だ黒煙が立ち昇り、風に熱が含まれている。どこかで火事が起きているのだろう。
「きゅう、きゅきゅきゅ?」
小さな龍の子が近くまで飛んできて、普段なら飛びついてきていたが、心配そうに鳴いている。
エリゴスもいつの間にか下まで降りて、駆け寄って来るのが見えた。
左手で頭を押さえながら、颯汰は異様に重くなった足取りで彼女の方へ向かう。向き合う事が嫌だから足取りが重いわけではない。
女の声が遠退いて聞こえ出す。
視界がぼやけ、呼吸が乱れ始める。
苦しそうな呻きを上げて、足がふらつき、崩れる。
剣を地面に突き立て、杖のようにした為、なんとか倒れずに済んだ。……と思いきや、握る手の力が入らず、するりと抜けて大の字になって倒れた。遠く天上を見ていたはずだったが、目に映る全てが黒い靄に包まれていく。
そして、消灯とともに意識は微睡みへと落ちていった。




