67 喰らい合う“双黒”
“獣”は純然たる殺意をもって敵に吼える。
『殺す』――。
その言葉を口にする者は、大抵は怒りや憎しみの感情に心が支配されている。扁桃体の暴走……衝動による攻撃行動を抑える事は難しいからこそ、人と人の争いは止まないと言えよう。
ついカッとなった。それはこの男も同じ。
そしてその激しい感情に、内に潜む“獣”が同調し、表層に出てきたのであった。
遠巻きでそれを見ていた人々は新たな災厄が現れたと恐怖を抱き始めていた。ただその中でパイモンだけは憧憬の念をその瞳に宿していたのであった。
そんな民草の反応を歯牙にもかける余裕がない怪物同士は再びぶつかり合う。
先ほどとは打って変わって荒々しい闘法で“獣”は叫び、喰らいついた。
黒泥の槍を避けながら、一本全身でしがみつき、大木を折るように真横に折ってから引きちぎる。もしも不定形の怪物でなければへし折って終わっただろうが、泥であるため全く傷にならない。
着地を狙った泥の触手が足元を通る。地を薙ぐどころかヒトの半身よりも高いそれは周囲の家や壁をメキメキと嫌な音を立てながら破壊していった。煉瓦や木片が飛び、塵煙が舞う。
それを跳んで後方に回避したせいで離れてしまい、黒泥の矢が銃弾のように飛来してくる。咄嗟に構えた左手で握った刃の欠けた剣では耐え切れず、刀身にヒビが入り、砕けては手から溢れ落ち地面へ転がっていく。
追撃を右の刃で切り払い、猛然と立ち向かう。
絶え間ない泥の猛攻を重力を無視したように家の壁を垂直で登り、二階やそれ以上の建物を渡り歩き、屋根伝えで本体を狙う。
泥は矢を曲射で放つ。三連射ではなくまさに滂沱の如く降り注いだ。矢というよりまさに弾丸である。降り頻る死へと誘う雨を“獣”はすぐに屋根から飛び、窓を破壊して中へ行くが泥の弾丸は屋根を軽々と貫き、家の隅々まで侵そうとした。
暫しの間、音が止んだ。
まさかやられたのでは、と民が騒つき始めた途端に窓と一緒に沈黙を突き破って“獣”は爪を立てた。泥の山本体へ飛び込む。左手を捻じ込み、エネルギーを強引に奪い取ろうとした。
直後、黒泥が口を開き外敵の全身を呑み込んだ。もごもごと歯もないくせに咀嚼するような動きを見せた後、異物として吐き捨てるのであった。
弧を描いて飛んで行く。滞空時間が延び、そこを突くように弾丸を今度は放射する。“獣”は左腕から出でる黒の瘴気を操り、別の家の外壁に牙を立て、建物へと身を引き寄せて回避し、石畳の上を着地する。
“獣”は唸るが、疲労はまだしていないようで、肩を上下させずに敵を睨んでいた。
殺すと勢いよく啖呵切ったまでは良かったが、核となっている人間を外から――泥の中の広大な空間に漂う一人を見つけるのは困難極まりなかったのである。それを一人一人引っ張り出すのも現実的ではないだろう。間違いなく黒泥は抵抗する。また、一人一人を殺すのも無理がある。時間も掛かる。魔光の柱やシロすけの神龍の息吹で泥ごと消し飛ばすとなれば街の方の被害が甚大となるだろう。ここまで更地にしてしまっては元も子もない。
黒泥の方も異物として生きている間に捕食行動を取らないようになってしまったから内部から倒すのも不可能であった。
蠢く黒泥の山を睨む。
時間にしては刹那の間。
――『何を迷っている』
声が聞こえて颯汰はハッとする。それは内側から響いてきたものだと認識した頃には世界は塗り潰されていた。
果てない漆黒であり、虚無でもある闇。
己の内面の反転した黒の精神世界。
足元の水面は鏡面の如く己を映していたと思った矢先、世界は赤黒く染まっていく。
それはまさに天地共に赤と黒に満ちた魔境――積み重なる遺骸の山の『地獄』と呼んで差支えがない光景であった。
そして、それを見せた者がいつの間にか正面に佇む。颯汰に『復讐は終わっていない』と言い放ち、両腕を切断した剣士らしき影。
――『殺すと宣ったうえで迷うのか』
煩い。消えろ亡霊め。いいや俺がお前を殺してやる、と颯汰が口汚く罵ったところで、その男は鼻で笑った後に告げる。
――『お前にも、視えるはずだ』
一体何を、と思った途端、酷い頭痛と激しい目の痛みに苛まれた。堪らず押さえ、喘ぐ。くらくらと揺れ動き、両手で目と頭を押さえるしかできない。視界が薄い靄に包まれていく。
――『お前は――――――。』
最後の言葉だけ、視覚と聴覚に起こるノイズのせいで聞き取れない。あまりに耐え切れない痛みに叫んだと同時に現実に引き戻された。
『――ああ、ぁあああああああああッ!!』
“獣”の地を揺るがす咆哮に非ず。それは痛みによる行き場のない感情を乗せた声。腕部の装甲も元の形に戻り、両手を開いて何かを掻き毟るように爪を立てたまま天に向かって吠えた。一頻り吠えた後、糸が切れたように颯汰は項垂れた。
そうして、空漠が残った。辺りはまだ燃えていて火の粉が舞い、物が燃焼し、爆ぜる音が響いているというのに、全てを出し切ったと言わんばかりの物寂しい空気が流れたのだ。それを見ていた者は誰もが当惑していた。
そこへ、全く介せずと黒泥が触手を伸ばす。明らかな隙を見せた外敵を駆除すべく、念入りに確実に殺そう一斉に突き刺した。瓦礫が崩れたような轟音に砂埃の煙幕が立ち込める。
堪らず、人々は目を逸らす。舞い上がる煙の中へさらに執拗に攻撃が繰り返された。槍だけではなく多方向から触手を叩きつけた。
肉片すら叩き潰し、挽肉どころか石材が敷き詰められた地面にめり込む怒涛の勢いであった。
絶望に漬る余韻――は与えられない。
突如蒼い光の線が塵煙から奔り、泥の触手を縫う。
甲高い金属音と共に触手が線に沿ってバラバラになって落ちていく。
煙の中から人影がゆっくりと歩いて出てくる。“獣”は鳴りを潜め、両頬に移動していた装甲が閉じて、立花颯汰へと戻っていた。
黒泥の必死にも映る抵抗は止まらない。
しかし颯汰は最小限の動きだけでそれを躱し、息を吸い込み、大きく吐く。己の命が狙われている場面だというのに、異様に落ち着いているように見えた。
全神経を研ぎ澄ませ、己を律する――彼の異質さはそこにある。激昂していたのに、怒りも憎悪も己の内に遍在していても、まるでスイッチを切り替えたように刹那に感情を凍らせた。
視界には黒い泥の山――否、黒い靄が制する。
元より危機に対する察知能力はずば抜けて高いが、それに加えて失いかけた一片――不安定であった力が発現する。かつては勝手に発動し、条件も機能も曖昧であった『危機察知能力』と呼んでいた視界を覆う黒い靄。それがどんどん濃くなっていき一寸先もぼやけて映る。
現実であるが、暗い海の底か月明りもない山道を進む感覚。しかし恐れはない。
悠々と呼ぶより、堂々と歩みを進める。
一歩一歩が重みがあって、目標を確実に仕留めるといった気概を充分に感じさせた。
生物ですらない泥の塊風情であってもそれを察知したのか、攻撃は止むことはない。
それでも颯汰にただ一撃も入ることはない。矢であれ槍であれ、弾丸であれ悉く通り過ぎていく。
彼が便りにしているのは殺気ではなく、闇の中に続く僅かな光。それが最悪を回避する答えだと知っていたからだ。
どこを歩めばいいか、どこに手を伸ばせば、どのタイミングで武器を振るえばいいかが直感的に理解できる。光に沿って歩み、光に合わせて身体を逸らし、通り過ぎる柱のきらりと光った場所に向かって裏拳で払うように殴った。
五、六歩ほど進み終えた途端、颯汰は急加速する。縮地の走法にて一気に距離を詰める。
泥の柱が地面から伸びる。壁となったそれを垂直に駆け上り、柱から棘が無数に生えて突き刺さろうとしたが、
『――視えた!』
五本の柱の一つに左手を叩き込む。その手には赤い雷が宿り、容赦なく泥を蹂躙していく。
相手に行動を完全に予期したように先んじて潰し、雷撃により炭化した泥の壁を登り切ったと同時に飛びかかる。
泥の山の頂に向けて、次は右腕を捻じ込んだ。
『貰った!』
腕部の刃を展開せず、泥の中に突っ込んだ右手で何かを掴み取り、引っこ抜く。
泥の山に捕まりながら、その手に握られたものを見やる。手のひらの中には林檎ぐらいの大きさの球体が握られていた。
『これを、砕けばいいんだな』
そう言いながら淡い紫色で発光する物体を握り潰す。果実の如く汁なのか血液なのかよくわからないものを零し、ぐちゃぐちゃ砕けた球体を捨てるように手から零した。破壊したお陰で黒泥から伸びた触手がもがき、うねりながら引っ込み始め、泥の山は動き出す――崩壊だ。颯汰は巻き込まれまいと大きく後方に飛んで着地し様子を窺う。そこで呼吸を整えた。
視界は晴れ渡っていたが、極限の集中により疲労感を覚えていた。
『……危機察知の派生。命を狙う敵が相手にした時、何をすべきか――何をすれば自分が助かるか示したのか……。どうやら、長くは続けられないみたいだ……』
生きるため、危機という障害を回避しようと働いてきた“力”であったが、今のは危機自体を排除して回避へと導こうとしたのではないか、と颯汰は予想した。随分と乱暴であるが真理であろう。ただ魔王相手では長続きしないだろうし集中切れで命取りになるのは明白だな、と小さく呟いた。
球体を取り出した泥の山の頭頂から蠢き、飛び出たのはヒトであった。目と口から同じ黒を垂れ流しながら意識を失っている人間だ。下半身と両肘の先は泥に埋まったまま出て来た竜魔族の男を見て、颯汰は言葉を失う。
見知った者であり、会わなければならない目的の男であるのだが、それ以上に視線はその男の胸から生えている結晶に注がれていた。
上着が開けて、加工を施していない淡い紫色の原石のようなものが不自然にも皮膚から直接生えていて、結晶の根本を中点とし放射状に血管が伸びていた。
『――……っ!』
呼吸が止まる。
血が沸き立つ。
一瞬、自己を保つのが難しく思えてきた。
黒泥の海を見て、己の内側から溢れ出す感情は“憤怒”と、他にあったのが“渇望”だったと気づく。求めていたものは紛れもなく『アレ』であると理解した。
颯汰は血走った目を細めるが、疑問を口にする前に身体が動きだす。その結晶目掛けて、左腕から瘴気の顎が喰らいついた。操るというよりも、呼吸をするようにごく自然と腕が伸びていった。
がっちりと結晶を両顎にて挟み込むと颯汰は右手で左手首を押さえ、振り向きながら引っ張る。
粘着質の泥が竜魔族の男を離さないと表皮にへばりつく。
『うぉおッ!!』
掛け声と共に一歩踏み出し、左腕を引くと黒獄の顎も連動して引っ張られ、結晶だけが泥の山から引き抜かれる。
顎はそれを咥えたまま颯汰の左腕まで戻る。球体の一回り大きい鉱物を顎は噛み砕き、霧散していった。すると泥の山が沈んでいき、周囲に広がっては動かなくなった。その黒い水面から他のヒトの姿までも確認できる。
全員がぐったりとしていて中には意識がうっすらとあるものもいた。
『誰か……、救助を!』
颯汰が人がいたであろう方向へ叫ぶ。
すると騎士や大人たちが十数名が駆けて来たのが見えた。
『このヒトたちを頼みます。それにこの男――ビムも辛うじて息があります。何が起きたか知るために絶対に死なせないでください!』
言い終わる前、そう念を押して颯汰は駆け出していた。泥の核となっていた人物はビム・インフェルート。この男に問わなければならない事は多いが、今は王都中に跋扈する怪異を全て滅ぼす方を優先すべきだから、颯汰は奔走する。ブツブツと呟き移動しながら、敵の情報を整理する。
『さっきの球体は核とは別みたいだ。弱点を破壊したから核である人間と一緒に露出した? そんなゲームみたいに弱点が表に出るか? 球体は魔力を生み出している訳ではなかった……。あれは目、センサーの類い?』
考えてながら家を登って行った。
屋根までまた登り、次の目標を定めようと辺りを見渡す。北西より吹いた凄まじい突風――煙と雲までをも払う勢いで、熱気を運んで来た。
遠くから風に乗ってきたのは炎上する街の熱と火の粉だけではない。不安がる人々声と悲鳴だ。
風が吹いた方向に顔を向ける。
上空に白い点が僅かに見えた。
遠い。何百ムートも先だろう。緑の魔法陣から激しい大気の渦が二つ、放たれている。
龍の子シロすけ以外にこの暴力的な乱気流を生み出す者を颯汰は知らない。その上空に向けて、泥の槍が何本も伸びているのも見えた。二方向からだ。つまり共の降りたシロすけが戦い、少なくとも二体を相手にしている事も察せる。
撹乱の為に別れて戦って貰っていたが、援護すべきか否かを考えていた時、別の場所から風が巻き起こる。激しい音と炎、爆風が駆け抜ける。
颯汰はその方角に向けて進路をとった。