61 精神世界
短く、強く息を吐いて飛び起きた。
心臓が飛び出しそうなほど動悸が酷い。
胸を抑えて一度周囲を見渡し、瞼を閉じる。
呼吸を整えてからゆっくり瞼を開けた。
「はぁ……。またか……」
そして、深い溜息を吐いた。
何か、酷い悪夢を見たような気がする。
いや、これもまた一種の悪夢のようなものであろうと自嘲的に渇いた笑いが浮かんだ。
天も地も何もない、一面が乳白色の世界。
何処までも際限がないような無間であり、何処までも行き詰った虚無の世界が広がる。
これは謂わば当人の心象風景の具現化――。
燃えるような執念を言葉に出しながら、凍るような狂気を抱き続けているはずなのに、彼の精神世界はほぼ二色で形成されている。
黒と白。
陰と陽。
他に無駄なものがないと言えば聞こえがいいが、必要なものさえ、なにも無い。
常人であればここまで閉じ、また無限に拡がっている魔境とはならぬであろう。
異質、異型、異形。
何も無いゆえに“精神世界”として確立されている事時点で異常なのである。
だが、その世界の主であろう少年と、ここに勝手に居ついた者たちがそれを知らぬのは、偏に他の精神世界を見知っていないだけであった。
そんな何もない場所に、家具を呼び出して(?)勝手に置いてぐうたらと寛ぐ男がいた。
精神世界の主たる立花颯汰は酷く呆れた様子で溜息を吐くしかなかった。
「よぉ兄弟。お疲れちゃん」
「誰が兄弟だ誰が」
ケラケラと笑う男。
白い世界で背景に溶け込むような白の三人掛けくらいのソファの真ん中に陣取る男――怨敵であり、殺したはずの男である“迅雷の魔王”。
敵対していた時よりかなり温厚ではあるのだが、彼の態度に苛つくのは変わりない。
勝手に脳内に住み着いた亡霊。お祓いしたい。
少し現代風に近づけた格好(特注品)。角が二本額から生えているエルフと鬼人の混血児であるが、様子が明らかに変であった。具体的に言えば何故かボロボロ。コートも脱いで乱雑に床(と呼ぶべきか水面の上と呼ぶべきか)に投げ捨ててあったのだ。
「……アンタ、なんでそんな傷だらけなんだ?」
雑談をしたい相手では断じてないが、さすがに目につく。顔は切り傷が幾つか、痣もある。服も煤だらけで所々焦げている。何かの爆発に巻き込まれたようにも思えた。
颯汰が立ち上がってから問うと、聞いてくれよと言わんばかりに顔はニヤリと変化して、楽しそうに語り出す。
「いやー。隙を見て兄弟の身体でも乗っ取ったりできねえかなあ……って試したらさぁ、警備会社もビックリのセキュリティにガチでボッコボコやられてなー、生憎このざまだ」
「何やってんだよアンタ」
さらりととんでもない事をしでかそうとしていたらしい。何故かこの空間だと然して怒りが湧かず、淡々とその悪行に呆れるだけであった。夢か現実かまだ微妙に認めたくない節があるのか、憎き怨敵の前でも異様なほど平静さを保てた。
「ありゃダメだ。王権が使えても勝てる気がしねえ。それもそうか、ここいら全部お前の領域なんだしそりゃ当然だわな。――って訳で脱落した俺は、やっぱしがない観客として兄弟の頑張りを観させてもらうぜ」
「…………」
闊達に笑う男。おそらく反省の色もない。
「それはそうと大活躍だな兄弟。コックムの脱出劇に続いては、鉄蜘蛛を罠にはめてボコしてー、村を襲ってた盗賊どもを次々とぶっ飛ばしー、亜人どももボコボコに……って暴力ばっかだな。ま、それでも刺激がないより全然良い。むしろ見てて痛快だぜ。もっとやって楽しませてくれや」
「…………(イラっとするなぁ。たぶん本当に悪気がないから、なおさら)」
コックムから脱出後、一同は北上して王都を目指していた。
これ以上何も起きずに平和で終われという颯汰の祈りは天に届きはせず、行く先々で問題が起きたのであった。
自然に起きたもの、紅蓮の魔王が巻き込んだものと本当に様々な問題が引っ切り無しふり掛かったのだ。
迅雷が手に持っていたもの――テレビのリモコンを向けた先に、古びたブラウン管テレビがあった。溶け込む白く塗られた木材の机の上に、コードもないテレビの画面に丁度、映像が流れ始める。それは第三者と呼ぶより、カメラで撮られた視点である。迅雷の魔王が今言った件に加え、次々と起こった事件が映像として何故か再生され、チャンネルを切り替えるごとに場面が変わっていった。
エリュトロン山脈が崩壊した影響で起きたのか――河川の氾濫や家畜である魔物が光の柱を見てから凶暴化して柵を破ったなどというトラブルにも見舞われた“記憶”が映し出されていた。迅雷はこれを見て外界の様子を察知しているのだろう。
「これ、明らかにプライバシーの侵害じゃあ?」
「なんでも見れるって訳じゃねえっぽいぞ? 野郎の見たくねえもんはカットされてるのは助かるが。なんか切り取られたドキュメンタリー映画ってかんじだ」
ほら見ろと迅雷が言い指をさす。切り替わった場面では、颯汰が迅雷の魔王から奪った雷撃を十全に使いこなし、鉄蜘蛛の群れに向けて放った瞬間であった。
さらには右腕部から展開された刃は敵の装甲を斬り裂くだけではなく、蛇腹のように自在に伸縮して敵の粘着弾を防いだ。自分では見る事が出来ない視点である。
「俺の術もどんどんパクッて使ってくれてるし、兄弟としては鼻が高いもんだぜ。だけどよぉ、勿体ないよなぁ。俺の固有能力、《時間停止》を使い潰してさえしていなければ、これから他の“魔王”と殺し合いするのに大分楽だったろうに」
「……俺の力量を遥かに超えていた力だ。だから無理して引き出した影響なんだろ。……もしあの時、使わなかったらディムも死んでいた。だから、これでいいんだよ」
「はーん。甘っちゃん。……まあ、負けた俺が口出しする権利はねえか。一ファンとして、また兄弟として、これからも応援はしてるぜ。……願わくば俺を操った連中をぶっ飛ばしてくれればスカッとするとだけ伝えておく」
颯汰は嘆息を吐いて、別の話題――再度確かめるべき本題に入る。
「…………。もうすぐ王都だ。あの人――ビムって人が何か知ってるんだろ?」
竜魔族にて迅雷の魔王の側近であったビム。立花颯汰がアウィス・イグネアで目を覚ました後、紅蓮の魔王と魔女グレモリーが話していたのをたまたま聞いたところによると、彼は王都バーレイで投獄されていて、未だ死んでいないようだ。
迅雷は自身が何者かに操られ、王位を簒奪してさらに兵を使って隣国を攻め入ろうという暴挙に出たと言う。迅雷の右腕である彼が怪しいと睨んだのだ。
「直接、魔王と繋がってるかはわかんねえ。だが俺の一番近くにいて最も信用できる男がアイツだ。だからこそ、何か知っているかもってあくまでも可能性の話だ。……っつってもコックムのクーデターやった奴らが銃を持っていた辺り、武器商人もやっぱきな臭いのは違いねえ。別口か、辿れば元は一本か」
「どうあれ、俺が調べるしかないか」
信頼できる情報かどうかは別として、一刻も早く元の世界に戻りたい颯汰にとっては僅かな希望でも掴みたい気持であったのだ。
それが己をこの世界に呼び出した魔王であれば、すぐさま元の世界への帰還を――。
それが人を狂わせる暴虐の徒であるならば、自身の最大の仇として滅ぼさんと――。
昏き夜の湖の如く燦然と輝いた瞳を見た魔王は、殊更楽しそうな笑みを浮かべた。
そこへ、一羽が舞い降りる。
バサバサと羽ばたく音。
深き森の奥にて潜む、夜闇の鳥の姿。
それはテレビの上に降り立った。
「――!? このヒト……」
人の姿はしていない。
鮮やかなターコイズブルーに深い瑠璃色。
美しい工芸品のような非現実的な佇まい。
それは、青い角鴟であった。
広げた羽は孔雀の如き美麗さを有し、身体の随所に散りばめた宝石のような輝きを持っていた。
彼(?)には見覚えがあった。
「お前がぶっ壊した“霊器”の中にいた奴さ」
鉄蜘蛛と遭遇した際、新たに解放された力の一端――霊器と呼ばれる精霊が封じ込められた武具に、己の力を強制的に纏わせた“魔導剣”。それは武具の強化というより、本来の霊器では出せないレベルの魔法を行使するための増幅器の役割を担った。だが並みの霊器では“獣”の侵蝕に耐え切れず、崩壊してしまうようだ。
このフクロウこそ、剣から魔法を放つ際に浮かんだ半透明で光を放っていた水の精霊である。
くりくりとした瞳に自分の姿が反射して映る。ホーホーと鳴くが、人語は話せないのだろうか。
「精霊は仙界に戻らねえと体外魔力がなくて自然消滅しちまうらしいな。カワイソーだよな~。弱っちくて――って、グギャッあ!?」
羽根の代わりに青くキラキラした粒子を零しながら飛翔し、猛禽類の鋭い爪にて迅雷の頭に飛びついた。
「痛い痛い痛い! ちょ、嘘だって! 言い過ぎた、悪かったってよぉ!」
「え、ええ~……」
颯汰困惑する。
てっきり霊器が壊れた事により解放され、仙界に移ったものだと勝手に思い込んでいた。
見た目は動物のそれ――よりは大きく、また精霊であるから、言葉は理解しているのだろう。
止めるべきか迷った時であった。
「――……!」
ハッとして何もない空を見上げる。
急に張り詰めた空気を察知したのか、揉め合っていた二人も動きを止める。
「何か……、何か、すごく嫌な予感がする……」
こういった時の第六感、虫の知らせは大概当たるものだと彼は認識している。
そう呟くと意識が静かに遠退いていく。
同時にその身体も透明になって消えていった。
夢から覚めて現実へ舞い戻ったのだ、と迅雷の魔王は知っていた。
ソファに落としたテレビのリモコンを手に取ってはチャンネルを何度か切り替えて、止めた。
「はは。天性のトラブルメーカーってのは見てて飽きねえな。おい、お前も観てみろよ。なんだかまた面倒事が起こるぜ?」
酷く人を見下すような細めた目で睨み付ける角鴟の精霊。止まり木もないのでソファの背もたれの上に止まって、流れ出す映像を見始めた。
時折ノイズが混じるが、迅雷にはそれがどこなのかはっきりとわかっていた。
己が支配した場所であり、ほんの少し前まで自分の居城まであった場所――王都バーレイ。
遠くから見えるのは都を囲う防壁。その奥に見えるのは黒煙がモクモクと立ち昇る。
何かが爆ぜ、建物が倒壊する。
その瞬間まではニヤニヤしながら画面を見ていた迅雷の魔王であったが、小規模とはいえ爆発した施設が、何なのかをすぐに理解して笑みが消えていた。
「これは……ちょっと、やべえかもな」
炎上し、崩れる。そこから這い出るのはヒトではなく漆黒の液体。
それは、生命を脅かすどす黒い泥であった。
「おうおう。急げよ兄弟。――じゃねえと、全部呑まれてオジャンだぜ」
もうその場にいない少年に向けて、静かに言う。
乾いた笑いと出した声には焦りが多大に含まれていた。