58 視線
カタカタと荷馬車が走る。
石畳を踏む蹄鉄の響きにわだちの音が混じる。
「――と、いう訳です……」
馬車の中は失意に塗れていた。
竜魔族の女領主アナと別れ、ウァラクとメイドたちによって屋敷を脱出した颯汰一行。荷馬車の幌の中にて、合流した紅蓮の魔王たちにこれまでの経緯を話し終えたところだ。
屋敷から脱出するときは幸い他の兵士と鉢合わせとはならず、迅速にここまで来れたのは偏に幸運であっただけではない。街や人を熟知しているメイドのウァラクがいた事と、作戦の中止を告げる鐘の音が途中で鳴ったからだろう。
街の中心、城の尖塔にある鐘を鳴らしに行ったメイドたちは領主が亡くなった事実を知る前に、彼女の最期の命令に従ったかたちとなった。
鐘の音で兵たちは戦闘行動を中止し、坂の多い城塞都市の集まれる広場へ移動し始めていた。
ウマが六頭、二列に並び牽引する大型馬車。なるべくして最短距離のルートを通りたいがため広い道を選びたかったが、作戦途中で撤退を命じられて不完全燃焼気味な荒くれ者どもが我が物顔で闊歩している横を通るのは危険だと判断する。出来るだけ人が少ないであろう道を選び、下って行った。この世界のウマであれば多少急な傾斜であっても容易に下って行けた。
人影が消えたのを見計らって加速し、南部廃墟郡に辿り着き、紅蓮の魔王たちと合流を果たし、この馬車でコックムから脱出しようとしていた。
「なるほど」
「……王さま。なんかわかります?」
真なる魔王が肯き、偽りの王が問う。
魔獣、それに連なる暗躍する影――。
その生み出された生物よりもなおも醜悪で、悪辣な存在が裏にいる。正体を探ろうとした途端、新たに犠牲者が生まれた。何か知っていないか、と紅蓮の魔王に颯汰は試しに聞いてみた。
「生憎、わからぬな。怪異の類いがあの黒泥と関わりがあるのか。はたまたどこぞの“魔王”が関っているのか……。だが少年、貴様はそうであると確信しているのだな」
「……確証はないですが、たぶん。魔王ですらない誰か達みたいな事を言ってましたが……。……その、なんと、なく……?」
歯切れが悪くなったのは単に己の“勘”という曖昧で、情報として不確かなものであるとわかっていたからである。
「……。その“寄生体”とやらが動き出すまで正体が見切れぬ内に、下手に残って追っていても王女やその娘まで危険な目に合わせるだけだっただろう。脱出に合流は良い判断だ。焦って敵を追い、全滅など洒落にもならん」
俯くヒルデブルク王女と横になって泣き疲れて眠るアスタルテをチラリと見て、腕を組み、並ぶ木箱の柱にもたれかかりながら魔王は言う。
宿主と共に砂となった謎の怪異は、ヒトの身体の中に潜み、どのタイミングで宿主を乗っ取り、暴れ出すかがわからない。それがどのような形で、どうやって身体に侵入するのかもだ。独りでになのか、誰かが注入するのかも不明である。
女領主の遺言に従ったのもあるが、颯汰自身も危険であると判断したからこそ脱出を計った。
「…………」
「思い込みは足元を掬われる要因ともなるが、勘というものも中々侮れない。どうする少年? これから『確実なもの』とするか? この戦力であれば敵を追う事も可能だろう」
あくまでも“予感”の域を脱していなかったが、合流して戦力を確保した今、敵を追って正誤を確かめる事もできる。非戦闘員もいるが、それを補って余るほどに過剰な戦力が集まったのだ。勇者に魔王、竜種――その気になればこの街をすぐに更地に変えられるほどに。
知略・策略の類いは圧倒的な力さえあれば、わりと簡単に捻じ伏せる事も可能なのである。
魔王は敢えて颯汰を試すように問いに、颯汰は少し迷いながら答えた。
「……いえ。このまま撤退で。アナさんも『彼らはいない』と。それにあの部屋……それまでに感じなかったけど、帰る際に何だか、言いようのない嫌な感じがしたんです。……これもまた確証ないですケド」
……――
……――
……――
応接間。脱出前――。
大声は次第に治まっていった。
少女は、母が遺した物を拾い抱き締めたまま。
颯汰はかけるべき言葉が見当たらなかった。
家族が死んだ痛みはわかるが、目の前で砂となったのだ。何を言うのが正しいのかわからない。
己の無力感を噛み締めながら、もしや自分がここに訪れなければアスタルテもいずれ目を覚まし、アナトも死ぬことはなかったのでは、と思い始めていた。『俺が、来なければ……』静かにそう呟く。絶望感が心を砕こうとした時だ。
「アスタルテさん……」
人族の少女が二人がやって来た。
ヒルデブルクも哀しみで涙を流し、リズも重苦しい表情であったが彼女へ近づいていく。
見ず知らずの相手に多少困惑したアスタルテであったが、ヒルデブルク方から彼女に抱き付いた。驚くアスタルテにさらにリズが加わる。そして、少女たちは互いに抱き締め合った。
理由なんてない。ただ心に従って寄り添った。
静かにすすり泣く二人を見て、アスタルテは母親が亡くなった事と、暖かさ――共に涙を流してくれる歳の近しい少女たちがいる事に、涙がまた出てきた。
抱擁を解き、小さき王女が言う。
「お友達に、なりましょう?」
夕焼けを閉じ込めたような――潤んだ琥珀色の瞳とアスタルテの瞳とが合う。その言葉に目を丸くして、思わずもう一人の少女の方を見てしまう。声が出せないリズは大きく肯き、二人の手を取って重ね、自分の両手で優しく挟んだ。
「…………いいの?」
「ええ。勿論!」
明るい王女の言葉に、少女はどこか救われた思いであった。母が亡くなった現実――喪ったものは何も変わらないが、それでも僅かな希望がこうして支えとなるのだ。
『………………』
その光景を見惚れるように眺め――数秒ほど遅れて、颯汰も意識を現実に戻した。
『そうだ。託された俺が、護らなきゃ……』
そう呟いた後に、決意を固めた。
闇に呑まれかけた意識が、瞭然となる。
これは《責任》ではなく、勝手に背負うと決めた問題だ。心がそう決めてしまった。
勿論、自分が元の世界に戻る術を手に入れる事が最優先ではあるが、せめて彼女を安全なところへ連れて行こう、と。それこそが今、与えられた果たさねばならぬ義務であると――魂の奥底で僅かに響く音色が告げていた。
『――……みんなで脱出だ』
だから颯汰も精神的に立ち上がり、全員で撤退すると号令を出せた。他に絶望した者も悲しみに暮れる者たちも同じく立ち上がるしかない。命が散ったこの場にいても、さらなる敵がやって来る可能性だってあるのだから。
そして、ウァラクと相談し、馬車を奪って魔王たちと合流すると決めた。全員が準備を整え、部屋から出る時である。
先にウァラクとメイドたち、戦闘要員である闇の勇者であるリズが扉から廊下へと出ていった。颯汰も殿として最後尾から守護するつもりで部屋から出ようとした時、アスタルテがひょいっと開いた扉の外から顔を出した。母親似(絵画であるが)の美しく――また見た目より幼く映る屈託のない笑みを浮かべていた。
「ぱぱ! 私にもお友達ができたよ! えへへ~」
そう嬉しそうに言うと彼女は、ヒルデブルクとリズの方へ駆けて合流して行った。
数瞬固まった颯汰は、振り返り部屋を見渡す。
他に人間はもういない。何よりここにいる仲間たちの内、男性は颯汰のみである。
『……ん? ……んんー?』
何か新たな問題が生まれた気がするが、それは後回しにすべきだと深く考えずに颯汰は部屋を後にしようとした。
『……なんだ? ……!?』
視線を感じて、また振り返る。
誰もいないはずの部屋から、奇妙な、空気を感じ取った。肌を、ねっとりと舐めとるような気色の悪い視線。幽霊の類いを実際にその目で見た事はないが、何だかそれとも違う気がする。あるのは砂とぼろぼろになった家具の残骸、血痕に死体であった。
第六感が働いたのか、あるいは気のせいか。
敵意のような鋭さではなく、悪意のようなヒトをじっくり値踏みして観察する視線を感じた。
元来、人の視線を気にして、なんとか立ち回り人間関係を拗れないようにしてきた男であるからこそ、それを感じ取れたのかもしれない。
しばし、室内を睨め付ける。何か異変や変化はないかと探るが、特に何も見当たらない。王女に呼ばれて我に帰り、颯汰は脱出を優先で応接間から去っていった。
「……………………」
砂の一つの中から蠢き、小さな砂山が静かに崩れ始めたのを気がつかぬまま――。
――……
――……
――……
凄惨な最期や悲しい別離を見たせいで少々過敏になりすぎて、ありもしないものを思い込んでしまった――視線については気のせいかも知れないと零した後に続けて颯汰は言う。
「それに、俺がその“敵”なら追って来られた時の対策もしてる。間違いなく街中や屋敷の兵たちを利用するはずでしょう。全員を自在に操れる『駒』にしなくても利用はできる。まず領主であるアナさんが最初は俺たちを狙っていて、屋敷に招き入れたらその領主が消えた。だったら俺たちがアナさんを殺したと思い込むのは当然だ。……例え事実を言ったところで当のアナさんが砂となって消えた今、敵である俺たちの言葉を信じるはずがない。それに無理矢理、力でここを掌握して捜査しても無駄だと思う。地下の通路は街の外の至る所に繋がってるらしいし、領主以外に全てを把握していないそうだ。狡猾な敵ならそれも使って悠々と逃げ遂せる、はず」
力で街を制圧し、兵を無理矢理従えて一斉捜査に乗り出そうとも、誰が敵なのか誰の中に潜んでいるのかも判別がつかない。敵も脱出時にもう逃げているかもしれないし、あの自己崩壊は時限式なのか、特定の言葉――敵の正体に繋がる何かに反応する仕組みなのか、と想像はいくらでもできても確定ではない。女領主アナトは『無駄』と断じ、さらにアスタルテを託した。そこに母が娘を案じたのも勿論あるが、果たしてそれ以外の理由もあるのではないだろうか。
考えても選んだ道は変えられない。この安全を優先とした選択が何よりも正しいと信じるしか他ないのであった。
策は力で捻じ伏せられるが、卑劣な謀略を用いる敵もまた人外であれば話が変わる。さらに相手が生死に拘りが無ければ前提も変わり、その場合は力を振るっても犠牲や損失を生む場合だってあるだろう。
その答えを聞いて紅蓮の魔王は表情こそ固いがどこか満足そうに肯いていた。
「ふむ。そこまでわかっているならばいい。その表情に反して、きちんと冷静に物事を計れるのは長所だ。誇りに思うべきな」
「……あんた、最初から無駄か、あるいは手伝うつもりもなく、わざと質問したな? おい視線を逸らすな。おい」
立ち上がり襟首を掴みたいところであるが、残念ながら今は元の子供の状態である。物理的に届かない。無感情に乾いた笑い声を出す魔王。
執拗に脛を蹴っていたが幼い少年の姿へ戻った颯汰の蹴りでは蚊に刺された程度にしか感じないのかもしれない。ハハハハと笑った後、急に纏う空気を変えて言う魔王。
「少年――。自分のせいだと己を責めるのはやめておけ。死者を悼むのと自責から悲嘆に暮れるのでは訳が違う」
「急にシリアスな空気作って説教なんて真似すんな。……言われなくてもわかって――」
だが内心、わかっていても、気分は早々簡単に変えられないものである。むしろ頭でわかっている分、心が責め立てる。
若干不貞腐れたような颯汰の言葉を遮ったのはエルフのメイドであるルチアであった。
「しっ――! 静かに……! 人が何人か外にいます……!」
口の前に人差し指を立てて黙るように指示を出す。泰然自若の魔王と眠るアスタルテ以外は慌てつつ息を潜め、何故か身を縮こませる者もいる。
そしてルチアの言う通り、外では何人かとすれ違い始めた。外の様子は見えないが、騒ぐ声――エルフたちの耳には何を言っているかハッキリ聞こえていた。
「すごい気が立ってるな……」
「うん。外の鬼人族に喧嘩を吹っ掛けようとか物騒なこと言ってる……!」
兄であるグレアムの言葉にルチアが声を抑えながら同意する。
「まずいな。見つからぬ内に逃げて正解だ」
戦えば負けはしないが、無駄に殺し合う意味がない。血で血を洗う抗争は避けるべきだ。何をするにもこの街から脱出してから考えようと颯汰たちは考えていたのだ。
しかし、試練はまだ終わらない。
悪意の次――今度は善意が牙を剥いて襲い掛かろうとしていた。