57 砂と夢
「――ガッ……カフッ……コフッ……!」
咳き込み、押さえた手のひらには赤色がべっとりと付いている。その中で活発に蛆のような虫が何匹も踊っていた。
青ざめる暇も握り潰す勇気もない。震えるその右手の甲を上にして、それらをまとめて落とす。
鮮血の浅瀬は泳ぐには足りず、次第に動きを弱め、これらもきっとすぐに息絶えるであろう。
同時に、女は己の最期を予期した。
それゆえに、伝えねばと思った。
「陛、下……! ぐ、……ぅ゛あ゛……!」
しかし、言葉が出ない。
出そうとする度に、身体の内側に腕を突っ込まれ、内臓を漁られるような激痛が奔るのだ。涙の代わりに血液が目から零れる。
「彼、らの、……名、……ぅ゛ぇッ!」
溢れ出すものが、片手では押さえられないほどの量となる。嗚咽と共に零れる鮮血を、眠る娘にかからないようにするのがやっとであった。
「すみ゛ま、せん……陛下、ど……やら、言え、……ない、です」
上を向き、強引に飲み込む。
口角から赤が滴る。
『……――ッ! 無理に、喋るな……!』
放心していた颯汰がやっと口を開けた。
「だめ゛、な……です。『――――』……え゛ぇ゛ぅぅ!!」
酷く咽せ、それどころか血を吐き出す女領主の姿を見て何が起きているか数瞬わからなかった。
――まさか、……敵の名を言おうとしたら、ああなるのか……!?
明らかに尋常じゃない。だけど、咳き込みながら必至に敵の正体を伝えようとしているのは理解できた。それは此度の黒幕であり、アナト自身をも利用した真なる『外道』たち――魔獣・黒泥……プロクス村が燃えた始まりと繋がりがあろう存在の名を口にしようとしているのだろう。
『もう、いい! それ以上言うな!』
悔恨が心の多くを占めていく。
判断を誤った。
甘く見ていた。
浅はかだった。
“敵”の正体を語ろうとした男が死んだのだ。その男の口ぶりからすると、女領主アナトも知っている者たちである。ならば彼ら同様に処理するために根回しを事前に行って然るべきであろう。
聞かなければ、その命を奪うスイッチが入ることがなかったのかもしれない。
『ファング!! 索敵できるか!? 今すぐや――』
払うように伸ばした左腕の装甲から瘴気が湧き出る。獣の顎だけを模るそれが宙に浮かび、ぐるぐると巡り、ソナーの役割を担おうとした。近くにその黒幕に通ずる者がいるかもしれない。出来る出来ないではなく、やらなければいけないと思った矢先である。
「ん……、んん……」
最悪のタイミングであったと颯汰は思う。
眠りについていた少女――小さな竜に変じて理性を失っていたが、やっと元の少女へと戻ったアスタルテが母の膝の上で目を覚ましたのだ。
ただし、そのアナトは血を流し続けている。
内側から何かが弾け、それは命を奪うには充分な殺傷力を有していた。
目を開けた少女。
ぱちくりと瞬きをしたところ、アナトは咄嗟に顔を背けた。双眸から血が滴っているのを娘に知られまいとしたのもあるが、何より彼女がこの醜い姿になったのは、アスタルテが意識を失い、病が進行し始めたくらいのときである。親としてこの変わり果てた姿を見せたくなかったというのもあったのだ。
アスタルテはまだ長い夢から覚めたばかりのぼやけた夢心地を引きずったまま上体を起こした。
「…………?」
辺りは血痕に死体――武器に傷ついた家具と悪夢の地続きである。それに気が付いた颯汰は考えるより先に一歩踏み込んだ。無意識に左手が前に出る。何をすべきか定まっていないが、何かしないとならないと思ったのだ。
心から彼女たちにこれ以上、不幸な目にあって欲しくないと願ったのである。
地獄のような景色が視界に入る前に、母は躊躇いよりも先に身体が動いていた。
「わっ……!」
アナトは娘を抱きしめる。
急に両腕で抱きしめられ、豊満な肉の谷に押さえつけられる。辛うじて呼吸はできるが、鳩が豆鉄砲を食ったような面持ちとなったアスタルテであった。しかし嫌な気分ではない。懐かしい匂いと温もりを覚え、彼女は疑問に思っていたがすぐに真実に辿り着いた。
「…………まま?」
変貌を遂げ、かつての面影なぞ殆ど残していない肥えた女を――すぐに自分の母親であるとアスタルテは認知したのである。その事実にアナトは様々な感情がこみ上げていた。
だが、母は何も答えない。
否、応えられなかった。
喉を逆流する血液のせいもある。臓腑と神経がぐちゃぐちゃにかき混ぜられた痛みもある。それらもあるが、彼女の脳裏に、今まで自分が行ってきた事――愛ゆえの暴走が過ったのであった。
アスタルテの“病”が仕組まれたものであっても、娘の心を意図せずとも追い詰めた――母として親子として向き合うのではなく、勉学にしろ一方的に「こうすべきだ」と押し付けたのはアナト自身なのであった。それで生じた目には見えない亀裂に“彼ら”は付け込んだのだ。さらに自身も弱みに付け込まれ“彼ら”の協力者となった。
そうして多くを失い、多くを奪ってきた。
生存とは即ち闘争であり、彼女はそれを元より理解していたからこそ、女ながら領主の地位を獲得できた。なので闘う事自体は今でも誇りに思っているし、競争という争奪戦で蹴落とし合う事は当然で、そこに罪悪感が湧く余地はない。
だけど、それでも何時しか――歳をとったせいか親となったからか、振り返ると後ろめたさが心のどこかに生じ、それは棘となって刺さり出す。
決して親として、真っ当な生き方をしてこれなかった自責の念が彼女を苛み、どう言葉をかけるべきかわからなくなっていた。
だから黙って抱擁する。
今起きている悲劇は避けようがなく、ただその事実を誤魔化し、先延ばしにする事くらいしかできない。それでも今だけは死臭の酷い凄惨なこの世界から護りたいと思った。
大きな身体で抱きしめた。埋めるほど肉のある巨体は暖かかったが、次第に熱を失っていく。
そこへ、黒獄の顎から無機質な音声が流れた。
『周囲:他生体反応は認められず――』
『――ッ! よく探せ! 絶対にいるはずだ! 必ず、逃がすわけにはいかない!』
顎を模る瘴気の集合体の報告に颯汰は不服であると叫ぶ。敵の正体も目的も、思想も手段も見えてこないが「必ずこの状況を“喜”と感じている邪悪がいて、どこか近くで見ていてほくそ笑んでいる。そうでなければこんな派手で残酷な真似はしない」と断じていた。
「無……、です……」
無駄であるとアナトは荒い呼吸と共に掠れた声で言い、続けた。
「『――――』……! 彼、らは……いま、せ……。陛下……いえ……ソウ、タさん……。この子、を、この子を、どうか、この、街か……逃がし、て……」
『なんだって……?』
コックムからアスタルテを連れて逃がせ。
アナトの言葉は理解できても、内容が理解が追い付かなかった。
見ると、アナトは咳き込み、血の塊を吐いた。
颯汰は青ざめた顔でエルフの女医を呼ぶ。
『エイルさん!』
「…………ダメ」
女医は咳き込んでいた男たち――全員がもう息を引き取った遺体の内一人の側にいたはずだった。
だがおかしなことに、男の姿がない。
エイルが細く白い手で何かを掬い上げていた。
武器や鎧、衣服は残っている。そこにかかる灰のように積もる――砂だろうか。塩のように白いが、判別はつかない。かかるというよりも、中から出ているとわかった時、颯汰は全て理解し、アナトの身に起き始めた変化に気づく。
他の遺体たちにも、起きていた。
肌の色さえ失い、さらさらと零れる粒になる。
魔獣や死兵が黒い粘着質な泥に還るのに対し、ヒトの形から砂へとなっていった。水分が抜けて干からびて、苦しそうな顔のまま絶命していく。
タイムラグがあるが、期限はもうすぐやって来る。彼女自身がそれを一番よくわかっていた。
身体や、顔の一部が白くなり、砂が零れ出す。
『そんな……』
彼女も残された時間がないと知る。
アナトはメイド長に最期の命令を下した。
「ウァ、ラク……! この、子と客、人を……頼みま……す 私は、……私はもう……」
「…………承知しました。奥様」
冷静沈着という言葉が似合う竜魔族の女性が、悲痛に顔を歪めた後に、元の平静さを装って返答した。それを見て鷹揚に肯いたアナトは、最期は娘に謝ろうと思った。
だけど、声がもう出ない。
掠れた呼吸音しか出ない。
血に混じった涙はまだ出るのに。
私は最後の最後まで母親らしい事を何もできずに終わってしまうの、と嘆いた時である。
「ママ、眠い、の……?」
両腕に抱えられた顔を上げる。押さえる力はもうなかった。
目と目が合う。二人とも涙を浮かべていた。
たくさん言いたい事もあった。
たくさんやりたい事もあった。
たくさん思い出を、作っていきたかった。
だけど、それが叶わないと母娘はもうわかっている。別れがもうすぐ訪れる。
だから娘は、昔の母に似た綺麗な顔をくしゃくしゃにしながらも、笑顔を作って言う。
「……じゃあ、わたしがお歌を歌ってあげるね」
アナトは暫くしてから微笑み、肯く。
死に彩られた応接間。この世の悪意と厄災を閉じ込めた縮図のようなこの空間に、唄が広がる。
それは地下に繋がる坑道で響いたものと同じ。
少女は最初こそ涙と吐く息でぎこちなかったが、すぐに美しい歌声で満たしていった。
それはきっと安息へ導ける優しいメロディー。
アナトの喉奥の血すら渇いていく。彼女はもうはっきりとした言葉を出せていなかったが、口だけは娘と一緒に動かそうとしていた。いや、確かに母娘は二人で歌っていた。
互いに泣きながら、だからこそ笑顔で別れを迎えようと試みていた。零れる熱い涙と共に離別の悲しみを流し、懸命に歌い上げていた。
それはあまりに悲しくて、やりきれなくて――でも心惹かれる美しさを有していた。
天井いっぱいに広がったメロディーは砂から魂を運び出す。それは空まで通り抜け、やがて星の海に還る。そしていつしか星は降り注ぎ、夜の中に溢れた光は、新たな命を紡ぎ出すことだろう。
「…………おやすみ、ママ」
だから「サヨナラ」ではない。
良き夢を。良き夜を。
未だ日が昇っていても関係ない。
永遠の別れ、眠りであっても、朝焼けを迎えられるように――また目が覚めて再会を果たせるように、この言葉を選んだ。
砂粒が零れる音がする。
血も乾きも、砂と消える。
愛した男から貰ったお気に入りの蒼のガウンが砂に塗れていた。
アスタルテは、それを砂の山から拾い上げる。
数瞬見つめ、胸に当てるように抱きしめると――天を仰いで、泣いた。すすり泣きから始まったそれは次第に大きくなっていく。懸命に我慢していた感情が溢れて止まらなくなってしまった。
もう止める必要も、止める者もいなかった。
そうして、狂乱の宴は、静かに幕を閉じた。
実際には、女たちの慟哭の叫びが混じっていた訳だが、それが颯汰の耳朶に届かず流れていく。
颯汰は――“獣”がまた怒り狂うと思っていた。だが、互いに、静かに失意に呑まれていくだけなのを感じていた。
無力さと気づいた過ちに感情が死んでいく。
心音だけが徐々に大きく、世界に満ちていく。
視界には絶望の黒が緩慢に覆いかけたが――、
『…………行こう。まだ他に敵がいる。……冷静に考えれば、敵の正体も数も、手段さえわからないまま戦えば、また犠牲が出るかもしれない」
目を見開いて、前を向いた。
歌を聞く前まではどんな手段を使ってでも、見えぬ“敵”を追いかけ回すつもりであったが、それでは隙が生まれると判断した。
隣国の王女に加え託された少女がいる今、危険を冒してまで追うのは愚行である。
『俺と直接戦ったアナさんが言った。屋敷からじゃなくて、コックムから逃げろって……。敵はたぶんこういった卑怯な搦め手が得意で、どこかで嘲笑ってる奴だ』
颯汰の声はあまりに平静であった。
付き合いの短い者ばかりであるから、猛々しく暴れまわった姿と同じ怪物なのかと疑ってしまうか、それかその冷血さを恐ろしく思ったかもしれない。怒りにも悲しみにも震えず、決意の熱もない。ただ無感情に続けた。だが、今この場にいる誰もが彼を冷徹な怪物と思うことはもうないだろう。彼自身は気づいていないようだが、流した滴を頬から伝って落ちるのが見えたからだ。
『だから、ここは退く。買い出し組もどこかにいるだろうから合流しよう……みんなで、脱出だ』
ショックを受け失意を抱き項垂れる者も、同情して涙を滲ませる者も、冷徹な仮面を鎧う者も、立ち止まる事は許されない。彼の号令に、生きているものたちは各々の反応に差異があれど、従う事を選んだ。