56 口封じ
醜悪で目を背けたくなる怪物は己の内側から突如出現し始める結晶に侵蝕され、変貌を遂げた。
大輪の華の如く結晶が咲き乱れるが、形を保ったのは僅かな間ですぐにバラバラと砕け始める。
残ったそれは菱形を模り、宙に浮かびながらゆっくり横に回転し始めていた。太陽の光を受けて、見る角度によって色が異なる――虹、あるいは海と空に挟まれた薄氷の月白に、オパールの如き輝きを光の屈折で生み出している謎の結晶物。
身を支配する激情を抱きつつ、頭は氷か機械のように冷たく立ち回ってみせたもう一方の怪物――“獣”は室内からそれに、手を伸ばしていた。
耐え切れず壊れた銃を既に放し、左腕から現出する黒煙のような瘴気が牙を剥かんとする。
求め焦がれる……というよりも、作業の一環のように無感情に喰らうつもりであった。
だが、それが届く前に、結晶がひび割れる。誰も触れてもいないがひとりでに亀裂が奔り、金槌で叩いたかのように粉々に砕け散ってしまった。
空を切る瘴気が霧散していき、自ら割った窓からそれを眺めて“獣”が独りごちる。
『結晶化の確認。しかし、原因不明の崩壊により情報取得が不可能。対象を変更――』
今いる応接間の扉付近で倒した両腕が異形となった兵士――いや上半身が既に寄生され、乗っ取られ死んでいた男の方を見ようと振り返る。部屋の全てが見渡せた。
血と腐臭が酷く、凄惨な現場である。
斬り落とされた蠢く腕だった肉塊たちも、奇妙な踊りを見せ、のたうっていたはずが、ぐったりと動きを止め、徐々に溶け始めていた。
肉が次々と溶けていき、その生命活動を自らの手で終わらせ……ある意味で救ったとも言える男までも血の池の上でドロドロと溶け始めていた。
魔獣などを形成した“黒泥”とは異なり、どちらかといえば白と肌色の中間のような色合いで半液状となる異形のものたち。
『――……変異体及び寄生体の自壊を確認。敵性個体から情報の取得が不可能と断定』
そう続けて語ると、割れて両頬に移動していた面頬のような装甲が元の位置に戻り、顔を覆っていた闇が晴れ――“獣”から立花颯汰へ戻った。
『…………終わった、か』
眺める景色は荒れに荒れていた。
奥に追いやられた家具一式。
何体かの遺体。
腕を失った兵士。
これもまた、地上の地獄と呼べるだろう。
奇異の視線――いや、誰もが恐怖を抱いて彼を見やる。それは仕方がないことだ、と颯汰は諦めていた。諦めてはいたが、少しやるせない気持ちとなっていた。少しばつの悪そうな、居心地の悪い空気を感じていた時である。
首に巻き付き、この騒ぎの中でさえ眠っていた幼龍が目を覚ました。白蛇の如き躯に翼をもつシロすけは眠気眼のままじりじりと移動を始め、颯汰の頭頂に登りつめると、可愛げな声で鳴いて、またゆっくり身体を預けて寝入り出した。
どうやらそれが緊張の糸を一つ断ったようで、
「ソウタ!」
少女が飛び込んでくる。ヒルデブルク王女だ。
命を脅かされる危機に瀕していた少女は、ある意味でぶれない彼女らしさ――等身大の少女のまま、一方の怪物に受け止められていた。
「わ、わたくし……わたくし、ほんとうに……」
『お、おぉぅ……。大丈夫、ぜんぶ、終わった。ダイジョウブ』
受け止めて触れた両手を即座に離し、上げる。
年下とはいえ、慣れていないのもあるが、触れてセクハラなどと謂れもない罪に問われるのが嫌だったのが大半であろう。証拠に元の顔色から困惑の色は浮かんでいたが、照れは見えない。
王女が――明るい髪色に反して、涙を浮かべているのは安堵もあったが何よりも自分が人質に取られたせいでこうなってしまったという自責の念もあったに違いない。基本的に世間知らずではあるが、人を思いやる気持ちや責任感は強い傾向にあるようだ。だけど颯汰は彼女が謝る必要はなく、此度の事は誰かの責任を問う問題ではないと思った。
見下ろす視線と抱き付き涙ぐむ上目遣いの視線がぶつかる。一瞬、自身の妹たちにするように頭を撫でかけたが――浮かび上がった幻視が現実と重なり、びくりと己の行動に驚きつつ自制した。
妹たちと顔も年齢も身長差も異なるのに不思議とダブる。やはり、元の世界へ帰りたいのだ。
そのやり取りに少し羨んでいたリズであるが、不可視の剣を光に還し、穏やかな表情で歩んでいく。もう戦いは終わったのだと。
颯汰はそっと己の左手を見やる。
正体不明の力――。
あの結晶もよくわかっていないが、どことなく見覚えがあるように思えた。これもまた“獣”が有していた知識で、自前のものではないかもしれないとも考えている。これからも、この危険な力と共の歩まねばならない。その覚悟はできていたが、知らない・わからない物事があるとやはり不安感が拭えない。当人(?)に聞いてもおそらく黙して語らないだろう。黒獄の顎に尋ねてもロクな返答が返ってこない予感がしつつ、後で聞いてみようと心に誓った。
――それよりまず、目の前の状況を整理すべきかな……
颯汰は触れないまま手で押すようなジェスチャーをしてヒルデブルクを退かすと、倒れた兵たちの下へ近づいた。
切断面が黒く焼き切られていたが、おかげで出血はせず、また異形の細胞の侵食を防いでいた。
エイルがすでに他の兵の患部をいじくり回していた。小瓶から出した――たぶん消毒液的なものをかけたのだろうが、傷口に染みるような反応は示さず意識を失ったままであった。エイルが呪詛を呟くようにブツブツと何か語りつつ、だがどこか楽し気に映る。ホラーかな?
颯汰は数瞬の間の後、見なかった事にしたくて目を逸らしたかったが――『危ないですよ(ビジュアル的な意味も含めて)』と軽く注意しながら、自身もわからないだろうけど他の兵士の切断面を観察し始めた。
彼らは気を失っていたが、呼吸の確認はできた。腕は無くなったが命は助かったのである。
あの状況ではこれが最善の策であった。もし断ち切らねば、魔獣もどきとなっていただろう。
少しの間、黒くグロテスクな断面を見ていたが、やはり素人目では特にめぼしい情報は得られなかった。
その後、瓦礫と化した家具の中からロープを見つけ出し、気を失っているが敵兵の両脚同士、手を腰と一緒にを縛っておいた。念のためだ。
怯えていたメイド二人も、先に率先して動き出したウァラクにつられて、協力して縛り始める。
全員を縛り終えたが無理に一ヵ所に集めず、一息ついた。すぐに事態は収束するだろう。屋敷内の他の兵もメイドたちが止めに駆け回り、屋敷の外にある城の鐘ももうすぐ鳴るはずだという話だ。
ウァラクたちは屋敷内の日を遮る仕掛け解いた後にすぐに襲われたと説明し、どうやら他に別動隊がいるような話はなかったらしい。
つまり、クーデターを画策したこの兵たちは、武器として普及していない銃を使い、少人数だけで制圧をしかかった。作戦としてはあまりに稚拙で、自殺行為に等しいが――それを実行するだけの切り札があの「怪物」であったのだろうか。
確かに並みの兵士であれば、初見で――銃という道具に対する知識がない場合、すぐに対応できないだろうし、「怪物」の対処も難しい。
だがこの「武器たち」を提供した黒幕と思われる存在が、クーデターを実行した彼らと目的は合致していないと思われる。理由としては怪物の暴走時の混乱。明らかに想定していない、それどころか何が起きているか理解していない風に颯汰には見えた。いつの間にか“植え付けられた”のではないだろうか。あの唾棄すべき邪悪な肉塊を知らなかったから、あっさりと降伏したのでは――少なくとも演技とは思えない。そして、裏にいる存在の正体を語ろうとしたリーダー格の男は仲間に――否、腕が勝手に銃を握り、撃ったのだ。ぐちゃぐちゃで体液か油でつやがかっていた歪な肉の集合体と変質した腕が、脳の命令を受け付けず、ひとりでに動くどころか、寄生した宿主すら操ろうとしていた。先の主犯の最期の言葉と流れを思い出しながら颯汰は思考を巡らせる。
――タイミングが良すぎる。間違いなく、口封じと見ていいと思う。端からみんな捨て駒だった……? …………“実験”?
未完成のそれを試すだけに、利用を……?
この想像が真実に触れているのか、一人では知る事はできない。また、気絶している彼らが色々と知っているかもしれないが、無理に起こす必要はなかった。もう一人、重要な証人がいる。
『――アナさん。さっきの様子だと……』
颯汰が娘を膝枕で寝かしつけている女領主に尋ねた。彼女とリーダーは口ぶりから黒幕の正体を――もしかしたら魔獣と関わりのある敵を知っているのかもしれない。
「…………えぇ。思い当たる節があります」
アナトは娘の髪を撫で、深く推し量れない様々な想いを瞳に浮かべた後、面を上げて颯汰に言う。
「……彼らのあの奇妙な手の症状が、娘――アスタルテが患った奇病と同じ、なのです……」
『どういう、事です?』
「娘は、ずっと身体中が……あのうじゃうじゃとした肉に侵され、ついにあの竜の姿になってしまいました……。私はアシュを元に戻す方法を模索していましたが、遂に自力では見つける事がかなわなかったのです――」
颯汰の当然の問いに彼女は今までの事――娘の奇病と現れた謎の集団、病を治すために彼らの協力を得ていた事を語り出した。
実験により己の身体をいじられ、美貌を失った事や、古龍の血が竜魔族に効果があるという事などを教えてくれた。それでこの巨体であんなに身軽なのか、と颯汰は空気を読んで頭には浮かんだが言葉にしなかった。
「――最初は、継竜として心臓が竜化した影響だと思っていました。竜の血……若い竜の血があれば元に戻ると……だけど、違った。最初から間違っていたのです! あの人たちは、あの人たちが最初に、アシュに何かをした! 奇病の原因はあの人たちだだったなんて! アシュを救うなんて真っ赤な嘘! マッチポンプだったんだわ! この方たちもきっと! 私と同じで、騙された……!」
自作自演で問題解決をした素振りをみせ、要求を呑ませたという。感情が昂り、彼女は本当に悔しそうに、涙を流して語った。
娘の奇病はクーデターを行った兵士同様、彼らに“植え付けられた”ものであり、治療法もなにも知っていたうえで母子を実験材料として投薬や観察などを行ったのだ。
つくづく吐き気を催すほど邪念に満ちた集団であると颯汰は思ったうえで、
――間違い、ない
そう確信した。やり口の汚らしさと人を人として見ていない外道っぷりがやはり“黒泥”を生み出したものたち、あるいは近しい存在で繋がりがあるものだと。邪悪は邪悪と群れを成す。徒党を組み悪事を働くに相場が決まっているのだ。
怒りと憎しみが再燃し始める。脳裏に浮かぶのは炎に沈みゆく村と黒き“魔獣”。
元の世界に戻る事と関わりのない事象の可能性も充分あるが、それでも蹴りを着けなければならないと心と魂が決意している。
『教えてくれ。そいつらの名を……たぶん、プロクス村に魔獣を放った奴らと同一か、少なくとも関わりのある外道だ。……決して、許さない』
「えぇ。勿論、教えましょう彼らの名は――」
アナトが答えようとした言葉が遮られる。
嫌な予感がした。
コホコホと咳をする音がひとつ、ふたつ。
「ゴホッゴホッ……!」
「ケホケホ」
縛られた兵たちが咳と共に目を覚ましたようだ。
「ゲホッゲホッ」「コホコホ……!」
怪物に腕を寄生され、片腕を失った四人が仰向けのまま咳き込んでいる。
驚く皆の顔が、次第に訝しげな顔つきとなる。
「ゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッ……」「ゴホゴホゴホゴホゴホゴホゴホゴホゴホゴホゴホゴホゴホゴホ……」「ケフケフッケフケフッケフケフッケフケフッケフケフッ……」「ヴェフヴェフッ! ヴェフヴェフッ!」
咳の四重奏が、止まらない。
縛られて自由の利かぬ身で、陸にあげられた鮮魚のようにビクビクとのたうつ。口から吐き出される苦しそうな息で、顔を隠していた布が巻かれて、口だけが出てきた。
全ての音という音を塗り潰そうとしているのではないかと思ってしまうほどの、絶え間無い咳が続いた矢先、急にそれがピタッと止まる。
そして、彼らの口からは唾液ではない、深い紅が零れ出し始めた。
「離れ、て!!」
いち早く察知したエイルが叫ぶ。
そして一斉に、男たちは天井に向けて喀血した。噴水とまではいかぬ。コップ一杯にも満たないが、充分な量だったのだろう。
その狂気にも似た地獄の続きに、感情が動くよりも先に、常人たるメイドたちが少しかかったそれが何なのか理解し発狂するよりも早く、颯汰は視線を移す。
「――……カフッ……!」
咳き込むアナト。大事な娘にかからぬように口を手で押さえた母。離した手にはべったりと鮮血が付着していた。
そっと面をあげ、視線が合う。
女領主の瞳から真っ赤な液体が滴る。
それはまるで、落涙しているようであった。