49 暖かな滴
ここは戦場と化した防衛都市コックムの南部。かつて自律型巨大兵器“鉄蜘蛛”の襲撃を受けてからこの周辺の区画は汚染され、立ち入りを禁じていた場所であった。
今もその爪痕が残り、常人がここに寄る事はなかったが、そこへ誘導された彼らは、今度はこの土地に住まう兵たちに襲撃を受けていた。
籠城先の――放置された民家の一つにて片手で読んでいた本から視線を外し、閉じて立ち上がる。神父の出で立ちをした紅蓮の魔王は静かに言ちる。
「……頃合いか」
「はぁ、はぁ、……えっ!? なんです!?」
肩を震わせて応えるはヴェルミの騎士・カロン。血の油に濡れて切れ味が落ちた自身の愛剣を鞘に納め、敵の武器を奪い取り応戦していた。さすが国境付近の警備を任された戦士であるからかハンドアックスであっても慣れた手つきで扱い、窓の外から襲い来る兵士を文字通り切り崩せていた。
エルフの兄の方であるグレアムも奮闘し、こちらは表情が見える分さらに疲れ果てて映る。他種族と比べると幾分か体力などに劣るが、そこは憲兵の意地で膝を突く事なく戦い抜いていた。
消耗具合から、このまま戦い続けるのは得策ではなく、ジリ貧であると焦りが生まれた頃であった。
そこへ響くのは叫びでも歌声でもなく――、
カァァァン――……
カァァァン――……
終わりを告げる鐘が聴こえた。
始まりを告げる咆哮と同じく街中へ響く。
それはコックム中央の尖塔から響く音色。
カーン、カーンと鳴った回数は最初二回、そして次に間隔をあけて四回鳴らされた。この街の兵たちならばその意図を理解できる。
“防衛作戦・中止――即時にその場から離脱し、事前に指定した地点へ集合せよ”
兵たちに響動めきが奔る。
何故、という疑問。
聞き間違いではないかという疑問。
常に戦いに身を置く荒くれものが多いが“領主”の命令は絶対である。
何人かが舌打ちをし、何人かがやり場のない憤り――不完全燃焼感で武器を地面へ叩きつけたりする者もいた。
「な、今度は何……?」
鐘の音に脅えを見せるはエルフの妹・ルチア。立花颯汰や紅蓮の魔王を眼前にしても、臆する事のない胆力(というよりマイペースなのだろうか)の持ち主であっても、目で見えない――よくわからないものにはさすがに敏感となっていた様子である。
「…………兵が、退いていく?」
外を覗き見て呟くカロンと、それに驚き慌てて同じ窓から外へ乗り出す勢いでグレアムが駆ける。
本があった棚に戻しながら異様なほどに落ち着いている紅蓮の魔王が、同じ窓から彼らより何歩も離れた地点から見て呟く。
「……怒りを隠さず、武器を投げ捨てている者、勝鬨の声を上げている者がいないとなると――撤退の命令と見て間違いなさそうだ」
「!? じゃ、じゃあ……!」
グレアムの言葉尻が上がる。
敵対していたこの街の者どもによって分断された今、矛を納める理由は限られている。
「すぐにわかる」
そう静かに答えた神父の出で立ちの紅蓮の魔王が窓から外へ。男二人はただ覗き見るだけだと思って一歩距離を置いたところを、彼は迷いなく踏み出し、二階から降りて行った。
「ちょっと!?」
驚く常識人たちを置いて、魔王は砂埃に塗れた地面に足をつける。
兵たちは撤退し、導かれるようにどこかへ向かっていくのが見えた。
どうするものかな、と数瞬だけ考えた様子であったがどうやら尾行するつもりらしく、大胆にもその後を追い始めたではないか。
残った者たちも混乱しながらも慌てて、籠城先から脱出をした。二階とはいえ飛び降りるのは危険である。幸いカーテンやらシーツなどの布があったため、結びロープ代わりにしてケガのリスクを回避しようと試みた。
ヴェルミの王都でメイドとして勤めてからはほぼメイド服で過ごしていたルチアは無論ここでもヒラヒラのスカート。ピシッとした眩い白いタイツの隙間から覗かせるおみ足と……――その先を覗こうとすればシスコンのグレアムが発狂して襲い掛かる危険性があるので、カロンは彼女の次である最後に降りる事にした。
常に全身を鎧うちょっと変わった戦士では、体重を支えきれず――即座に千切れて落下するものの、身体をひねり倒れ込んでは衝撃を分散させてから見事に起き上がってみせた。鎧に着いた砂を払いながら先へ進む神父を追いかけだす。
そんな彼らに気づく兵も勿論いたのだが、どうやらもう戦う気がないようであった。
――まだ昂っているが、それを自制心で押さえつけている。恐怖ではなく、純粋に領主に対して敬意を持っている、からこその統率力が伺える。我らの王もこうなって貰わねばな
そんな事を思いながら、紅蓮の魔王は後続を待つ。疲労感と高揚感、慣れぬ恐怖とで遅れて来た三人を目視で確認すると、神父服姿の魔王は歩き出す。追う視線の先に、幾つもの点――どんどん人が集まるのが見えた。
一コブの山の周りを縫うように建てられた城塞都市であるコックム。その中間地点とも言える場所には開けた広場があった。
そこには今、多勢の人間が集まり始めていたのが遠目でもわかる。
買い出し組の常識人たちはそこに合流する気が全く起きないが、神父がそそくさと先陣を切る勢いで迷いなく向かう。どうすべきかと歩きながらも考えあぐねていた時、それはやって来た。
「!? 馬車……!」
グレアムが悲鳴じみた声を上げる。
六頭もの馬が牽く――車輪も幌も大型の馬車が道を塞ぐように、また前後で分断するかの如く、猛スピードで飛び出してきたのだ。通路の右から現れ、手綱を引いて、止まる。
御者台に乗っていた竜魔族も見知らぬ者。
即座に臨戦態勢を取るのは後方にいる彼らだけであった。武器の柄に手を掛け――あるいは鈍器であるフライパンを構えたが、泰然自若の神父が左手を後ろに向けるように挙げて制止させた。
御者が降りようとする前に、
「離脱するから! 後ろへ! 早く!」
先頭の幌の隙間から、立花颯汰が顔を出してそう言った。
状況を呑み込めない大人たちであったが、前にいる紅蓮の魔王がさっと後方から下げられた階段で馬車へと乗り込みだし、またもや慌てて追って乗り込んだ。
内部は広ろく、幌をパッと前後から見た場合は輸送用の木箱が積まれていてとても中で人が休めるような空間があるとは思えないカモフラージュを施してあった。
「…………何があった」
幌の中は何んとも言えぬ、空気に重さがあった。
見知った顔に負傷者はいないが、女たちは俯き、憐憫に漬るようなもの哀しさを有していた。
あのエイルでさえ壁際のひとつの木箱の上で膝を抱えて座り込み、落ち込んでいる。
白い龍の子も活気がない。
九つか十くらいの少年の姿に戻った颯汰もどうしようもない悲嘆と憤りを噛み締めた顔でいた。
だから、紅蓮の魔王は問う。
その視線の先は一人の少女。
勇者であるリズでも、マルテの王女・ヒルデブルクでもない。見知らぬ竜魔族の少女であった。
淡い緑と髪飾りのように下向きに生えた角。
平民ではないのは間違いないが、どういう訳か――白いシルクのドレスが少し汚れ痛んでいた。
少女は横になり、畳んだ布を枕代わりにさせて眠っていた。意識は夢の中にあったが、両目尻から滴が伝い――、
「マ、マ……」
母親を呼ぶ。
それを聞き、いつもは威勢のいい明るい王女でさえ表情がどんどん陰りを見せ、曇っていく。
深く息を吐いた後に、少しの間をあけてから立花颯汰が言葉を紡ぎ出そうとした。
「……実は――」
揺れる車内、車輪が擦れる甲高い金属音が聞こえ始める。幌の中、全員が腰を下ろすと、颯汰は事の顛末を語り始めた。
……――
……――
……――
コックム周辺の廃鉱の一つ。
小さな、ほんの小さな闘争が終結した。
カンテラの仄かな光が揺れる。
『――……――…………――』
飛び掛かったアスタルテは眠りつく。ぎこちないメロディーが、過去を……人だった頃の記憶を鮮明に想起させ、彼女を安心して眠らせる。
黒づくめの戦士――敵対していはずの青年のような怪物は、異様なまでに穏やかに口にする。唄を止め、続きに呪文のように――。
仰向けになった身体の上に、自身より大きなオオトカゲのような竜もどきとなった少女がのしかかったまま眠りについたが、それで終わりではない。彼女を解放するべきだという考えは変わっていなかった。
『――ファング』
“獣”の顔の――真っ二つに割れ、それぞれが両頬へあった装甲が元の位置に戻り、彼の顔の下半分覆う。同時に顔を覆う闇のような色素が抜け、元の肌の色と目の色へ戻る。
“獣”ではなく立花颯汰に戻ったのと同時に、命令を下す。トカゲの背へと回した両手の片方から、黒い瘴気が湧き出てきた。
『余分な魔力を吸収しろ』
黒い煙状の黒獄の顎にそう命じると、瘴気は獣の顎を模り、アスタルテの背に牙を突き刺した。それは神経を麻痺させ痛みを与えず、かつ同時に付けた傷を修復して行う。
厳密にいえば血中に溶け込む魔力と呼ばれる物質を“獣”が『分解』し、エネルギーに転換しているのだが今はどうでもいい事だろう。それよかアスタルテの身に起きている事の方が重要だ。
歪な形となった肉体に変化が起きていた。
身体中の細胞が蠕動し、作り替えられていく。
鋭い牙も爪も、四つ足も、長くて重い尻尾も、飛べるかどうかすら怪しい両翼さえも――ヒトへと戻っていく。
「うそ……」
反射的に呟くのは、檻の外で痛みに苦しんでいた母親たるアナト。変貌を遂げた娘が、何をやっても――自己を捧げても元には戻す事が叶わなかったアスタルテが、完全に竜魔族の少女へと生まれ変わってゆく。
重い身を必死で起こし、格子を掴んで何とか立ち上がる。
灯りが足りず、暗いシルエットであっても、母親ならわかる。……立花颯汰の上で眠る白かったドレスを身に纏う少女が、自分を捨ててでも護りたかった遺された希望であると。
「あ、ああ……」
視界が滲む。
疲労による霞みではなく、とめどなく溢れた感情が止まる事を知らず零れだした。
熱い、いつもあるはずの熱というものを、彼女は久方ぶりに感じていた。それを拭う事もなく、ただ真っすぐ、見つめる。
木漏れ日を切り抜いたかのような、淡く鮮やかな緑色の髪が波打つ。……皮膚が堅くなっても、身体が竜へ近づいてもなお失われなかった血筋を感じさせる髪だけで、アナトは本物であり、現実であると認める事が出来た。
「……すぅ……すぅ……」
ほんの少し前まで獰猛な動物とは思えないほど、愛くるしい寝息を立てていた。
颯汰もこの世界に来ていつ以来かわからない程に穏やかな表情をしていた。
目元だけでも確かにわかるくらいに。
颯汰の脳裏に、過去の記憶――元の世界の妹が小さかった頃の映像が過る。
だいたいいつも必死で、血を流し、余裕もなく生きているうえ、どちらかと言えば素直ではない方の捻くれた部分がある一般男子高生であったため、こういった表情はかなり珍しい部類であるのだ。
背丈で言えば、今の成長した(?)と言える颯汰とあまり変わらないぐらいに少女が大きいのだが、寝顔であってもどこか幼さを感じさせる。……逆に言うと普段の姿ではとっくに見上げるほどアスタルテの背丈は大きい事が判明した。
その事実に軽くショックを覚える颯汰であったが、「オレ、平均身長、アル。他ノヤツ、身長、高スギル」と自分に言い聞かせ何とか心を落ち着かせていた。実際、そうなのだが如何せん見上げる人間の方が多すぎる。
そんなどうでもいいダメージを負いながら、寝ている子を起こさぬようにゆっくりと、落ちぬように支えながら起き上がった。
『――しかし……何故……?』
いくら竜魔族だからってヒトが竜になるものだろうか。何か、何か致命的な見落としがあるのではないかと疑問が浮かぶ。
解せない。
触れたおかげで彼女の心臓が何やら特殊であり、それが起因しているとは理解できたが……。
とにかく寝ている少女をどうにか退かし、女領主と話をしようとした瞬間――。
『む……』
がっちりホールドされる。眠る少女から手を離し、肩でも掴んで退けようとした途端に寝ている少女の方が、颯汰の背中へ手をかけだす。
『既視感』
どうしたものかと親らしき女領主の方をつい見ると、ダバダバと滝の様に涙を流している。決して喚く事もなく、ただ堪えていたものが勝手に出ているようである。
『お、漢泣き……!』
掛けるに相応しい言葉を、人生経験が足りない彼にすぐ見つける事が出来なかった。




