46 呪い
醒刻歴四三四年。陽の月。
梅雨時が終わり、今や昼間は熱い日差しが荒地に注がれる。街の外と違いこの防衛都市の道は石畳で整備がきちんとされているせいもあり、陽光を浴びた地面から熱が浮き出て、殊更蒸し暑く感じさせる季節となっていた。
竜魔の少女アスタルテの――突如にして気を失い、その夜に右手が急に異形と化した、正体不明の奇病を患ってから二ヶ月が過ぎた。
発症した次の日から、しばらくの間は回復の兆候を見せ、手も元の形へと戻りつつあったが、それも束の間、娘の病状は良くならず――それどころかどんどん悪化していった。
この二ヶ月――アナトは母として大事な娘の為に、ありとあらゆる手段を実行していた。
娘の様子や何が起こるかわからない為、外に運び出すのは難しいと判断して、当時の王都で最も優れていた医師へと早馬で使いを送り出した。
ただ待っているだけではなく領主としての仕事を熟しつつ、他国の薬草や民間療法さえも積極的に取り入れ始めた。
だが、病状は悪化の一途を辿る。
アスタルテの右腕は、控え目に言っても怪物の異型さがあった。そこだけ肌の色がくすみ、筋肉が膨れ上がり、細剣のような鋭い爪が指先からそれぞれ、不揃いに伸びている。とても十の少女のそれとは思えない形となった。
腕の次は脚のつま先から、ヒトからどんどん乖離していく。
アナトは頭を抱えた。
こんな症状終ぞ見た事も聞いた事もなかった。
「腕の急激な成長に皮膚の硬化……? なんなのよ一体……」
愛娘アスタルテの身に起きた“変化”が理解できない。窓を閉じ、厚手の高級そうなカーテンが月明りを遮る。椅子に座り、机の上のある蝋燭のか細い火の光照らしで、本の頁を捲りながら苦虫を噛み潰したような顔で独り言ちる。
「……未知の風土病。あるいは、感染症? ……“鉄蜘蛛”が汚染した大地から――……、違うわ。他に似たような症状の子がいない。それにアスタルテは『魔力中毒』で倒れた。血中の魔力濃度が急激に上昇……」
無意識に考えがアナトの口から漏れ出ている。母となってもまだ可憐とも呼べる美しい顔立ちが、少し眉間にしわが寄り険しいものとなっていた。
「――……私とあの人の子ですもの、『継竜』……心臓が竜化したと見るべき……」
通常の竜魔族は、身体に角や尻尾、羽や鱗といった特徴がどれか、あるいは全て現れるのだが、だからといって特別、身体が強靭でもなければ単独で飛行も出来やしない。
だが竜魔族の限られた者のみが発現する隔世遺伝――身体の一部が祖先たる竜種の特性を受け継いだ者を『継竜』と呼び、対応した部位が竜種に似た造り――また限りなく本物のそれに近しい能力を得る。
獣刃族の全身が猛獣に変わる能力に対すれば一見すると地味だが、超常的な力に違いない。
とはいえ翼であっても、長時間の飛行は不可能であり、腕や脚でも質量からして本物の竜種と同等とはいかないのが現実であるが。
母親であるアナトの『喉』と亡き夫の『翼』がそうであったように、娘であるアスタルテは『心臓』が選ばれたのだと――。
未だお目にかかる事もない幻獣の王。生態系の頂点に君臨すると言われている竜種の心臓は無限の魔力を生むという事は知っていたから、それで魔力中毒が起きたのだと判断した。
だからこそ解せない。
「じゃあ、あの手と脚は一体……? あんな不気味な、しかも複数個所も……?」
対応した箇所に意識を向けると、細胞が活性化して多少は形が大きくなる事もある。亡き夫も、普段は背中に隠れるほどの小さな翼が、飛ぶ時だけ大きく広がっているのを覚えている。
「他の継竜は『尻尾』なら尻尾だけ、『爪』なら指先から爪先にかけてまでなのに……。まさか、アスタルテだけ特別……?」
複数箇所の竜化――それは史上に存在した試しがない。またこの“病”についても記述がなかった。
心臓が竜化した者は過去にもいたそうだが、詳しい事が一切記述されていなかった。あえてそうしたのか、本当に何もなかったのか。……抹消されたのか。真相はわからない。
「だけどあんなの、どこも中途半端で……。まさか劣……――!」
自然にそう口走ったアナトであったが、突如として苦悶で顔を歪ませる。
痛みと共に奔るノイズ。
そして脳内に響く声――。
いつまでも消えぬ憎しみの叫びが聞こえる。
アナトは両手で頭を押さえだした。
『――忌み子め! 役立たずの劣化品! どうして私からあなたのような子が生まれた!?』
鋭いヒステリーに満ちた声に鞭の音が重なる。
ハッキリと聞こえないモノも含めて様々な罵倒が引っ切り無しに――耳朶ではなく脳が捉え出していた。幻聴だ。
「やめて……」
必死に声を出す。
囀りの如き声量で幻聴は止まらない。
『――貴族の男に嫁いで、成り上がるの!! それができなきゃあなたが生きてきた意味がないじゃない!! またドブの中に戻りたいと言うの!? 人より“劣った”ままでいいの!?』
耳元で叫ばれてるような錯覚。
酷い頭痛でアナトは頭を押さえた。
呪詛の言葉が飛び交う。
「やめ、て……!」
『――どうして、わからないの!? 泣くくらいなら、始めからきちんとやりなさいよ!! 誰よりも“劣った”このゴミ娘が!!』
「――……うぅうああッ!! ああぁあぁあッ!!」
止まぬ幻聴が幾つも重なり、心が苛む。
それを掻き消すように、発狂したアナトは暴れ机のものを両手で取っ払い始めた。
辛うじて蝋燭と燭台に当たらなかったから良いが、過去の文献や資料、ペンや紙などが床へと散乱してしまっていた。
「――違う!! あの子が劣ってる訳がない! 私たちから生まれたアスタルテは……! アスタルテは……!!」
アナトは髪をくしゃくしゃに掻きむしった。
降り出す月が雲から薄っすら見える深夜――。
彼女もまた追い詰められていたから、気づかない。大きくて美しい双眸の下に隈が出来るほどアナトも疲弊していたのだ。
だから気づけない。閉まっていたはずの扉が僅かに隙間が空いていた事と――、
「…………ママ……」
必死に抑えた悲痛の声も。
扉は静かに閉じられ、娘アスタルテが涙を流しながら寝室へと戻っていく。
アスタルテは重たい片足を引きずりながら、まだヒトとして形が残っている左手で壁に沿って、時折泣き腫らした瞳を擦り、暗闇を進んでいく。
期待に応えねばならない。
優しく育ったアスタルテは、常に母の期待に応えようと賢明に生きていた。
別に彼女は母親から虐待紛いな事を受けた訳でもなく、言葉で強制された訳ではない。気が弱く聡明であるからこそ自然と縛られてしまった――それはある意味で強制されていると同じである。
「……ゥ、ぅう……!」
必死に良い子を演じ続けてきた。
――心臓が高鳴る。
心から認めて貰いたかった。
――鼓動が速まる。
愛情が欲しかった。
――呼吸ができない。
期待に応えなければ。
――心臓が暴れ出す。
期待に応えなければ。
――張り裂けそうな痛みが奔る。
劣ったモノではあってはならない。
――痛い。
あの母と父の娘なのだから。
――痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。
まだ十の少女は言いようのない悔しさと尋常じゃない痛みに歯を食いしばる。
その端正な顔が崩れるほどに痛みが強まり――
「……ッ……!」
廊下にて胸を押さえて倒れ込んだ。
胸の内側が圧迫されるような痛み。
助けを呼ぼうに声が出せない。
呼吸ができているかすら判断つかない。
腕や、足、全身が痒くなる――当人は気づく余裕がないが身体が尋常じゃないスピードで変化し始めていたのだ。まるで獰猛なウィルスのように侵食して作り替えてゆく。
窓から差し込む月明りによって生まれた影の歪なものとなっていた――。
「!! お嬢様!?」
たまたま女主人であるアナトへ盆を持ち、茶を運んでいたメイドの一人が――物音に気づいたお陰でそれを発見したのは良いが、持っていた物を床に落とす。
ショックで手から離れて落下した陶器が割ってしまったが、深夜に悲鳴を上げなかったのは教育のたまものか。メイドは手で口を押さえた後、一目散に主人である領主の下へ駆け出した。
「奥様! お嬢様が――!」
そして、書斎にノックなしで入った。
「!?」
それについてアナトは咎める気はなく、呼びかけに対しすぐに応じた。
アナトはアスタルテがいる場所へと全力疾走で向かった。息を切らして走った先の、廊下で愕然とするしかなかった。
「アス、タル、テ……?」
暗い雲に隠れた月でもそのシルエットの歪さは浮き出ている。
そして廊下を青白い月明りが真実を照らす。
「ま、ま……」
鬼人族の成人男性よりも膨れ上がった腕らしき部位。体細胞が変質し、表皮がない――まるで臓器のような質感と色合いとなる肌。張り巡らされた血管が脈を打つのが見える。
他の継竜の者はこんなグロテスクな変化は見せない。それどころか竜にも人にも程遠い――少し先の未来にて、これに近しい急激な変化を見せる“魔王”がいたが、何も知らぬ彼女たちはただこの悲惨な現実に対して成す術もなかった。
アスタルテが気を失い、その手の変化も止まった。腕から首、胸や背まで肉が覆うように変化していた。
困惑から生まれた静寂に、ドサリと倒れ込む音が響いた。驚き隣を見たメイドが見やる。
「――……アナ様!?」
アナトの視界が瞬きをする度に霞み、次第に暗転する。大きくショックを受けたせいで彼女もまた気を失い倒れたのであった。
翌日、アスタルテは屋敷地下の一室へ幽閉される。命じた本人も連行された娘もまた顔面蒼白で重苦しい表情で俯いていた。
さすがにもう隠し通せず、信頼できる一部の竜魔族にだけ娘の事を伝えていた。屋敷はで彼女を匿う事が難しくなり、地下へ移したのだ。
それが間違いと気づくのは直ぐであった。
アナトは必死で、娘の為に最善を尽くしたつもりでいたのだ。悪意があった訳じゃないからこそすれ違いが“不幸”を生んだと呼べるだろう。
ひと月が過ぎた。
醒刻歴四三四年。星の月。
天上の星々の燦然とした煌めきを、アスタルテは見る事はかなわない。
地下の生活に不満ではあった。
手足に括りつけられた鎖は窮屈でかなわないが、今日の彼女は嬉しそうに見える。
一通り暴れたから、母親である女領主アナトがやって来て唄ってくれたのだ。
アスタルテの身体は、殆ど変わり果ててしまった。言葉を話さず、理性のタガが外れたケダモノへと堕ちていた。精神面は肉体の変化に合わせたのか、それとも元の幼い子供のありのままなのか――よく癇癪を起すようになる。
暴力を行使すれば母親が来てくれるという歪んだ愛情の供給方法を身に着けてしまっていた。
アナトは唄う。
暴れ出す娘だった怪物にせめて良き夢を、と。
暴れていた巨獣であったが、母の唄で鎮まり、寝入ったのだ。さながら伝説の怪物が聖女の唄で眠りつき退治される光景のような神々しさがあったが、当人は真逆の――深い絶望の淵にいた。
そして、彼女は何度も道を違えてしまう。
良かれと思って娘を追い詰め、救おうとしてどん詰まりの――悪意ある罠にはめられているのに気づかぬまま、どんどん淵へと堕ちていく。
人の闇に付け込む“悪魔”の手によって――。