38 二対の蛇
応接間――。
特別狭いわけでもない部屋であり、屋敷の入り口から回廊までの厳かさとは異なって、多少は落ち着ける場所であった。
長机を両脇から挟む形で長椅子が二つ。正面の玉座のような専用の大きな椅子一つに座るのがこの地を治める女領主アナである。
そこへ近づくは若すぎる、彼女と比べて小さすぎる少年――立花颯汰。
飛んでいた小さな龍の子は、若干不貞腐れたような面持ちのまま長椅子の端に腰掛けた颯汰の頭の上という定位置にゆっくりと降りた。
息をのむ女領主。
今や妙に空気が張り詰めていたように思えた。
「何か、話があるんじゃないですか?」
心の奥に絡みついては突き刺さる言の葉。
一瞬、王の威光とも呼べる目に見えぬ圧に屈しかけた女領主アナであったが肥えてもこの地を治める支配者――グッと堪えて笑顔で立ち向かう。
背筋を這う蛇の妖しき蒼い光を見てなお怖気付かない辺り、この女も肝が座っている。
「オホホホ……えぇえぇ。新しくアンバードを――さらにヴェルミまで勝ち取って支配すると宣言した王がどのような御方か、一目会いたいと思いまして……生憎、私はこの地を離れる事はできませんから」
それは太りすぎて動けないだけなのではと脳裏に浮かんだがさすがに全員口にしなかった。
「……まだ王都に戻っていないので“王”じゃありませんけど。それに戻っても、実際に国王だなんて誰も認めてはくれないと思いますよ?」
周りだけではなく旧アンバード領内の民からは既に次期国王である“魔王”と認識されているが、実のところは違う。
ちなみにその原因は九割方『紅蓮の魔王』のベルンでの宣誓と後の根回しだろう。颯汰が深い眠りについている間にあれやこれやと好き勝手にやっていたらしく、颯汰本人もその全貌を掴めていないまま今に至る。
「あぁ、選王侯を担う各騎士団の騎士団長たちですか。そうですね。アンバードでは彼らに認められ、初めて王が誕生します――前王の場合も魔王としての“力”を示したからアンバードを治めていた、……治めていたとは到底言えませんがね。ウフフフ。それに王家の血筋が途絶えた今――貴方様以外に王に相応しい者はいないでしょう?」
すぐに調子を取り戻したアナが笑う。
「そうでもないと思いますけど……。まぁもし王都に無事につけば――いえ、もし俺が王じゃなくても鬼人の皆がちゃんと送金や何かしらの恩返しはするはずですから安心していいですよ。あの人たち、結構義理堅いんで」
正当後継者という対抗馬がいないだけで、人族のカタチをしている颯汰が王として認められるかはまだわかっていないのが現状だ。
先々代の血を引き、本来ならば『迅雷の魔王』ではなく真に王となるべき者はいた。だが迅雷は、最初は静かに息を潜めながら着々と潰し――そして次第にその力に酔いしれて溺れるように、最後には自身の両手を血に染めて王位を奪い取ったのである。既に王の血は絶たれているとコックムでも噂が風に乗ってやってきていた。
勿論、『迅雷の魔王』をアンバードの支配者として認めなかった騎士団長が大多数であったが、結局魔王としての人外の力を振るわれ、認めざるを得なくなった。最期まで闘った者もいたが、多くは部下や家族の為に矛を収め恭順した。例え戦士として一流であっても並大抵の者と等しく、敵いやしないのが現実であった。
そこで、隣国ヴェルミとの戦争を止め――悪辣な魔王を討ったという功績を持つ颯汰が果たして“救国の英雄”として扱われるか“新たな災厄”と認知されてしまうかどうかは、王都に戻った後の彼の行動次第であろう。
颯汰自身は今はどちらに転ぼうとも「何とかなるだろう」と思っていた。
最初こそ王になる時間的余裕もないと拒絶して逃走すら計ったが、今は王都に戻りとある人物と話す事が元の世界へ帰る足掛かりとなる“始まり”になると彼は認識している。
己をこの世界に誤って召喚したのは“魔王”であると断じているからには他の“魔王”がどこにいるかを知る必要がある。例え王でなくとも“魔王”を討ったという事実があれば、どこからか情報がやってくるはずだ。
「…………今、この大陸は陛下の話題で持ち切りですわ。王都から離れた辺境のこの地まで届くくらいには。だからこそ私は貴方様が次期国王であると確信しておりますわ」
まだ王ではないが、先んじて取り入ろうとしているのだろうか。やけに持ち上げてくるのはそういった狙いと考えれば納得はできる。――が、颯汰は違うと考えている。
このまま帰してくれるならば颯汰は何も言わず身を退くつもりであった。むしろ感じ取った気配と直感が誤っている方が笑い話で済むだろうと。
「まぁそういう訳で、俺たちは直ぐに王都へ向かいたいと思います」
「あらあら。ゆっくりお話をしたいところですが、お急ぎのようですね。とても残念です……。今までの旅路――冒険譚をお聞きしたかったのに」
と、アナの言葉尻を掻き消すほどに大きく、珍妙な音が狭く感じる応接間の中に響いた。
「ああ失礼、お腹が空いたもので。陛下も皆さまも、どうぞ」
途中で腹虫を鳴らした後、巨体を懸命に動かして、まだ扉の近くで呆気に取られていた客人たちに対して一緒に食べませんかと手と目で合図を出してから、先に皿とフォークを取って食べ始めた。
ふかふかの生地にバターと蜜が溶け合い、まぶされた砂糖がさらに甘味を与えているパンケーキ。皿の上にある三つの内、一つをナイフを使わずに一口で収めたアナ。さらにもう一切れをすぐにヒョイと拾い上げてパクりと食らう。もぐもぐと噛んではティーカップの中の、砂糖で甘く煮出した紅茶にミルクの優しい口当たり、さらに香辛料が加わったミルクティーを流し込んだ。
見た目通りの豪快な食いっぷりはある意味、見事だと言えるものであった。
女性陣たちも開けっ放しの扉の外にいる執事風の男に催促されるがまま席の方へ移動し、座ろうとした矢先に、立花颯汰は立ち上がる。
「――まずひとつ、尋ねていいですか?」
「……、何なりと」
声こそは普通、あるいは親し気でもあるかのように聞こえた。だが急に手を着いて立ち上がり制止させた意図は何であろうか。アナは笑顔のまま凍り付いていた。
「珍しいですよね。アンバードで甘味なんて。特に資源に乏しい西部では砂糖や香辛料もかなり高価だと聞いてます。よくそれを、こんな大量に使うなんて、随分と余裕があるようだ」
日常会話のトーンであるが、誰がどう聞いても嫌味や棘のある台詞――真意が読めない。
彼女は静かに焦り、それを隠し努めて語る。
「……、私、食事以外に趣味を持ち合わせていないものですから。それに日々の防衛で兵たちも気が休まず――ここは娯楽もない渇いた都市……せめて食べ物だけは良い物をと。陛下もご存じだとお思いですが、コックムは長年王都の商人たちを通さずに“竜の目”の者たちと自由に交易する許可を頂いておりますわ。兵たちはひもじい思いをせず、国を護るために懸命に戦い続ける事ができているのは、これらの質の良い食材を、安価で取引ができるお陰です」
大樹――いや、『神の宝玉』の恩恵を受けていないヴァーミリアル大陸の西部は土地も痩せ、実り豊かな東部とは作物の品質や栄養価などは雲泥の差であると言えよう。
それにアンバードは食糧自給率も高くはない。他大陸の国々の交易が頼みであり、主に鉱物資源などを輸出して生計を立てている。
さらにコックムの場合はヴェーミリアル大陸の西端に隣接する巨大な湖――通称“巨竜の瞳”の周り、沿海の海商連合と自由交易の許可が下りていた。それも魔物や他国から、王都を護るために存在するこの土地でのせめてもの優遇処置なのだろう。
『兵のため』――そう耳障りの良い言葉を並べるが、見開いた瞳はさらに鋭さを増す。席に着こうとした王女たちは当惑しながら会話を見守るしかできないでいた。
「……お気に召さない様子ですわね。辺境の都市にしては無駄に贅沢しすぎだと御思いですか? それとも、ちゃんと税はきちんとお納めしてますが私腹を肥やしていると疑われて?」
「そ――んん! いや違う。違います」
そのままの意味で捉えかけて、肯きそうになった颯汰は咳払いをしてから訂正する。
もし税を納めずに懐にしまい込んでいたならば問題であるだろう。また、自分の為だけに贅を尽くすならば害悪であるに違いないが、判断材料がないに等しくそこを責めるのは色んな意味で厳しいし、別に会ったばかりの女領主に難癖をつけたい訳ではないのだ。
「もしや……! あぁ! 近年は不作が続いており、もしも、もしも! 交易が禁じられると私たちはまさに死活問題! 兵たちの統制も崩れてしまう恐れが……! あぁ、非常に困ってしまいます!」
「あぁ、それは……うん。俺の一存じゃあ決められないけど、不正がないんなら今まで通りで良いと思いますよ? 単に気になっただけなんです。……ずっとヴェルミに住んでいて、隣の国の事は何も知らないままでしたから。……それにしてもこのお茶、いい匂いですね」
クネクネと、またわざとらしく怯えたふりをするアナ。もし絵画に描かれた時期にそのあざといとも言える演技をされたら大抵の者は心が動かざるを得なかっただろうが、年老いた今は純粋に苛つきを覚えさせるだけである。
なお颯汰はそこにも興味がないようで、加えて発言が真実であるかのように『単に気になっていただけ』とそっとカップに触れて持ち上げ、湯気から香る匂いを嗅いで、落ち着いた声で言う。
下を向いてカップを覗き見た後、ふぅふぅと息を吹きかけている姿を見て、アナはそっと胸をなでおろした。
さらにこう心の中で呟いたのだ。
――容易い。所詮は子供か
張り巡らされた糸に掛かった愚かな贄を見て、竜魔の女は冷たく微笑む。
視覚、嗅覚に訴える数々の布石が功を成した瞬間がすぐに訪れる。
暗澹たる洋館は不安を与え、
麗しき肖像画は人の心を掴み、
芳しき香は正常な思考を奪い、
肥えた肉体で衝撃を、
巧みな言葉は油断を誘う。
そして差し出された好意を――、
人は無下に出来ないものである。
他にも見えない糸――邪悪な作意が幾つもこの領域に存在していた。
突然の訪問に急造であったとはいえ、なんとか上手く機能したと彼女は確信していた。
――さぁそのまま口にしろ。飲み干すがいい!
子供ゆえに気紛れ――目に映るものすべてに興味があって、また秋の空よりも移り変わるものであるから、もう完全に興味がいい香りがする甘味へ移ったはず。それこそが始まりとなる。
「ええ。私もお気に入りなんです。このパンケーキにぴったりで。皆さまもどうぞどうぞ! 味も甘くて美味しくて。陛下も気に入りますよきっと――」
彼の王者から口にすれば、他の者も間違いなく続くだろう。敵意なき言葉をのせた舌には、表は善意で裏にはきっちり悪意があるのだからこの女は醜悪で下劣と呼んでも差し支えない。
すぐ訪れる勝利を感じ、ほくそ笑むアナ。
だが、直後にやって来たのは勝利や栄光と程遠い、それどころか対極に位置するとも呼べる……不穏の風がもたらす悪寒に、流れる汗すら凍る。
睨む蒼く輝く瞳と合って、饒舌は止んだ。
高鳴る心音さえ小絶えたかのように遠退いては、音という音すべてが消え去る――そんな錯覚に囚われた。己よりも小さくあった存在がその瞬間から巨大な影となって世界を覆う闇となる。
「――それで、茶に何を入れた?」
そう言ってカップを逆さにする。泥のような色をした熱い飲料は心地よいとは言えぬ耳障りな音を立てて焼けた生地から溢れ、染み渡り、皿の中を満たしていく。
固まる一同を余所に颯汰はカップを置く。
陶器の音が嫌に大きく部屋の中に響き――訪れた沈黙を破るのは溜息。後に呆れた声。
「…………表情。アンタ、容易すぎるよ。見た目が子供だからって舐めて掛かりすぎだし。人に毒を仕込むんなら、もっと自然にやらなきゃさ。ホラ……今だって顔が引きつった」
彼女は侮っていた。
迅雷の魔王をはじめとする、数々の権力者や男たちを説得、手玉に取ったという成功体験から驕っていたに違いない。さらに急な訪問に対して時間がなかったのと“功を焦っていた”からこそ綻びが生まれた。そこを逃すほど甘くない。
街に潜んでいた兵達が感じたそれを、真っ向から受けたアナはただ押し黙るしかできなかった。
三連休どころか休みがねえのです




