30 赤い雷
渇いた荒野に波が生まれた。
群れを成す野生動物の大行進に対する比喩ではなく、飛沫を上げた正真正銘の波浪である。
それを奇蹟――世の理を捻じ曲げ、超常たる現象を成立させる“魔法”――。
遥か昔、この世界にて技術として存在していたが、体外魔力の減少に伴い、失われつつあったこの奇蹟。それを残そうとした者たちの情熱と狂気によって生み落とされた産物が『霊器』である。
精霊を宿らせた霊器に“獣”の力を流し込んで完成させた改造霊器――魔導剣。
無論、本来は在り得ない機構である……のだが、精霊を封じ込め魔法を行使するためだけの道具として使う刻印を消し去り、魔力を生む魔石は糧として吸収されて無くなったこれこそが霊器としての本来の在り方に近いとも言える。
颯汰が左手で握る魔剣を起点に溢れ出した水は優に鬼人たちの背丈さえをも超える高さまで昇り、重力に引かれ落ちていく。滂沱の如く落下した水は前方へ、黒い砂を覆い、砂浜の打ち寄せる波のように勢いよく流れていった。
群がる機械たちへ激流が押し寄せる。
機械である鉄蜘蛛は度重なる想定外に鉄蜘蛛の電子頭脳はエラー処理が追いついていない。
ただこの窮地から逃れようと多脚を動かして、狼狽えるように後退を始めようとしていた。
すぐに、人の膝下くらいまで埋まる程度であるが、幾つも天幕があった広大な夜営地であった場所を水が満たす。だがそれだけでは鉄蜘蛛の内部を浸水させるまでには至らない。
――水が足りないのは想定通り……!
本来ならば発生した大波がうねり、対象を飲み込まんとする上級魔法“タイダルウェイブ”。たかだか霊器としての質が中級程度でしかない銀剣ボルティセでは真の実力を発揮する性能はなかった。これは宿る精霊の問題ではなく、引き出す霊器の性能自体が足りないのだ。
目配せをする颯汰。
そのサインをリズが見逃さない。
言葉を交わす必要はない。不思議と颯汰とリズは互いの行動が読めた感覚――を知覚する前に身体が動き出していた。
新緑の風を集めて出来た魔法のボードを、リズは八機の鉄蜘蛛がいる中心地点に蹴るようにして飛ばした。円盤はシュルシュルと呻りと共に、風と巻き上げた水を散らせながら目標地点を通過する――その直前に、
「シロすけ!」《シロちゃん!》
二人の願いに上空から見下ろすように飛ぶ龍の子が応える。
圧縮された風に変化が起きた。
新緑の円盤が煌めくと回転する風の向きが逆になり、一瞬の間の後に凄まじい嵐が巻き起こる。
「――!! ……ガガ、……ジジジ……――!!」
通信で何を伝えているかは鉄蜘蛛同士以外にはわからないが、おおよそは推測できる。
風のボードが爆ぜて、天災と見紛うほどの嵐が突然発生した事による困惑と、その風によって水も砂も巻き上げられ、砂塵の黒と飛沫の白が溶け合う暴虐の嵐によって内部に不純物が侵入してきた事への警告音を発している。
鉄蜘蛛たちは知らぬ。いや知る術を持ち合わせているはずもない。これら災厄の術の数々の一切が本来の性能を引き出していないことに。
本来ならば自動車ぐらい軽く持ち上げ、生き物の肉をズタズタに切り裂くほどの颶風になり得ていたが、術者たる龍の子は、その規模であれば人々を巻き込む危険性があるためボードが蹴られた時点で何をやるのか察し、円盤が目標地点に到達する前に調節を行っていた。シュルシュルという擦るような風の抜ける音こそが調整していた証である。幼くとも天性の王者たる龍であれば、加減など造作もないのだ。
それでも生物ならば正面を真っすぐ向くことも息をするのも少しきついくらいには風が強い。鉄蜘蛛たちは砂の地面に脚を突き刺したまま身動きが取れずにいた。
「複合魔法――……いや、これはちょっと、……違うか」
ノリで術名を言いかけては止め、疲労を吐き出すような溜息の後、自分の発言に対して嘲るように颯汰は呟く。複合魔法と呼ぶにはおこがましい、単に二つの魔法が起こした現象が重なっただけだ。
確かにこの眼前に繰り広げられる魔法は奇蹟と呼ぶに相応しいが、ここで余裕ぶって気を抜いてはいけない。これで終わりではないのだから。
眼前で起きた災いの前、颯汰は剣に触れたまま静かに目を閉じて呼吸を整える。カッと目を見開いた瞬間、巻き込まれずに距離を取っていた少女たちに命じる。
「離れろ!」
短くそう言い放つともう彼女たちの安否を気にする余裕はない。素の自分よりも高い運動神経を持ち合わせている彼女たちのポテンシャルを信じるほかない。
意識を手の先に集中する。
水の魔法とそれを補う風の魔法、さらに次の一手でトドメを刺すつもりであった。
頭に浮かぶ言葉を紡ぎ出す。全てを喰らう“獣”が宿主に叡智と力を与える。
「限定行使――索引・ルクスリア……!」
引き出そうとするそれは奪い取った――喰らい、血肉に変えた怨敵の力。
堅い金属を鎧う機械の軍団を狂わすに相応しい力は、これしか思いつかなかった。
使う事に対する躊躇いはなかったが、
――ッ! 力が……!?
右手に力が籠らない。
それどころか自身を支える足の感覚さえ朧げに、浮遊して地に着かないように覚束無くなる。
三百を超える同胞たる鬼人族から受け取った魔力の、底がもう尽きかけていたと理解する。
身に包んでいた力を解除し、生身となって急激に襲い掛かる疲労感に顔色が少し悪く、目にも疲れが浮かび、額からは汗が垂れてくる。
廃滅の魔導剣から出ていたぼんやりとした青い光も消え、突き刺さった砂から噴き出した水の量は蛇口を閉めた先のホースのように勢いが失われていく。
あと一手。
敵の動きを完全に封じる一手を打てればこの戦いの帰趨は決するも同然である。
ここが踏ん張りどころ、歯を食いしばり右手を構えようとするが、倒れそうになる。
大地に突き立てた魔導剣を杖代わりに堪え、暴風で髪が靡き冷たい雨粒のような飛沫を受けながらも、そっと右拳を握りしめた時だ。
身体を何かがすり抜けるような感覚――。
振り返る必要はなかった。
颯汰はその存在を知覚し、舌打ちの代わりに食いしばった歯から軋る音が響かせた。
おおよそ二十ムートの崖の上から騒めきが起こるのも無理はない。
黒豹の娘が訝し気に目を擦るのも、簀巻きにされた男が首を傾げるのもわかる。
傷を負った少女が、信じられないと振るえてしまった手から双剣を落とすのも仕方がない。
それは、いるはずのない幻想――。
颯汰のすぐ近くに現れたそれは紛れもなく“あの男”であった。現代風の白いコート姿にサングラスをかけた金髪の男はニタニタと下品に笑う。
いるはずもない幻想が姿を見せるだけに終わらず、声まで発してきたのだ。
――おいおい、何へばってんだ? 締めなんだから気張っていけよぉ、兄弟よぉ!
「……ッ! 誰が、兄弟だっ、クソ……」
呼んでもいない殺したはずの二本角を持つ男が亡霊のように躍り出てきた。
確実にこの手で擦り潰したはずの命であったが、どうにもいつか見た夢で出てきたように――その存在を完全に抹消したに至っていないようで、あの訳の分からぬ白い空間である精神世界でのやり取りも夢幻ではなかったと改めて実感する次第だ。
緊迫した場面で耳障りな幻想であったが逆にその存在が煽って来たからこそ、意地でも立って役目を果たさなければと躍起となって事に挑めた。
想起するのは殺し合った時の情景――。
一撃で死へと誘う獰猛なる雷撃。
傲岸ゆえに受け入れた――狂気に支配された愚者であったが、それでも“真の魔王”の名は伊達ではなかった。
苛烈な命のやり取りを思い出している内に、心に熱が燈るのを感じた。
――……いや、これは……
身体に満ちていくこのエネルギーの正体は間違いなく魔力である。竜種でもなければ《王権》を持つ魔王でもない颯汰が魔力を得る手段は限られている。その正体を何となく理解しつつ、あえてそれ以上考えるのを止めた。
剣から手を離し、その空いた左手で前へと突き出した右腕を支えるように掴んだ。
その右の手のひらから爪を立てるように関節を曲げると、肉体に変化が起きる。背中の傷口から銀の光が迸り、構えた右手の指先に黒く煌めく黒曜石を思わせる結晶が精製されて、指から肌を侵食する闇色は手首まで覆っては止まる。
準備が整った。
――俺を殺ったんだ。そうこなくっちゃあなッ!
歓喜する雷の悪魔の声が響く。
砂に突き刺さる魔導剣を左手で引き抜き、舞う水飛沫が青く煌めく。既に激流は止まっているが、形成された水の路は嵐の元へと続いていた。
「……宿れ、赫雷――」
――おう見せてやれや、てめぇの力を!
掲げた右手首から迸るのは血のように赤い雷。
手のひらと甲を挟むように小さな紫の魔法陣が二つ、浮かび上がる。殺し、喰らい、奪い取った厄災の如き力を、颯汰は己のものにしていた。
そして、水が伝った経路に向けて、雷が宿る掌底を鎚のように振り下ろしながら颯汰は叫ぶ。
「雷閃掌ッ!!」
霊器の剣を突き刺して水を生み出し、今度は自身の掌底打ちと共に赤い電気を発生させたのだ。
開いた拳からバチバチと音を立てて迸った赫雷が水の経路を一気に駆け巡る。
行き着く先は荒れ狂う嵐――。
水と砂を巻き上げる暴風の中で鉄蜘蛛たちは成す術もなく、さらに加わった赤い雷撃を全身で受けるはめとなった。
――フッ……こんなもんで終わりかぁ!?
「!! ――まだだ……! うぉぉおおッ!!」
嘲る声に瞋恚を燃やし、さらに追い打ちとばかりに右手に力を込めた。発せられる光と音がより強まって嵐の中へ突き進んでいった。
蜘蛛型機動兵器の内部に入り込んだ水を伝って赫雷が容赦なく暴れ回った。
機械たちから悲鳴のような――いやきっと悲鳴に相違ない電子音を鳴り響かせるが、呻る風によってそれは掻き消されていた。
長いようで短い時間で嵐が消え去った。
まだ機能停止していない機械もいたが、すぐに崩れるように倒れ込み、ほんの小規模だが内部から爆ぜて煙を上げて見せた。
巻き上げられた水は雨のように降り注いだ後、結局は九機全ての鉄蜘蛛は活動を停止し、赤く光っていたカメラアイも消灯していた。まるで幾十年も放置されたように装甲が汚れ擦れ、半身が砂にめり込むように埋まった機体も中にはいた。
「………………終わったのかネ?」
鉄蜘蛛の粘着ネットに絡まり、簀巻きのままであった――国に帰ればかなり有名な軍人たるドミニク伯のこの言葉も生憎とフラグとなり得なず、突如地中から現れた謎の機械兵器たちとの交戦もこれで幕引きとなった。
迅雷の魔王の得意技である雷閃拳じゃないのは
せめてもの、ささやかな抵抗。