27 抱擁
吹いていた風が凪ぐように治まる。
まだ危機は去っていない。
緊迫した場面でありながら、その一呼吸を入れる僅かな隙間に滑り込むように身体が勝手に動いたのだ。勝手に動いたとしか言いようがない。
ふと、気を抜いてしまった。
あまりに気を張りすぎたせいか。その反動か緩まった途端に、そうなっていた。
言うなれば、これは一種の事故であると声に出して訴えたい。私はそんな、はしたない娘ではないはずであると――。
◇
アンバードの王都バーレイは未だ戦禍が燻り、建物は崩壊したままであった。
確かにバーレイの街並みは洗練されていて美しいと言えるものであった。暗愚な簒奪者に国を乗っ取られても、すぐには街の景観の美しさは損なわれる事はなかった。……だがそれは余裕があってこその輝きであったのだ。
緩やかに痩せて、薄っすらと埃に塗れて汚れ始めた街――民が圧政に苦しみ、強権に怯えれば、そこに気が回らなくなる。街は少しずつ陰りを見せ始めていた。いや、国全体がじわりと陰気な雰囲気に呑まれ始めたと言っていい。
そして、そこへトドメと言わんばかりの――邪悪な『迅雷の魔王』は最期に多くの犠牲を強いて、王都は甚大な被害を受けたのだ。
倒壊した建物、街を通る運河にも泥や瓦礫が侵入し、それらの処理が始まったばかりである。
王城は崩壊し、民は混乱していた。
指導者が軒並み死に絶え、また国民の多くもまた奇怪な泥の怪物に呑まれたのだ。数週間やそこらで立て直すなんて無理な話であろう。
重傷者も相当数出ている。病院は人で溢れ、かつてないほどの修羅場となっている。
医者や正しい医療の知識を有する者が少ない。
ひっきりなしに患者が運び込まれてベッドの数が足りず、布を敷いてその上に寝かされたままの患者たち。受け入れられないと門前払いをされ、自宅や倒壊していない別の場所に移すものの、そこは衛生面が決して良いとは言えない。
民の苦しむ声に混じった、呪詛を感じて少女は目覚めた。うなされて汗が滲ませつつ目を開く。
見知らぬ天井――病棟の奥の隔離された場所。
他よりも清潔さが保たれた病室で、深い眠りから覚めて少女がまず最初に気にしたのは身に起きた事よりも、護りたいと思った者の安否である。
白い布団を退けて上体を起こし、周囲を見渡す。誰もいないと知ると、彼女はすぐにその場を出て行った。急いでこの命を救った、彼の元へ行かなければと躍起となっていた。
着た覚えのない白い服のまま歩き出す。
白い大理石のようなツルツルとした廊下を進み、不思議な白い光を発する天井に、一瞬だけ不思議で見惚れそうになったのを制して進んでいく。
見た事のない異質感のある空間であったが、少女はもう迷わず真っすぐ進んでいった。
誰とも会わずにガラスの両開きの扉を開いて進んでいくと、そこもまた今までの景色から一際浮いている石の階段が見えた。
石材のブロックが積み重なった、人ひとりが通れるくらいの狭い螺旋階段を昇っていく。
最後に鉄の扉を押し開けると――そこは王城の居館の一室であった。
まだその時、事態を把握していない彼女は息を潜めて様子を観察しようと試みていたが、それもすぐに止めた。その一階の窓を開いてそっと降りた直後に見つかったのだ。
心臓が激しく揺らしながら響いた声の方を向くと――そこには白蛇の如き美しく妖しい滑らか身体に、蝙蝠のようだが白い翼を羽ばたかせながら人懐っこい声を上げていた。
翡翠色のラインのような模様があり、まだ幼いゆえに生えかけの角と爪は黒曜石のようである。
くりくりとした蒼玉の瞳を持つ幼龍は、きゅうきゅうと鳴きながらその場をくるくる飛んで回っていた。
――あの子は、確か……シロちゃん?
応えようとしたがまだ、自分の喉から声が出せぬ事に今さらながら気づいた少女は、数瞬沈痛な面持ちになったが、すぐに顔を上げる。
きっとこの子ならば、どこに彼がいるかわかるはずだと何となく思ったのだ。
――…………ど、どうしよう
コミュニケーションを取る術が、ない。
彼女は、どこぞの傍観者気取りの誰かさんのように表面的に取り繕えるコミュニケーション能力を持ち合わせていない。純粋に彼女がコミュ障気味ではあるが、それ以前に相手が人間ではないのだ。言葉がそもそも通じるのだろうかという懸念があり、自分の想いを声に出さずにどう理解して貰えるだろうか。
窓の外、灌木の中で固まっていると、シロちゃんこと幼龍シロすけが今度は何かを伝えようときゅうきゅう鳴いていた。
ハッとして顔を上げる。シロちゃんが居場所がわかると言っ……ていると思えた。
シロちゃんが全身を使って表現する。急加速して宙を横切る動作から、少女は応えるように遠くを指さした。それに対してシロちゃんは肯く。
――つまりは遠くにいる、と
落胆していると、励ますようにシロちゃんが鳴き、羽ばたきから風を起こすのを見せた。
読み取るのに少し遅れたが、幼き龍が何を言いたいかを把握できた。
パァっと明るくなった少女の顔。
互いの心が通じ合えると知ったならばもう行動は決まっていた。
少女は自身の胸に手を置いた時、その変化に気づいた。胸元に空いたはずの大穴は消えた代わりにある物を。
そこで覚悟に火が着いた。
一度失いかけた命は誰に捧げるべきか。
内側から生じる魔力が彼女を包み込む。
白い衣は闇色に染まる。
あの時と同じ格好だ。
シロちゃんは呻り、翼の棘に緑色の魔法陣が形成される。周りの大気の流れが変わった。
少女がコクリと肯くと、
「きゅぅうううっ!」
両翼から放たれた風が混じり合い、新緑の風が生じる。目視できる風の円盤だ。
あの時――迅雷の魔王の星輝晶を破壊する際と同じく“風”に乗る。
宙に浮いたそれに足を乗せ、体勢を崩しかけたが何とか乗って安定させる。すぐに力場のコントロールのコツを掴むと上昇を始めた。
するとシロちゃんが少女の背中に引っ付き、少女の右肩の方から頭を出した。
どうやらナビゲートをしてくれるらしい。
――うん。行こう……!
決意を胸に、風の足場がさらに上昇を始める。
どんどん高くなり、居館の屋根を越え、暴走した迅雷の熱線により倒壊した城の尖塔が転がっているのが見えた。
瓦礫の撤去などの作業をしている人間の何人かがこちらに気づいたようだ。
「おい、あれって……」
「まさか……、勇者……?」
「おぉ! あれは救いの主!」
騒めき始め、さらには呼ぶ声までが聞こえた気がするが、それよりも優先すべき事が決まっている彼女――闇の勇者リーゼロッテ・フォン・ハートフィールを止める術はないのだ。
ある一定の高さまで上昇させて、そこで高さを固定すると一気に進み始めた。
物凄い勢いで、あっという間に王都は手のひらに収まるほどに小さく――遠く離れていた。
とはいえ、さすがに光の勇者ほど速くは動けない。だからどこかしこの村で降りては休憩、食事や睡眠を挟みつつ、日銭を頑張って稼いで彼の元へ急いだのであった。
◇
そうして南部へ大移動の末に、敵に襲われているギリギリの所で再会を果たしたのであった。
そこにいると確信が持てる波動を感じた。勇者リズが意識を失っていた間であるからその光の柱を見たのは当然初めてであるのだが、感覚で理解できたのだ。行き着く場所にこそ彼がいると。
剥きだしの岩肌を覗かせる聳えた崖の下。
広大な荒地に生まれた不自然なクレーターの中で――白い何かでグルグルと巻かれた姿が上空から見えた。
何やら状況が読めないが、あの変な魔物たちが原因だとすぐに断じた彼女は剣を現出させて、風の円盤から躊躇いもなく跳んだ。
降りるにはそれの方が早いと、どこぞの誰かよりも何倍も高い空の上から降り立ったのだ。
そして舞い降りた剣は魔物が放った赤い光線を弾き返し、ついに――立花颯汰と再会を果たす。
案内役を務めてくれた龍の子はそのまま彼に激突するくらいに真っすぐ感情を伝えていた。
家族に会えてお互い、本当に心から嬉しそうに見えた。少しずるいな、という言葉が引っ掛かり――何を馬鹿な事をと自分を恥じていると、機械仕掛けの蜘蛛型のそれらから独特な音が響いた。
意識をそちらに向けて集中する。
見た事のない生き物(?)だが立花颯汰に対し攻撃を行ったのであれば敵に違いない。
星の輝きを宿した不可視の鎌剣を双つを持ち、砂を蹴って躍り出た。
巨体を揺らして再び動き出そうとする殺意に向けて、紫の星が煌めいた。
敵の一機に近づき、放った光線を反射して空いた傷口に剣を刺し込んではアクロバットな動き――側転するような形でもう一刀を突き刺して両断した。次の敵機の装甲を削り斬り、火花が散る。
一機撃破したのでこの調子でこの魔物を全て打ち倒そうと攻撃を繰り出したが、敵はまさに鎧を身に纏ったように堅く、対人及び対魔王に特化した剣では機械である鉄蜘蛛に有効打を浴びせれないでいた。
純粋な生命でないためか鎌剣で斬りつけても活力を奪うに至らないが、勇者になったばかりの彼女がそれに気づけないのは仕方がない事である。
また彼女も考えなしに突撃していたゆえに、最初こそは敵の翻弄を続けていたが、連携を許す隙を与えてしまった。敵機に自己修復機能があるとは知らなかったのだ。そうして減らしたと思った手数が元に戻り、敵の拘束攻撃――蜘蛛の糸を、その体躯に合わせた太さとなったものを射出して身体の自由を奪われたのだ。一撃一撃ならば回避や斬り落とす事も出来ただろうが、四方向から四肢を狙った正確無比な射撃は避けるのは至難の業だ。
いくら彼女が剣狂と謳われた戦士の子であっても、いくら闇の勇者として目覚めたとはいえ、リズには実戦経験が不足していた。
透明な双剣ごと両腕に絡みつき、両脚をも拘束する糸たち。青ざめる時間すらない。すぐに鉄蜘蛛の光線発射口が展開されたのが見えた。
収束する光――赤いそれが限界まで溜ると光線が真っすぐ飛ぶと戦いの中でわかっている。
リズはつい、目をギュッと瞑った時、そこへまた、救いの手が差し伸べられた。
簀巻き状態から脱出した颯汰が鉄蜘蛛を殴り飛ばした。生まれた隙を逃がさず脱出し、偶然もあるが、敵をだいたい一か所に追いやる事が出来た。
そこで、ついリズは気を緩めたのだ。
休みながらとは言いつつ全速力で風を操って飛行する。神経を使う作業であり、いくら勇者であってもかなり疲労していた。
病み上がりどころか死に上がりの肉体に鞭を打って、さらに急に戦闘をすれば身体は悲鳴を上げるのは仕方がない。
彼女はまだ、戦士としても未熟である。
剣の修行はやっていたが、颯汰ほど鬼気迫る――自分の命を捨てる勢いでのめり込んでいた訳ではなかったし、人並外れた力を有して日も浅い。
颯汰も想定の出来事であったから、混乱していたし身体は受け止めた場所から石化したように動きだせずにいた。何が起きたか、数瞬理解できなかった。
たっぷり五つ数えた後ぐらいに颯汰はドミニク伯の剣を右手から零し、それが砂上に落ちた音によって少女は我に返ったのであった。
「………………」
『…………、あの、えと、その』
密着した身体。
リズが颯汰を抱きしめていた。
何をしたのか少女自身が理解していないような顔つき。引っ付いた顔を硬い胸板から離して、見上げた。
「……………………?」
少しの間だけ頭に疑問符が浮かんでいたが、
「――………!! ッ!? !!!!」
直後に急に沸騰したように赤く茹だっていた。目はグルグルと揺れて混乱している。
リズ自身、自分が何故このような行動をとったのか理解できずにいたのだ。声は出ていないが、混乱は手に取るようにわかる。両手を勢いよく振って、何か弁明をしたい様子だ。
必死に訴えかけてくる少女に対し、異性に慣れていないこの男も懸命に平静さを装って落ち着かせようとしていた。
『だ、大丈夫だ! おち、おち落ち着け! 他に見てるやつはいない!』
すぐ近くに負傷した双剣使いのおじさんと、崖の上に三百を超える部下である鬼人族の兵がいる事を忘れていた。一方その崖の上で人質役を担った王女はというと――、
「まぁ! なんて情熱的なの……! 私もいつか、殿方とあんな風に……」
両手で口を抑えながら、沸き立つ感情が抑えきれずにいる王女ヒルデブルク。恋に恋する少女は恋愛脳。ハグもまた憧れの行為であったゆえに頭の中の妄想世界の構築が加速していた。
また一方、当人たち以外にもその様子を見て独り内心で盛り上がっている男がいた。
――ん~……! これは甘酸っぱい恋の予感! ストロベリーみがあって良いネ!
颯汰たちの後方に簀巻き状態のまま放置されているドミニク伯は自身の愛馬に踏み砕かれた手を抑えながら脂汗を流していた。逆に意識をそこから逸らそうと若者の恋路を楽しもうと見ていたのだが気配を感じて後方の、坂の上を見ると……、
「な に あ れ」
人間態に戻った獣刃族のシトリーが親指の爪を噛みながら、冷めた目線で情景を見つめていた。
――ん~これは……スパイスが加わったようだネぇ……
修羅場を感じ取り、少し困ったような、ちょっとだけ心配する顔つきでシトリーの後に彼らに視線を戻したのであった。
×ジー〇ブリーカー
ハグはある種の充電行為